18:退行催眠・美咲 妹
「ばっ、バカ兄貴が私のことをかわいいとか……そんなことありえませんよっ! 気持ち悪いですっ!」
「そう? でもまぁ、るぅちゃんをわざわざ私のところに連れてくるくらいだし、それなりに妹さんを心配してはくれてるんじゃないの? ねぇ居留守くん」
「えっ、ええそりゃもう……」
「ま、本題に戻るけど。どうする、るぅちゃん? 私、君の頭の中を見ちゃっても大丈夫かな?」
「ごめんなさい……やっぱり、ちょっと……恥ずかしいというか」
るぅは苦しそうに頭を下げた。
「せっかく、天橋先輩が力になってくれるっていうのに……ごめんなさい!」
「あっ、いやいや、顔を上げてよ。別に気を悪くなんかしてないからね」
「けど美咲さん。るぅちゃんの潜在意識を見るのがダメとなると、どうなります? もう携帯を探すのはムリですか?」
「うーん……」
美咲はぐりんぐりんと首を回した。
「そうね……。いちおう打てる手がなくはないけど」
「へえ~、さすがぁ。美咲さんは何でも知ってるんですね!」
「何でも知ってるよ。もうこの宇宙に知らないことはないからね」
「自信が神すぎる!?」
「冗談よ。で、どんな手かと言うと……一言で言えば、私が『覗き見る』んじゃなくて、るぅちゃん自信に『しゃべってもらう』っていう作戦ね。そうすれば、そもそも尋ねてないことはしゃべらないし。つまり、るぅちゃんが人に知られたくない事を、漏らす危険はとても少ないってこと」
「え? でもるぅちゃんは、携帯の落とし場所とか覚えてないわけで……そんなのしゃべりようがない気がしますけど」
ちっちっちっ、と美咲は人さし指を往復させた。
(わざとらしいジェスチャーだけど、美咲さんがやると似合うなぁ……)
単純に、顔がよければ何をやっても似合うのだ――という真理を知れるほど、居留守の女性交際暦は長くなかった。
「それができるのよ。そう、『退行催眠』ならね!」
部室の電気が消された。少し薄暗い。
「じゃあるぅちゃん、準備はいいかしら? トイレは行って来たね。のどは渇いてない? 途中で水分補給はできないから」
「はい、大丈夫です……よろしくお願いします!」
机を取り払い、美咲とるぅが向かい合って座っている。居留守は、それを横から邪魔にならないよう見守っていた。
「いい? 今からるぅちゃんを一種の催眠術にかけて、潜在意識を呼び出します。これは別に、超能力でもなんでもなくて、単に心理学的な技術よ。私も専門というわけではないから、本当はその道のお医者さんや研究者にやってもらうのが一番なんだけど……ただ、落し物探し程度の理由で、やってくれるかは微妙だからね。それに、親御さんに見つからないうちに、早く携帯見つけたいのよね?」
「はい。お願いします。天橋先輩にやってもらいたいです」
「うん。分かった」
と、包容力のある笑みを返す美咲。
「じゃあ、始めるね。一応、聞き取れないこととかもあるし、録音しておくから」
「分かりました」
美咲は、二つのスマートフォンの録音ボタンを、続けてタップした。「万が一、録音中に機械が故障すると困るから」ということで、居留守のスマートフォンを借り、二台体制で録音するという念の入れようだった。
「さてるぅちゃん。肩の力を抜いて。大きく深呼吸して……まず、体の中の息を全部吐き出すの」
「はい……はぁ~~っ……!」
「あれ、なんだか力が入ってるね? リラックスして。全身の、余計な力を抜いてね。背もたれによりかかっていいから。それで、全部はき終わったら、またゆっくり吸って。深呼吸を繰り返していってね」
脱力を促すように、美咲はるぅの肩を、ゆっくりと上下にさすった。その手つきは、とても優しげだった。
「すぅ~~っ……はぁ~~っ……」
「そうね、どっちかというと、吐くほうが吸うのの二倍の時間になる感じ。それを意識してね」
「はい……」
「息苦しかったら多少短くしてもいいからね。苦しいと、リラックスできないから」
「はい……」
しばらく、るぅは深呼吸を繰り返す。目はすっかり閉じていた。
「そう……あなたの前には、階段があるの。その階段を、少しずつ下りていくところを想像して。一歩……二歩……三歩……四歩……。ゆっくり、ゆっくり、一段ずつ。あなたの意識が深いところに降りていくよ……」
「……」
「何も心配しないで。優しい光が、あなたの体中に満ちていくのを感じてね。あなたの体は、どんどん温かくなり、癒されていくわ……」
優しげな言葉がるぅにかけられる。
(るぅちゃん、大丈夫かな……ちゃんと退行できるんだろーか?)
