2 大崎のホテル・小田急線で振り回され・渋谷
ところでミドリはTシャツが好きである。
そしてTシャツと同じくらい、柄シャツも好きである。
「あらおそよう。何ミドリ君、海水浴にでも行くつもり?」
店内に真由の声が飛んだ。
午前十時。「昼から夜」が基本のこの店では、まだこの時間はプライヴェートスペースだった。
そしてその日、彼が白のタンクトップの上に羽織っていたのは、赤地に白の花がうねる様な柄の半袖シャツだった。膝上で自分でカットし、切り口を思い切り強調したジーンズに、裸足にサンダル。
「全くキミ、低血圧なんだからねえ。でも今日はそれじゃあ困るなあ。ははは」
カウンタに突っ伏せるミドリの横で、叔父は笑いながら新聞をびっ、と真ん中で半分に裂いた。一枚一枚を丁寧に読んで行くのが彼のクセなのだ。そして読んだ先から捨てて行く。
だがただ捨てるのではない。数枚はダンゴにして、窓掃除に使われる。流しの掃除に使われる。八つ折りにされたものは、フライパンに溜まった油や、オーブンレンジのカスを綺麗にするのに使われる。
何でまた、と大して大きくも無い目を広げてその様子を眺めていたら、叔父はこう言ったものだ。
「そりゃ資源は大切に、だよ。ミドリ君」
ミドリはうめく様に口を開く。
「低血圧、じゃないすよ…」
「じゃあ鉄欠乏性貧血だわ。駄目よミドリ君、ちゃんと鉄分摂らなくちゃ」
そうじゃなくて、と彼はくしゃくしゃと自分の髪をかき回し、ため息をついた。
「鉄分が足らないのは、確かに良くない」
左側の、一つ置いて横の席から、ぶっきらぼうな声が聞こえた。
「だが他の栄養素と違って、大量に取れうる食物もある程度範囲が狭まってしまうから、サプリメントを用意するのも一つの手段かもしれない…」
教科書口調でユキは口をはさんだ。
「…おはよう」
「おはよう」
そしてやはりぶっきらぼうに、彼女は軽く頭を下げた。既に朝食は摂り終えてしまったらしい。彼女の前にはカップだけが残されていた。
はい、とミドリの前に朝食が置かれる。厚切りトーストにバターを乗せたものと、大根ツナサラダ、スクランブルエッグ。
「それに、ミドリ君もカフェオレね」
「も」。どうやらユキのカップの中身もそうらしい。
彼はまず大根サラダにまず手をつける。しゃくしゃく。良く冷えていて口当たりがさわやかだ。寝不足であまり働きの良くない胃だったが、一日の始まりである。燃費が悪い自分の身体には、きっちりエネルギーは入れておかなくてはならない。
「…で、叔父さん、今日は俺、何時から入ればいい?」
この店が一番混むのは、土曜日の午後から日曜日いっぱいだった。口コミでこの店を知って来た者が「ものは試し」とばかりにやって来る。小規模経営、常連が多いせいで、普段はこの疑似夫婦プラス、アルバイトだけで済む店も、週末だけはそれだけでは済まないらしい。
だが。
「あ、ミドリ君、キミ、今日はいいよ」
へ? と彼は思わずマスターの方へ顔を突き出した。
「ほら、この間『2/3』でカフェ特集をしただろう?」
知ってるよ、あんたが断った奴だ。人差し指を立てるマスターに、彼は内心つぶやく。
「この辺りのカフェはだいたい取り上げられたからね。今日はそっちに客が群がるんじゃないかなあ」
「…あんた本当に経営者?」
「それよりね、ミドリ君」
さらりと彼はかわす。にこにこと笑顔のまま、表情一つ変えもしない。ミドリは思わず身構えた。こんな時の叔父は何を言うのか判らないのだ。
ミドリはふと思い出す。バンドが解散した後、彼が時々荒れたことがあった。事情が事情だったこともあり、マスターもある程度まで大目に見てきた。だがさすがに、酔ったミドリが店内の観葉植物の半分を台無しにした時、笑顔を満面に貼り付けて、こう言い放った。
「…そろそろいい加減にしないと、襲うよ?」
