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1 渋谷・人混み・少女・クスリ・カフェ

2008年、八月―――


「よォ上手いじゃん、にーちゃん」


 斜め上から声がした。


「そりゃあどうも」


 ミドリはギターを弾く手を止め、帽子から溢れた灰金の髪のすき間からちら、と相手を見る。薄汚れたジーンズ。わざと破かれた膝小僧。ああでもセンスのカケラもねーよな。汚れ方が不自然すぎだ。

 男はポケットに手を突っ込み、黄ばんだ歯を見せながらにぃ、とミドリに笑い掛けた。体臭がきつい。香水も強い。そう言えば顔の彫りが深い。外国人かな、とミドリは思う。


「何か用?」

「安くするヨ、要らない?」


 そう言って男は、ジーンズのポケットに手を突っ込んだ。手のすき間から、パッケージにくるまれた白い錠剤がちら、と押し出される。その途端、ミドリの表情は一気に凶悪なものになった。


「…いらねーよ、んなモノ」


 低い声で返し、けっ、と舌を鳴らした彼は帽子を目深に下ろした。そして行っちまえ、と言いたげに、膝の上のギターを大きくかき鳴らす。


「ふーん。キミ、好きそうに見えたケドなァ」


 ま、いっか、と男はそのまま立ち去って行く。


 ―――東京・渋谷・午後十時。


 売り手はこの街には山の様に居る。買いたい奴に売るのが商売の基本。買いたい奴を見付けたら決して逃さず、買わない客はさっさと見切る。どうやら男はミドリを「絶対に買わない客」と見定めた様だった。

 ふん、と鼻を鳴らし、ミドリはギターを弾く手の動きを大きくする。適当なコードをかき鳴らす。この楽器は路上では一つの武器の様なものだ。アンプも電気も通さない、生の音。

 彼はその上に、へたれたイカサマ英語で時々言葉をかぶせる。何か考えている訳ではない。音や、周囲のリズムに合わせて口先が適当に言葉を紡いでいるだけだ。


 この街にはリズムが溢れている。


 駅前からセンター街、西武の通り抜け、路上の至るところに、彼の同類が居た。

 ギターや歌だけではない。音楽だけでもない。ボードやダンスのステップ、似顔絵描きの少女が客にかける声、通りを人間にはばまれて肩身の狭そうな車達、クラクション、駅から入る人、出る人、話し声、自動改札機の音、頭の上には電車の動く音、アナウンス―――

 全てがこの空間の音とリズムを形作っていた。

 ふと、左の耳を撫でていたリズムが途切れた。彼は顔を上げた。そこには黒い男が居た。黒いタンクトップに細身の黒のジーンズ。そして何と言っても、長い黒い髪。後ろで無造作にくくられ、背中の半分を覆い隠しているそれは、少し天然が入っているのか、うっとうしい程厚い。

 リズムはその男の股の間から生まれていた。ひょい、と男が抱え上げたものを見て、ミドリは気付く。ああ、ボンゴだったのか。

 そう、ミドリはずっと気になっていた。くるくるくるくると、忙しくも正しいビートが流れているなあ、と。

 あまりにも心地良くて、流される様にぼうっとしてしまう瞬間もあった。おかげで妙な奴に声をかけられてしまったのだが。


 と、目が合う。


「へーえ」


 黒い男が不意に声を掛けてきた。


「…な、何だよ」


 ミドリは顎を引く。と同時に、自分がこの男を凝視していたことに気付いた。

 黒い男はふっ、と目を細めると、ボンゴにむき出しの腕を乗せた。色は白いが、筋肉質だった。足が細いだけに、その腕の筋肉の逞しさはややアンバランスなものがあった。ザリガニだ、と思わずミドリは連想した。

 そしてその腕の先もやはり大きかった。手がポケットから煙草を取り出す。セブンスター。ずいぶん親父臭いもん吸ってるなあ、とミドリは思う。だってそうだ。歳の頃なんて、自分とそう変わらないだろう。二十歳は行ってるだろうが、二十五以上には見えない。

