だってここがスイート・ホームだから
俺の名前は、桜木二楼。20歳。
家族は総勢8名と多め。親父とお袋と子供達6人という構成。ただいま6人兄弟の3番目。
”ただいま”というのは”今までいろいろ変わって”3番目に落ち着いたということだ。まぁ、その理由は後ほど。
いまのところ大学生。一応、医大生。
医者を目指して毎日勉強に励む日々・・・とはとても言えないやる気のなさ。こんなのが医者になるのは世間に失礼なのでそのうち辞める可能性大。
そんな俺と俺の家族の物語。しばらくお付き合いよろしく。
ある日の夕食時。家族全員が鍋を囲んでいる。
今日はすき焼き。親父の好物だ。
でも俺は、鍋の数を増やさないならもっと大きい鍋にしてほしいといつも思う。8人全員が同時にたらふく食べられない。親父が、ひとつの鍋を皆でちょっとずつつつくのが好きらしい。なんて面倒なことを・・・。
「あ、そうだ。 一霧、明日のレポートやった?」
俺は向かい側でもくもくと食べている兄貴の一霧に尋ねる。
すると一霧は俺を一瞥して、また視線を鍋の方に移す。
「いいかげん、自分でやったらどうだ?」
「そんな堅いこと言うなよ、にーちゃん」
「こんなときだけ弟になって甘えるな! 同い年のくせに」
そう、一霧は兄貴と言ってもたった6ヶ月しか違わない。
実は俺たちは異母兄弟なのだ。
「いい男だぜ、一霧くーん」
「似たような顔だろ」
そして親父似のよく似た顔。
このことは、11歳の弟の三太と、4歳の双子の葵と碧は知らない。
面倒なので世間では俺たちは”二卵性双生児”になっている。
「あんたたち、食事中に喧嘩はやめなさい!」
お袋があきれて間に入る。
お袋と俺は血がつながっていない。しかし一霧とも血のつながりはない。つまり親父の後妻なのである。先妻である一霧の母親は病死している。俺の母親は先妻時代の愛人だったので「妻」歴なし。
今のお袋の連れ子が俺の4歳年上の美夜子。この家の長女である。そして、末っ子の双子の姉妹は親父とこのお袋との子供だ。
三太は先妻、つまり一霧の母親の子供である。
"少しばかり"複雑な家庭環境だけど、ご理解いただけただろうか?
これはすべて親父の女好きのせいだ。
もしかしたら探せばまだ兄弟がいるかもしれない・・・と俺は密かに思っているが、とても怖くて口に出せない。
「いつも、レポートをひろくんに頼んでるのね。二楼ちゃんったら、やれば出来るのにちっともやろうとしないわよね。のーみそ、腐るわよ」
美夜子の毒舌は相変わらずだ。美夜子は一霧ことを”ひろくん”、俺のことを”じろうちゃん”と呼ぶ。小学生じゃあるまいし、やめて欲しいと何度も言ったのだが聞き入れてもらえないのであきらめた。
「おまえの爆発頭よりマシだと思うけど。」
と俺が言うと、お袋が吹き出した。
「やっぱり二楼もそう思う? この子、今日美容院を爆破してきたんじゃないかと思ったわよ」
美夜子の毒舌は母親譲りだろう・・・。
ここまで言われて、ストレートのロングヘアから突然アフロヘアに変えて、自分では大成功だと思っていた美夜子が黙ってはいなかった。
「ちょっと、それあんまりじゃない?! 未来の偉大なるカリスマ美容師に向かって!」
そこで俺が茶々入れる。
「まだ下っ端のくせに!」
美夜子は今”偉大なるカリスマ美容師”になるために修行中なのだ。
「あら、いつもだらだらして、なーんもしてない二楼ちゃんに言われる筋合いないわよ!」
「あ、ひでぇ。毎日パックは、かかしてないぞ」
「どうりで、パックの減りが激しいと思ったのよ! 人の勝手に使わないでって、言ってるでしょ!!」
「肌が荒れたら、モテなくなるじゃん」
「女たらし!」
「親父似だからね」
と、その瞬間、家中響き渡るような平手打ちの音とともに右頬に激しい痛みが走った。次の瞬間には、一気に皆が沈黙。
俺は右頬を押さえて親父を見て叫ぶ。
「いってー!!!!! なんで殴るんだ!!!!」
「父親を侮辱するからだ」
「ほんとのことだろーが!!!」
その瞬間、左頬にも親父の平手が飛んだ。俺は両頬を押さえながら恨めしそうに親父を見た。親父は若い頃ボクシングをかじっていたせいか、パンチやビンタはお手の物。しかもものすごい強さとスピード。おかげで俺は何度痛い思いをしたことか。
そんな親父は外科医である。その世界では高評価を得ているが、家に帰ればただの子煩悩な父親。家族が揃わないと食事をしないという徹底ぶり。
そんな桜木家は毎日にぎやかすぎるくらいにぎやかである。
部屋のドアがノックされたと同時に、美夜子が顔を出した。
「二楼ちゃん、入るわよ」
手には濡れたタオルが握られていた。そして俺のベッドの上にある女物のファッション雑誌に目を留める。
「もう、また勝手に持ち出して! 男の子がこんなの読んでどうすんのよ」
「お肌のお手入れ方法を・・・」
と答えると、美夜子はあきれ顔で俺の隣に腰を下ろす。
「だいぶ、ひどいわね」
そう言って俺の腫れ上がった頬に冷やしたタオルを当てる。
「サンキュ」
俺はそれに少し笑って答える。
美夜子は美人だ。スタイルもいい。毒舌だが優しい女だ。
「なぁ、なんで突然髪型変えたんだよ」
俺は美夜子のアフロヘアを見つめる。近くで見ると鳥の巣みたい。
「変かしら?」
「変」
即答すると美夜子は少し肩をすくめた。
「頭で鳥でも飼おうと思って」
その瞬間俺は吹き出した。
そして美夜子も続いて笑った。
俺はそんな美夜子の頭をなでる。
「ごめん。似合ってるよ。もとがいいから」
「あ、やっぱり?」
美夜子と初めて会ったのは16の夏。突然の親父の再婚でお袋と姉が一気に出来た。この母娘は明るく気さくな連中で俺たちはすぐに仲良くなった。
そして俺は美夜子を好きになった。姉としてではなく、女として。
美夜子といると安らぎを得ることができるのだ。こんな女は初めてだった。
俺は美夜子の形のいいふくよかな唇に自分の唇を合わせる。美夜子にキスをするたびに俺の心は幸せに満たされる。
「いまに“カリスマ美容師”になれるよ」
美夜子は「ありがとう」と言って、俺の肩に頭をもたげる。
俺はそんな美夜子の肩を抱き、もう一度キスをした。美夜子のほのかな香水のにおいが鼻をくすぐる。
そしてそのままベッドに倒れた。家族にバレないように俺たちはこうやってたまにセックスしていた。
俺たちは愛し合っていた。
でも法律上の「姉弟」という“足かせ”によって、あいまいな関係のまま続いていた。
翌朝。
俺は眠い目をこすりながら玄関に向かう。
「葵!! 碧!! 行くぞー」
玄関で靴をはいて叫ぶ。すると、ぱたぱたとかわいい音をたてて、玄関へ向かって走ってくる双子。
俺と一霧が幼稚園へ連れていく役割を担っている。ちょうど大学へ出かける時間と合うからだ。
そして一足先に車に乗って待っていた一霧と合流する。
俺たちは、まず幼稚園へ双子を送り出すと大学へ向かった。
「おまえ、今日、鏡で自分見たか?」
一霧が運転しながら聞いてきた。俺は車のルームミラーで自分の顔を見る。すると首筋にキスマークが残っていた。
「あ、いつの間に」
昨日は結局美夜子は俺の部屋に泊まっていったのだ。
「まぁ、盛りの男にとっちゃ、おかしくないだろ」
俺は、ふふんと鼻を鳴らす。
「母さんに気づかれないようにしろよ」
「分かってるよ」
美夜子とのことは一霧にだけはバレている。一霧にはかなりわかりやすかったらしい。
一霧は赤信号で車を止めるとポケットからタバコを取り出して火をつけた。
俺は一霧からタバコを1本もらうと、
「おまえさぁ、親父の病院継ぐの?」
と尋ねた。すると一霧はしばらくの沈黙の後、口を開いた。
「別に世襲制じゃないし。でも誰かが継がないといけないだろ」
「じゃぁ、おまえだな」
「おまえ、全然その気ないだろ。親父の手前、俺ら2人で医大に入ったけど全然やる気ないもんな」
俺は助手席のシートを倒して体を横にした。
「だって、親父だっておまえに期待してるの見え見えじゃん」
「おまえにやる気がないからだろ」
「そうじゃない。分かってるくせに。なぜなら、俺が」
「やめろ」
一霧に遮られて言葉が途切れた。
しばらくの沈黙の後、俺はタバコをもみ消して言った。
「おまえと初めて会ったのは10歳のときだったよな。よく覚えてるよ。アイツが・・・俺の実の母親が俺を捨てて男と逃げたから俺は行き場がなくなって、施設でしばらく過ごした後、実の父親のいるこの家へもらわれて・・・。 そこには、俺と似た顔した同い年のおまえと、まだ1歳のちび三太がいたんだよな。おまえのかーさんは、いい人だったな。夫の愛人の子供の俺に良くしてくれてさぁ。俺、おまえのかーさんが心臓を患わせて死んじまったとき、いい人ほど早く死ぬってのは、ほんとなんだなぁと感じたよ」
一霧は何も言わず、長い前髪をかき上げた。
そのうち大学へ着き、一霧は車を駐車すると、後部座席から自分の鞄を取って中からノートを出した。
「ほら、レポートだ。講義中に写せるだろ」
「お、サンキュ」
俺はそれをありがたく頂戴する。
一霧はそんな俺を見てため息をついて言った。
「おまえは長生きするよ。俺は早死にだけど」
「あら、どういうことかしら、おにーさま」
「・・・似た顔して女言葉はやめてくれ」
一霧は苦笑いして車から出る。俺も後に続く。
そのとき、「ハーイ! 桜木兄弟!」と元気よくかけよってきたのは、同じクラスの女たちだった。
「なんだよ、おまえら。デートの誘いならもっと女を磨いてからにしてくれ」
俺が冗談をとばすと、その中の一人が、
「だーれが、二楼を誘うかっての! やっぱ一霧くんよねー! 同じ顔なのに、なぜかすごくかっこいいもん! あっれー、なんか二楼のほっぺた、赤くない?」
「別に」
「あ、また女泣かせたんでしょ?! この女たらし!」
女たちは言いたいことをまくしたてると、わいわい騒ぎながら構内へ消えていった。
「あいつら~」
俺はひきつった顔で女たちを見送ると、一霧からタバコをもらって火をつける。そしてクールな顔して同じようにタバコをふかす一霧を見た。
「そういえば、おまえ、あんまり女としゃべんないよな、高校の時から。生徒会長なんかやったりして、優等生で俺に似たその美貌で結構モテてたのにさ」
「好きでこの顔になったんじゃねぇよ」
一霧は苦笑いして答える。俺はそんな一霧に、
「おまえ、・・・親父のこと嫌いだろ?」
と聞くと、一霧は呆れたように頭を振って、
「嫌いも何も親だろ。いつものことながら突然話が飛ぶなぁ。おまえの思考回路にはついてけないよ。遅刻するぞ、もう行こう」
とタバコを灰皿に投げいれて、教室内へ入っていった。
俺は「それはすいませんね」と皮肉を飛ばし、後に続いた。
ある日曜日。澄み渡るような空。秋晴れ。
にぎやかな桜木家の休日が始まる。
「運動会ーーー???!!!」
俺は突然起こされて、すっとんきょうな声をあげる。
すると体操服に着替えた三太がVサインで答える。
「俺、リレーの選手に選ばれてんだ。二楼にぃ、俺の華麗なるシュウソクをご披露するぜ!」
と、張り切る三太。
「“俊足”だろ。お袋についてきてもらえよ。俺は眠いんだ!」
と、もう一度毛布をかぶる。昨夜は友達と遅くまで飲んでいて、今は二日酔いで最悪な状態だった。が、三太は毛布を剥がして今度は耳元で叫んだ。
「かーちゃんは、碧の看病があるんだ!」
どうやら、碧が風邪を引いて寝込んでしまい、お袋はその看病で三太の運動会へ行けず、葵にうつるといけないからと言って、俺に葵を連れて三太の運動会へ行けと言ったらしい。
「他あたれよ。うちには他にもたくさん人間がいるんだから。俺はちょっと頭痛が・・・」
と、もう一度布団にもぐったが無駄だった。
「二楼にぃも来るって言っちゃったんだ。」
しゅんとする三太。
「誰に?!」
「クラスの女の子。どこがいいのか分からないけど、にーちゃんのファンなんだって」
俺は開いた口がふさがらなかった。すると笑いながら一霧が姿を現した。
「年下にも大人気だな」
「うるせー!」
俺はすっかり目が覚めてしまい、体を起こす。
「おまえがいけばいーじゃんか。同じ顔なんだから」
