3 ミドリが書けなくなった理由、アフリカのホベン
ただいま、とミドリが「カフェ・ド・エトランジュ」の扉を開けた時には、既に日付が変わっていた。
土曜の夜。常連客の他にも数名が、入り口左右に置かれたふっくらとしたソファに抱かれている。小さな鉢植えが置かれたスピーカーからは音楽が流れている。それは決して存在を主張することなく、ただゆったりと流れ、ふと目の前の相手との話が途切れた瞬間、やっと「ああ流れていたんだな」と思わせる様なものだった。
そんな中、二人は迷わず左へ曲がり、カウンターの右側二つの席に腰を下ろした。あら、と真由は声をかける。
「ミドリ君お帰りなさい、遅かったじゃない」
ミドリは仏頂面で頬杖をつく。
「ユキちゃん疲れなかった?」
「私は… 大丈夫だが」
「そーよねえ。どう見てもミドリ君の方が虚弱」
あはは、と真由は笑った。ミドリはそれに「うるさいよ」と歯をむき出しにする。
「でもずいぶん遅かったってのはマジメな話よ。一体こんな時間まで二人で何してたのよ」
「ああっもう、真由さんまで」
ミドリは思わず頭をかきむしる。その手をよしよし、と彼女は軽く叩く。
「何言ってんの、判ってるってば。けどこれだけ遅くなるんだったら、途中経過くらい、教えて欲しいものだわ」
「携帯持ってくの、忘れたんだよ」
悪かったよ、と半目を伏せて、彼はつぶやく。そう、昨夜のショックがまだミドリからは抜けていなかったのだ。
下手に携帯を持って、それがまた「彼女」からで、そしてまたユキの声など入ったりしたら…
つまり彼は携帯を忘れたのではなく、故意的に置いていったのだ。
「それでも何かしら電話する方法はあったでしょう?」
「ここの番号なんていちいち覚えてねーよ。つーかフツー、ケイタイに入れてるから覚えてねーっての」
「私は知っていたが」
ぼそ、とユキが口を挟んだ。
「あー、知っていたなら教えてくれても良かったじゃないか」
「特にミドリが電話を掛けようという様子も無かったから言わなかった。何か私は間違っているか?」
うー、とミドリは頭を抱えた。
「まあいいわ。二人とも夕食は? 何か食べた?」
「大宮のマックで。さすがに腹減ったから」
ちょっと待ってよ、と彼女は手を上げる。
「アナタ達、何で大宮まで」
*
「…ねえ、この住所のひとって、…女の人、だよな」
「だと、思う」
午後に差し掛かった小田原駅の構内は明るかった。
半円の窓から差し込む光の中、ミドリは渡されたメモとユキの顔を交互に見た。
「だと、思うって… キミの知り合いじゃあないの?」
いや、とユキは首を横に振った。
「私の、じゃない」
ミドリは首を傾げた。それを見て彼女は付け足した。
「頼まれたんだ」
そう言えば、と彼は思い出した。確かこの少女は、叔父に対しても、何かを託されて渡していたのだ。
「それって、マスターに頼んだひとと同じ?」
「いや」
素っ気ない言葉が返ってきた。せめてもう一言二言、付け加えて欲しい、と彼は思った。
「じゃあ、別のひとなんだよね」
「ああ」
「忙しいな。全部で何人居るんだよ」
さすがに嫌味がちらり、とのぞく。
「いや、後はこの人だけなんだが… 難しいか? あまり、時間が、無いんだ」
「時間が無い?」
彼女は軽く人差し指を口に当て、何かを考える様な表情になる。
「…一週間」
「一週間?」
「しか、無いらしい」
また「らしい」だ。
そこでそういう言葉を使うのだろうか? ミドリは何となく、自分がからかわれている様な気分になった。
「らしい、ってキミ、自分のことだろ?」
「確かに私のことだが… あ―――」
彼女はまた何か迷う様な表情で天井を見上げた。そしてその視線が次第に半円状の窓に移り―――
「済まないミドリ。確かに私は言葉が足りない」
ひょい、と彼女は軽く頭を下げた。
「あ、いや、謝られることでも…」
「いや、ミドリの取る態度から予想される感情は間違っていない、と思う。…ただ、うまい言い方が、まだ良く、見つからないんだ――― しばらく使っていなかったから」
「使って? 言葉を?」
彼女は大きくうなづいた。
「だから、もし私の言葉とか言い方で、判らないところとか足りないものがあったら、ミドリはちゃんと言ってくれないか?」
「え」
「そうでないと、私は、私が何を言うのを取りこぼしているのか、私が何をちゃんと言いたいのか、上手く判らないんだ」