そう言って、ミドリが気に入っていた柄シャツの襟を両手で掴むと、ボタンを一気に弾き飛ばした。
あれは怖かった、と彼はしみじみそう思い出す。
「それより、何すか?」
ずず、と甘いカフェオレをすすりながら、彼は渋々問いかけた。
「んー、別に難しいことじゃあないんだけどね」
もし難しいことだったとしても、同じ表情で、やらせるつもりだろうが。
「今日ユキちゃんと、小田原の方まで行って欲しいんだけど」
「小田原?」
「キミも昨日聞いてただろう? 彼女、人を捜しているんだ」
「そのひとが、小田原に居るって言うのかよ」
「まあキミ、そうふてくされないで」
ぽん、とマスターは丸めた新聞で、ミドリの肩を叩いた。見ていたのは海外の政治欄らしい。何処かの大統領が急に来日決定、という内容が彼の目に飛び込んで来る。
「事情は彼女自身に聞いた方がいいんじゃないかな。時間も無いことだし、彼女一人じゃあ、知らない交通機関とか大変だろうし」
「交通機関?」
「ああそうそう、車は駄目」
「駄目って」
とん、とミドリはカップを置いた。
「だってキミの運転じゃあ、この子が危険でしょう」
「う…」
答えに詰まる。
「そうよね、ここからだったら、小田急よね」
真由も口をはさんだ。
「交通費と食事代は僕が用意するから、キミ、行って来るんだね」
それはどうやら決定事項らしい。
「…で、どんな人なんだよ」
「道中、時間があるから、ユキちゃんに聞けばいいよ」
「…って、あんたもう知ってるんだろうが!」
「まあそれはそうだけど。朝ご飯のうちに、ユキちゃんは話してくれたし、僕は僕で今から行くとこがあって、少し忙しいし」
そう言うとマスターは立ち上がった。そしてぽん、と丸めた新聞を、カウンターの一番奥へと放り投げる。ユキはそれをちら、と見る。
「…」
ふとミドリは彼女がそれを手にしたのに気付く。
「何、何か面白い記事、載ってる?」
「…いや…」
素っ気ない答えが返って来る。しかし彼女の指は、先程の記事に触れている。文字をたどっている様にも、彼には見えた。
「じゃ、すぐ戻るから」
マスターは彼らの後ろを通って出て行った。
「叔父さん、何処行った訳?」
「大崎よ。そこのホテルに、ユキちゃんの荷物があるんだって」
真由は答える。大崎。なるほどそれなら、大して時間は掛からないだろう、とミドリは思った。
「それよりミドリ君、さっさと行った方がいいわよ」
「だって小田原だろ? 真由さん」
一時間ちょっとで行けるのではなかったか、と彼は記憶をひっぱり出す。
「はい、これが目指すひとの住所」
真由はぺろん、とメモを彼の前に置く。
「…って」
「だからそれが判っていても、それがどのへんか、なんてワタシも知らないの。ちゃあんとその辺り、がんばって探してちょうだいね」
それはもしかして、地図できちんと探すことから始めろ、ということでしょうか。手間が掛かることをしろというのでしょうか。もしかして住宅地図とか、最寄りの警察に飛び込んで道案内を頼めということでしょうか。
ミドリは内心彼女に問いかけたが、「YES」としか返ってこない質問をする愚は犯さなかった。
*
午前十一時。JR大崎駅から徒歩三分強。「桜ホテル」の扉はヴン、と音を立てて開いた。
「いらっしゃい… あら」
カウンタに座っていた女性は顔を上げた。だが良く晴れた日射しが扉の外に眩しく、客の顔がなかなか判らない。彼女は老眼鏡を外す。近くでは無いのだから、と。そして目を凝らす。
「え?」
立ち上がる。
「も… しかして、高原――― 高原くんじゃないの」
入って来た男―――「カフェ・ド・エトランジュ」のマスターを、彼女はそう呼んだ。
彼はにっこりと笑い、眼鏡の下の瞳を軽く細め、ジーンズのポケットに手を突っ込みながら、軽く首を傾げた。
「お久しぶり、洋子さん」
「なあに、またあなた、どうしたの」
彼女は思わず立ち上がった。そしてやや早口でまくし立てる。