 ふう、と美味そうに煙を吐き出すと、男は目を細めた。


「いんや、見かけに寄らず結構マジメなんだねえ、と思いまして」

「マジメ?」

「今の、クスリ屋サンでしょ。結構ここんとこ、よく見るけどさ。何だっけ、新しい『S』って…」

「…Sだか何だか知んねーけど、俺はそーゆうクスリって奴がだいっ嫌いなんだよ」


 吐き出す様に、ミドリは言った。うんうん、と黒い男は大きくうなづいた。


「結構結構。あーんなもの、やるもんじゃあアリマセン」

「何アンタ、やったことある様な口振りじゃん」


 ミドリはすかさず言い返した。ふふん、と男は薄く笑った。


「ハッパやキノコくらいなら。ミュージッシャンの、たしなみってトコでしょ」


 たしなみ、と来たか。ミドリは再び舌打ちをし、は、と肩をすくめた。


「似たよーなもんさ。なああんた、今もソレ、やってんの?」


 目を眇め、非難する様な目に彼は相手を見据える。


「いんや、そんな、もう。厭きたし。今はもう、健康そのものの生活をしてマスよ」

「じゃあいいじゃん。俺はそうゆうモノ、ぜーんぶ、とにかく、何が何でも、嫌いなの」

「へえ」

「何、あんた何か文句あるワケ?」

「いんや、いいなあ、と思っただけデスがね」


 じゃあ放っておいてくれよ、と彼は思った。今現在、その手の話には触れられたく無いのだ。


「けど今更『スピード』、かよ…」

「ノンノン、だから新しい奴らしいデスよ」


 つぶやきに、黒い男は律儀にも指を振り振り、返してきた。


「だからスピードのS、じゃなくて、何か別の意味があるらしいデスよ」

「そんなの、知んねーよ。俺にはホント、関係無えっての!」


 ふふん、と男は再び薄く笑った。そう、関係無い。関係無いのだ。関係なんて、したくもないのだ。

 だがしてしまったものは、仕方ない。ミドリ当人ではないにせよ。

 三ヶ月程前、彼はそのせいで職を失った。組んでいたバンドのベーシストが薬物を使用していたことが発覚した結果、バンドは解散し、所属していた事務所ともそれっきりになってしまったのだ。

 事務所側にしてみれば、「馬鹿野郎何で見つかる様な真似するんだ」だった様である。「拾ってやった恩を忘れやがって」と事務所の社長は言った。

 さすがにミドリもそれには一言返したかったが、あまりにも事実なので、反論のしようも無かった。

 音楽業界と薬物は、それこそ戦争中から何処かしらいつもつながっている様である。ただそれに関わるか関わらないか、関わったとしても、見つかるか見つからないか、見つかったとしても、それをもみ消せるか、もみ消せないか―――

 …要するに、力関係の差なのだ。

 所詮、メジャーデビューして二年目の、まだこれからじわじわと売り出して行こう、という数多あるバンドなんて言うのは、権力の「け」の字も無い存在だった。

 だからミドリも仕方ない、とは思う。ただ決して割り切った感情ではない。もう「仕方ねーなあ」「ああもう仕方ねーなあ」と何度も何度も何度も何度も、意味無く嘆息するしかないだけのことだ。


 そして職を無くして三ヶ月。


 貯金も無い。契約仕事であるバンドマンには失業保険も出ない。実家は都内にあるが折り合いが悪い。「馬鹿なことやってるんじゃない」と音楽生活を反対されて飛び出したきりの場所に帰るつもりなぞ、さらっさら、無かった。


 さてどうしよう。


 そんな訳で、仕方なし、現在はこの街で店を構える母方の叔父のところに居候している状態だった。

 先のことなど、何も判らなくなっていた。音楽をやって行きたいことは確かだ。自分には他に何も無い。だがその糸口が今は見えない状態だった。何か活動を始めるにしても、何処から手をつけていいのか、今の彼にはさっぱり判らなくなっていたのだ。