そう言われましても。
あまりに下手に出られたので、彼は露骨に眉を寄せた。別に責めているつもりは無いのだ。
「あー… と」
どう言ったものかなあ、と今度はミドリが天井をあおいだ。
真由とも「彼女」とも、ましてや「ファン」の子達とも… どの女性達とも、この少女の言い方は異なっていた。いすぎた。彼自身、どう対応していいのか、困ってしまうのだ。
ふとその時、彼の頭の中に一つの可能性がひらめいた。
「えーと…、もしかして、キミ、今まで外国に居た?」
「外国… ああ」
ユキは大きくうなづく。なるほど、と彼は納得する。
「そしてもしかして、その一週間くらい、でそっちに戻らなくちゃならない?」
「たぶん―――」
「何でたぶん、なんだよ」
またその言い方だ、と彼は胸の奥が何処かむずむずするものを感じる。
「ユキちゃん、キミのことだろ?」
「確かに私のことだが――― だが私の滞在予定は私で決まる訳じゃない、から」
「誰かが決める訳? キミじゃなく? 旅行会社?」
思わず彼は矢継ぎ早に問いかけていた。苛立っても仕方は無い、と思うのだが、口は止まらなかった。ユキはそんな彼の苛立ちを受け流すかの様に、微かに首を傾げた。
「…とは違うんだが、まあ、一週間、だと今朝は判った」
ミドリはうー、とうめいた。やはりまだ要領を得ない気分だった。
しかしユキからそれ以上聞き出そうとすると、時間がいくらあっても足りない様な気がした。
「行こう」
「何処へ」
「観光案内所。とにかく人探し、なんだよな」
今の話題は帰ってからにしよう、と彼はユキの手を引っ張った。
そしてバスで揺られて二十分。そこに目指す場所はあるはずだった。
だがそこには何も無かった。見事なまでに、家と名がつくものは、何も無かった。
「家」では無くとも、住所の末尾の数字からミドリはそこにはアパートかマンションがあるものと判断していたのだが、見事な程に、そこには車しかなかった。
アスファルトと白いライン、そして数字。そこは駐車場となっていたのだ。
「本当にここかよ…」
彼のつぶやきにユキは何も答えなかった。
彼らはまず隣りの家に飛び込んだ。しかしその家も去年引っ越してきたばかり、ということで事情を知らなかった。仕方なく、そこで紹介された最寄りの駐在所へと飛び込んだ。
何となく居心地悪い気分で扉を開けると、席は空っぽで、「用事のある方はチャイムを押して下さい」とボタンが置かれているだけだった。
その通りにボタンを押すと、定年間近そうな警官が「何ですか」と言いながらのっそりと出てきた。
ミドリは基本的に警官は苦手である。特に最近は苦手だった。しかし用事は済ませなくてはならない。彼はメモを見せ、住所の先のひとに会いに来たのだけど、と短く訊ねた。
すると警官は、大きくうなづきながら、こう言った。
「あ~ あのアパートね」
「アパートだったんですか」
ぱっ、とユキも顔を上げた。うんうん、と警官は大きくうなづいた。
「…そう、一昨年だったかなあ… 取り壊しに遭ってねえ…」
「取り壊し?」
ほれ、と警官は扉を開けると、先程彼らが立ちつくした駐車場を指さした。
「結構広いし。アパートの前とか空き地だったんだよ」
「へえ…」
「アパートの方は… 何ちゅうか、結構古くなってたし、人もあまり住んでなかったから、悪さするガキどもが集まりやすいところだったなあ」
集まる気持ちは良く判る、とミドリは思った。自分も高校生の頃は、そんな場所によく溜まったものだ。
「だからまえは、わし等もよくパトロールに出かけたもんだよ… ああでも、その名前、女の人、だねえ」
ユキは黙ってうなづいた。
「取り壊した、ってことは、中のひとも皆、引っ越した、ということですよね」
「そのへんは、役所とか、その不動産とかに行って調べた方がいいんじゃないかねえ。急な取り壊しだったら、移転先とかも紹介しただろうに」
もっともな意見だった。
そしてそんな行程を彼らは三度繰り返し、大宮で足取りはぷつりと切れたのだ。
*
「それはまあ、…で、結局?」
「だからそこまで言ったんだから、察してよ、真由さんーっ!」
はいはい、と真由は苦笑した。
実はミドリがこの店に入って来た瞬間から彼女は、「あ、駄目だったんだ」と気付いてはいた。
しかし連絡もよこさない子を単純にいたわる程彼女は甘くは無い。彼一人ならともかく、ユキを連れ回しての上なのだから。