居留守が妹の想像力をバカにしながら眺めていると、とつぜん、彼女の頭がカクンと落ちた。
「……グゥ……グゥ」
(ねっ、寝てるー! この子思いっきり寝てるー!? 毎晩、ちゃんと寝てんの!?)
「ちょっ……催眠はしてるけど、ほんとに眠りを催したらダメなのよ! るぅちゃん!?」
るぅが揺さぶり起こされた後、第二ラウンド開始となった。
「さぁ。不安な心が抜けていくよ。あなたの中にある温かい光が、どんどんまぶしく輝いていく。愛情と、安心が、あなたの体に満ちていく……」
流石に、まぶたにセロテープを貼られては居眠りすることもなかった。るぅは、ぼんやりして催眠の世界に落ちていく。
「……では、過去の世界を覗いてみましょう。今から三日前、携帯電話を持っていたときのことを思い出そうね。まず、あなたは携帯電話で何をしていたかしら?」
(おぉ、なんだか本格的だな……これはいけそうだぞ!)
居留守は、何も分からないながら、催眠術をあやつる美咲にのまれていた。やがて、るぅは口を開き――
「わん! わん! わん! わん! はっ、はっ、はっ、はっ、はっ!」
犬っぽい鳴き声を発した。
「「……は?」」
「わおーーーーーん!」
居留守と美咲が彫像のように固まる。対して、るぅはやたらに元気に部室を走り回った。四本足で……。
「わん! わん! わん! わん!」
「なっ……何をっ!? るぅちゃん!?」
るぅはツインテールをなびかせ、走る。部室をきっかり三周した後、脇に立っていた居留守へ突進した。
るぅの犬っぷりがあまりにも迫真だったため、居留守は驚いて腰を抜かしてしまう。そこに、るぅが馬乗りになる。
「わんわん! わん! わん! わおんっ!」
「ぐぉぉぉっ! ど、どうしたんだいったい!?」
尻尾――はないが、あったとしたら大喜びで振っていただろう。子どものように無邪気な表情の犬、じゃなくてるぅ。
そして彼女は、ものすごい勢いで居留守の口周りを嘗め回した。妹の熱い息遣いが、舌のなめらかさが、居留守に襲いかかる。
「ぺろぺろ! ぺろんっ、じゅるじゅるるっ!」
「ぐおおおおおおおおおおおおおああああああああやめてええええええええっ!?」
「……ごめんなさい。なんでか分からないけど失敗しちゃったようね」
珍しく、美咲は神妙だった。
あまり物のビーフジャーキーを、良く噛んで味わって食べていることを除けば。
「もぐもぐ……るぅちゃんも……ぐちゅぐちゅ……中々やっかいな子ね」
「? え、えっと……私、いったい何を……しちゃったんですか?」
るぅは、よつんばいのまま美咲にマウントされていた。まるで女子プロレスだ。
美咲が持っていたおやつのビーフジャーキーで餌付けされ、るぅは正気を取り戻したのだ。