 だけど音そのものからは、離れられなかった。その気持ちが、彼を夜の駅前に呼び寄せていたのかもしれない。

 彼を知っていた「ファン」が声を掛けてくることもある。だが今の彼にはそれすら疎ましく感じるだけだった。

 ほとんどは自分より若い少女達は、何処まで事情を知っているのか、戸惑った表情で、それでも結局は近づいてきて、「がんばって下さい」と言ってくる。

 判ってる。彼女達は彼女達で、とっても自分のことを心配してくれているのだ。でもただ今は放っておいて欲しい。ミドリはこの時、ひたすらそう思っていたのだ。

 だから今も、この蒸し暑い日本の夏、風の無い都会の夜だというのに、彼は帽子を目深にかぶっていた。良く似合っている、と言われたプラチナブロンドにも、鈍色を振りかけた。特徴がある、破壊力がある、と影響力のある音楽評論誌に小さく取り上げられたその声を張り上げることも、ここではまず無い。ただ音を、言葉を探し、ぽろぽろとギターをかき鳴らすばかりだった。


「…なああんた、最近良く見るけどさ、それ、マジでやってるひと?」


 ギターにもたれ、ミドリは男の股の間のボンゴを指す。


「あぁ、何だ、見ててくれたんだぁ」

「…るせぇな、んなこと、どーでもいいだろ、答えろよ」


 はいはい、と黒い男はボンゴのヘッドを叩いた。何処をどう叩いたのか、カン、と透き通った音がミドリの耳に飛び込む。


「んー、っうか、だから、…そぉだなあ、こういうの、全般?」

「パーカッション?」

「まあ、…そぉだな、打楽器、全般」


 どう違うんだよ、とミドリは口をとがらせた。


「キミこそ、いい声してるじゃあナイの、ちゃんと歌えばイイのに」

「…今はそんな気分じゃねーの」


 ぽろん、と再び彼はギターをかき鳴らした。ふうん、と男はうなづいた。その拍子にぼとん、と煙草の灰が落ちる。


「名前、何て言うんデスかね」

「何だよ」

「いや、聞いてみたいなあ、と思ってさ。あ、別に本名じゃあなくてもイイから」

「…」

「あ、別にナンパじゃナイから」

「…何バカなこと言ってんだよ」


 ミドリは露骨に眉を寄せる。


「人に名前聞くんだったら、まず自分から言えよ」


 おぉそうだ、と男はぽん、と今度は手を叩いた。


「そぉだねえ…あー…、トス。トスって呼んで」

「トス?」


 バレーボールかよ? とミドリは何となく思った。


「はい、俺は言った。言いました。今度はキミがどーぞ」


 「トス」は両手を広げる。仕方ねーな、と彼は口を開く。


「…ミドリ」

「green?」


 即座にトスはそう返して来た。綺麗な発音だった。


「…違うよ」

「?」


 相手は首を傾げた。背中に掛かった髪が、ざらりと重力に従って落ちる。


「別にいいだろ。呼びたいなら、カタカナ風味で呼びゃいい」

「カタカナ、ねえ。ふうん。あー、それでもいい響きじゃあナイですか。うんうん、ミドリミドリミドリ」

「…何、連発してるんだよ」


 そしてトスは彼の名前を口にしながら、その響きに合わせて、再びボンゴを叩き出した。ミドリミドリミドリミドリ…続けざまに言われると、何やらそれは自分の名前の様な気がしなくなってくる。


「♪ミはミドリのミ~」


 いつの間にか、「ドレミの歌」に変わってしまっている。はあ、と呼ばれている当人は、ギターに肘をついて顎を乗せた。

 ざわざわざわ。駅の出口の方へ目をやると、また人々の出入りが激しくなっていた。いつもより人が多い。週末なのだ。金曜日の夜なのだ。一週間で一番、この夜が混み合うのだ。駅から出て来る者だけではない。駅に向かう者も多かった。