「…しかしそうすると、私は一体、これをどうしたらいいんだろう…」
ぼそりと左側から声がする。ユキは一冊の小さな手帳をじっと見つめていた。
「渡すものって、それかよ」
「何、ミドリ君、アナタ、ユキちゃんから聞いていなかったの?」
「オレ達は家探しの方に忙しかったんだよ!」
そうなのだ。結局、この長い時間というもの、ミドリはユキと友好的な会話を作る方向にはまるで進めなかった。
もっともそれはミドリ一人に非があることではない。
「それに… 何つか…」
彼は口ごもる。当人の前で口にしていいことなのか。
そう、彼はユキに何をどう聞いていいのか、さっぱり判らなかったのだ。
今までに交わした少ない会話でもそれは充分感じられた。ユキはユキで、問われたことには真摯に答えようとはしているのだ。ただそれが、どうしても上手くかみ合わない。
質問自体は伝わってはいるのだろう。だが、それを答える時に彼女はひどく考え込むのだ。
言葉の問題だけならいい。だがそれだけじゃない様な気が、彼にはしていた。
上手い答え方が見つからないのか、それとも、自分自身の中にその答えが見いだせないのか。はたまた、その質問自体が彼女にとってまずいものなのか。
そのどれとも言えないが、結果として彼らの間に弾む会話というものが成立しなくなるのは仕方のないことだった。
「あ、ところで叔父さん、いないの?」
とりあえずミドリは話を別の方向へ持って行こうとする。彼の記憶によれば、叔父は開店前には帰ってきているはずなのだ。
「ああ、…ちょっとね、また――― まだ、出かけてるの」
「って、土曜の夜だろ!」
「そんなこと言ったってミドリ君、ほらこの様に」
真由は左手を大きく広げる。むき出しの筋肉質の腕は、見ていてすっきりと気持ちいい程だ。
その腕の先には、まったりとした時間を過ごす客達の姿がある。彼らは最初のオーダーだけで、数時間を平気で過ごすのだ。
「ウチの旦那サマの見込みは正しいわね」
「だからあんた等、経営者の自覚って、ある?」
「あら、あるわよ。ただ別に、格別儲けようとか、ウチのスタンスを崩してまで、あくせく稼いだって仕方がないじゃない。知っていてくれる人がいつも楽しく来てくれて、時々新しいお客サマが増えればそれで充分だと思うけど。そのらいがワタシ達にはちょうどいいんじゃない?」
「…だけどさあ真由さん、カフェ・ブームってさ、何だかんだ言って、オレでも判るほど長く続いてるんだぜ? もう一つのブンカって奴よ? ちったぁそのあたり考えたらどぉ?」
「あらあ? それをキミが言うのかな?」
つん、と真由はミドリの額をつついた。
「下手に売れよう売れようと焦ると、つまづくってこと、キミがよぉく知っているんじゃあないの?」
う、と彼は詰まった。
確かにそうだった。結局前のバンドが駄目になったのは、事件もそうだが―――何よりそこが問題だったのだ。
「ワタシはねえ、ミドリ君、キミのコトバって結構好きなんだけどなあ」
真由は二人のためにカフェオレを入れ始めた。
「…今までそんなこと一度も言ってくれたことないくせに…」
「そりゃあ本人の前で言ったらつけ上がるってウチの旦那サマも言ったしね。でもあのひともキミの歌詞、好きだと思うけど?」
げ、とミドリは喉元を押さえた。
「そぉそぉ、キミ達のバンド、一度だけゴールデンタイムの番組に出たこと、あったじゃない。あん時だって、ワタシ達ちゃーんと見たのよ」
「…ああ… あったけど… 見たんかい!」
そうだ。彼は思い返す。
確かあの時は、緊張しすぎでハイになっていたのだ。何せ、それまで本当にTVの中でしか見たことが無いお笑い・トップタレントが目の前に居たのだから。
話しかけられ、舞い上がり、ひどく浮かれてしまったという記憶しか無い。何を話したかも全く覚えていない。後でマネージャーが見せてくれたビデオを見て、冷や汗がだーっ、と全身を流れ落ちたことを覚えている。
だがスタジオに客を集めてのライヴ収録自体は上手く行った、と思う。彼らは基本的にライヴ・バンドだった。
問題だったのは、その時の曲だったのだ。
シングルカットされ、珍しく力を入れてプロモーションしたその曲は、いつもの通り、彼の作詞作曲だった。
だがそれを形にしてメンバーに聞かせた時。
―――何かさあ、ミドリお前、これ、マジ?