「あなたがこのホテルにまた来るなんて。あの時言ったでしょう? あなたのためにもう部屋は空けないわよ、って」
「覚えてるよ」
笑みを顔に貼り付けたまま、軽く彼はうなづく。
「大丈夫、今はもう、僕も家と店持ちだから。あなたと同じに」
「本当に?」
「本当」
彼女は値踏みする様な目で高原を見た。ともすれば嫌味な程の、オレンジ地に白でオレンジの断面がプリントされた長いTシャツ。ヴィンテージもののジーンズ。ブランドものの眼鏡。
「あなたの本気は信用できないのよ」
そしてふう、とため息をつく。
「それはひどい」
「あなたがそんなこと言えて? だいたい高原くん、あなたあの頃、私がどれだけ注意しても、来る客来る客、たらし込んでいたくせに」
すっぱりと事実を突き付けられ、高原は表情を変えることもできない。
もう何年前になるだろう。このホテルに最後に来たのは。最後に長期の宿泊をしたのは。
大崎の駅から、遠すぎず近すぎずの距離にあるこのホテルに、ある時期彼は、よく長期滞在していた。
もっとも、当時ここを利用する者の大半は、一ヶ月二ヶ月、部屋を借り切ってぶらぶらしている男達だったのだ。次の仕事が来るまでの休暇を過ごす場所として、個室がわりあいゆったりしたこのホテルは居心地が良かった。広いロビーには、常連客が夜になると意味も無く群れ集ったものだった。
そして、そんな常連客の半分は彼にアプローチをかけてきたし、彼には断る理由が無かった。それだけのことだった。
たらし込んでいた、というより「来る者拒まず」というのが高原なりの見解だったが、とりあえずは心の中で言うに止めておいた。
「それはそれ、だよ。じゃあ洋子さん、僕が結婚したって言っても信じてくれないんでしょ」
「…まあ、…それは信じてもいいわよ。…とても信じられないけど。どうせ何か裏にあるんでしょう?」
「ひどい」
くすくす、と彼は笑う。
「あのね高原くん、私だって別にね、そういう趣味を責める気は無いのよ。ただ私はこのホテルにはある程度気楽なら気楽なりのモラルというものがあったほうが、と思っただけで…」
言いかけて、彼女は首と手を同時に振った。
「まあそれはいいわ。あなたにその話で今更あれこれ言ったって、仕方ないでしょうし。ともかく、本当に結婚したならおめでとう」
「本当ですって」
苦笑しながら、彼は念を押す様に言う。
嘘ではない。高原は、真由のことは本当に純粋に愛している。彼女にしても同様だ。ただお互い、そこに性的興味が全く無いだけで。
「まあ、あなたが女に興味を持つ様になったとはとうてい思えないけれど、ともかくは、この国に今は落ち着いている、と考えていいのかしら?」
「だから、店持ちだ、って言ったでしょう?」
「何処で? 今度お邪魔しようかしら」
よほど当時の自分は彼女にとって、信用できない存在だったのだなあ、と高原は思う。
しかし今は、その信用を多少なりとも回復させなくてはならないのだ。少女と、自分と――― もう一人のために。
「渋谷の神南の方。カフェ・ド・エトランジュって店」
おやまあ、と彼女は目を丸くする。
「あんなところに良く店なんか作ることができたわね」
「ちょっとばかりつてがあってね、そう新しくもないビルだったし。…まあ、僕の蓄えの大半と、奥さんの蓄えの半分をそこに入れたけどね」
「ってことは、何あなた、部屋を買った、ってこと? 借りたのじゃなくて?」
「まあね」
はあ、と彼女は大きくうなづいた。そしてはた、と気付いた様に手を打つ。
「…ああ、それで『エトランジュ』。何あなた、それ、そのままじゃないの?」
「…まあね」
彼は苦笑する。
「だから、今日はそれ絡みの、用事があったんだけど、聞いてくれる?」
「私が聞かないとでも思ったの?」
いいえ、と彼は首を横に振る。断るだろうと思ったらわざわざ来ない。彼女が彼を信用してなかろうが、彼は彼女を信用していた。
