19:退行催眠・美咲 妹
「うぅ……そんな、まさか……ファーストキスを、妹に奪われるだなんて……!」
一方の居留守はうなだれ、生娘のように泣いていた。
「大丈夫よ居留守くん。見たところ、舌で舐められてただけで、くちびるは触れてなかったから」
「大して変わりませんよ! いったいどうしてくれるんですか?!」
「仮に変わらないとしても、居留守くん。ファーストキスの魔力なんて、人の頭の中にしかない幻想よ。そんなもの、ラブコメ小説や恋愛マンガや青春ドラマがうるさく喧伝してるから、なんか神聖なものみたいに思われてるだけ。くちびるが一回触れたか触れないかくらい、人の愛情の多寡にはそんなに関係ないよ。まぁ私はしたことないし、他人事だけどね」
「最後の台詞のせいで、説得力がすべて失われました!」
「けど居留守くん。君、いま恋人がいるわけじゃないでしょう? だったら別に、いいじゃない。黙っとけば、誰も気づかないって」
「あ、ハイ……そうですね」
美咲の言葉に、居留守は沈黙した。特に「恋人がいない」、のあたりで。
いっぽう、るぅはわなわなと震えていた。
「う、ウソ……私が、私が……バカ兄貴に、きっ、キキキキ……ッ!? あっ、ありえない……オリオン・ザ・ありえない……!」
(そういえば……よくよく考えたら、るぅちゃんは、今まさに恋人がいるんだよなぁ)
見方によっては、妹が彼氏にあげるはずだったファーストキスを、奪ってしまったということになる。仮にキス経験済みだったとしても、とにかく、「奪ってしまった」とは言える。
(……僕、実の兄なのに。妹を? カレシ持ちの妹の舌と、自分のくちびるを、ベロベロと? ……うぅっ、うわああああぁぁぁぁぁっ!)
居留守の脳内に、こっ恥ずかしさの嵐が荒れ狂った。
ともかく、これ以上話をややこしくしたくないので、居留守は黙っていた。幸い、るぅも、今回の事件は「なかったもの」として扱うことにしたらしい。兄のほうを一切見ることはなかった。
「天橋先輩、もう一度お願いします! 私、やっぱり携帯を見つけたいんです!」
「えっ……いいの? るぅちゃん、何か目から光が消えているんだけど……? ま、まあ、分かったよ。あのね、私が思うに……今の犬は、るぅちゃんの過去生だったと思うの。『三日前』と言ったんだけど……きっと、三万年前くらい前に遡っちゃったのね」
「なんでそんな大昔に……?」
「うーん。るぅちゃんの心に、なんか三日前に戻ることへの抵抗感みたいなのを感じた気がするんだけど。どう、るぅちゃん。やっぱりやめておいたほうが……」
「……いえ! やります……ここまで恥ずかしい思いをしたんだから、もう絶対見つけたいです。ただ、兄貴には席を外してもらうってことにしたいんですけど……」
「あ、そうね。じゃあ居留守くん、少し外に出ていてね。はい、ティッシュボックス」
「なんでそんなもの渡すんですか!?」
ティッシュボックスを持たされたまま、トイレで用を足し、戻ってくる。と、途端に居留守はヒマになった。
(いま、部室でどんな会話が繰り広げられてるんだろう……?)
なにか悶々としたまま、廊下の窓によりかかる。ウトウトしていると――
「きゃあああああっ?!」
という、悲鳴が聞こえた。
(な、なんだ!? 今の、美咲さんの声か!? ど、どうしたんだいったい! まさか、今度は美咲さんをペロペロ舐めてんじゃないだろうな……)
と、微量の期待が入り混じったまま、居留守は猛ダッシュする。ノックなしで、部室のドアを開け放った。
「大丈夫ですか!? ……わっ!」
「い、居留守くん! ちょうどよかった、助けて……!」
室内はひどい有様だった。椅子や机が倒れ、荷物が散乱している。そして、美咲はというと、床に押し倒されていた。制服が乱れ、涙目で居留守のほうに手を伸ばしている。
そして、美咲にのしかかっているのはというと……。
「にゃあぁーーーーーーーーーーーーーん!!」
犬ではなく、今度はネコ化したらしい。厄介なことに、今度は動物本能むき出しだ。何が気に入らないのか、美咲に襲い掛かっている。
しきりに美咲をひっかこうとしているが、美咲のほうは必死に腕でガードしているという、危うい状態だった。
「きゃああああっ! やめてっ、お嫁にいけなくなっちゃう!」
「にゃん! にゃん! にゃん! にゃん! にゃん! ふにゃーーーぁっ!」
ブレザー・ワイシャツのほうは、ちょっと皺がついているくらいだ。問題はスカートのほう。るぅと美咲のむちっとした太ももが絡まって、しかも、それで激しい動作などしている。
(うぁ、ちょっ……やばくない、アレ?)
