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甘い誘惑

『もう、離したくない…』


 文庫本から目を離すと、樹里 (じゅり)は大きくため息をついた。壁の時計に目をやると、まだ午後9時を回ったところ。少し考えてからクローゼットに手を伸ばした。タイトな黒のワンピースにハイヒールを履いて、文字通り "背伸びをした" スタイル。樹里が "背伸び" をするのには訳があった。なぜなら、背が低く、華奢な体型が災いしてティーンと間違われかねないからだ。現に、ここのアパートの大家さんには「Baby Doll」と鼻であしらわれたものだ。そして、下の階に住んでいるスティーブに教えてもらった路地裏のbarへ行ってみることにした。


 カウンターまで歩み寄り注文をする。グラスにビールが注がれると、目の前に置かれた。樹里はクラッチバックから100$札を取り出した。すると、バーテンダーが眉をしかめて、何か言ってる。焦っていると、後から来た男が10$札を置いてビールを持って行ってしまった。

「それ、私の!」

 支払おうとしてた紙幣を握り締め、慌ててその人の後を追う。すると、振り返りビールを手渡してくれた。そして、

「おつりがないから、こまかいお札ある?って聞いてたんだよ」

と、彼はニコッと笑った。そして「おごるよ」と、自分の飲んでたグラスを軽く持ち上げた。樹里は彼のペースに合わせて乾杯する。


「俺はライアン。ライアン・マーティン」

「私は…、樹里。秋元樹里 (あきもとじゅり)です。日本から来てるの」

「へぇ、ジュリ…か。ロサンゼルスには、観光? それとも仕事で?」

「観光…かな」

 樹里は視線を落とすと、表情を曇らせた。

「…日本で小説を書いてたんだけど、まったく書けなくなって。それで、気晴らしに」

 そしてお手上げのポーズをとっておどけてみせた。


 樹里は大学時代に応募したミステリー小説が大賞に輝くと、一躍有名人の仲間入りを果たした。次々にヒット作を連発するも、それは過去の栄光。大学を卒業して5年。26歳となった今、1年以上も新作を発表していない。


「そうなんだ。俺も小説を書いているよ」

「えっ?」

 ライアンのチープな返答に、樹里は眉をしかめた。するとライアンは、

「まだ、完成させていないけどね。今は大学で文学を教えてるんだ」

 と言った。樹里は彼を馬鹿にした自分が、急に恥ずかしくなった。


「それで、こっちでは楽しくやってる?」

 彼の優しい微笑みに、樹里もホッとして気を許す。

「日本にいたときは、いつも他人の視線ばかり気にしてて。でも、ここでは私のこと、誰も知らないし。…街でも声は耳に入らない」

 そして、少しうつむいて、「まぁ、英語は苦手だから」と樹里が言うと、ライアンはクスッと笑った。


 おしゃべりに夢中になっていると、すっかり時間を忘れてしまい、気がつくと0時近くになっている。

「いけない! 帰らないと、スティーブが心配するわ」

「…彼氏?」

 樹里の動揺する姿を見て、ライアンも慌てている。

「ううん、アパートの友人なの。このお店を教えてもらって、『遅くならないように…』って言われてたんだった」

「送ろうか?」

「大丈夫。アパートはすぐそこだから。それじゃ、どうもありがとう」

「また、会えるかな?」

 ライアンの言葉に、

「えぇ。もう少し滞在する予定だから。きっと」

 そう言い残し、樹里はbarを後にした―。

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