 そう言えば、と彼は思い出す。

 神南の坂の上、大きなライヴハウス。できるなら、バンドがあるうちに、一度出てみたかった場所。

 あそこの客もねぐらへ帰る時間だよな。ミドリは思う。

 まだキッズの頃に、憧れのバンドのライヴに何度か通った。音響が良くて、照明が綺麗で、客との距離も近すぎず遠すぎず、都内の大型ライヴハウスの中では好きな方だった。

 いつかここで声を張り上げられたら、ステージの上を思いっきり駆け回れたら。

 だけどそこに行き着く前に、クレバスに落ちた様な―――そんな気分だった。

 今日は誰だったのだろう。そうつらつら思いながら、スクランブルを渡って来る、それらしい少女達の声に何となし、耳を傾ける。


 と。


「あ」


 トスが声を立てる。そしてちょいちょい、とボンゴを叩く手を止めて、ミドリの肩をつついた。


「あれあれ、さっきのクスリ屋じゃなーい?」


 どれ、とミドリはトスの指さす方向を見る。確かに先刻、彼に声を掛けた男だった。今度のターゲットは少女らしい。ちっ、と彼は舌打ちをし、目を細めた。


「ガキじゃねーかよ…」

「どぉしましょ?」

「…知らねえよ、俺は」

「あれ、いいの? イタイケな少女が」

「イタイケな、ちゃんとした少女だったら、きっぱりお断りするぜ」

「そうでしょうかねェ」


 上目づかいに、トスは「クスリ屋」と少女から視線を外さない。何だよ、と思いつつも、ミドリはそれに引きずられる様にして、様子をうかがう。

 小柄な少女だ。斜め後ろからなので顔は見えない。黒い長い髪。何となく、いつの間にかすぐ隣りに寄っている奴にも似た、やけに厚い…ただその少女は、その鬱陶しいまでの髪を結びも止めもせず、だらりと垂らしたままだった。

 しかもこのじっとりとした人いきれの中、着ているのは、丈が短いとはいえ、Gジャンだ。下がショートパンツで無かったら…見ている方が暑くなる程に。

 少女は声を掛けられ、何やら一言二言話す。


「ん? 聞いているのは、なーんか、あの子の方デスかね」


 トスは眉をつり上げた。だろうか。ミドリは身を乗り出す。

 少女は自分より頭一つ、身体半分大きな男に対し、何かを問いかけ、用が無いと見ると、ふい、と髪を揺らせて立ち去ろうとしていた。

 すると不意に、クスリ屋は少女の手を掴んだ。あ、とミドリは腰を浮かせる。何か態度が気に障ったのだろうか、男は少女の腕をねじ上げようとした。だが少女は動じない。

 周囲の音が少しだけ静まった。くっ、と少女はその細い顎を上げった。


「…え?」


 その時何が起こったのか、ミドリはすぐには判断できなかった。

 確かねじあげたのは、クスリ屋の方じゃなかったっけ? なのにどうして、その手が曲がっているんだ? しかも、明後日の方向へ。

 その答えは、叫び声が教えてくれた。


「何しやがる、このガキ!」

「…カフェ・ド・エトランジュを知らないならそれだけでいい」


 何だって?


 思わずミドリはギターを掴むと、立ち上がり、走り出していた。

 トスはミドリの背中と、残されたギターケースを代わる代わる見比べる。


「おーいミドリちゃん、これ、どーすんの!」


 答えは無い。目を細め、トスは首筋の髪をかき上げると、ぽりぽりとかきむしる。


「カフェ・ド・エトランジュ、…か…」


 そして彼は座り直し、再びボンゴを叩き始めた。

 だがそれは、それまでとは違い、同じリズムをただ延々と繰り返すばかりだった


「やあやあやあやあ、待った?」


 肩を叩かれ、少女はくっきりとした太い眉を上げた。


「ほら駄目じゃない、約束してただろ、俺と」

「…」

「カフェ・ド・エトランジュ。ほらほらこないだも言ったじゃない~ここはシブヤなんだから、夜は怖いから気を付けてって。ねえそうでしょ」

「おめ…」


 目の前で急に勢い良くまくし立てる男が、先程カモにしようとした奴であることに、クスリ屋はその時ようやく気付いた様だった。


「ね、だから、…」


 ミドリは少女の手をそっと男から離させた。そして見計らう。スクランブルは今は青。だけど…


「行くよっ!」


 ミドリは走り出した。

 おい待て、と顔をしかめ、手をだらりと垂らしながら、男はそれでも二人を追いかけようとする。

 だがちかちかと信号は点滅を始めていた。


「くそっ!」


 二人は既に交差点の真ん中を越えていた。途中、手にしたギターが人に何度かぶつかった。

 西武のA館B館の前を通り抜け、そのまま公園通りへ。その時ようやく、ミドリはゆっくりと走るスピードを緩めた。さすがに慢性運動不足の身にはこの唐突な全力疾走は辛いものがあった。