そう、昔と変わらない。やわやわとした口振りなのに、それでいて内容は辛辣だ。長年女手一つでこのホテルを切り盛りしてきたことはあった。
高原はポケットに突っ込んでいた手を出す。じゃり、という音ともに、彼は手の中のものをカウンターに置いた。彼女は何? とつぶやきながら眼鏡の縁を直す。
「本村の、なんだけど」
「…え」
「ユキって女の子がウチに昨日、来たんだ。…で、ここに預けてある、彼の荷物は俺に託す、ってことらしいんだけど…」
ちょっと待って、と彼女は鎖と、その先に点けられた認識票を手に取り、目を大きく開く。
「…ああ、確かに本村くんのものだわ」
彼女は顔を上げ、ため息を一つ落とす。
「…そう、…そういう、ことなのね」
「…そういうこと、らしいよ。いまいちまだ、そのユキって子からは、詳しい状況は聞いていないんだけど… あなた、何か彼から預かっているの?」
「そう、ユキって名前だったのね、あの子… ええまあ、でも、預かっていると言っても、…ちょっと待ってね」
彼女はそう言うと、あたふたと奥へ引っ込んだ。
その間に彼は、ロビーの様子をぐるりと見渡す。ああ変わっていない。決して広くは無いが、居心地の良いソファ。確か季節によってカバーの色を変えていた様な気もする。
小規模経営のホテルにしては、門限も無かった。いい仲になった男と呑んで帰って来た時、そこでまたしばらくのんびりと過ごしたりもした。
自販機には数種の煙草。国産だけでなく、外国産のものも置かれている。新聞も、日本のものだけでなく、外国語のものが数種類。それもこれも、全てこのホテルに長期滞在する常連客のためのものだった。
最後にこのホテルを訪れたのは、何年前だったろう。彼は記憶を振り返る。
ああそうだった、あれは―――
思い出しかけた時だった。
「はい、お待たせ」
奥から彼女は、一つのボストンバッグを抱えて出てきた。彼は思わず目を見張った。
「…これ、ですか?」
ええそうよ、と彼女はうなづく。
「本村君は、無駄なものを持たないひとだったでしょう?」
「それは、そうでしたけど」
確かにそうだった。そしてカウンターに置かれたそのバッグも、実にシンプルで丈夫な素材の、大き過ぎず小さ過ぎず… ナチュラルなものだった。しかし実際に店先でその値段を見たら驚く類の。
それは実に、本村らしいと言えば本村らしい、と高原は思う。だが高原が問題にしているのはそこではなかった。
確かにそのバッグは実に本村らしい。
だが、荷物が「ある」という事実。正直、それが彼にとってはひどく不思議だったのだ。
手に取ると、それなりに充実した中身が、重みとして感じられた。
「中… 確かめてみていいですか?」
「それは構わないでしょう。あなたに託されたんだったら」
彼はジ、と音を立てて、太いファスナーを開ける。すると中には、更に一回り小さいバッグと、その脇にきゅっと差し込まれた、折り畳まれた紙が数枚入っていた。
「何か、気になるものでもあった?」
「…まだ良くわからないけど… 彼は、いつこれを?」
「六年前ね」
「六年前」
彼は繰り返す。その頃自分は何をしていただろうか。少なくとも、この国には居なかった。
「その時、彼は何か言ってませんでした? …あ、そう言えば、あなたさっき、ユキのことを知ってる様な」
「ええ、少しだけどね。…そう、六年前、あの子がここに居た本村君を訪ねてきたのよ」
「訪ねて」
「本村君は首をひねってた様だけど… ちょっとさすがに、私も良くは覚えていないわねえ」
「じゃあ知らない子、だった訳かな?」
だが六年前、とすればユキはまだ十二かそこらだ。今でも彼からしたら子供だが――― 当時は誰から見ても子供以外の何者でも無かったはずだ。
そんな子供が、わざわざ本村をこのホテルまで訪ねて来た、とは。