すると間髪入れずに三太が言った。
「だめだよ。その子、頭が金髪の人って言ってんだ」
俺は、自分の目の前に垂れ下がった、まっきんきんの長い前髪を見る。そして、一霧の“少し”茶色の髪の毛を見て言った。
「おまえ、髪染めろよ」
「・・・・いい加減観念しろよ」
と、そのとき、美夜子が大きな紙袋を持って現れた。
「さぁ、行くわよ。かわいい弟のために、みんなで行くのよ! これは、お弁当!」
かくて、家族総出で(お袋と碧を除く)小学校の運動会へ行くことになったのだった。
運動場へ着くと、そこには、レジャーシートをひいて場所取りをしていた親父がいた。親父は俺たちに気づくと手を振った。
「ここだ! 一番前をとったぞ」
大張りきりである・・・。このテンションの高さはどこからくるのか。昨夜は親父もオペで帰りが遅くなったと聞いていたのに。早起きして場所とりまでして。
俺達は親父が確保してくれた”貴重な”場所に腰を下ろす。
「じゃぁ、行って来るぜ!!」
三太は手を振り振り集合場所へ走っていった。俺たちはそれを見送ると、隣に座っていた一霧がぼそっと俺にささやいた。
「あいつ、おまえに来て欲しかったんだよ」
「まっさか! いつも喧嘩ばっかだぜ。三太はおまえになついてるじゃないか」
俺が早速ビールを空けようとすると、美夜子に“まだ早い!”と取り上げられた。(←こいつはまだ二日酔いのはず・・・)
一霧は続けていった。
「あいつ、嬉しかったんだよ。おまえ、高校時代、陸上やってたろ? 練習嫌いだから大会の時だけかり出される臨時部員だったけど、足だけは速かっただろ? それ見て、あいつ、自分もおまえみたいに速く走って、選手になりたい!って思ったんだとよ。リレーの選手に選ばれたのがよほど嬉しかったんだよ」
俺は意外な言葉に驚いて一霧を見た。
「そんなこと、あいつ一言も言ってなかったぞ! なんでおまえには話すんだよ」
「俺に”なついてる”からだろ」
一霧はタバコを取り出して火をつける。それを見た親父が口を出した。
「一霧、ちょっと最近吸いすぎじゃないか?」
すると、一霧はちらっと親父を見て言った。
「そうでもないよ」
そしてタバコをふかす。親父はそれ以上何も言わず目をそらした。俺はそのやりとりを見て、ぼそっとつぶやいた。
「俺だったら、そんな言い方したら殴ってるくせに・・・」
すると、親父は俺を一瞥して、
「最近勘が鋭くなってきたな」
と言った。俺は思い切り親父をにらみつけたが美夜子がそれを制した。
「すぐ感情的になるんだから!」
と、そのとき、
「桜木兄弟!?」
背後で声がして振り返ると、大学のクラスメイトの女がいるではないか。
「こんなところで会うなんて偶然! 今日は応援か何か?」
と驚いた声をあげる。そして俺らの家族にぺこりと頭を下げて挨拶する。
「はじめまして。木下若菜です。桜木くんたちとは同じクラスなんです」
「こんにちはー!」
真っ先に妹の葵があいさつする。すると、木下は「かわいい!」と言って、葵の頭をなでる。
「見ての通りだよ。弟の晴れ舞台を見に来たってわけ。おまえこそ応援しにきてるのか?」
俺が聞くと木下は首を振って向こうの方で車椅子に乗っている少女を指さした。
「私、ボランティアやってんの。障害をもってる子のお世話。今日は彼女が運動会を見たいって言うから連れてきたの。彼女、今、南中央病院で入院してるのよ」
「・・・どっかで聞いた名の病院だな」
と俺がいうと親父が咳払いをした。実は親父は南中央病院の設立者で院長を務めている。
親父は感心したように木下を見た。
「そういえば、どこかで見かけたような気がしてたんだ。まさか、うちに来てくれていたなんてね」
親父がにっこりほほえんで言うと、木下は訳が分からず最初はきょとんとしていたが、次第に状況がつかめてきたようでそれが驚きの表情に変わった。
「もしかして、おじさま、そこの院長先生?!」
親父がうなずくと、木下は反射的に頭を下げた。
「いつもお世話になってます! 噂では聞いております。院長先生の腕は本物だって」
まるでスターにでも会ったような興奮状態である。
親父も女子大生に褒めちぎられ悪い気はしないらしく、「まぁ一緒に観戦しようじゃないか」と車椅子の少女も呼んで皆で観戦することになった。そして飲めや食えやの大騒ぎで盛り上がっていたのだった。そのうち、三太のリレーが始まり三太がアンカーでロープを切るのを見た頃、すでに俺たちは酒でほろ酔い加減になっていた。特に酔っぱらっていたのは木下だった。
「おじさま~! 私、医師免許とったら、おじさまの下で働きたいです~」
と、親父にビールをつぐ。
「おいおい、おまえ、飲み過ぎじゃないか?!」
見かねた俺があきれて言うと、木下はふと真剣な表情をして、
「もう、ご家族の前で言っちゃお」
と言って突然立ち上がった。俺たちは何が始まるのかと驚いて木下を見る。すると、なんと、
「私、桜木二楼くんのことが好きです!」
と告白したのだ。みんな目が点。
特に俺は驚いてしばらく開いた口がふさがらなかった。そしてやっとのことで言った。
「おい・・・、突然どうしたんだよ。 いつも、“二楼より一霧だ”って言ってたじゃないか」
と言うと、木下は俺の前にぺたんと座り込んだ。
「ホントは二楼のことがずっと好きだったの。つき合ってください」
と俺を見た木下は、頬は酒のせいでピンク色をしていたが、目がマジだった。
俺は告白されるのは初めてじゃないし、それなりに女経験もある。だが、家族みんなの前で大胆に告白されたのはもちろん生まれて初めてである。
俺はちらっと美夜子を見ると、美夜子は意味深な笑いを浮かべて俺を見ていた。俺がどう出るのか楽しんでいる様子だ。一霧の方を見ると、いつものクールな顔して見ている。葵は分かっているのかいないのかにこにこして俺たちを見ていた。
「あのなぁ、木下、俺は」
と言いかけたとき親父が遮って言った。
「よし、分かった。こんな息子で良かったら、つきあってやってくれ」
なにーー?!と、俺は親父に反論しようとしたが、その前に木下が俺に抱きついた。
「嬉しい! よろしくね!」
俺は迫力に押されてされるがままになっていた。
なんつー女、なんつー家族。
こんな簡単でいいのか? 俺に人権はないのか?
・・・もうなるようになれ。
その夜。
「気にならないの?」
「なんのこと?」
俺が尋ねると、美夜子はわざととぼけた振りをして聞き返す。
ここは美夜子の部屋。
美夜子はせわしくはさみを動かしながら俺の髪の毛を切っている。
「わかってんだろ。木下のことだよ」
「あ、待って。動かないで!」
美夜子は散髪の方に夢中のようだった。俺はあきれて言った。
「プロの美容師さんはちゃんと話を聞きながらカットしないといけないと思うけど」
すると美夜子は鏡に映っている俺を見て、にっこりとほほえんだ。
「ちゃんと、聞いてるわよ。」
「聞いてねぇよ」
俺は突然立ち上がって美夜子の方を向いた。美夜子は驚いて俺を見た。
「危ないなぁ。もう少しでハサミで頭刺すところだったわ」
「いいよ、刺されても! 美夜子なら!」
わけわからないことを俺が叫ぶと、美夜子は深くため息をついて言った。
「私たちは姉弟なのよ」
「血はつながってないよ」
美夜子は手に持っていたはさみを台の上に置いて改めて俺を見た。
「私は二楼ちゃんのことが大好きよ。でも、“弟”としてもとても好きなの」
「なにいってんだよ」
俺がふてくされて言うと美夜子は俺の両手を取った。
「二楼ちゃんは私なんかじゃない、他の誰かのモノになるってそんな気がするの」
「冗談言うなよ。俺が好きなのは美夜子だけだ。俺が一人前になったらお前と結婚する。いつも言ってるだろ?」
俺が言うと美夜子はさびしそうに笑った。
「あの子、いい子じゃない。同じ志を持った人だし」
「俺は医者なんかにならねぇよ」
「私は二楼ちゃんのそんなのところが嫌いよ」
俺は美夜子の意外な言葉に驚いた。美夜子は優しく俺の金髪頭をなでた。
「私はバカだから、勉強しても二楼ちゃんみたいに成績も良くならなかったし、大学にさえ入れなかった」
「美容師学校に入ったんだからいいじゃねぇか」
「私、ほんとは獣医になりたかったのよ。でも私の成績じゃとうてい無理だった」
美夜子はさびしそうな目をして言った。
「もちろん私も今は美容師になって良かったと思ってる。でも、あなたはいとも簡単に入りたくもなかった医大に入った。あなたはもっとじっくり自分のやりたいことを考えるべきよ。あなたは器用に何でもこなしてしまうから分からないかもしれないけど、女の子に対しても、そう。もっと本気になって接するべきだわ。あの子、いい子じゃない。お父さんも気に入ってたし」
美夜子はうつむいてベッドに腰掛けた。俺は美夜子の前で膝を落として美夜子を見た。美夜子の目にはうっすら涙がうかんでいた。
俺はしっかりと美夜子の目を見据えた。
「俺は本気な人には本気で接してる」
すると美夜子は少しほほえんで俺を見た。
「二楼ちゃんって、ほんときれいな顔してるわよね。この色男!」
「美夜子の方がきれいだよ」
俺は美夜子を抱きしめた。そして、俺たちは長い長いキスをした。
どこから聞きつけたのか、大学では俺と木下が恋人同士だということになってしまっていた。
「冗談じゃねぇよ。なんとかしてくれ。俺は独り身で楽しく大学生活を謳歌したいのに」
俺は少し残ったみそ汁を一気に飲み干す。
ここは学食。一霧と他の友達と昼飯を食べに来ている。
「だいたい俺はなぁ、年上の女が好みなの!」
空になった皿の上に使い終わった割り箸を投げ入れる。
すると友達の一人が、
「おまえが1人にしぼってくれれば、こっちは助かるぜ。ちょっとツラがいいからって女がみんなおまえに流れていくからよぉ」
と冗談めかして言う。
「それに、木下ってあれで結構人気あんだぜ? 胸もあるし」
と他のヤツが続けて言う。すると別のヤツが言う。
「いいじゃねぇか。いただくものはいただいちゃえば。あとも適当にやっとけばいいんだって」
「向こうが本気なんだったら、悪いじゃないか」
と俺が言うと、みんな驚きの表情を見せた。そして一霧がぷっと吹き出して言った。
「おまえらしくないな。どうしたんだ?」
そう言われて気がついた。今まではそんなこと考えなかったのに、と。来るもの拒まず去るもの追わずのこの俺が。昨日、美夜子に言われたことが気になっているんだろうか。
「そうだよ、二楼。おまえ、もしかして好きな女がいるのか?」
別のヤツが尋ねた。
「いるよ」
俺はふんっと鼻で笑って、
「振られたけど」
と言うと、その瞬間一霧が俺の方を向いたのが視界の端に映った。
他のヤツらは驚いて口々に言った。
「誰だよ! 教えろよ」
俺はトレーを持って立ち上がった。
「『サザエさん』に出てくるワカメちゃん。あのつぶらな瞳に惚れてたんだ」
と、おどけて言うと食堂を後にした。
“あなたは、もっとじっくり自分のやりたいことを考えるべきよ”---美夜子の言葉が脳裏をよぎった。
10年前。
桜木一霧、10歳。
-----俺は、とても、とまどっていた。
実は自分にもう1人兄弟がいるなんて、突然知らされたからだ。
そして、そのことをちゃんと受け止めている母さんと、自分の浮気を平然とした態度で肯定している親父に、もっととまどいを感じていた。
「その子の名前は二楼くんだ。おまえと同い年になる。明日からうちの一員だ。仲良く出来るな?」
同い年と言うことは、同じ時期に2人の女と励んでいたということじゃないか、と、当時10歳の俺は小さいながらに思っていた。このとき、初めて親父を軽蔑した。汚いと思った。しかし、ここで俺が受け入れることに反対したとしても、俺の意見が通るわけではないことは分かっていたので、俺はうなずいた。親父の言うことは絶対だったからだ。
聞くところによると、二楼は母親とずっと2人暮らしということだったが、3年前母親が二楼を置き去りにして出ていってしまってから、施設に入っていたという。最近親父が二楼のことを聞きつけて、すぐ引き取ることに決めたという。
