春の真実
連日の雨がやみ、久々に青空が顔を出す春の日曜。春の草花は再び元気を取り戻していた。マンションの敷地に隣接するこの公園では、幼い子供が友達や家族と遊ぶ姿が目につく。爽やかな日差しに、無邪気な笑顔。そんな包むような温かさが、今日のわたしには悲しかった。
わたしは公園の端っこに置かれたベンチに視線を向けた。そこには、公園ではなくマンションの方を向きながら座るおじいさんが一人。わたしも同じようにおじいさんの横に腰掛ける。
「暖かくなってきましたね。」
「ああ。春は晴れている方がいい。」
そう答えるおじいさんの視線はマンションの一郭に向けられたまま。わたしはかまわずにまた話しかける。
「今日でお母さんが亡くなって一年になります。おじいさんに会ったのも、そのくらいだから、もうすぐ一年ですね。」
「そうだったかな。」
今日のおじいさんは一段と静かだった。
一年前の今日、わたしのお母さんは交通事故で亡くなった。その日わたしは、高校二年の春休みの真っ只中だった。受験だとか進路だとか、真面目に考えないといけない時期で、悩むことも多かった。そんなときに力になってくれたのは、いつもお母さんだった。それなのに、急にいなくなってしまった。
お母さんのお葬式のことははっきりと覚えてはいない。だけど、今日のような春の暖かい日で、例年より早い桜が咲いていたことは覚えている。大好きな花なのに、こんな日に咲くなんて、なんて残酷なのだろうと思った。周りは、新しい生活が始まろうとしているのに、わたしだけ取り残された。独り世界から放り出されたようだった。その日から、わたしは下を向くようになった。周りの春特有の明るい雰囲気を直視できないでいた。
そんなある日、わたしは学校に向かう途中、人にぶつかってしまった。その人が今、隣に座っているおじいさん。「前も見ないと危ない。気をつけなさい」と一言注意をされた。それなのにわたしは、返事も返さず素通りした。
その日の帰り、公園の前を通ると、今と同じように、おじいさんはマンションを見上げて座っていた。朝のこともあったが、何よりその視線の先が気になった。ちょうどわたしとお父さんが住む部屋のあたりをその双眸は捉えていた。
「あの、今朝はすみませんでした。」
おそるおそる、わたしは声をかける。それにおじいさんは笑顔を返すだけだった。
「マンションがどうかしたんですか?」
「懐かしくてね。あのマンションが出来る前、あそこには私の家があったんだよ。引っ越す直前まで娘がぐずっていたのを思い出すよ。」
おじいさんの瞳は視線の先よりも、もっと遠くを映しているようだった。
「戻ってあそこに住むのはダメなんですか?」
「もう、出来ないんだよ。」
おじいさんの言葉は妙に重たかった。それ以上、聞いてはいけない気がした。
それからしばしば、おじいさんはその場所に現れるようになった。顔を見る度、わたしはおじいさんに話しかけていた。
「私が生きている自分の娘にあったのは、もう一八年前になる。最後に見たのは、一年前、娘の葬式だった。」
おじいさんは急に真面目な声色で話し出した。普段からあまり多くを語らないおじいさんが自分の家族について話すのは、初めて会ったあの日以来だと思う。そのせいなのか、話の内容のせいなのか、わたしはおじいさんの話を真剣に聞きたいと思った。
「一八年前、私は自分の娘に向かって勘当という言葉を口にしてしまった。」
「カンドウ?」
わたしには理解できない言葉だった。
「そう、勘当。親子の縁を切る、と言ったらわかってもらえるかな。」
わたしは反応に困った。そう言うものはドラマの中の話しだと思っていたし、仮にそんなことが起こっても、すぐに元に戻るものだと思っていた。それに、何故おじいさんがわたしにそんな話をするのか、わからなかった。