「そう、それで彼、その翌日、出て行ったのよ」
「翌日?」
「そう思い出したわ。ずいぶん急いでた」
「急いで」
「予定では一ヶ月滞在して――― そうそう、何かもう、足を洗うとかそこで誰かと話していた… 様な気もするんだけど」
そう言いながら、彼女はロビーのソファを指さした。
「彼、足を… 洗うつもりだったんだ」
「もう三十だから、とか言ってたけどね。まあ無理だ、って私は踏んでいたけど」
彼女は苦笑いする。
「あ、ちょっと待って」
高原は片手を挙げた。
「…と言うことは、奴は… 本村は、また戦場へ戻って行った、ってことなの?」
でしょうね、と彼女はうなづいた。
この「桜ホテル」は傭兵達の定宿だった。おそらく現在もそうだろう、と高原は思う。
オーナーの佐倉洋子は、長年、このホテルでそんな男達と付き合ってきた。
各国の外人部隊に所属する者、フリーの傭兵、事情は様々だったが、戦場を駆け回ることを生業としている者であることには変わりなかった。
高原はこのホテルのことを本村から教えられた。
その本村は、自分の敬愛していた隊長から聞いた、と言っていた。居心地のいい宿なのだ、と。そしてそれは事実だった。
彼女はこの少し異質な長期滞在の男達に対し、離れすぎず近づき過ぎず、の態度をきっちりと守っていた。だがそれは、堅苦しいものではなかった。
ただ近づき過ぎず、とは言え、長年彼らと付き合っていれば、ある程度以上、この業界の事情は耳に入ってくるし、彼女が聞かなくても「自分の事情」を口にする者も居る。
「いつものところに電話していた様だしね。そう、結局行って…もうあの子も戻って来ないのね」
「仕方、無いよ。そういうことをしていたんだから」
「ええ仕方無いのよね。―――あなたは幸運な方ね。高原君」
「ええ」
そう、幸運だ、と高原は思う。
自分もかつては傭兵だった。ただ彼がそうなったのは偶然だった。
好きな男を追ってフランスまで行った。ところがそこで刃傷沙汰になってしまい、気が付いたら中近東の小国の外人部隊の契約書にサインさせられてしまっていた。
冗談じゃない、戦場なんて、人殺しなんて、と思ったが、自分自身死にたくもなかった。
別にそれまで自分の身体を大事にしようと思ったことは無いが、かと言って、そんな理由で死ぬのも馬鹿馬鹿しいと思った。
それに何より、生きていれば得られる快楽も、死んでしまえばおしまいなのだ。彼はぎりぎりの線上で、何とか全てをやり過ごしてきた。
ところが、だ。この女が殆ど居ない世界は、ひどく彼にとって居心地が良かった。おかげで二年の契約が切れた後も、何となく中近東からアフリカにかけて、あちこちの戦場を駆け回ってきてしまった。
戦いたい訳では無いが、何となく、その場所を離れがたかった、というのが正直なところだった。それで銃を手にしているのだから、ひどい奴だ、と時々自嘲をすることもあったが、合っていたのだから仕方が無い。
それに何と言っても、戦場に生きる男達が好きだったのだ。
本村和義と彼が出会ったのは、その頃だった。
「フリー」で仕事をする場合、「自分」と「仕事」をつなげる、プロの仲介屋が居る方が物事がスムーズに行く場合が多い。それこそ「事務」からこの職業に至るまで、同じである。彼は高原と同じエージェントにその頃、登録していたのだ。
能力や適性が近く、それでいて微妙に専門が違うことから、高原と本村が同じ戦場に配属されることは多かった。まあまずそれだけでも、「戦友」というものは強烈な印象を残して行くものだが、高原にとって本村はそれだけではなかった。
何せ、自分を振った唯一の男なのだ。
それまで高原は、自分が目をつけた男に振られるということはまず無かった。ただその関係が長く続くか――― 一晩で終わるか、は別だが。ともかく、高原はアプローチした相手は必ず落としてきた。それもゲイ/ノーマルを問わず!