母さんは二楼に同情していた。俺は親父の浮気を知った後でもこれからも親父を愛せるのかと何度も母さんに尋ねようと思ったが、母さんなりに考えて出した答えなんだろうから、聞くのは悪い気がして聞けなかった。
確かに二楼には罪はない。それどころか、親父のせいでかわいそうな身の上になってしまったのだ。(母親も母親だが) 俺は出来る限り仲良くやっていこうと心に決めた。
そして、あいつが、親父の車に乗ってやって来た。
「二楼くんだ」
親父に背中を押されて、少しとまどいながらうちの玄関に入った二楼。
俺は二楼を見てすごく驚いた。それは俺と顔が似ていたからだ。2人とも親父に似たのか、顔つきがそっくりだった。
「まぁ、いらっしゃい。疲れたでしょう?おなか空いてない?」
母さんはにっこり笑って二楼の頭をなでた。二楼は無表情でただ母さんを見つめていた。その目は、子供にしては鋭く、そして、どこかもの悲しく孤独感をたたえていた。
そして性格はかなりきつかった。
「おばちゃん、俺のこと憎んでないん?」
関西の訛りを出して、母さんに尋ねた。親父は少しあせっていたが、母さんはにっこりと微笑んで言った。
「憎む理由はないわ。あなたは何も悪いことしてないもの」
すると、二楼はふんっと鼻で笑って言った。
「大人ってこれやけん、嫌なんじゃ。嘘ばっかり並べよる」
その瞬間、俺は二楼の頬をたたいていた。人をたたくのは初めてだった。母さんの気持ちも考えないで、わざと人を不快にさせるこいつが許せなかったのだ。
「いってーな! なにすんじゃ!」
二楼が俺をにらみつけた。そんな二楼を親父がなだめた。
「すまなかったね、二楼くん。いつもはこんな子じゃないんだが。ほら、一霧も謝って」
俺は悪いことをしたと思っていなかったので、謝りたくなかった。俺たちはしばらく睨み合っていた。
出会いは最悪だった。
しかし、同い年の遊び盛りの少年同士が、いつまでも、いがみあってはいなかった。
「おい、一霧。おまえのゲームボーイ貸せよ」
ノックも無しに俺の部屋に入ってくる二楼。
「この前から、貸したままだろ」
俺が読んでいた漫画に視線を落としたまま言うと、二楼はそれを取り上げた。
「なにすんだよ!」
「おまえんち、金持ちじゃけん、まだ沢山もってんだろ?」
二楼はその本を放り投げて言った。
俺が忍耐強くなったのは、こいつのせいだと今更ながら思う。
ここで俺が怒っても、こいつを逆上させるだけでなんの解決にもならないことは、もう分かっていた。
俺はため息をついて言った。
「欲しかったら親父にねだれよ。あと、一つ言っときたいのが」
俺はじっと二楼を見据えた。
「おまえが金持ちだと思っているこの家は、おまえんちでもあるんだ」
その瞬間、二楼の表情が変わったのを俺は見過ごさなかった。俺は続けて言った。
「さっき投げた本を返せ」
二楼はしばらく困惑した表情をしていたが、おとなしく本を拾った。そして俺に差し出した。俺は二楼に言った。
「これ、読んでみろよ。面白いから」
二楼はしばらくその本を眺めていたが、本を抱えると部屋を出ようとした。そして、ドアのところで足を止めて、ぼそっとつぶやいた。
「ありがと」
それが二楼の精一杯の感謝の表現だった。
二楼は徐々に変わっていった。皮肉を言うこともほとんどなくなり、代わりによく笑うようになった。
「俺は、ずっと広島で育ったんじゃ。海の近くに住んどった」
学校から帰り道、俺たちは肩を並べて歩いていた。
「へぇ。この辺は近くに海がないから、うらやましいな。」
「海はええよ。でっかくて。見よると自分がちっぽけに思えてくる。悩みも何もかもどうでもよくなってくる」
二楼は昔を懐かしむかのように話し始めた。
「母ちゃんは、全然父さんの話をしたがらなくて、ただ“優しい人だった”って言うだけやった。俺は、もう父さんはいないもんと思っとったけん、勝手に父さんは海だって思っとった」
「海?」
聞き返すと、二楼はうなずいた。
「だって、おっきくて安心できるような温かさもあって、でも、人を飲み込みそうな怖さもあって。父さんって、こんな感じなんだろうなって勝手に思っとったんじゃ」
俺はこのとき二楼がどんな思いでいままで過ごしてきたんだろうと改めて思った。
「会ってみてどうだった?」
俺が聞くと、二楼は笑った。
「全然違った。“なんじゃ、ふつうのオッサンやんか”」
俺も笑った。
「でも、そのオッサンは俺を抱きしめて、こう言ったんだ。”今まで、1人にしてて、すまなかった。おまえのことは忘れたことはなかった。早くこうやって一緒に過ごしたかったけど、小百合が住所さえ教えてくれなかったんだ。やっと会えて良かった”って。あ、小百合って、母さんの名前なんやけど。でも、親父のヤツ、もし母さんがいたら、どうするつもりやったんやろ。おまえの母さんもいるし、一緒には住めんもんなぁ」
二楼は淡々と話していた。俺はなんだかつらくなってきた。この少年はいままでどれだけ辛い思いをしてきたのだろう。きっと俺には想像もできない。
「二楼、お母さんのこと、恨んでる?」
と訊ねたが、二楼は答えなかった。
二楼は、母親に捨てられ、施設で孤独な思いをしてきたのだ。たった一人の肉親に裏切られ、この世でたった一人になってしまったのだ。
俺は自分がつまらない質問をしたと思った。
それからは、俺は母親のことは聞かなかった。
「一霧くんは、本当にいい子ね。勉強もスポーツもできて優しくて弟の面倒もよく見て」
近所のおばさんたちは、口をそろえてこう言う。俺は親の手を煩わさない“いい子”だった。だから、自由気ままに生きる二楼を見ていると、たまにうらやましくも思った。
「いってぇ! あのクソ親父、思い切り殴りやがって!!!」
二楼は殴られた頭を押さえながら俺の部屋へやって来た。
俺は読んでいた本から顔を上げて、二楼を見る。
「今度は何をやらかしたんだ?」
すると、二楼はにんまりと笑って言ったのだった。
「親父のタバコをくすねたのさ」
そのとき俺たちはまだ13歳だった。もちろんタバコが許される歳ではない。
「ちょっと、試してみようと思ったんだ。それだけなのにさ」
二楼は俺のベッドに横になった。俺は呆れ顔で聞いた。
「殴られるの分かってて、なんでやるんだよ」
すると、二楼はいかにも当然という顔で言ってのけたのだった。
「なんでかって? 吸ってみたかったからだろ」
二楼は、したいことはする。それがいいことであろうと悪いことであろうと関係ないのだ。親父はそんな二楼によく手をあげていた。一方、“いい子”の俺は、一度も殴られたことはなかった。
親父は二楼を“親に捨てられたかわいそうな子”扱いは決してしなかった。つまり腫れ物に触るような妙なかわいがり方をすることはなかった。まるで生まれたときから一緒に暮らしてきたように普通に接した。親父がこうだったから、俺も母さんも普通に接することが出来たんだと思う。そして、二楼も同じ気持ちだったと思う。
そのとき、4歳になったばかりの三太が顔を出した。
「二楼にぃ、マッチ持ってきたよ」
差し出したその手にはマッチが握られていた。
俺は状況を察して二楼を見た。
「おまえ、弟まで使ってたのか?!」
すると、二楼は「まぁね」と肩をすくめて、三太からマッチを貰う。そして、ポケットから1本のタバコを取り出したではないか。
「おい、なんで持ってんだよ!」
二楼はそれを口にくわえてマッチに火をつけた。
「俺はただで殴られたりしねーよ。少し頂戴してきたのさ」
と、勝ち誇った笑みを浮かべる。俺は呆れてものが言えずに、二楼のタバコを取り上げた。二楼はベッドから立ち上がって不満をぶつける。
「なにすんだよー!」
二楼は一度興奮するとなかなか治まらない。続けて叫んだ。
「おまえはいつも“いい子ぶりっこ”してるけどよぉ! ほんとは、俺みたいにいろいろやってみたいんじゃねぇの?!」
「俺は殴られてまでバカをしようとは思わない」
俺は立ち上がって二楼と視線を合わした。
「ここは俺の部屋だ。ここでは吸うな。---ところで、もう1本あるか?」
すると、二楼は最初きょとんとした顔をしていたが、すぐに我に返ってポケットから別のタバコを取り出した。
「ある! 外行こうぜ! 三太、おまえもこい! おまえは見張り役だ」
俺たちは外へ駆けだした。
「何笑ってんだよ」
ここは一霧の部屋。俺は来週から始まる大学の試験のために、ここへ勉強しに来ていた。(実は一霧のノートが必要なのだ) 俺は1人で笑い転げている一霧を怪訝そうに見る。
「おまえ、さっきからずっとアルバム眺めて面白いか?」
すると、一霧は手にしていたアルバムを見せた。俺たちの少年時代の写真が収められていた。
「ほら、これだよ。覚えてるか?」
そこには、びしょ濡れになって写っている俺と一霧の写真があった。
俺は走らせていたシャーペンを置いて、写真を見つめた。
「覚えてるよ。おまえが川で溺れてたのを俺が助けたんだ」
「何言ってんだよ」
一霧が俺の頭をたたく。俺は頭をおさえながら、
「わりぃ、間違った。美夜子が子犬を溺れさせて、俺らが助けに行ったんだったっけ」
「そうそう。水温2度くらいじゃなかったか?」
「そのとき、俺らは親父のタバコをくすねて隠れて吸ってたんだよな。そのとき、美夜子の叫び声が聞こえて・・・。結局、子犬は自力で、はい上がって、俺らは流されて行ったっけ」
俺もそのときの記憶を思い出し、懐かしい気持ちになった。
「あのときは、マジでもうだめだと思ったよ」
「そしたら、釣りをしていた親父と遭遇して、引っ張り上げて貰ったんだよな」
「そう。記念撮影付きで」
その写真の中の俺たちは、“大きな魚が釣れました”とかかれた紙を持たされていた。
「親父も凝ったことするよな」
と、一霧が言ったとき、俺は「あっ」と声をあげた。
「どうした?」
と一霧が聞くと同時に俺は話し出した。
「そういえば、このとき子犬は助かったけど、このときに骨折した足が原因でうまく歩けなくなったんだよな。そして、美夜子は自分がもっと早く気づいてればと大泣きして・・・」
「獣医になるんだって言ってたっけ」
「そう! それだ!」
俺は、美夜子が獣医になりたかったと言っていたことを思い出した。
「なんだよ、どうした?」
一霧は訳が分からず聞いてきた。俺はそれには答えずに言った。
「一霧はなんで医者になりたいと思った?」
「・・・・相変わらず唐突なヤツだなぁ」
半分あきれ顔で俺を見る一霧。
そして、アルバムをパタンと閉じると、
「“お医者さんごっこ”が好きだったから」
とにっこり笑って答えて、何もなかったように勉強にとりかかった。
俺はふんっと鼻で笑うと、再びシャーペンを走らせる。
すると今度は一霧がノートに目を落としたまま唐突に聞いてきた。
「ところで、おまえ、姉貴に振られたって?」
突然聞かれて、俺は思わずシャーペンの芯を折ってしまった。
一霧はそんな俺にお構いなしに自分の勉強を続けながら、
「今日、昼飯んとき、言ってただろ」
「冗談に決まってるだろ。だいたい、美夜子と俺は元々恋人同士じゃないんだし!」
俺は適当にごまかそうとした。が、一霧は意味深な視線を向けて、
「ふーーん。あ、そう」
とだけ言った。俺は、なんだか負かされたような気がして面白くなかった。
「一霧は好きな女の1人もいないのかよ」
「いるよ」
俺は意外な答えに目を丸くした。
「えー! しらねーぞ! 誰だよ、教えろよ!」
「木下若菜」
その途端、俺は口をつぐんだ。
すると、一霧はそんな俺を見て楽しそうに笑った。
「うそだよ。おまえって、からかうと面白いな」
「この根暗!!陰険野郎!!今、そんなことを思いださせるな!」
悪態をついたが、一霧はただ笑っていた。
俺は、こいつが本当は俺よりずっと“ワル”なのではないかと、マジで考えることがある。
“優等生”ほど内心何を考えてるかなんて分からない。俺のように本能の赴くままに生きていれば別だが、こいつを理解するのは難しいと思う。
そのとき、電話のベルが鳴り、応対したお袋が叫んだ。
「二楼! 電話よ! 木下さんから!」
出た!!!