ギタリストはそう彼に問いかけてきた。
―――本気だよ? 何一体。
本気ならいいんだ、とギタリストはそれ以上彼を問いつめることはしなかった。
だが正直、彼はその問いかけに動揺していた。
本気じゃ、なかった。
普段のミドリの歌詞というものは、かなりひねくれたものだった。日常、彼と付き合う人間達からすると、何故この男からこんな歌詞が出てくるのか、予想がつかないらしい。
もっとも、彼自身もどうしてそんなコトバになるのか判らない、という部分はあった。
ミドリにとって、コトバは、降って来るものだった。
例えば適当に浮かんだフレーズをでたらめに歌っている時、不意にそれが起こる。イカサマ英語がキーワードを引き出す。するとコトバは次から次へとあふれ出す。
だが彼は小説書きではなく歌詞書きである。溢れされておくだけではいけない。
最低限のモノに縮め、掛詞だの逆説的な言葉だの上乗せする。
ちょっとやそっとでは本心を見透かされない様に、だけど判る奴には判るように。
ねえ、それでいーじゃねえの? 、と。
…そんな歌詞を彼は書いていた。
そう、彼は言葉にはかなり気をつかっていた。時には本当に言葉遊びの時もあった。
言葉遊びはその額面通り取ってはならないものなのだ。言葉の表面の意味だけでなく、そこには、「言葉遊びをせずにはいられない自分とそのテンション」も含まれているのだから。
だがそれは、その言葉に「感じる」人を限定するものだった。判る人には判る。確実に判る。だが判らない人には、まず判らない。
判らないでいい、と彼は思っていた。そんな簡単に、俺のことが判ってたまるか、とも思っていた。
だが―――
その時の曲は違った。
―――何っか変だよなあ。
ドラマーの男は言いながらスティックを淋しそうに鳴らした。
―――だってさあ、俺にもミドリのコトバが一発で判るって、すげえ、変じゃねえ?
普段、ドラマーの彼は、ミドリの歌詞を理解しようとする努力を放棄していた。
だから、うんそれはそうだ、とミドリはその時内心うなづいていた。
だってその時俺は、売れたかったんだから。
普段だったら二枚も三枚もコトバの上にひっかける飾りや幕の様なものを取っ払い、ストレートなメッセージで…
―――いや違う。
彼は思う。
―――俺の気持ちを抜きにしたんだ。
結果、いつもより「判りやすい」それは、確かにいつもよりは売れた。
だがこの世知辛い時勢、音楽業界はそれっきりのことでは動かない。
だがその「いつもより」が少しでも動いたおかげで、会社側から「次の曲もこんなふうにした方がいいんじゃない?」と圧力がかかった。
しまった、とミドリが思った時には後の祭りである。
案の定、ミドリはコトバに詰まった。曲も作れなくなった。
余裕のあるバンドではなかった。わがままが言える立場でもなかった。アルバムやシングルの製作には、余分な日数も資金も掛けられない。やがて周囲の要求と自分の欲求との間でミドリは上手くコトバを見付けられなくなった。
曲ができなければ作業は進まない。じれたベーシストはつい暇潰しに、と危険な遊びに手を出してしまった。
事件が発覚したのはアルバムが出て、「少しは」売れた後だったのは、幸運だったのか不幸だったのか。
印税なんて入ってくるのは当分後だった。
そしてミドリはまだコトバを探しあぐねている。
「ま、でも、人生いろいろよね」
と真由はカフェオレを二人の前に置いた。
「―――でもユキちゃん、その手帳って」
黒い合皮のカバーのついたそれは、ひどく汚れていた。紙が元々白かったのが信じられないくらい、全体的に薄茶に、そして所々に、黒っぽい染みが見えた。ユキは中身をぱらぱらと眺めている。隙間から、大きな字が所々に見えたが、全体の内容までミドリには見えなかった。
「知り合いから、どうしても、と頼まれた」
「…まあ、まさか、死ぬ間際とか、言わない…」
「そうだが」
ユキはぱたん、と手帳を閉じた。
「あのさユキちゃん」