だが本村は違った。女好き、と言う訳でも無かったから、いけるか、と思ったら、それも違ったらしい。
日本の自衛隊を一年で辞め、フランスの外人部隊を経てフリーになったその男は、おそらく何にも関心が無かったのだ。
「理由は判らないわよ、私には。本村くんが何を考えていたか、なんて」
先回りをする様に彼女は言う。
「判ってるよ」
そんなことは。彼は軽く目を伏せる。いくら馴染みの彼女であったとしても、次の仕事先のことをいちいち伝えたりはしない。「またアフリカですよ」とか「南のほう」などと言う程度だ。
本村はそれすらも口にはしなかっただろう。高原は何となくそう思っていた。そしておそらくそれは間違いないだろう、と。
そういう男だったのだ。
あまり時間も残されていなかったので、一度お店の方へ来て欲しい、妻にも紹介する、と言って高原は「桜ホテル」を後にした
*
「…それにしても、何故こんなに人が多いんだ?」
小田急線「代々木公園」駅から列車に乗り込んだ時、ユキはそう言って露骨に眉を寄せた。
「そりゃあ、週末だからだろ」
がたんがたん、と揺れる「急行」の車内、彼らは座るタイミングを逃した。
そもそも彼はもともと新宿からロマンスカーに乗ろう、と言ったのだ。人の金で遠くまで行けるなら、なるべく楽な方法で。しかしそれは同行の少女が断固として拒否した。
「まだそこに居る、と知れたものでは無いんだ。できるだけ出費は抑えたい」
「…キミ幾つ?」
さすがにミドリもそう問いかけた。
よく考えたら、自分はこの少女のことを何も知らないのだ。今のうちに聞けることは聞いた方がいいかもしれない、とミドリは思った。
そう、マスターも道中聞け、といたではないか。
「十八だ」
彼女はあっさり答えた。
「十八?」
「見えないか?」
「いや見えると言えば見えるけど…」
何というか、その。
ミドリは二十㎝と離れていない距離で一緒に揺れている彼女を改めてまじまじと見る。やはりこの日も、下はともかく上は長袖を着込んでいた。
しかし中は真由が貸してくれたというタンクトップを身につけているためか、身体の線が容易に想像できる。―――ちょっと意外な程に胸が無い。小柄なせいか、何処か子供の様にも感じられる。だがその顔つきは、決して子供とは言えない。いや同年代の少女とも違う。
ノーメイクのせいか、と当初は思った。
しかし渋谷に繰り出す少女達が全てパーフェクトメイクをしている訳ではない。水とせっけんで洗っただけで平気で紫外線の直射に顔をさらして走り回っている者も居ない訳ではないのだ。
そう、自分達のバンドのライヴにもそういう子を見かけたことがある。だからそれが直接的な原因では、ない。
言葉づかい… は確実にあるだろう。店から駅に向かう途中、本日の目的の場所、もしくは人について、ミドリも幾つか質問を投げかけてみたが、その都度彼女の口から発せられるのは、ぼそぼそとした固い言葉ばかりだった。
昨今では少女の口調も男並に荒れている、と言われているが、それともまた違う。
何かを思い出しながら、考えながら、確かめながら口にしている―――そんな印象を彼は受けていたのだ。
ミドリはふとユキの視線の方向を見る。彼女は入り口付近に陣取りながら、近く遠く流れて行く景色を眺めていた。下手するとそれは、窓に手や顔をくっつけかねない勢いだった。
「そんなに珍しい?」
え、とユキは顔を上げた。ざらり、と三つ編みにした髪が肩からすべり落ちた。
「ほら、君さっきから、ずっと外眺めてるからさ」
「眺めて…?」
ああ、と彼女はうなづいた。
「珍しい訳ではないが―――」
そして軽く首を傾げた。
「見たことが、無いか、と見てた」
「…どういう意味だよ」
「私にも、上手く、言い表せない」
そう言うと、彼女はぷっつりと口をつぐんでしまった。
しかし「上手く言い表せない」という言葉は、奇妙に納得できるものだった。
小田原まではあと、一時間はある。
*
「お、ミドリ君じゃないの」
のんびりとした低い、そして何処か甘さを感じさせる声。
呼ばれた本人は「あ―――?」とうめきつつ、のっそりと顔を上げた。
恥ずかしげもなく「おーい」などとボンゴを足に挟みながら、トスは駅前のいつもの場所で、むき出しの腕を大きく振っていた。
ミドリは肩をすくめると、胸の前で小さく指をひらひらとさせた。良く見ると黒ずくめの男はぐい、とギターケースを見せつけるかの様に突き出している。「あ」とミドリは小さく声を立てた。昨日忘れて行ったものだ。
「ミドリ?」
斜め横の少女の声にも構わず、彼は小走りでトスの方へと近づいて行った。
「昨日キミ、いきなり帰っちゃうからさあ」
「悪かったよ。だけど」
ちら、と背後を見る。あら、とばかりにトスの眉はひょい、と上がった。
「あらあら何、キミ達知り合いになったの」
「知り合いというか何と言うか」
「知ってはいるだろう」
ユキはぼそ、と口にした。その様子を見て、トスはふーん、と納得した様にうなづく。
「今日はキミ、うたわないの?」
「ギターが無いし、…疲れてんだ」
「デートでもしてきた訳?」
「まさか!」
即座にミドリは否定した。あれを「デート」なんて言って欲しくなかった。
そもそも前日から、この少女のおかげで色々な目に遭っているのだ。
トスとの会話を中断されただけではない。今日一日振り回されたのも、朝、真由に「おそよう」などと嫌味を言われたのも、全てこの少女のせいなのだ。
「でもこの子、可愛いじゃないの。昨日はじっくり見られなかったけど。うん。ねえ、名前何って言うの?」
「ユキだよ、ユキ!」
「…たぶん」
まあまあ、と笑いながらトスは股の間のボンゴを叩いた。ふと、その時ユキの目が大きく見開かれた。
しかしミドリはそれに気付かず、今さっき駅の改札から出てきたのは決してデートではない、ということを必死になって説明しようとしていた。誤解されてはたまったものではない。「彼女」でもあるまいし! いや昨晩は本当の「彼女」に誤解までされてしまったと言うのに!
