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朝と夜  作者: クロ
3/10

第三篇 虫を殺さば


 スクがそんな状態だったものだから、僕らは、木立の合間からひょいと顔を覗かせた一匹の莢被りの姿に、はじめは全く気が付かなかった。


 やっと僕が火蓑棒の明かりの下に影を認めた時には、そいつは畔を乗り越えて水田へ出ようとしていた。


「いかん!」

 いつもしかめっ面で無愛想な橋玖波先生が、はっとして大声をあげた。

ヒサグのきゃあという悲鳴が風を切った。僕も慌てて火蓑棒を振りやったが、金縛りにでもあったようにその場から動けずにいた。


 一瞬間を置いて、すぐにナラズミが駆け出した。

続いて橋玖波先生が後を追う。交差する火蓑棒の明かりに照らされて、いくつもの影が踊っているのを横目に、僕も弾かれたように駆け出した。


 草履を脱ぎ捨てて足袋だけ履いた脚で地を蹴り、水田に駆け寄った。泥水に脚が沈み込んで、とても冷たい。


「そっちにいったぞ、セブキ!」


 左手で火蓑棒を振り回しながら、ナラズミががなりたてた。

僕はぬかるみに脚をとられないよう慎重に早足で駆け、稲を踏み倒しながら町の方へ這っていく莢被りの巨体を追った。


 莢被りの体は、近くで見ると小さな毛のようなものに全身を覆われていた。

半身を水に沈めながら、脚を小刻みに動かして這っている様子は、まるで赤把犬(アカハイヌ)が犬かきをして泳いでいるようで、どこか滑稽でもあった。


 僕より先に、橋玖波先生が追いついた。先生は火蓑棒を莢被りの突き出た尻に振り下ろした。

金属を擦り合わせたような悲鳴とも怒鳴り声ともつかぬ音が辺りに響き渡って、莢被りは激しく体を捩らせた。その拍子に水飛沫をまともに喰らって、僕は泥水をしこたま飲んでしまった。


 騒ぎを聞きつけたのか、先生方と、それに野次馬が集まり始めた。

大勢に囲まれた莢被りは、しばらくはめちゃくちゃに体を振って抵抗していたが、菌針(きんし)の吹き矢を射られると、体を痙攣させはじめ、やがて沈黙した。


 生き絶える刹那、莢被りの脚のうちの一本がぴくぴくと震えていたのが、僕の目に留まった。嫌なものを見てしまったなぁ、と思った。

 実際僕はといえば、茫然としながらそれを見守っていたに過ぎないのだが、脚も手もきんきんに冷えていたのに、頭だけははっきりとしていて、まるで夢の中にいるような、変な感じがしていたのだ。


 細かく震える、莢被りの毛の生えた脚の残像が、いつまでも僕の頭に残って消えないようだった。


 これだけでことが済めばよかったのだが、不運なことに騒ぎを聞きつけた興心寺(こうしんじ)の僧正が激怒し、そんな頼りない追い子には虫囲いを頼めないと、はねつけてしまったのだ。

 先生方は莢被りの死骸を処理するため持ち場に戻り、僕ら級徒は追い返されるようにしてとぼとぼと帰り路についた。


 言わずもがな、六班には無言の非難の視線が向けられ、スクなどはがっくりと頭を垂れていて落ち込んでいる様子だった。


「莢被りは何も悪いことなんてしてないのに。痛かっただろうなあ、菌針を打ち込まれて」


 そう、スクがぶつぶつと呟いているのが後ろから聴こえてくる。


 重苦しい行進だった。

月に照らされたヒサグの横顔を見ると、意外にも彼女なりに責任を感じているのか、きっと口を結んで前を見つめていた。

 










 狂騒の夏が終わって、栗山に秋が訪れようとしていた。

葉月の中ごろ辺りになると、もう寒さが忍び寄ってくるものだから、僕らは子供ながら気付けば夏が過ぎ去ってしまったという感傷に胸を打たれたものだ。


 まだ紅葉が色づくのには早いけれど、自然は刻一刻とその姿を変えつつあった。


 僕は脚をとめて、水田を眺めやった。

稲刈りの終わった水田には、夏の頃の面影はなく、ただ湿った黒い泥の中に、まばらに茎の刈り口が覗くばかりである。

 莢被りが踏み荒らした辺りも、今は綺麗に整地されてしまっていて見分けがつかない。


 やがて栗山法級の角ばった級舎が視界に映り始めた。僕は肩のかけ鞄を背負い直し、畦道を急いだ。


 級室の戸をがらがらと開けて机に向かうと、六班の班員三人が顔を合わせていた。

「あ、セブキ君」すぐに、ヒサグが顔をあげて僕を呼び止めた。「今、ちょうど今度の、林間法級について打ち合わせをしてたんだけど」


 言われて思い出した。記憶がおぼろげだが、確か昨日そんなことを吉条先生が話していた気がする。

「課題をやらなくちゃいけないんだってさ。行った先で、そこの文化について書式にまとめて提出するんだそうだ」

 

 ナラズミがそう言って、貧乏揺すりをした。僕は荷物を脇に吊るして、腰を席におろした。

「私は、奥原(おくもと)の自然環境について。……ううん、それより、自然とそこに暮らす人々との関わりについて調べてみようと思っているのだけれど、どうかしら」


「そんなもん適当でいいよ。社会学の教科書の文章を写して書いちまえばいい」

 ナラズミが自分で言って、はははと笑った。僕もつられて笑ってしまった。課題なんぞ億劫だし、できることならヒサグひとりに任せきりにしてしまいたかった。


 ヒサグはそんな僕らをきっと睨みつけると、話を再開した。


「もう、こんな奴ら相手にしてらんない。スク、どう。何か意見ある?」


 スクはもじもじと数秒戸惑った後、恥ずかしげに声を絞り出した。


「寺について、なんてどうかな」

「寺ぁ?」

 ナラズミが聞き返すと、スクはどもりながらも話し出した。

「ほら、奥原にはあの、大きな寺があるじゃないか。地元の人たちと親密に関わってきたわけだから、文化とも関係があるわけだし」


「おお、いいね」

 僕は素直にそう告げた。寺を調べさせてもらうならば、野山に調査に出る必要もないし、何より話を聞いて覚書をするだけで済んでしまう。中々の名案なんじゃないだろうか。僕はちょっとスクを見直した。


「よし、多数決にしようぜ」

 ナラズミが言って、ヒサグの案とスクの案とを順々に告げた。二対一で、スクの案が採用されることに決まった。ヒサグは不満そうだったが、僕としては儲けものだった。


 そして、このところ気分が打ち沈んでいたらしいスクが、久しぶりに笑顔を見せてくれた。



 


 






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