いまにも、危険水域まで二人のスカートがまくれ上がってしまいそうだった。純情な居留守は、思わず目を手でふさいでしまう。指の隙間から、微妙に見てはいたが。
「きゃぁっ、きゃああぁぁーーっ!?」
「はっ! 覗き見してる場合じゃないぞ! なんだこれ、ひどい! もうやめろ、るぅちゃんっ!」
やがて、るぅは正気に戻った。
(ネコも、ビーフジャーキーとか食べるんだな……。魚とチーズとかしか食べないのかと思ってた)
美咲は、少々ショックが抜けきっていないようだった。微妙に、目の端に涙を浮かべている。ガード姿勢をとるかのように、ひじとひじがくっつき、脚は内股になっていた。
「うぅっ……ビックリしたぁ。急に、るぅちゃんに押し倒されちゃって……。あ、ありがとうね居留守くん……ちょっと……んんっ……貞操の危機を感じちゃったもの……!」
(ちょっと抱きしめてあげたい感じだけど、そんな度胸はとてもないな……)
「い、いえ。美咲さんのパ……じゃなくて、スカートを守れてよかったです」
「あぁっ……あわわっ……天橋先輩、ごめんなさいっ……! 私としたことが、バカ兄貴はともかく、美咲先輩まで被害にあわせちゃうなんて……!」
「ちょっ、ともかくって何さ! ともかくって!」
るぅは地面に三つ指をついて土下座していた。
(んー、よく考えたら、くちびるペロペロされた僕のほうが被害は大きいんだけどなぁ。なんでこんなに謝り方が違うのかなぁ? おかしいぞー?)
けっきょく、部室のすぐ近くで居留守が待機した状態で、もういちど退行催眠を行うことにする。二十分ほど経って、こんどは無事終了したらしい。居留守は、二人と合流した。
三人は、青鳥学園の敷地を出る。
「いやぁ~。やっと上手くいったね、居留守くん、るぅちゃん! 『二度あることは三度ある』ってやつね!」
「やだぁ、先輩。それを言うなら、『仏の顔も三度』ですよぉ」
「二人とも何言ってるの。そうじゃなくて、『三度の』――えぇと、なんだっけ?」
(ほんとに思い出せない……。『三度の飯より顔が好き』……だったっけ?)
「で、携帯なんですけど、本当にこんな近くに落っこちてるんですか……?」
「うん。るぅちゃんは気づいてなかったみたいだけど、でも潜在意識にはキッチリ残っていたわ。携帯の落とし場所がね!」
学校から駅に向かう途中にある、側溝の付近に三人は立っていた。
得意げな美咲。それから、さっきから居留守と目をあわそうとしないるぅ。
(やっぱり、キス……ではないのかもしれないけど、くちびるの周りをベロベロ嘗め回すってのはキっツイよなぁ……僕もだけど、るぅちゃんだって……)
下手なことを言うと側溝に蹴り込まれそうだったので、居留守は押し黙った。
「さぁ、居留守くん。ついに男の子の出番よ! この側溝の中を漁ってみて!」
「うぅ、汚いなぁ……でも、ここでやらないと僕の活躍の機会が……!」
いちおう、両手にビニール袋を装着する。側溝のフタを外し、漁ること4、5分。
「あった! ありましたよ!」
居留守の手には、ピンク色のカバーをかけられた、るぅのスマホがあった。
「あっ……!」
るぅはスマホをひったくろうとする。が居留守はそれを押しとどめた。ティッシュで汚れを拭い去ってから、あらためて渡す。