昨晩、泊めてくれるのなら店のソファで充分だ、というユキに対し、マスターも真由も「それは駄目」と口を揃えた。
「古い友人の知り合いにそんなことできないよ」とマスター。
「居候君、あなた、女の子を店の小さなソファに眠らせて自分は広いとこ、だなんて平気なの?」と真由。
「あ、でも奥さん、ミドリ君そっちに回して、店のソファに、よだれとか垂らされても困るけど」
「あ、そういう問題もあったわね」
夫婦がうんうんと納得した様にうなづく中、「よだれなんか垂らすするかよ!」とミドリは反論する。
しかしそれでは一体何処に泊めろと言うのだろう。
「カフェ・ド・エトランジュ」の入っているフロアは、店舗部分に加え、水回りと、夫婦それぞれの個室+広い物置しかない。ミドリはその「広い物置」にあるソファで寝起きしていたのだ。
もっともその「物置」は窓もついていたし、夫婦それぞれの個室を足したよりも広い。ただ通気性は悪く、「物置」だけあってごみごみしていることは確かだった。
「ミドリ君、ユキちゃんにキミの寝床貸しなさい。だけど店のソファは駄目だからね」
「じゃあ一体、俺に何処で寝ろって言うんだよ!」
「キミ、泊めてくれる彼女の一人や二人居ないの?」
居たら今頃こんな所に居ないだろう。うらめしそうなミドリの視線にマスターはにっこりと微笑んだ。
「じゃあキミも一緒の部屋で寝るんだね。床は広いし。今の時期なら、風邪も引かないでしょう」
「そうね、それが一番いいかも」
ぽん、と手を叩いて真由も言う。
「真由さんとこじゃいけないのかよ! 同じ女でしょ!」
「だってこんな可愛い子じゃない。私、手を出したくなるかもよ。それも困るでしょ? ミドリ君は彼女居るし。大丈夫よねえ」
だから手を出すこと無いでしょ? と真由は言葉の裏で脅しをかけた。
「じゃあ叔父さんとこは…」
それでもまだ、彼はあがいてみた。しかし叔父は肩をすくめ、
「だから僕はね、基本的に女の子が同じ空間に居るというのは」
苦手なんです、という言葉は省略された。
そう、以前にも彼は聞いたことがあった。叔父はあの少女特有の発する香気の様なものが自分は駄目なのだ、と。
ユキは他の少女に比べ、それがひどく薄いのだが、用心するに越したことはない。そう言いたいのだろう、とミドリは思った。
仕方がない、と彼はうなだれるしかなかった。所詮彼は居候だった。別に何も起こさなければいいのだ。それだけのことなのだ、とミドリは自分に言い聞かせた。
そして彼が「物置」の中から発掘したマットで寝る準備をしていた時だった。唐突に携帯電話が鳴った。ミドリの「彼女」からだった。
高校時代のクラスメートだった「彼女」は、都内の実家に住み、そこから勤め先へと通っている。
中堅企業の子会社で事務をしている「彼女」とはもう付き合いもかれこれ八年にもなる。
生活パターンが合わないからなかなか会えないが、自分の絶対入り込めない世界でがんばっている彼女を見ると、何とかしなくちゃな、と言う気にもなる。
それだけに、バンドの解散~事務所解雇はきつかった。ようやく「彼女」の周囲の人々にも顔向けできる様になった、と思っていたのに、だ。何となく、それ以来「彼女」ともメール交換程度になっていた。
それで済むのか、と言われると何だが、済ませるしかない。今現在「彼女」に会っても、自分自身が萎縮してしまうだけだろう、と彼は感じていた。
もう少し。もう少し経ったら。