「…と、突然走らせちゃって、ごめん…」


 それでも息を切らしながら、彼は少女に話しかけた。


「いや」


 少女は首を横に振る。


「大丈夫だ」

「…だ、いじょうぶって」


 ちょっと待て。


 だらだらと流れ落ちる汗をめくり上げたシャツの裾でぬぐいながら、その時ミドリはようやく、少女が呼吸をまるで乱していないことに気付いた。


「ちょ… ちょっと、待って…」


 そしてその時、疲れがどっと、彼の足を地面にへばりつけた。


「どうした」

「ちょ… ちょっと、呼吸困難… ええと… うん… エトランジュには、連れてってあげるから… ちょっと、休ませて…」

「それは構わないが」


 あくまで少女の声は涼しかった。まだミドリの心臓はばくばくと音を立てているというのに。汗が頭から額からだらだらと流れ落ちているというのに。この蒸し暑い、東京の夏の夜に。


「大丈夫か?」

「…うん、…やっぱ、運動不足だわ。ずっとライヴもしてないしなー…」


 半ば独り言だった。言いながら、ミドリは顔を上げる。


「ここから、遠いのか? エトランジュには」

「…遠くは無いよ。うん、この坂、上ってすぐ」


 ようやく呼吸も整って来た。行こう、とミドリは少女をうながす。

 だがそれと同時に、ずいぶんと無防備な子だな、と今更の様に彼は思う。

 だって夜だ。渋谷だ。確かにクスリ屋から助けた(?)とは言え、大の男にいきなり手を引っ張られて走らされたことに疑問は持たないのだろうか。

 …もっとも、そういう行動を取ってしまった自分のことを彼は全く棚に上げていたのだが。彼は自分の突発的な行動については、理由など後付けだ、と思っているふしがあった。

 パルコの前で横断歩道を渡り、そのまま「たばこと塩の博物館」の前を通り過ぎる。この時間空いているのは飲食店ばかりだ。


「ここ」

「…ここ?」


 立ち止まったビルの前で、彼女は目をくっと見開いた。

 密集した建物の中で、新しくも古すぎもしない、無表情で飾り気の無い、こじんまりとしたビルがそこにはあった。


「ほら、そこ。二階」


 ミドリは斜め上を指さす。


「…あの、窓に旗が貼ってあるところか?」

「そう。…ってキミ、良く見えるね」

「見えないのか?」

「いや俺は目ェ悪いし、それに夜だし」


 ふうん、と彼女はGジャンのポケットに手を突っ込んでうなづいた。長い髪がざらりと揺れる。


「さて」


 ビルの中へと彼らは足を踏み入れる。ついでに、と「2F」の表示のある郵便受けから、ミドリは夕刊を出した。その間、少女は辺りを不思議そうに見回していた。


「どうしたの」

「階段が無い」

「…ああ、このビル、客はエレベーターからしか入れないの」

「それじゃあ困らないか?」

「フツーの客は階段なんてそう使わないし、イイんじゃない?」

「いやそうではなく…」


 まだ何か言いたそうだったが、エレベーターの扉も開いたので、少女は行こうぜ、と手を振るミドリの後に付いて行く。見上げる視線の先には1から7までの表示があった。


「このビル、これでも七階のうちの三つのフロアまでがカフェやってんだぜ、信じられる?」


 少女はそれには答えず、数字の2が光った時、「着いた」と小さく言ったきりだった。ミドリは肩をすくめ、口をとがらせた。


「あ、ミドリ君おかえんなさい」


 アルトの声が扉を開けた二人を出迎えた。おかえり? と少女は怪訝そうな表情でミドリを見上げた。

 声はカウンターの丸椅子に座った女性から発せられていた。ミドリは辺りを見渡しながら、迷わずそこまで進む。


「お客さん今日、少ないね。週末なのに」


 十くらいのテーブルが無造作に置かれた店。客は窓際に一組、入り口のすぐ横、観葉植物の向こう側と、計三組しか居ない。それも常連だ。毎日とは言わないが、週に何度かやってきて、コーヒーと何かしらのケーキだけで、半日はねばる客だった。