「何だ?」
「小田原の話の続き、していい?」
「ああ」
「キミ… 一体、何処の国からやって来たの?」
「ミドリは聞いていないのか?」
そう言って、真由の方を見る。彼女は黙って肩をすくめた。
「言っていないんだな」
と念を押すようにユキはつぶやいた。ごめんねえ、と真由はにっと笑った。
ユキはカフォオレを一口含むとこう言った。
「…アフリカだ」
「へ?」
「ホベン、という国をミドリは知っているか?」
「ホベン? …知らん」
そらそうだ、と彼は内心つぶやいた。
世界地理なんて、この歳になると、旅行を思い立った時の場所くらいしか調べないものだ。それも自分の想像のできる範囲でしかない。
正直、ミドリがアフリカで知っている国など、サッカーで有名な国くらいだ。しかもその国々が、大陸の何処にあるのか、なんて言われたら。
そんな彼の気持ちを見透かした様に「そうね」と真由もうなづいた。
「まず、普通のひとはホベンは知らないんじゃないかしらねえ」
「そうなのか?」
ユキは問い返した。その口振りに微妙に失望の様な色が、ミドリには見えた。
「まあ無理も無いわね…」
「真由さんは知ってるの?」
「一応… でも」
ちら、と彼女は窓際の方へと顔を向けた。
「両全さん」
窓際には四角のテーブルが二つ、丸テーブルが一つ。左端の四角いテーブルに向かって、彼女は声を投げた。
「今、いい?」
「駄・目」
反射的に、にべも無い言葉が返って来る。
「お願い、ちょっとでいいんだけど」
すると次にはテーブルを叩く音。
「何言ってるのよ、真由ちゃん、アタシが今どういう状態か、アンタ今朝から判ってるでしょ」
低い声。げげ、とミドリは手にしていたカップを落としそうになった。
両全さん、と呼ばれた男は常連中の常連――― 先日も最後まで残っていた男女の片割れだ。そして今日もまた、何かテーブルに向かってかりかりと書き物をしている。一緒の女性は、文庫本を積み上げている。
だがまだミドリはこの二人の声を聞いたことは無かった。会計はいつも女の方がしていたし、その時も「領収書を」という言葉以外聞いた記憶が無い。
「だけどホベンについて少し聞きたいのよ」
「ホベン?」
くっ、と両全の眉の間に深い皺が刻み込まれる。
「何あんた達、そんな物騒なトコ、行こうとか思ってるんじゃないでしょうねえ」
低い声は、フロアを通り抜けて行く。
「ううん、そうじゃあないけれど。ほんの五分でいいわ」
「…んもう… 仕方ないわね。コーヒー追加一杯、おごってよ」
がた、と腰を上げると、素早い動きで前の女性がその腕を掴む。
「…なーにーよー…」
「せんせ~判ってますよねぇ~今日中~ですよ」
「はーいはいはいはい、判ってるわよ、今村。今日中ね今日中。何とかするわよ何とか」
「本当~ ですねぇ~」
「そーやってあんたと話してる時間の方が惜しいじゃないの。だからあんた! 手ぇ離しなさいって。ほらほらやだやだ、アタシのお手手がチキン肌になっちゃったじゃない」
「すみません~」
女性はのそっと手を引いた。黒縁眼鏡の下の瞳が閉ざされ、栗色のショートカットが揺れた。
「はいはいはいそれで?」
両全は言いながら、フロアを大股で横切って来る。そして「はいずれてずれて」とミドリの右隣の席に陣取った。カウンター席は四つしかないのだ。
「ま、可愛い。結構アタシ好みね」
「駄目よ両全さん、この子は」
「判ってるわよ。マスターの甥っ子って、この子のことでしょう? …あらそう言えば、あのひと結局今日はまるで見あたらないわね」
「開店時間から居たくせに、気付かなかったんですか?」
「まあそれはいいじゃない。話話。…じゃないと、今村が怖いわよ。あー女ってやぁね。ああでもホベンがどうしたの? …え… と」
「この子はミドリ君。隣りはユキちゃん」
「ミドリ君? んー、あらキミ、確かどっかで…」
「それは後々。三分、でしょ」
そうね、と彼はうなづいた。