一霧は一層おかしそうに笑う。俺は一霧の笑いを背に受けながら一霧の部屋にある内線電話を取った。
「もしもし?」
『あ、突然電話してごめんね』
向こうで木下がすまなそうに言う。
「なんで電話番号知ってるんだ?」
つき合っていると噂されているとはいえ、恋人らしいことはまだしたことがなかった。電話番号も知らない間柄なのだ。
『一霧くんに聞いたの』
俺は一霧を睨む。一霧は「なんのこと?」と、とぼけた顔をする。
『ちょっと会えないかな』
俺は時計を見る。時刻はすでに夜9時を回っていた。
「もう、遅いぞ。美容に悪いから早く寝なさい」
『そうよね、ごめんなさい』
やけに素直なので、俺は面食らってしまった。
「おいおい、どうしたんだよ。いつもの悪態はどこ行った?」
すると、木下は急に泣き出したのだ。
「おい、木下! なんだよ、どうした?」
俺は訳が分からずに尋ねる。すると、木下はやっとの思いで言葉をつづった。
『恵美ちゃん・・・覚えてる? この前、運動会で・・・車椅子に乗っていた子』
「ああ、親父の病院に入院してる子だろ?」
『あの子、今日死んじゃったの』
「死んだ?!」
俺は思わず叫んだ。木下はときどき鼻をすすりながら続けて言った。
『心臓の手術をしたのよ。経過が良くなくて、そのまま・・・・』
そこまで言って言葉が途切れた。
「今、病院か? 分かった、すぐ行くから待ってろ」
俺は電話を切る。一霧がただごとではないと察して俺を見ていた。
「親父の病院に行って来る! この前の車椅子の子が亡くなったらしい。悪い!車貸してくれ」
俺は一霧から車のキーを受け取って上着を羽織ると病院へ向かった。
病院へ入ると、待合室の椅子に木下がうつむいて腰掛けていた。俺が近寄ると木下は顔を上げて俺を見た。その泣きはらした目は真っ赤だった。
「二楼、来てくれたのね」
俺は木下の隣に腰掛けて肩を抱く。
「大丈夫か?」
木下はこくんと頷く。
「来てくれて、ありがと」
木下は俺の肩に頭をもたげた。亡くなった少女は、元々心臓を患わせていたが、突然様態が悪化し緊急に手術を受けたが、回復せず、息を引きとったとのことだった。
「なんか飲むか?」
俺が自動販売機の方へ行こうと立ち上がると、木下が俺の手を握った。
「そばにいて」
俺たちは言葉を交わさないまま、しばらく静まり返った待合室にいた。
そして、木下がつぶやくように言った。
「私、早く医者になって、1人でも多くの人の命を救いたい」
俺は木下の頭をなでた。
「おまえなら出来るよ」
すると、木下は俺を見て少し微笑んだ。
「二楼は優しいのね」
「おまえ、今頃気づいたのかよ」
俺がおどけて言うと、木下はくすっと笑った。
「知ってたよ。ずっと前から」
そして、木下はそっと自分の唇を俺の唇に重ねた。
俺はこのとき、木下のことを初めて”愛しい”と思った。意志の強そうな、まっすぐな瞳。美夜子とはまた違う魅力があった。
俺は、今度は自分から木下にキスをした。
俺は少し落ち着いてきた木下を家に送ることにした。
「これ、二楼の車?」
助手席に乗っている木下が聞いた。
「いいや、一霧の」
俺は運転しながら答えた。
「自分の買わないの?」
「前は持ってたけど売っちまった」
「どうして?」
木下が驚いて俺を見た。だが、俺はそれ以上何も言わずに話題を変えた。
「おまえ、来週のテストの勉強してんの?」
すると木下は小さくため息をついて、
「二楼は、いつもはぐらかす。私には決して本音を言わない」
俺は意外な言葉に少し驚いたが、平静を装って言った。
「そんなことないだろ」
「私のこと好き?」
話がどんどん飛んでいくので、俺は頭の中の整理がつかなくなってきた。
「そろそろ、頭の中、ショートしそうなんだけど・・・」
すると、木下はくすっと笑った。
「ごめんなさい。なんでもないわ。でも、もしあなたが嫌じゃなかったら本当に私とつき合って欲しいの」
「俺たち、つきあってんじゃなかったのか?」
「周りが言ってるだけよ。分かってるくせに」
そして、木下は手を組んで、うーんと伸びをした。
「でも、あなたは、嫌っている人とは口もきかないから、少しは私のこと好きだと思ってるんだけどね」
「なるほど、そうだったのか・・・」
俺がふざけて言うと、木下は笑って俺の頭をこづく。
まぁ確かに木下は悪いヤツじゃないし、ルックスだって悪くない。
でも、俺にとって”愛している”のは美夜子だけだった。
しばらくして木下の家に到着した。木下は礼を言って車のドアを開けた。
「おやすみなさい。 ・・・さっき言ったことだけど、気にしないで。あなたが私のことを好きになってくれるまで待つから」
そう言って、俺にキスをして車から出た。
俺は「好きな女がいる」と言う言葉を飲み込んだ。
と、そのときちょうど前方からカップルがこちらに向かって歩いてきていた。そして、女の方と目があったとき、俺は「あっ」と声を上げた。
「美夜子!」
美夜子だった。
思わずキスを見られた!と、あせったと同時に向こうが男連れなのにムカっときた。
美夜子はそんな俺にお構いなく、右手をあげてにっこり笑った。
「こんばんは。こんなところで会うなんて奇遇ねぇ」
すると、木下がぺこりを頭を下げる。
「こんばんは、美夜子さん。お久しぶりです。運動会以来ですね」
俺は美夜子と一緒の男を見た。歳は30前後だろうか。洒落た服を着ていた。でも少しひ弱そうな感じだ。とにかく俺は全然面白くなかった。
「私、家ここなんです。今、二楼に送ってもらって・・・」
木下は自分の家を指さして言った。そして、美夜子と2,3会話を交わして、俺を見た。
「じゃぁ、帰るね。美夜子さん、いつ見ても綺麗ねぇ。明るくてかっこいいお姉さんって感じで」
すると、それを聞いた美夜子が、
「おだててもなんも出ないわよぉ」
と、にっこり微笑んだ。
木下はもう一度会釈すると、家の中に入っていった。
美夜子は一緒にいた男の方を向いて、
「この子、私の弟なんです。ついでに一緒に帰るから、また明日!」
と言うと、車に乗り込もうとした。
俺は“この子”扱いされて腹がたったが、美夜子がこのまま男を別れると分かって少し気持ちが落ち着いた。
すると、男は美夜子の腕をつかんだ。
「待てよ。これから一緒に飲みに行くんじゃなかったのか?」
すると、美夜子は男の手を外して、
「ごめんなさい。気が変わったの。また誘ってください」
と言って、助手席に乗り込んだ。面食らって立ちつくす男をそのままに、俺は車を発進させた。
俺は黙々と車を走らせていた。
すると、見かねた美夜子が口を開いた。
「ねぇ、何ふてくされてんのよ」
「あいつ、誰だよ」
と、ぶっきらぼうに聞くと、美夜子は深いため息をついて言った。
「うちの店長よ。帰りが一緒になったから、食事に誘われたの。」
「あいつは美夜子に気がある」
「そのくらい、分かるわよ」
俺は不機嫌を思い切り顔に出していた。美夜子は呆れ顔で俺を見た。
「なんで、さっき目の前で他の女の子とキスしてた人に、嫉妬されなくちゃいけないのよ。訳わかんないわ」
俺は車を路肩に停めると、美夜子を見た。美夜子は微笑んで俺の頬を優しく撫でた。
俺は「好きだ」とつぶやいて、美夜子にキスをした。
そして、美夜子のくっきり二重まぶたの目やふっくらした唇を見つめていると欲情してきた。
「ホテルいこっか」
美夜子は少し微笑んだだけでそれには答えずに、
「めずらしいわね。運転なんて。これ、ひろくんの車でしょ?」
と話題を変えた。俺は少し傷つきながらも、
「ちょっと用事が出来たから」
すると美夜子は意味深な視線を向けた。
「あの子のため?」
あの子、とは、もちろん木下のことだ。
「やきもちやいてんの?」
俺がにやにやしながら聞いたが、美夜子は「違うわよ!」と言って、俺の頭をたたいた。
俺は再び車を路肩に寄せ停車させると、外へ出て助手席側へ向かった。
「おい、運転代われ」
すると、美夜子はため息をつくと車から出た。
「まだ気にしてるの?」
「単に運転が嫌いなだけだ」
そして俺たちは席を交換して再びドライブ。
あれは、1年前だった。酔っぱらい運転をしていた。雨も降っていて視界も悪かった。俺はバイトで稼いだ分と親父からの前借りで買ったスカイラインの新車をとばしていた。急カーブを曲がったとき、ちょうどそこにいた子犬をはねてしまった。一瞬の出来事だった。子犬はぴくりとも動かなかった。飼い主の少女が泣きじゃくっていた。その子は、葵と碧と同じくらいの年だった。そのときの気分は最悪だった。それから俺は運転をすると気分が悪くなり、そのうち車も売ってしまった。
「二楼ちゃんって、いつもは態度でかいけど妙にデリケートなところがあったりするのよね」
美夜子が運転しながら言った。
「俺はとてもデリケートでセンシティブな人間だからね」
と、ふざけて返すと美夜子はこくんと頷いた。
「そうね。人の倍ご飯食べたり、何人もの年上相手にケンカ売って勝っちゃったり、パンツ一丁で外へ新聞取りに行ったりしてるけど、とてもデリケートでセンシティブだわ」
俺は苦笑いとすると、
「・・・・おまえ、俺をからかって楽しいか?」
「まさか! そんなことしたらデリケートな大事な弟が泣いちゃうわ」
美夜子は俺を見てにっこり微笑んだ。
「そんときは、おねーちゃんの胸で泣かせてくれるんだろ?」
と俺が言うと、美夜子は「まかしとき!」と笑って自分の胸をぽんとたたいた。
----新しいおかーさんと、おねーさんが出来る、とても喜ばしい日。(と親父が言っていた)
その日、俺は警察にいた。
バチンッと、近所にまで響き渡りそうなくらいデカイ音をたてて、親父は俺にビンタをくらわした。
「万引きだと?!」
親父は見た目は冷静だった。が、本気で怒っていることはビンタの強烈さで分かった。
俺は万引きをした現行犯として警察に補導されていた。
「今日はどんなに大切な日か、あれほど言っていただろう? なぜ、わざわざこんなことをしでかしたのだ?」
俺は黙っていた。すると、親父は俺の腕をつかんで強引に椅子から立ち上がらせた。そして俺の頭をおさえつけて警察に頭を下げさせると、
「大変ご迷惑をおかけいたしました。息子も反省しております」
と言った。眼鏡をかけたデブの警官が汗をハンカチで拭って言った。
「今回はもう帰っていいですよ。いやぁ、16歳の男の子だから気持ちはわかりますけどね。でも盗みは盗みですから」
すると、親父は少し首を傾げて聞いた。
「息子は何を万引きしたんですか?」
すると、警官は少し間をおいて言った。
「コンドームです」
帰りの車の中で、当分の間、2人とも口を聞かなかった。
家へあと1分で着くというとき、親父が沈黙を破った。
「なぜ万引きなんてしたんだ?」
その声から、俺のことを呆れ、怒っていることが読めた。
「避妊しようと思ったから」
「いい心構えだ」
親父の意外な反応に一瞬面食らった。
「おいおい、それでいいのかよ。親父」
「いいわけないだろう。おまえのことだ。面白がってやったんだろう?」