「いつもこんなもんじゃない」

「だけど週末だし」

「週末だろうがなかろうが、ウチはそうでしょ」


 あはは、と彼女は腰に手を当てて笑った。


「…だってよ真由さん、この間ココ、『2/3』に取材されたんだろ?」


 ミドリは都内では有名な情報誌の名を口にする。「趣味の良い」「先端を行っている」「行く可能性がある」ものをジャンル問わず取材する雑誌だ。


「あはは、駄目駄目駄目」

「駄目、って真由さん」


 彼女は大きく手を振る。


「当のアイツにその気が無いからねー」

「…って叔父さん、ちゃんと商売やる気あるのかよ」

「いいじゃない別に。借金があるでなし、一応ワタシ達、食べられてはいるんだし」

「…それはそうだけどさ」

「だいたいキミが、そういうこと言う資格あるの?」


 つん、と彼女は節くれ立った人差し指で、ミドリの額をつついた。う、と彼はうめく。…確かに言えた義理じゃ、無い。


「…というワケで居候君、隣りの可愛い女の子はだあれ?」


 とん、と真由はそう言うと、丸椅子から降りた。背の高い彼女は、少女の視線に合わせて少し身をかがめた。少女の黒目がちの瞳が、驚いた様に見開かれる。


「誰…って、なあ…」

「…カフェ・ド・エトランジュのマスターは、あなたか?」


 少女はぼそりと問いかけた。


「いーえ、ワタシは共同経営者だけど、マスターじゃあないわよ」

「マスターに、会いたいんだ」

「…んー」


 どうしましょうねえ、と真由は腕を組み、視線を天井に向けた。


「ちょっと今アイツ、取り込んでいるのよねえ。あと一時間くらいは…」

「って真由さん、まさか」


 ミドリは口を歪めた。あはは、と彼女は色の無い唇を大きく開いて、乾いた笑いを放った。ミドリははあ、とため息をつく。


「えーと、マスターじゃなくちゃあいけない用事?」

「…『カフェ・ド・エトランジュのマスター』に会いに来たんだ」


 真由は再び、困った様に笑った。


「と言われても、ねえ…」


 どうしましょうねえ、と彼女は蜂蜜色のウルトラショートの髪をさわさわとかき回す。それは彼女の本当に困った時のクセだった。

 しかし一方の少女の目、ひどく真剣なものだった。


「…ねえ真由さん、この子、待たしてやってもいいかなあ? ごはん食べて、でもいいだろうし…あ、お腹減ってる?」

「…減ってるという程ではないが…ここでは、食事が取れるのか?」

「まーね」


 真由はぱち、と片目をつぶった。


「ワタシもそろそろ夜ごはんにしようと思っていたの。そうね、ミドリ君もどぉ? ナシゴレンもどき、だけど」


 無論、彼に異論は無かった。



 ナシゴレン「もどき」の焼き飯を食べ終え、暖かいジャスミン茶で三人が一息ついていた時だった。


「それじゃあ、またね」


 柔らかな声が三人の耳に届いた。


「ああ、また…」


 そしてその声に背を押される様に、奥から一人の青年が出て来る。

 カウンターの中で足を組んで座っていた真由は、ひらひら、とにこやかな笑顔を浮かべながら手を振る。あ、どうも、と青年の頬は薄暗い照明の中でも判る程に赤くなった。


「…何か足取りがふらついている」


 少女はつぶやいた。


「…まあ… 疲れたんだろうね」


 ミドリとしてはそう言うしかなかった。


「でしょうね。お茶のお代わりは?」


 さらり、と真由は流した。


「あ、真由さん、僕には下さいね」


 ミドリはその声に顔を向けた。奥から出てくる、目的の人物。


「おい、叔父さん」

「おやいつの間に、ミドリくん」

「…いつも何も、…あんたがさっきの奴と」


 おっと、と彼は口を塞いだ。あまりそれは口にしたいことではない。真由も黙って肩をすくめる。そしてちらり、とカウンターに座るもう一人を示した。


「おや、これは可愛い。あなたのお客ですか? 奥さん」

「いーえ、あなたのお客、旦那サマ。心当たりはあるの?」


 ミドリの叔父――― カフェ・ド・エトランジュのマスターは首を横に振った。


「でしょうねえ。アナタが若い女の子と関わりがあるとは思えないもの」

「でもこの子は、エトランジュのマスターを、訪ねて来たんだよ」


 ミドリは声を張り上げた。

 待っている間に、残っていた客も窓際の一組に減っていた。内輪話を繰り広げたとしても、彼らなら構わないだろう、とミドリは思った。

 最後の一組は、いつもいつも、延々決まった席に座って、閉店まで何かを書き続けている男と、それに付き合っているのか、数冊の本を積み上げて、延々読書に耽っている女だけだった。