「大統領が来るの、決定したって言ってたけど…真由ちゃん今朝の新聞、まだある?」
彼女はううん、と首を横に振った。
「あぁもう。だからこのヒト達、駄目よね」
「ウチでは使えるものは使うんです。だからほら、いつも窓も調理場のステンレスも綺麗」
「そんなことアタシの知ったことじゃないわよ。今朝ちょっとそういう記事読んだ気がして」
「あ」
ミドリはそう言えば、と軽く口を開けた。
「あら、ミドリちゃん知ってるの?」
「ちゃん」。いつの間にそうなったんだ、と彼は口の端が引きつるのを感じた。
「…や、あの、何処かの大統領が、ってのだけ、見出しが…」
「そうそう! 新聞は読んでおくべきよっ!」
にっこりと両全は笑みを浮かべながら大きくうなづく。しかしあまりにもその顔と口調のアンバランスさに、ミドリは目が回りそうだった。
「でも大統領がわざわざ日本までやって来るってあたり、内乱が治まったことをアッピールしたいのか、それとも何か理由があるのかしらねえ」
「内乱?」
ミドリは問いかけた。
「そ、内乱。えーと、ミドリちゃん、どの辺にあるのか、は…あ、知らないのね」
ミドリは苦笑する。それを見て両全は軽く人差し指をあごに当てながら、視線を上に飛ばした。ごつい爪に、濃い紫のマニキュアは迫力がある、とミドリは思った。
「だいたい大陸の真ん中ってとこかしらねえ。大湖地方に入るんじゃなかったかしら、真由ちゃん」
「ワタシもあまりそのあたりは」
「マスターが居れば一発じゃない! 全く何であの男、今日はいないのよ」
「色々ウチも忙しいんです。それより時間時間」
「…もう、これだから女は嫌よ」
コーヒーちょうだい、と彼は付け足した。
既に三分などゆうに過ぎている。ちら、とミドリは今村女史の方を見た。彼女は視線を本に落としている。
いいんだろうか、とふと彼は心配になってしまう。とは言え、せっかく話してくれることだし。
「大湖地方って…」
「あーそれも駄目? んもう、学生の頃ちゃんとお勉強しなかったでしょう? でもまあいいけどね。学生時代ちゃんと遊ばないとマトモな大人にはなれないわよ」
「両全さん! はい、コーヒー」
とん、と真由はカップを置いた。
「はいはい。ケニアは知ってる?」
「…ええ」
「じゃあウガンダは? コンゴは?」
「ちょっと…」
「ケニアとウガンダが近いの。そのウガンダと大きな方のコンゴに挟まれてるあたりなんだけど…」
「小さい国だ」
すっ、とユキが口をはさんだ。
「あらあんた、知ってるの?」
意外そう、とばかりに両全は小さく丸い目を、一杯に広げた。一日書き物に取り組んでいたせいか、軽く開けた口の周りには既にヒゲが勢い良く突き出しつつあった。
「ああ。そこから、私は来たんだ」
「…へーえ… よくアンタ、帰ってこれたわねえ… ねえ真由ちゃん?」
両全はカウンターに肘をつく。
「そうよね。外務省の危険度『5』の国だもの。それに基本的に在留邦人が居ないはずの国だし」
はず、という辺りがミドリの耳には引っかかった。
「…や、帰ってきた訳じゃない」
え、と三人の視線がユキの元に集まる。
「私は日本に帰ってきたんじゃない。日本に来たんだ」
「来た、って」
「私は日本人だが――― 今はホベン共和国の国民なんだ」
*
少しばかり時間はさかのぼる。
「…何だね、今日はもう店は終わりだよ」
住宅街。街灯がぽつんぽつんとしか存在しない、よくある町の、一軒の酒屋。コンビニエンスと兼用している店が最近では大半だが、この店はあくまで酒のみにこだわっている様だった。そして自動販売機も置いていない。かと言って老舗の風格を持っているという訳でもない。量販店になっている訳でもない。
夜七時。そんな店のシャッターに手を掛けたTシャツ姿の主人は、背後から近寄る男に向かって、そう言い放った。
「いや別に、酒買いに来た訳じゃあないですから」
「…じゃあ早く帰りな。最近はこんなとこでも物騒でな…」