どうも俺の考えは親父にお見通しのようだった。俺の頭は真っ金々で結構派手なナリをしていたので、店員から見ていかにも“万引きをしそうなヤツ”に映ったんだろう。俺は店員がやたらにじろじろ見るので、わざと万引きする“フリ”をしてやろうと思ったのだった。適当に手に取ったコンドームを鞄に入れるか入れないかのときに、店員は俺を捕まえた。実はまだ未遂だったわけだ。でも俺がとやかく言っても、このアホ店員は聞き入れてはくれないだろう。おそらく、店員はその時点で俺が謝れば警察沙汰にしようとはしなかっただろうが、俺はその店員を睨み付けて「じろじろ見てんじゃねーよ、ハゲ」と言った。すると、そのまま警察へ出頭することになってしまったのである。
「おい、その頭もどうにかならんのか」
「ならん」
「おまえ、病院のオキシドール持ち出しただろう? 脱色に使ったな」
俺はとぼけた振りをして言った。
「さぁ、なんのことやら」
と、やりあっているうちに、家に到着した。家の前に見知らぬ車が止まっていた。どうやら、”新しいおかーさんとおねーさん”のものだろう。親父はそれを見て、
「もう、いらしてる。こっちが遅刻するとは情けない」
と俺を一瞥した。
俺は何も答えずに車から出た。
そして、玄関のドアを開けようとしたら、その前に中からドアが中から開いて三太が顔を出した。
「遅いよ! もうとっくに来てるよ!!」
親父は「悪かった」と三太の頭を撫でた。そして、俺たちは”おかーさん”と”おねーさん”の待つリビングへ向かった。
俺は”おかーさん”にも”おねーさん”にも何も期待していなかった。確かに女手は必要なのかもしれないが、それだけだった。(今までは交代で家事をしていた)
「これで、二楼にぃのまずいメシを食わずにすむ!」
と、三太が叫んだので、俺は思わず三太を殴った。
結局兄弟喧嘩をはじめからご披露してしまったが、気のよさそうな母娘はそれを見て笑っていた。
そして、”おねーさん”は右手を差し出して言った。
「よろしくね。私、美夜子。あなたより4つ年上よ」
思っていたより美人の美夜子に内心ドキッとしたが、俺は平静を装って握手した。
考えてみれば、このときにはもう美夜子に惚れてしまっていたのかもしれない。
そして美夜子は俺に耳打ちした。
「あんまり大人をからかっちゃ駄目よ」
俺が訳が分からずきょとんとしていると、美夜子はにっこり笑って言ったのだった。
「警察で、しごかれた?」
なんと万引き事件の現場にいたのだ。美夜子は派手な頭をしてるから、すごく目立ってたと言って笑った。
俺は「今度はうまくやるよ」と答えて笑った。
俺と美夜子はすごく馬があった。ただ一緒にいるだけで楽しかった。いろいろ相談もしたし、相談もされた。そして、いつからか“大切な人”になっていた。
ある、のどかな休日。晴天。もちろん大学は休みで俺は昼頃まで寝ていた。が、お袋に起こされて布団干しを命じられ、いやいや手伝いをしていた。すると、1人のオバさんが玄関の前に立っているのが目に入った。遠くて顔がよく見えなかったが、その人は、じっとうちを見つめていて、チャイムを鳴らそうか迷っているようだった。俺は自分のいる2階のベランダから声をかけた。
「なんか用っすかぁ?」
するとオバサンは顔を上げて俺を見た。そして、目があった。と同時に、そのオバサンが叫んだ。
「二楼!!」
すっかり老けて雰囲気が変わっていたので最初誰だかわからなかったが、よく見るとその人は13年前に自分を捨てて家を出ていった俺の母親だった。
「どうぞ」
お袋がお茶を差し出す。
すると突然やって来たオバサンはぺこりとお辞儀をして言った。
「突然おしかけて本当にごめんなさい」
桜木家のリビングルームのソファにここにいるべきではない人間が座っている。
俺は、コイツに懐かしさも何も感じなかった。ただ、突然、平然とやって来たコイツに腹が立った。本当は会いたくもなかったが、親父にここにいるように命じられたので、しぶしぶこの場にいた。ちょうど三太と双子たちは遊びに出ていて留守だったが、家にいた美夜子と一霧も親父も命令でここにいた。親父とその息子と、お袋とその娘と、親父の昔の愛人とその息子の勢揃いである。なんとも奇妙な構図が出来上がっていた。
俺はムカついて苛立っていた。
「貴様、今更、母親面して、よく来れたな」
年を取ったせいか、少しやつれたような気がした。昔のけばい化粧も派手な服装もしていなかった。
しかし、いくら外見が変わろうとも、母親に対する憎しみは消えることはない。
「二楼、そんな言い方はおよし」
お袋がなだめる。そのとき、黙っていた親父が口を開いた。
「久しぶりだな。今までどこにいたんだ」
するとうつむいていたオバサンが顔を上げて親父を見た。
「ずっと広島にいました。東広島市の西条町というところの旅館で住み込みで働いていました」
俺は驚いてオバサンを見た。その場所は俺の孤児院のすぐそばだったからだ。
俺は呆れて何も言葉が出なかった。どうして、そんなに近くにいながら子供を放っておけるんだろう。神経が分からない。
親父が続けて聞いた。
「それで、二楼を迎えに来たのか?」
俺は驚いて親父を見た。
「おいおい、冗談じゃねぇぜ! あんたと暮らす気なんかない」
すると、親父は俺を見て言った。
「実はおまえに隠していたことがある」
俺は眉をひそめて親父を見た。
「小百合は・・・おまえの母さんは、経営していたスナックが倒産して高額な借金を作ってしまってお前を育てられなくなったんだ。そして、お前を手放して今まで借金返済に明け暮れていたんだ。そして、俺がお前を引き取ることになったとき、借金の返済が終わったらお前を迎えに来たいと言っていたのだ。恋人が出来たから、お前を見捨てたわけじゃない。そんな男は最初からいなかったんだ」
そして、オバサンが続けて言った。
「二楼、ごめん。ずっと辛い思いさせて。そうでも言わないと、おまえと離れることができなかった。でも、母さん、お前のこと忘れた事なんてなかった。ずっとまた一緒に暮らせる日を夢見て一生懸命働いてたんだよ」
俺はため息をついて言った。
「今更、何きれいごと言ってんだよ。冗談じゃないぜ。だったら、どうして最初からそうやって言わなかったんだよ! なんで、わざわざ男連れてきて恋人だって俺に紹介したんだよ! その後、俺がどれだけ大変な目にあったか、お前に分かるか?! ・・・・・悪いけど、あんたと暮らす気なんてさらさらないし、お前を母親だとも思ってない。帰ってくれ」
と、オバサンに言い放つと部屋を出ようとした。が、親父に腕を捕まれた。
「話は終わってないぞ」
「俺には話す事なんて無い」
と親父の腕を振り払って部屋を出ようとしたとき、部屋の外に立っていた三太が目に入った。三太は驚きの表情で俺を見ていた。
「三太・・・おまえ・・・いつからそこにいたんだ? 聞いていたのか?」
すると、全員が三太がいたことに気づいた。
三太の目には涙が浮かんでいた。
「どういうこと・・・?! 二楼にぃ、俺のかーちゃんの子供じゃなかったの? この家、出て行っちゃうのか?!」
そして、その目から涙がこぼれた。俺は膝を落として三太を見て、三太の頭を撫でた。
「今まで黙っててごめんな。でも、にーちゃんはこの家を出ないから。今まで通り、お前の兄貴だし、一緒にいるから」
そして振り返ってオバサンの方を向いた。
「あんたのせいで、俺の大事な弟が泣いてんだぞ!」
そしてまた三太を見た。三太は流れ出る涙をそのままに叫んだ。
「なんで、そんな大事なこと隠してたんだよ! 今まで通りなんて嘘だ! 二楼にぃなんか、どこでも行っちゃえばいいんだ!!」
三太はそう言い放つと家を飛び出した。
「三太!!」
俺はもう一度オバサンを睨み付けると、三太の後を追って家を出た。そのときだった。すぐそこの表通りで車のクラクションがけたたましく鳴り響いた。
「三太?!」
その音を聞いて皆家から出た。
そしてその惨状を見たとき、お袋が悲鳴をあげた。そこには車の前で大量の血を流して横たわる三太の姿があった。
南中央病院。
今親父が三太のオペをしている。事故にあった三太はすぐに救急車で親父の病院に運ばれて手術を受けている。俺たちは手術室の前で手術が終わるのを待っていた。
「俺のせいだ」
俺がつぶやくように言った。すると隣に座っていた一霧が俺の肩に手を置いて言った。
「お前のせいじゃない。思い詰めるな」
「そうよ。ここであなたが気弱になってちゃ駄目よ。三太も頑張ってるんだから、あんたもしっかりなさい!」
美夜子が俺の手を握って言った。
そのとき、ついてきていたオバサンが口を出した。
「ごめんなさい。突然私が来てこんなことになってしまって」
すると、お袋がなだめるようにオバサンの肩に手を置いた。俺はオバサンを睨み付けた。
「そうだ。お前が来たからこんなことになっちまったんだ。帰ってくれ」
「二楼!」
なんとお袋が俺の頬をたたいた。俺は驚いてお袋を見た。
「これは誰のせいでもないの。もう今は三太の無事を祈るしかないでしょう! それに小百合さんは、わざわざ広島からあなたに会いに来たんだよ。そんな口きくもんじゃないよ」
オバサンはきまり悪そうにうつむいていた。
俺は何も答えずにオバサンから目をそらした。
それから、長い間、沈黙が続いた。
数時間後、親父が手術室から出てきた。みんなが親父に駆け寄る。
「どうなんだ?!」
親父はため息混じりに答えた。
「なんとか命はとりとめた。しばらくしたら意識も回復するだろう」
するとみんなほっと肩をなで下ろした。
「良かった・・・!」
お袋が親父の肩で泣いた。俺はお袋の涙を初めて見た。たとえ血のつながりがなくても俺たちは本当の家族なのだ。
そして親父はオバサンを見て言った。
「小百合、少し外へ出て話をしよう」
オバサンは頷いて親父に続いて病院の外へ出ようとした。そして、ふと俺のほうを振り返った。その目はとても優しかった。幼かった頃、俺はこの人を”冷たい人間”だと思っていた。水商売で夜の仕事をしていたので、俺とは時間が合わなくて、俺が話がしたいとき、甘えたいとき、お袋は眠っていた。けばい服や化粧をして男をはべらす母親をなんだか遠くに感じていた。
こんなふうに優しく見つめられた記憶はなかった。
俺は視線を背けると、三太の運ばれた病室へ向かった。
手術後数時間経った。俺たちはずっと三太の病室で三太の目覚めを待っていた。
「親父の趣味もわかんねーよな」
麻酔で眠る三太の寝顔を見つめながら俺はつぶやくように言った。すると、そばにいた一霧が答えた。
「急になんだよ。おまえのお袋さんのことか?」
美夜子は何も言わずに俺の話を聞いていた。
お袋は近所に預けていた双子を迎えに行って三太の着替えを取ってくると言って、さっき家に戻っていった。
「なにを好きこのんで、あんな水商売女を囲ってたんだか。優しい、おまえのかーちゃんもいたのに」
俺はため息をついて続けた。
「あいつは、母親なんかじゃなかった。いつでも”女”だった。俺のことより自分のことがいつも一番だった。・・・・それでも当時の俺にはたった一人の肉親だったから、嫌われないように気を使ってたよ。でもあいつは俺を見捨てた。そのとき俺がどんな思いだったかなんて、あいつにはとうてい分からないさ。まぁ、分かってくれなくてもいい。その代わり今の俺の生活を壊さないで欲しい」
俺は眠っている三太の頭をなでた。