「んー、でも心当たり、無いんですよねえ」


 マスターは眼鏡の下の目を細め、苦笑する。

 実際ミドリも妙だと思った。何せこの叔父は、女嫌いで――― 正確に言えば、ゲイだった。女より、男に性的欲望を感じる人種であった。

 ミドリは行く所が無くなり、叔父の所に転がり込んだ時、まずその点を認識させられた。


 僕はそういう人間だから、時々そういうことがあるけど、いや別に、キミに手を出すとか、そういうことではないよ、キミとは叔父と甥だし、そもそもキミは僕の趣味ではないし。


 複雑な気持ちにはなった。だが嗜好は個人の自由だ。

 しかし次の瞬間、はたと疑問がミドリに襲いかかった。


 だって叔父さん、結婚してるじゃない。真由さんは、それじゃあ何なの?


 自分にあっさり言うくらいだから、彼女には既に話しているのではないか、それとも。

 叔父がゲイであった、という事実より、その方がミドリを混乱させた。

 ミドリは真由の化粧気も飾り気も無い、一種ワイルドとも言える容姿や言動を気に入っていた。いいひとを選んだもんだなあ、と正直、感心したものだった。放浪癖があるあの叔父が、と。

 すると叔父はこう答えた。


 ああ、彼女もゲイだから。えーと、レズビアンって言った方が分かり易い?


 は? とミドリは目が点になった。そして叔父は動揺する甥を更に次の言葉で谷底に突き落とした。


 偽装結婚、って知ってる?


 …それから時間が経った現在では、二人がお互いのその時々の愛人をそれぞれの部屋に連れ込もうと我関せずのミドリである。

 だが当初は、「本当にこれでいいのか? いいんだろうか? それとも今までの俺が間違っていたのか?」と自らのアイデンティティを問わずにはいられない程の衝撃を受けたものであった。

 そもそもバンドのヴォーカリストとして、曲に歌詞をつける存在として、下手に自分の心をのぞき込む習慣ができている彼である。カルチュアショックには実は弱かった。

 ある朝、二人が、それぞれの愛人と四人で和気あいあいと朝食を取っているのを見て、彼はがっくりと肩を落としたものである。

 …そんな叔父が、少女と関係がある訳が無い、とは――― ミドリも思う。思うのだが―――


「何か、クスリ屋に絡まれてて…」

「いつもだったら放っておくキミが珍しいじゃないの」


 くすくす、とマスターは笑った。眼鏡の奥の瞳が優しく細められた。


「だからその時、わざわざクスリ屋にここが何処にあるのか聞いてたんだよっ! …そうじゃなけりゃ」

「別にクスリ屋だって、この店くらい知ってるんじゃない?」


 そう言って、真由はカウンタから出ると、少女の隣に座った。


「それにしても、すごい、綺麗な髪ねえ」


 少女の肩からすべり落ちる髪に、真由は手を伸ばす。少女は微かに肩を動かす。あら、と真由は口の端を上げた。触れられるのは嫌いらしい。


「ともかく、僕はキミには覚えが無いんだけど…誰かから、頼まれた、ってことかい?」


 にっこりとマスターはカウンターごしに少女に笑いかける。ああ作っているなあ、とミドリは頬杖とため息をつく。少女が「可愛い」ければ可愛いほど、この男は営業用スマイルしかできないことをミドリは良く知っていた。