「確かに最近、通り魔とか多いですしねー… でも、まあ僕は大丈夫じゃないんですかね、野平さん」
主人の手が止まった。
振り返る。離されたシャッターが、がらがらと上へと巻き上がる。店内の灯りが、訪問者の姿をくっきりと映し出した。
「…高原」
「お久しぶりです、野平さん」
訪問者はにっこりと笑みを浮かべた。酒屋の店主は、絞り出す様に声を出す。
「今は… 棚橋だ」
「でも、僕にとってはあなたは永久に野平さんですがね。ねえ、ちょっとお話があるんですが」
高原は一歩、前へと足を踏み出しながら、にっこりと微笑んだ。野平は一歩、後ずさりをする。
と、その時中から声が飛んで来る。
「あなたー、戸締まりやってくれたんじゃないですかあ? ごはん、冷めてしまいますよ」
「先に食っててくれ! ちょっと知り合いが来たんだ!」
「まあじゃあ、上がってもらえばいいじゃないですか」
がらり、と店と居住空間を分けるガラス戸が開いた。そこから三十代後半から四十代に差し掛かるくらいの女性がひょい、と顔を出した。
「や、ちょっと出かけてくる! メシは取っておいてくれ!」
「まあ! せっかく今日はあなたのお好きなぶりの照り焼きにしましたのに」
「…早く帰るよ」
そう言いながら、自称「棚橋」の野平は再びシャッターを閉めた。しかしその手つきは先程よりずっと素早かった。
「奥さんですか? お子さんは?」
高原は口元をくい、と上げる。
「…去年結婚したばかりだ… 初婚同士でな、…ってお前に言う義理があるか!」
「あるんじゃないですか? 綺麗なひとですね」
「よせやい」
「いや、綺麗と言うより」
「止せって言っただろう!」
ち、と野平は舌打ちをする。
「…どうせお前の言いたいことは判ってる。そうだよ、確かにあれは、お前に良く似てる」
「やっぱり」
そして再び彼はにっこりと笑った。「止せ」と野平はその顔から勢い良く目を逸らした。
「用件を早く言え。俺はもう、今はただの酒屋の主人なんだよ」
「僕だって、今はただのカフェのマスターですよ」
「本当か!?」
「本当ですって。残念ながら今日は名刺は無いですけど。ああそれに喜んで下さいよ、僕も結婚したんですよ」
ほんの一、二秒、野平の顔に安堵の色が浮かぶ。しかしそれは彼自身によって振り切られてしまった。
「…いや、お前がそれだけのために来る訳が無い!」
「嫌ですねえ、僕はそんなに信用無いですか?」
ある訳ねぇだろう、と野平はつぶやいた。
「…そのただのカフェのマスターが、ただの酒屋の主人に何の用だよ? 酒の卸しか?」
「それだといいんですがね… 違うんですよ」
くっ、と彼は笑う。
「では嫌だ。駄目だ。用は無い。帰れ。帰ってくれ。俺はお前に用は無い。ありたくない」
店主は一気にそれだけの言葉を投げつけた。
「でも僕は、あなたに貸しが一つ残ってたと思って」
「聞きたく無い!」
彼は両の拳を強く握り、大きく首を振った。
「いいえ別に、そう難しいことじゃあないですよ。…別に何しろこれしろっていうことではないです。よりを戻せ、なんてのはこれまた全く! 無いし」
「…じゃあ、何だ」
露骨にほっとした様な顔で、野平はようやく高原の顔を見た。その顔には熱帯夜のせいだけではない脂汗がだらだらと滴っている。
「六年前の夏のことなんですが」
「六年前… 2002年のことか」
「本村和義は桜ホテルで、あなたに何って言ってました?」
「六年前? 本村?」
「忘れましたか?」
野平は口から「あ」と「う」の中間の様な音を伸ばした。
六年前。口で言うのはたやすいが、その時何があったか、なんてことを正確に覚えている者はそうそういない。ましてや何を話したか、なんていうことは。
佐倉洋子は「最後に本村に会った」男の候補を何人か挙げてくれた。その最後から二番目がこの野平だった。昼間からずっと、高原はその「候補」の居場所を当たってみたのだ。
「思い出せません? じゃあいいです。でもこれだけ、判りませんか?」