「今だから言うけど、俺、ここの家に貰われて、最初すっげー、とまどっててさ。でも、初めて”家族”ってのを実感できた。それが、すげー居心地いいでやんの。兄弟でもあり友達でもある兄貴もできて、生意気でかわいい弟も出来て、すぐ殴るけど子煩悩な親父もいて、そして、後でお袋と姉貴も出来て・・・・。今の生活に満足してるし、今更変わりたくないよ。出て行けって言われたら仕方ないけど」
すると一霧が間髪いれずに言った。
「そんなのこと言うわけないだろ。お前がいなくなったら、誰が三太のケンカ相手になってやれるんだ? 誰が親父の殴られ役になれるんだ? どう考えてもお前しかいない」
「・・・・なんか、あんまり重要なポストにいないような気がするなぁ。」
俺は苦笑いする。
「あと、私のカットの練習台もね」
美夜子がにっこり笑って言う。
俺は力無く笑う。
しばらくの沈黙の後、一霧が口を開いた。
「俺、ちょっと飲み物でも買ってくる。何がいい?」
と言って立ち上がった。
「あ、私、ウーロン」
美夜子が答える。俺は「なんでもいい」と力無い返事をする。すると一霧はそのまま病室を出ていった。
残された俺と美夜子は、三太のベッドの脇に座っていた。
俺は呟くように言った。
「俺はずっと一霧に劣等感をもってた」
すると美夜子は俺の頭を撫でた。
「知ってるわ」
意外な返答に俺は美夜子を見た。すると美夜子は微笑んだ。
「自分は愛人の子供だったからでしょ? それにひろくんは、親自慢の”出来る子”だった」
「・・・お前、察しがいいな」
「だてに、あんたの姉をやってないわよ」
美夜子は俺の肩を抱いた。
俺はいつでもクールな一霧のことがいまいちつかめないときがあった。
「この家に貰われてきた当時、俺はあいつにとって親父の愛人の生んだ子供で憎らしい対象だったはずなのに、あいつは文句一つ言わないんだ。親父の言いつけを守って俺と”仲良く”やってんだよ。逆に、こっちはたまんなかったよ。だから、わざと一霧の困るようなことをやらかせて怒らせようとしたりもした。でも全然挑発に乗ってこないんだ。あんな出来過ぎた子供なんているわけないのに」
「私、思うんだけど」
美夜子は俺に続いて言った。
「ひろくんは、あなたのことを憎らしく思ってなかったんじゃないかな」
「え?」
俺が聞き返すと美夜子は優しく微笑んで続けた。
「そりゃ、最初はとまどったかもしれないけど。でもとても優しくて、いいつけをちゃんと守るいい子で・・・。でも、私、二楼ちゃんとひろくんって、いいコンビだと思うのよ。性格は全然違うけど、お互い無いものを補ってるっていうか・・・。ひろくんも、あなたといて居心地いいんじゃないかな」
「そうかな」
「そうよ。あなたはどうなの? ひろくんのこと、好き?」
「なんだよ、気持ち悪い言い方すんな」
「はぐらかさないの。ちゃんと答えて」
俺は美夜子の真剣な目に一瞬どきっとしながらも、
「・・・俺はヤツを気に入ってるよ。一番信頼できる友達だとも思ってる」
と答えた。そして俺は優しく美夜子の頬に触れた。
「ありがとう。俺、あんたにこうやって何回救われたか」
美夜子のまっすぐなきれいな瞳を見つめた。
「俺、力ずくでもあんたを俺の物にしたいよ」
すると美夜子はくすっと笑って、
「私は私よ。誰の物でもないわ」
と言った。
「そんなところがまた魅力的なんだけどね、女王様」
俺も笑って返した。
そして美夜子にキスをしようとしたとき、
「おっと、お邪魔だったかな」
一霧が病室に入ってきた。俺は思いきり不機嫌な顔をしてみせると、
「邪魔邪魔邪魔。せっかくいいところだったのに!」
と答える。しかし、美夜子は「わーい、ウーロン!ありがとう!」とウーロン缶を受け取って何もなかったように飲み始める。一霧はそんな俺に牛乳パックを差し出した。
「ほれ、カルシウム取れ」
「てめー! 俺が牛乳飲めないの知ってて買ってきたなー!」
すると一霧は俺の手から牛乳を奪い取ると、まだ眠っている三太の枕元に置いた。
「うそ。これは三太の。目がさめたとき、俺らだけ飲んでこいつだけなかったら、またごねるだろ?」
そして俺にウーロン缶を差し出した。
「ほれ。愛しのおにーちゃんからの、おごりだ」
とニヤニヤしながら言った。俺はそれで直感した。
「・・・・お前、さっきの話、聞いてたろ?」
ガラにもなく、一霧を褒めてしまったからちょっときまりが悪い。
すると一霧はとぼけた顔をする。
「さぁ、なんのことやら。早く飲めよ。大丈夫、毒は入ってないから。俺のこと信頼してんだろ?」
「やっぱり聞いてたな!」
と言って、差し出されたウーロン缶を奪い取った。一霧は「悪いね。自販機がすぐそこにあったから」とドアの向こう側を指差して椅子に腰を下ろすと、
「・・・お前がこの家を出ていくかもしれないと知ったとき、ショックだったよ」
と、つぶやくように言った。俺は意外な言葉に唖然とした。一霧は俺を見て、
「お前はこの家族に必要な存在だ」
真顔でそんなことを言うので、俺は思わず飲んでいたウーロン缶を落としそうになった。
「と、、、突然、なんだよ!」
と慌てて言うと、照れ隠しにウーロンをがぶ飲みする。一霧は続けた。
「小百合さん、広島に帰るらしいよ。さっきロビーで親父と話してるのが、たまたま聞こえたんだ」
しばらくの沈黙の後、俺は一言、
「あ、そう」
そして何事もなかったようにウーロンを飲み干すと、缶を手でにぎりつぶした。
「お前連れて帰るってさ」
その瞬間、俺は立ち上がった。
「まだあいつそんなこと言って!!」
「親父がすすめたんだ」
一霧が真剣な顔つきで言った。
「小百合さん、病気だって。もってあと半年だとよ」
俺は驚いて一霧を見た。美夜子も驚いて言った。
「だから、今になって二楼ちゃんに会いに来たのね」
すると一霧が頷いた。
「最後に二楼と暮らしたかったんだろう」
俺はショックで一瞬頭の中が真っ白になった。
もうすぐ、アイツが死ぬ?!
「・・・・いつでもそうなんだ」
俺は頭を抱え込んだ。
「いつもアイツは自分の都合で俺を振り回すんだ。勝手に出ていって勝手に戻ってきて、今更一緒に暮らせるかよ。俺は絶対嫌だ!」
そう言って病室を出ようとしたとき、
「にーちゃん」
三太だった。弱々しい声でうっすらと目を開けて、そう言った。
俺たちは三太のベッドに駆け寄った。
「三太! 俺が分かるか?!」
三太はゆっくりと周りを見回した。
そして俺の方を向くとゆっくりと言った。
「ごめん、にーちゃん。どこでも行っちゃえばいいなんて言って、ごめん・・・」
そして涙を流した。俺は三太を抱きしめて言った。
「もういいから!泣くな!」
「ごめん。かーちゃんが違うとか、そんなことどうでも良かったんだ」
「分かったから、もう何も言うな!」
「・・・これからも、俺のにーちゃんでいてくれるよな?」
俺はあふれ出そうになった涙をぬぐうと、三太を見て笑った。
「あったりまえだろ、ばーか」
すると三太は嬉しそうに笑ってまた眠りについた。
数週間後、三太は無事退院した。後遺症もなく、以前のように元気になり通学も可能になった。
季節は冬。母親の突然訪問から3ヶ月が経った。
「おい、外に出るなって、あれほど言っただろう!!」
俺は雪がちらつく中、病院の中庭でなにやら仕事をしている母さんを呼びに外へ出た。
すると、母さんは泥だらけの手でにっこりと微笑んだ。
「花が倒れてたから可哀相になって」
俺はそんな母さんに呆れ顔で言った。
「あのなー、そんなことは、看護婦か誰かに頼めばいいんだよ! お前は安静にしてないと駄目だって、あれほど親父に言われたろう!!」
すると、母さんはきょとんとした顔で言ったのだった。
「あんた、ますますお父さんに似てきたねぇ」
俺はため息混じりに言った。
「・・・・病室戻るぞ」
結局、母さんの病状が思わしくないので、あれからずっと親父の病院に入院していた。俺はすっかり痩せて体力が落ちた母さんを見て、憎しみとかそういうものはもうどうでもいいような気がしてきていた。こいつは俺を生んだ、ただのオバサン。今はそんな感じだった。
「二楼坊ちゃん、お父様がお呼びですよ」
ここの病院の婦長を務める看護婦が病室に入ろうとした俺を引き留めた。
俺は親父のいる院長室へ向かう。
話の内容は想像がついた。母さんのことだろう。
院長室へ入ると、親父がレントゲン写真を広げて待っていた。
「お前も医者の卵なら少しは分かるだろう」
「医者の卵じゃなくたって、分かるさ。・・・やばいんだろ?」
すると、親父はため息をついて頭を抱え込んだ。
「もっと早くに医者に見せてたら、こんなことにはならなかったのに」
俺はしばらく何も言わずに母さんのレントゲン写真を眺めていた。
しかも気づいたときはすでに遅く、手の施しようがなかった。
親父がうつむいて言った。
「私の愛した女性は、みな早死にしてしまう」
そして独り言のように続けた。
「私は、友人と出かけたスナックで小百合と会った。小百合はとても魅力的な女性だった。最初はただそれだけだった。だが、次第に愛すようになった。彼女は私に安らぎを与えてくれた」
俺は親父をにらみつけた。
「そんなに簡単に女を愛して、どれだけ一霧の母親を苦しめたか分かってんのかよ。そして、そのせいで産まれた俺は自分の存在をどれだけ惨めに感じたか知ってんのかよ。俺は自分が産まれて良かったと感じたことは一度もなかったよ」
「二楼・・・」
俺は悔しい気持ちでいっぱいだった。”愛人の子供”に、世間の目は冷たかった。引っ越しを繰り返したがそのことはすぐにバレた。俺はいつでも世間の冷たい目にさらされてきたのだ。
「俺は親父のことも母さんのことも憎んでた。憎むことしか出来なかった。本当は誰かを愛したかったのにそうできなかったんだ! それがどんなにつらいことか、お前に分かるか?!」
俺は今まで我慢してきたものが一気にあふれ出てくる気がした。自分でも止められなかった。
「大人の都合で子供を振り回して、よく平然と父親ヅラしてられるよな、あんたも。一霧も同じ気持ちだろうよ。あんたのせいで、どれだけの人間が辛い目に合ってるか、少しは考えたことあるのかよ!!」
「二楼・・・・、すまなかった」
そう言った親父がとても小さく見えた。俺を殴り飛ばしていた親父はどこにもいなかった。今は、以前愛した女の命の火が消えそうになるのを怖がっているただの中年だった。
「二楼、これだけは言っておきたい。お前は、かけがいのない俺の息子だ。とても・・・愛している」
「愛してれば何してもいいってわけじゃねぇ!」
そのとき、院長室のドアがノックされて一霧が顔を出した。
「外まで声が丸きこえだぜ」
「一霧・・・」
一霧は中に入りドアを閉めると椅子に腰掛けた。
「親父、俺も1つだけ聞きたいことがあるんだけど」
「なんだ?」
「ずっと怖くて聞けなかったんだけど、ハッキリさせておいた方がいいような気がして」
俺は遠回しに言う一霧に事の重大さを感じた。
そして一霧は親父に尋ねた。
「三太は誰の子供なんだ?」
その瞬間、親父の顔がこわばったのが分かった。俺は訳が分からずに一霧を見た。
「いきなり、何言ってんだよ」
すると、一霧は真剣な顔をして続けた。
「今、二楼が親父と口論していたことにも関係するような気がしたから、今こうやって聞いてる。確信を持ったのは三太の事故の時だ」