「…マスターに貸しがあるから、って」

「貸し?」


 はて、と彼は首を傾げ、妻の方に顔を向ける。


「真由さん…」

「アナタが知らないもの、ワタシが知る訳ないでしょ? おおかた、アナタが昔お世話になった誰かさんの一人じゃあない?」

「そんな、多すぎて判らないよ」

「アナタねえ」


 真由ははあ、とため息をついた。ミドリにとっては何が何だか判らない会話だが、この夫婦の間では、それだけで通じるらしい。


「それと」


 少女はポケットから何かを取り出して、とん、とカウンターに乗せた。


「これを渡して、って、『彼』に言われた」


 マスターはいいかい? と少女に目で問うと、それをつまみ上げた。その辺の路店で売っているプレートの様にミドリには見えた。だがそこにあるはずのチェーンが無い。

 いや違う。チェーンは、ちぎれているのだ。

 マスターの手からこぼれたそれは、切れたものを無造作に結んであるだけだった。しかし鎖はもともと「結ぶ」ものではない。

 ミドリは叔父の表情をうかがう。だが表面上、変化は無かった。そう、と一言言うと、それをシャツの胸ポケットに入れただけだった。


「どうもありがとう。キミの事情はよぉく判った」

「なら、良かった」


 ふうん、と真由はそんな二人のやりとりを見て納得した様にうなづいた。


「キミ、名前は?」

「ユキ」


 あら可愛い、と真由はふふ、と笑みを浮かべる。


「子ヤギみたいじゃない」

「歳がばれるよ、奥さん」

「あら、人のこと、言えた義理じゃあないでしょ」


 確かに何のことか、この二人と年齢が一回り違うミドリにはよく判らなかった。


「お茶を入れ直そうね。詳しい話はそれからだ」

「さっきはジャスミン茶を入れたわ」

「判ってるよ。まだ香りが残ってるし」

「…濃いコーヒーと、…それとただの水が、欲しい」


 ユキはぼそっと言った。


「お冷や?」

「水で飲め、と言われた」


 彼女は再びポケットに手を突っ込むと、手のひらに乗る位の金属のケースを取り出し、ぱこ、という音をさせて開いた。

 中は八つに仕切られ、その一つ一つにフタがついている。彼女はその一つのフタを開き、中から数種類の錠剤を取り出した。


「…あらユキちゃん、何処か悪いの?」

「いや、今は悪くない」


 ユキは短く答える。


「だけど、呑まないと、悪くなると言われた」

「へえ… いち、にい…七種類もあるじゃない」


 マスターは一つ一つを指でたどりながら数えた。


「毎日、呑まないといけない、と言われたんだ」

「それは大変だ。はい、お冷や」


 とん、とマスターは彼女の前に水を置いた。


「コーヒーは今入れるから、ちょっと待ってね。ミドリ君も真由さんも、それでいいでしょう?」

「それはいいけど」

「ああミドリ君、キミのためにちゃあんと、いつも甘いカフェオレにする準備はできているからね」


 何もそこでいちいち確認する様に言うことないじゃないか、とミドリは思う。やがてふんわりとコーヒーの香りが漂い出す。窓際から、すいませーん、と声が飛んだ。はあい何ですか、と真由はさっと立って常連の二人の方へと寄って行った。


「…オーダー追加。ラテとオレ、一つづつね」

「OK。…キミは、ミルクと砂糖は?」


 マスターはかちゃかちゃとカップを用意しながら、ユキに問いかけた。


「たくさん」

「じゃあ、オレでいいね。砂糖は好きに入れればいいよ」


 追加オーダーを運ぶと、真由は再び丸椅子に腰を下ろした。ユキはマグカップに注がれたカフェオレに、更に牛乳を足す。そんなに入れたら冷めるのではないか、というくらい、彼女はパックから直接注いでいた。そしてまた、砂糖も。だがそれだけ入れたのに、マグカップは溢れかえるということもなかった。


「…で、ユキちゃん」


 自身はブラックのアメリカンを口にしながら、マスターは低い声で問いかけた。ミドリは驚く。本気で驚く。今まで彼がこんな口調で少女に話しかけたことは無いのだ。まさかこの子に限って宗旨替えしたのだろうか。疑問がふっと湧く。


「貸しは確かに返さなくちゃね。…本村の代わりに、キミには、僕は何をすればいいのかな?」


 ユキは顔を上げて、マスターと視線を合わせた。


「人を――― 捜して欲しいんだ」

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