「あの日、確か私の娘が大学生になったばかりの春だった。娘は彼氏を連れて家に帰ってきた。それはかまわなかった。相手の男は社会に出たばかりの人間だったが、なかなかしっかりしていて、私も気に入っていたんだよ。もしも縁が長く続くなら、娘が大学を卒業してから結婚なんかもいいだろうと思っていた。だがその時、娘はもう一人会わせたい人がいると言った。私は耳を疑ったよ。お腹にいる赤ん坊だ、と言われたのだから。」
おじいさんの声はどんどん悲しさを含むように思えた。無理に話しているような雰囲気ではなかったけれど、聞いているわたしは、何故か苦しかった。
「妙な気分だったよ。怒りなのか、羞恥なのか、何とも言い難い感情だった気がするよ。私は酷く取り乱していた。結局、娘を怒鳴りつけることしかできなかったんだから。そして娘は出ていった。」
「娘さんを捜さなかったんですか?放っておいたんですか?」
気付けば私の口調は強くなっていた。まるでおじいさんを責めるように。
「捜さなかった。」
「なんで?」
おじいさんはまた、空を仰ぐように遠くを見つめる。細めた目には、間違いなくあの日が映っていた。
「捜せなかった。捜す勇気も、権利もなかった。あれで良かった、と思う日もあったさ。だけど、時間が経つにつれて後悔に変わるんだよ。苦しかった。まだ一八の娘に子供ができて、それ自体は歓迎できることではないと思ったが、孫の顔が見てみたいと思ったのも事実なんだよ。それ以上娘を責めるつもりもなかった。許してやりたかったんだ。だけど、今みたいに携帯電話なんかも無い時代だ。連絡のつけようもない。もう、私は、親という資格さえなくしたのだと痛感したよ。」
妙に悲しくなった。おじいさんの物静かな雰囲気は、老人特有の落ち着きだと思っていたわたしは、強い衝撃を受けた気分だった。言葉も見つからず、おじいさんから視線を外し下を向いた。
「今日で一年だ。わたしの娘が亡くなったのも。」
「え?」
不意におじいさんに向き直る。そして、一つのストーリーが突如湧き上がる。
「おじいさんは、ここで何を見ているんですか?」
「あのマンションさ。」
「なぜですか?」
おじいさんは、自嘲気味の笑みを浮かべる。
「謝りたいんだ。娘に。ここは私と娘の家があった。娘の大好きな家がね。それに、生きていた頃、新しい家族とここに住んでいたことを、葬式で知ったんだよ。馬鹿げているかもしれないが、ここに娘が戻ってくるような気がするんだ。私の声も届く気がするんだよ。」
何で気付かなかったんだろう。あの日、このマンションではお母さんのお葬式しかなかった。それに、おじいさんがいつも、わたし達の部屋の方を見つめていたことも知っていたのに。
記憶の断片を探るうちに、一つの光景が蘇る。確か、わたしが小学校の低学年だったとき、お母さんの夢を聞いたんだ。お母さんは、「一人前の素敵なお母さんになったら、おじいちゃん達と、このお家で暮らすことよ。」と言った。その時の表情が、なんだか悲しそうだったのを不思議に思った覚えがある。でも、今ならわかる。それが真実なのだと。
「きっと、届きますよ。悲しい別れになってしまったけど、離れていても、心は親子なんだと思います。」
おじいさんは、びっくりしたようにわたしの顔をじっと見つめた。かと思うと、また空を仰ぐ。閉じた瞼の間から、一筋の涙が地に跡をつける。それと同時に、微かに唇が動いた。声にならない言葉は、公園に響く笑い声の中に消えていった。
初めまして、もしくはお久しぶりです。あららぎ慎駒です。いかがでしたでしょうか?お話自体は完全なフィクションですが、それぞれの思いは、私の経験をベースにしてみました。話の中にリアリティを持たせたかったのですが、どうでしたでしょうか?自分では頑張ったつもりなのですが。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。