すると親父は深いため息をついて言った。
「お前は昔から察しがいいからな。でも、今更、真実がどうあれ過ぎたことだ」
しかし一霧は引き下がらなかった。冷静に、でも強い口調で言った。
「三太は大量に出血して輸血が必要だった。そして探していたのはO型の血液だ。親父はAB、母さんはAだった。O型の三太が産まれるわけがない。あなたは、俺の母さんが・・・・妻がいながら、小百合さんだけでは飽きたらず、他の女にも手をつけていたんですか」
俺は驚いて親父を見た。親父はしばらくの沈黙の後、つぶやくように言った。
「そうだ」
俺はその瞬間、親父に殴りかかろうとした。そこを一霧が制した。
「放せ! 殴ってやる!」
「やめろ。親父は嘘をついてる」
一霧の言葉に俺は振り上げた拳を降ろした。
「どういうことだ?」
一霧は上着のポケットから1通の古びた手紙を取りだした。
「なぜ嘘をつくんです? すべてがここに語られている。これは亡くなった母さんが親父に書いた手紙です」
その瞬間、親父の顔色が変わった。
「お前、勝手に人の部屋に入ったな」
「医学の参考書を借りようとして書斎に入っただけです。見られたくないものはしっかり管理しないとだめですよ。俺は・・・今まで親父を軽蔑してきた。母を苦しめ、俺を苦しめ、なぜ他の女に手を出すのか。はっきり言って親父のことは嫌いだった。でも実は親父ばかりが悪いんじゃなかったんだ」
「一霧、それ以上言わなくていい」
親父が口を挟んだが一霧は続けた。
「三太は、母さんと母さんの浮気相手との子供だ」
俺は驚いて一霧を見た。
すると親父は深いため息を付いた後、観念したように話し始めた。
「実は結婚して半年たったころ偶然にも明美が・・・・一霧の母親が、他の男と会っているのを見てしまった。二人はとても幸せそうにホテルに入っていった」
驚いて目を見張る俺と「やはり・・・」といった顔をする一霧。親父はうつむいた。
「実は私は明美に恋人がいることを知りながら、無理に結婚したのだ。私は心底明美に惚れていて、どうしても手に入れたかった。明美の恋人は売れない小説家で貧乏暮らしで明美の両親は交際を良く思ってなかったのをいいことに。しかし私と結婚してからも2人の関係は終わっていなかったのだ。そして小百合に妻の相談をしていくうちに、小百合を愛し始めてしまった」
俺は衝撃的な事実に愕然とした。まさかそんな事実が隠されていたとは。
「そして三太は・・・・一霧の言ったとおり、明美と、つき合っていた男との子供だ。二楼、お前と三太は全く血のつながりはない」
俺はショックで何も言うことが出来なかった。親父はつらそうに顔をゆがめた。
「・・・・なんだよそれ。まじかよ」
俺は頭を抱えた。
親父は一霧の肩に手を置くと、
「一霧と三太の中では、ずっと明美を誠実で優しい母親でいさせてやりたかった。だから、このことは私だけの胸の内にしまっておこうと心に決めた。今まで黙っていて、すまなかった」
親父の顔は悲痛そのものだった。
俺は力無くそこにあった椅子に腰を下ろした。
「もう、わけわかんねぇよ」
一霧も何も言わずに親父を見つめていた。
今までどれだけ沢山の人の気持ちがすれ違っていたんだろう。
すれ違いを重ねて、嘘を重ねて・・・。
親父は少し肩をふるわせていた。
「すまない。私は父親失格だ」
力なくうなだれた親父は、俺の今まで見たことのない親父だった。威厳に満ちた父親はここにはいなかった。
「やめてくれよ! 親父が今までのことを悪く思って落ち込むなら、親父にさんざん振り回されてきた俺らはなんなんだよ。惨めじゃんか」
俺は親父の肩をゆすって言った。すると親父は顔を上げて俺を見た。
「否定などしていない。こんなにいい子供たちに恵まれたんだ。三太だって、実の息子だと思ってるよ」
すると一霧が言った。
「親父はいろいろやらかせてくれたけど、実際うまくまとめてると思うよ、この大家族を」
「一霧・・・」
「それに、親父の医者の腕は一流だと思う。俺はずっと親父が目標だった。父親としては完璧とは言えないけどね」
一霧は照れ隠しなのか少し皮肉って笑った。
俺は一霧がこんな風に親父のことを思っていたなんて知らなかった。ただ憎んでいるとだけ思っていた。親父に対してはいつも一歩おいて接しているような感じだったし、親父も一霧に対してはそんなこところがあった。
そして一霧はちょっとおどけて言った。
「それに”完璧な家族”なんて、二楼が退屈するだろうし」
「おいおい、俺に振るなよ!」
俺が慌てて返すと一霧は「冗談だよ」と言って笑った。
”完璧な家族”---実はこれには”定義”なんかない。そんなことは誰も分からない。ただそこにいる人間が「幸せ」だと感じるなら、そうなんじゃないかと思う。それだけで十分なはずだ。
俺たちは”完璧な家族”だと思う。
1ヶ月後。母さんはこの世を去った。病気で苦しかったはずなのに、とても安らかな死に顔だった。
一緒に過ごした時間は少なかったものの、いつも俺の心のどこかに居続けていた人だった。そしてこれからも。
「二楼、桜好きなんだね」
満開の桜を見つめ続ける俺に、木下が缶ジュースを差し出して言った。俺はそれを礼を言って受け取ると、
「みんな好きじゃない? きれーだし」
「たしかに嫌いな人はいないと思うけど」
木下は俺の隣に腰を下ろす。
ここは大学のキャンパス。二人で芝生に寝転がって暖かな春の日差しに包まれていた。
俺と木下との関係は進展はなく、ちょっと毛の生えた(?)友人のつきあいが続いていた。
「ねぇ、二楼」
「あん?」
俺はあくびをしながら答える。
「美夜子さんには、ちゃんと告白したの?」
そのとたん、俺は一気に目が覚めてしまって、体を起こして木下を見た。
「なんでそのこと・・・」
すると木下はさびしそうに微笑んで体を起こすと、
「見てれば分かるわ。美夜子さんのことが好きだって事くらい」
・・・しかし、俺と美夜子とは義理の姉弟だと知らないはずじゃ・・・???
「私ね、そういう恋があってもいいと思うの。ほら、今じゃゲイだって沢山いるし。近親相姦だって、あってもおかしくないわよ」
おいおいおいおいおい! やっぱり、勘違いしてる!!!!
「あのなー、近親相姦じゃねーよ! 血はつながってねーの!」
俺が勢いよく訂正すると、木下はにっこりと笑ったのだった。
「知ってるわ。やっぱり美夜子さんのことが好きだったんだ」
「・・・・カマかけたな」
「いつも、しらばっくれるバツよ」
「・・・・一霧がチクったな」
「違うわよ。義理の姉弟かって私が聞いたら、そうだって教えてくれただけ」
俺はそれには何も答えずにしばらく沈黙を続けた。
そして、観念したように小さくため息をついて、
「ごめん」
と言った。
木下の気持ちには答えてやれなかった。
すると木下は一生懸命笑顔を作って言った。
「いいの。分かってるから」
そして木下は立ち上がって服に付いた芝生をはたくと、
「じゃ、私、もう行くわね。前途多難な恋だけど、頑張ってよね!」
と手を振って去っていった。
「前途多難か・・・・」
そうつぶやいて、俺は走り去る木下の後姿を見つめた。
俺は重いため息をついた。血がつながっていないとはいえ、姉弟の恋なんて、進展は考えにくいか・・・。でも、美夜子を好きになったときから、それは覚悟していたことだった。
「よぉ、悩める青少年!」
突然、一霧が目の前に現れて思わずのけぞってしまった。
一霧は俺の隣に腰を下ろして、タバコを取り出して火をつけた。俺はそれを奪い取ると、
「見てたのか? からかうなよ」
と言って、それを一服する。すると一霧は「たまたまだよ」と言って、もう一本タバコを出してくわえた。
俺はつぶやくように話し始めた。
「俺さー、こう見えても結構子供好きなワケよ」
一霧は何も言わずにタバコをふかす。
「美夜子の子供、めっちゃかわいがってやるんだー」
そこで一霧は呆れ顔で俺を見た。
「・・・いつものことながら、話のつじつまが合わないヤツだな。姉貴はまだ妊娠どころか結婚もしてねーぞ」
「結婚するんだって」
俺が言うと一霧は驚いた。俺はにんまりと笑って、
「俺と」
すると、一霧は俺の頭をはたいた。
「冗談よせよ」
しかし、俺はそれには答えずに芝生に寝転がり被っていた帽子で顔を覆った。
「商社マンだって。来月からアメリカ行くってさ」
昨日、美夜子が言った。実は最近つき合い始めた男がいて、そいつが海外赴任が決まったので、急だが結婚を決めて、ついていくことにしたらしい。
「俺さ、いつかはこんな日が来ると思ってだけど、あまりにも突然だし、しかもアメリカだぜ? つき合ってるヤツがいるなら言ってくれればいいのに、俺の母さんのこともあったし、なかなか言い出せなかったんだとよ」
俺は帽子で顔を覆っていたので一霧がどんな顔をしているかは分からなかったが、俺に同情してくれていることは感じ取れた。
「あいつ、英語なんかしゃべれないくせに、アメリカなんかで生活できるのかよ。魚好きなくせに肉ばっか食う人種になじめるのかよ。せっかく美容師の腕もあがってきたってのに向こうでちゃんと職に就けるか分かんねーじゃんか。バカだよ」
俺はここまで言って喉をつまらせた。
目から生温かいものが、いくつも頬を伝って落ちていった。何とも言えない脱力感が体中を襲った。
これが失恋というものなんだと感じた。
心にぽっかり穴が開いて、そこへ冷たい風がピューピュー吹きこんでくる。心が冷たくなり、痺れてくる。こんな感情は初めてだった。
しばらくして、一霧が口を開いた。
「2人して、新しい門出に乾杯しよう」
「・・・2人?」
俺が理解できずに聞き返すと、
「俺も失恋したから」
と一霧。俺は驚いて起きあがった。
「なんだよ!お前ももしかして・・・・」
すると一霧は俺にハンカチを差し出して、
「違うよ。・・・・俺の好きな女はお前のことが好きなんだ」
俺は目が点になった。それって・・・
「木下若菜?!」
すると一霧は肩をすくめた。
「あいつも、お前と同じ顔の俺のことは選ばないだろ」
「一霧・・・・」
全く気づかなかった。そういえば一度好きな女のことを聞いて、木下だと答えたことがあったことを思い出した。
「あれはマジだったのか・・・」
すると一霧はごろんと横になると、
「あれがどれかは分からないが、そういうことだ。お前も罰当たりな男だな。今度殴らせてくれ」
「・・・・仕方ないやつだな。一発だけだぞ」
俺が立ち上がると一霧も続いて立ち上がった。一霧はにやっと笑うと、
「手加減なしで行くぜ」
俺は渋い顔して頷く。
と同時に腹に激痛が走って、俺はしゃがみこんだ。
「い・・・いってー!!! 思い切りぶん殴りやがって!!!!」
俺が叫ぶと、一霧は自分のこぶしをさすりながら、
「お前には前々から、いろいろムカつくこともあったんで、もろもろの事情も込めて」
「大昔のことをひっくり返すなんて陰険だぞ。前向きに生きろ!バカ兄貴!」
これだから、ため込む性格はいやなんだ! あとでキレると手に負えなくなる。
「女に振られるわ、殴られるわで、さんざんだわ、俺」
と、ぶつぶつ文句を垂れていると、一霧は再び芝生に腰を下ろして意外なことを口にした。
「俺もお前にずっとコンプレックスを持ってたよ」
俺は驚いて一霧を見た。
一霧が?俺に?