「…な、何だ」
高原は真剣な顔でじっと相手を見つめる。野平は思わず後ずさりする。
「彼はその時、あの仕事を辞めたがっていませんでしたか?」
「あ? ああ!」
記憶の糸の端を一つ取り出せば、後はするすると出てくることもある。
「そうだそうだ。その話をしていたんだな。…そう、辞めると言っていたよ。思い出した、思い出した。奴は岐阜に実家があるから、そっちへ帰ろうか、とも言っていたなあ」
「岐阜… ですか」
「山の中の方だ、と言っていたな。…あの男が、そんなのんびりした所で生きていけるのかよ、と俺もさすがに思ったけどよ」
「岐阜の、山の中の方ですか…」
高原はぱっと頭の中に日本地図を広げる。基本的に山が多い地方ではある。だが確かにうなづけるところはある。生まれも育ちも都会の自分に比べ、あの男はずいぶんとその辺りに慣れていた。
明るい笑顔。真剣な表情。
「でも、俺が知っているのはそれだけだ。それに確か、その翌日、あいつはいきなりあのホテルを出て行ったって言うし」
「…いいえ、それだけ判れば結構です」
「貸し一つ分には… なったか?」
そうですね、と高原は首を傾げた。
「半分、ってとこですか」
やめてくれよぉ、と泣きだしそうな顔になる男に高原は「冗談ですよ」と言い、背を向けた。背後にシャッターを慌てて開け閉めする音が聞こえた。
しかしねえ。
彼は歩きながら苦笑する。手にはまだ、あのバッグが握られている。中身は移動する列車の中で確認した。バックの中にまたバッグ。
そして手紙。
だがそれは本村の筆跡ではなかった。
本村の筆跡なら彼は良く知っていた。はっきり言って、下手だった。向かった先で入手する質の悪い鉛筆では、ばきばきと芯を折ってしまう様な筆圧で、ざくざくと書かれた文字だった。
しかしその手紙の文字は違った。
かなり急いで書かれた様で、青のボールペンの色も薄めだった。
しかもその内容の大半は、高原にはすぐには理解できない、理系の単語が煩雑に並んだものだった。
それは後で聞くべき人物に聞こう、と彼は思った。
自分にできることとできないことの見極めは早かった。あくまで自分が理解できる部分に関して、彼は何度も目を通した。
それは、「お願い」だった。
「依頼」ではない。自分達、当時の傭兵に対する、報酬を伴った「依頼」ではなく、あくまで知り合いに対する「お願い」だったのだ。
『色々考えた結果、君にしか頼めないんだ』
ほんの少し、カンに障る言葉がまず目にとまった。それだけ本村を信頼していたのだろうか、と。しかし内容を目で追うごとに、その気持ちが冷えて消えて行くのが判った。
『全て自分が悪いとは思いたくないというのは、僕の偽善だろうか。いや偽善でも構わない。とにかく僕は今どうしてもこの子を助けたい。けど僕にはその力が無い』
六年前、バッグを持って現れたのはユキだ。
するとこの手紙の主は、ユキを――― 助けたい、と。
高原は読み進める。
『君なら、この子を国外に連れ出してやることができるかもしれない。いやぜひそうしてやってくれ。さもなければ』
ざわつく山手線の車中。彼は眼鏡の下の目を細めた。
―――内容を一通り目を通した彼は、数枚続く化学的な事柄を飛ばして、最後の一枚を開いた。
『おそらくこれを見る時、僕は既にこの世には居ないだろう。無理な頼みだとは思うが、幼なじみの最後の頼みと思って、どうしても引き受けて欲しい』
そして最後に署名。
高原は手紙をしまうと、その足で図書館へ行き、新聞の縮刷版から、六年前の夏の記事を漁った。
―――あった。
三面にもならない、東京の、地方版の片隅に、「男性が歩道橋から転落死」という記事が。
高原はその記事を書き写す。大した量ではなかった。
夜中のことで目撃者も居ないことから、自殺と他殺の両面から捜査をする、ということ、そして石塚雅之、とその男性の名前。
―――署名と、同じ名前。
本当に、大した量ではなかったのだ。