だからその日も、いつもの通りメールなのか、と思っていた。
だが違った。直接の通話だった。「もしもし」と懐かしい声が耳に入った。
途端、自分がひどくその声を欲していたことにミドリは気付いた。「ねえ何かひどく疲れてる?」と問いかけて来た。「大丈夫」と答えながらも彼は嬉しかった。だが何から話していいのか判らなかった。話題を探そうか、それとも何かしら理由をつけて切ってしまおうか、彼は少しの間悩んだ。
だがその時。
「ミドリ――― 風呂空いたぞ」
物置の扉が開く音と共に、ユキの声も飛んできた。
その声はそれまでのぼそぼそとしたものと違って、「物置」の中で良く響いた。
「それと、バスタオル、私が使ったが、いいのか?」
「バスタオル?」と「彼女」は問い返してきた。「あ」とミドリは言葉に詰まった。
「おい、ミドリ」
アルトの声は尚も続けた。幾ら低くても「アルト」の声だ。女の声だ。次の瞬間、「…忙しそうだからまたね」と疲れた声で通話が切れた。不思議そうに見上げて来るユキの表情はあくまで純粋な疑問に満ちていたので、彼は携帯を掴んだまま、どうすることもできなかった。
それに加え、少女が同じ部屋で寝ていると、それはそれで、特有の香りが部屋の中に溜まって行くものである。「彼女」にどう言い訳をしようかと考えがまとまらない上にその環境である。なかなか眠りにつけないのも当然だろう。
そして極めつけが、本日の行動だった。いい加減彼は誰かに対し、愚痴を吐きたくなっていたのだ。
「あーっもう、聞いてくれよ!」
はいはい、と軽い音を響かせながら、トスはふわふわとうなづいた。手は相変わらずボンゴを叩いていた。
「今日俺、この子連れて、小田原・茅ヶ崎・逗子・大宮って回らされたんだよ!」
「…それはまた…」
手は止まらない。不思議なテンポのリズムを柔らかく叩き続けている。
「あーっもう! 小田原で人捜ししたら、その家自体が無くてさ、隣りのひとに聞いたらもう結構前に茅ヶ崎に引っ越したって言うじゃんか! で、そこで教えてもらった住所から行ったらまた…」
「繰り返し~ 繰り返し~」
手もまた同じリズムを繰り返す。
「そーだよ繰り返しだよ… んでもって、神奈川県ざーっと通って、いきなり大宮に飛ぶんだぜ?」
「で、人捜し? できた訳?」
「できたらこんなツラしてると思うかよ!」
ひーん、とミドリは泣きまねをしてみせる。よしよし、とトスは片手を上げると、横にぺたんと座ったミドリの頭をくしゃくしゃ、とかき混ぜた。
「えーと、ユキちゃんも、座ったら?」
そう言ってぽんぽん、と自分とミドリの間を空けてやる。ユキはトスの方に近づいた。
だが近づいただけだった。座りはしなかった。
「どうしたの? キミ疲れていないの?」
「…」
え? とミドリはユキのつぶやきが耳をすべったことに気付いた。見ると、彼女の視線が何処か堅い。今日一日歩き回って、少しは自分に対して緩んだかな、と感じたものが―――
「お、俺、帰るわ。ユキ、行こう」
ミドリは立ち上がると、片手にギターケース、片手にユキの手を掴んだ。
「明日は来る? ミドリ君」
「わかんねーよ!」
「…まあいいか。じゃあまた。それからユキちゃん」
ユキは黙ってトスの方を向いた。トスは何か言葉を投げかけた。何だろう。とぅたおなな、と彼の耳には聞こえた。
そしてそれに対し、ユキはぼそり、とこう言った。
「…くわ・へり」
ボンゴの音は、また別のパターンに変わっていた。