「なんのために?」
「・・・・お前、言葉の使い方、間違ってるぞ」
俺も隣に腰を下ろす。
「お前、そんなに驚いた顔するなよ。話しにくくなるだろ」
一霧が苦笑すると、俺は思わず「ごめん」と謝って顔を背けた。
「お前はさ、いつも自由で、何でもやりたいことやって、まぁ俺が見たら馬鹿みたいなこともしでかすけど、その自由さがうらやましかったし、たまに自分もああなれればと思った。でも一番ショックだったのが受験のときだ」
「・・・受験?医学部の?」
俺はすっかり腹の痛みも忘れて聞き入っていた。
「そう。お前は勉強も適当にやってて、宿題はいつも俺の写してたし、授業中は寝てるし、そんな状態で適当に医学部いくのを決めて、ちゃっかり受かって。真面目に勉強してる俺は何なんだって惨めな気分になった」
「おいおいおい。俺が受かったのはお前のおかげだぜ。お前の完璧なノートと、的確な教授がなかったら、俺は全くダメだったよ」
俺が肩をすくめてみせたが、一霧は真面目な表情のままで続けた。
「飲み込みが早いんだよ、ものすごく。認めたくないけど、俺より出来がいいと思う。お前が俺と同じように勉強してたら、俺よりずっと上にいるよ」
「ちょっと待てよ。褒めすぎだよ。大丈夫か? 何か悪いもん食ったんじゃないか?」
俺が慌てて言う。一霧はしばらく間をおいて答えた。
「・・・そうかもしれないな」
そう言って少し笑うと俺の方を見た。
「お前は、本当に医者になりたいのか?」
「俺は・・・」
俺は口をつぐんだ。親父への意地で医学部に入ったようなものだし、実際医者になりたいと思ったことは一度もなかった。
でも母さんの入院で少しずつ考えが変わってきていた。
「俺は医者になるよ。少しでも苦しんでいる人の役に立つのなら」
自分で言って、自分で驚いていた。
一霧はそんな俺を見てにんまり笑うと立ち上がった。
「じゃぁ、これからはライバルだな。もうノートも見せないし、授業もちゃんと聞くことだ」
「ちょっとまてよ! それとこれとは話が違うぞ! しかもなんでライバルなんだ。ライバルどころか同志じゃないか!」
「お前に意地悪言ってみたくなっただけだ。もう行こう。授業が始まるぞ」
そう言って、一霧は手をひらひら振りながら構内に入っていった。
俺は起き上がって伸びをした。なんとなく晴れやかな気分だった。
俺は医者になる。
声に出すと、こんなにもすっきりした気分になるなんて思ってもいなかった。
と同時にやっぱり俺は一霧にはかなわないと思った。
――――――10年後。
南総合病院、小児病棟201号室。
俺はベッドの脇に腰をかけて、ここに入院中の少年とジグソーパズルをして遊んでいた。
「ほら、これで出来上がりだ」
最後のピースをはめこむと、少年は嬉しそうに微笑んだ。
「初めてできた!」
俺は「おー! よくやったな」と少年と手と手を合わせてぱちんと鳴らす。
彼は脊椎の病気で下半身が麻痺して動けなかった。入院して1年になる。
そこへ、ドアがノックされ誰かが病室に顔をのぞかせた。
「兄貴? ここにいたのか。もうあがったって聞いてたけど」
入ってきたのは三太だった。俺は少年の頭をなでながら、
「そう。でも見舞いに来るはずのこの子の母親がちょっと遅れていて、この子が寂しそうにしてたから相手してたのさ」
と俺が少し冗談めかして言うと、少年が顔を真っ赤にして叫んだ。
「さみしくなんかないっ! 僕がじろうの相手をしてやっただけだ!!」
俺はそんな少年の頭をなでながら、
「ごめんごめん、そうだったよな。ありがとな、光クン」
と言うと、光は真っ赤な顔したまま、照れたように顔を背けた。
そのとき、三太の姿が目に入ったようで、声をあげた。
「もしかして、Jリーガーの桜木三太?!」
三太は「そうだよ」と笑う。すると少年は目を輝かせて言った。
「僕、ファンなんだ! サインくれよ!」
昨日20歳の誕生日を迎えた三太は、2年前にプロのサッカー選手になった。その実力は広く知れ渡り、少年たちの憧れの選手になっていた。
三太がサインをすると、少年が嬉しそうにそれを見つめていた。俺はそんな光景を微笑みながら眺めていた。
俺は小児科医として親父の病院で働いている。最初は外科を目指したが、どうしても血が受け付けられず、結局、小児科と精神科の医師として働くことに決めた。一方、一霧は外科医として親父の有能な片腕となっている。
「ところで、何か用だったのか? 病院まで訪ねてくるなんて」
俺は帰り支度をし、三太と一緒に病院から出て、入り口に続く広い病院の庭を歩いていた。
「姉貴がアメリカから帰ってきてるよ」
俺は一瞬体が硬直した。
美夜子が帰ってきている。
「まー坊もでかくなってたぜ。俺、今日オフだったから実家に戻ったんだ」
三太は今家を出てマンションで一人暮らしをしている。といっても、家から徒歩数分なのでよく帰ってくるのだ。
「いつも突然帰国するんだな」
俺は平静を装いながら言うと、三太は、
「姉貴、離婚したってよ。つまり出戻ったわけだ」
と思いがけないことを言うので、驚いて今度は歩みを止めてしまった。
「離婚?!」
心臓が早鐘をうつ。美夜子が離婚した?!
相手の仕事が忙しすぎて、なかなか夫婦の時間がもてないと嘆いていたことはあったけど、それが原因だろうか。
俺の心臓はまだ大きく脈打っている。俺はまだこんなにも美夜子を愛している。どんなに他の女と付き合ってもダメだった。美夜子のことが忘れられなかった。
「おい、二楼にぃ? 大丈夫か?」
俺があまりにも深刻な顔をしていたらしく、三太が心配そうにのぞきこんできた。
「あ、ごめん。大丈夫だ」
三太は、平静を取り繕って言う俺に何か言いたげな眼差しを向けた。
「姉貴は、二楼にぃのことが好きだと思う」
その瞬間、体が硬直した。
「俺ももうオトナだから、いろいろ理解してるつもりだぜ。遊び人の二楼にぃでも、誰が本命なのかくらいお見通しさ」
と、三太はにんまり笑った。
「・・・お前、いつのまにそんな色気づきやがったんだ」
俺は三太の頭をこづく。三太はいたずらっぽく笑って、
「早く、行ってやれば? オニーチャン!」
と俺の背中をばんっとたたいた。
俺はバイクが停めてある駐車場へと駆け出した。
俺はまだ実家に住んでいた。一霧は半年前結婚して家を出て、三太も同じころ家を出た。だから今は、親父とお袋と俺と高校生になった葵と碧で暮らしていた。
俺はバイクを車庫に置くのも面倒で、家の前に乗り付けて、玄関へ向かいながらヘルメットをとった。
美夜子に会うのはなんと5年ぶりだ。最初は1年に一度帰国していたが、いつのまにか帰国しなくなっていた。連絡も途絶えがちになっていて、俺は便りのないのはいい知らせだと自分に言い聞かせていた。
「ただいま」
俺は家に入り、靴を脱ぎ捨ててリビングへ向かう。
すると、10歳くらいの男の子が駆け寄ってきた。
「じろうー!」
美夜子の子供、真人だ。
俺は真人を抱き上げた。
「よぉ、まー坊。元気だったかー?」
真人はアメリカ生まれのアメリカ育ち。元気の良い男の子だ。そして英語と日本語を巧みに使い分けるバイリンガルである。
真人を抱いてリビングに入ると、そこにはずっと会いたかった美夜子がいた。少し痩せたようで、雰囲気もかなり落ち着いている。でも、やはり以前と変わらぬ美人だった。
美夜子は俺を見つけると、嬉しそうに微笑んで立ち上がった。
「久しぶり、二楼ちゃん」
そう言って抱きついてきた。
「アメリカナイズされてんな」
俺が冗談めかして言うと、美夜子はにっこりと笑った。
「アメリカでは挨拶代わりにキスもするのよ」
そう言って、俺の頬にキスをした。
俺は間近で美夜子に触れて、心臓が止まりそうになった。
美夜子のにおいもそのままだ。全然変わってない。
「葵と碧はまだ学校よね。お父さんも仕事だし、お母さんも出かけてるようね。さっき、三ちゃんが来たのよ。三ちゃん、かっこよくなったわね。アメリカでもたまに日本サッカー、テレビ放送してるから見てたわ。三ちゃんね、しばらく真人と遊んでくれたの」
美夜子は「お茶いれるね」と言って、キッチンでお湯を沸かし始めた。
「二楼ちゃんは? 今日はもうあがり?」
「うん」
俺が答えると、美夜子は「おつかれさま」と微笑む。
美夜子の微笑みも変わらない。俺の好きな美夜子だ。
美夜子はキッチンの棚の中から饅頭を取り出してにっこり笑った。
「アメリカにいると和菓子が恋しくなるのよね」
と嬉しそうに皿に並べる。
「二楼ちゃんも見た目によらず、甘いもの好きだったよね。何個ずつ食べよっか」
美夜子は相変わらずの明るさで振舞っているが、どこかぎこちなさが漂っていた。
「離婚したんだって?」
俺が唐突に聞くと、美夜子は饅頭を皿に並べていた手を止めた。
「三ちゃん、もうしゃべっちゃったのね。そうよ、もうアメリカには戻らない」
「何があったんだ? 俺、何も聞いてないよ」
離婚したという事実もショックだったけど、それを三太から聞かされて初めて知ったこともショックだった。
美夜子は幸せだと思っていた。
美夜子は小さいため息をつくと、和菓子が並べられた皿をテーブルに置き、茶の入ったきゅうすにお湯を注ぎながら言った。
「いろいろあったのよ。いろいろあって、ダメになっちゃったの」
俺は詳しく聞きたかったが、真人の手前もあるので、それ以上つっこまなかった。
俺たちは向かい合って座り、茶をすすった。美夜子は饅頭を食べて「おいしい」と笑った。その隣で真人も饅頭に食らいついている。
「そういえば、ひろくん、木下さんだったけ、あの子と結婚したんだって?」
美夜子は話題を変えて、一霧のことを聞いてきた。
そう、一霧は木下若菜と結婚したのだ。
「そうだよ。いつの間にかつきあっててさ。1年もしないうちに入籍だよ。似合いのカップルだ。ただ俺は結婚するなら医者は嫌だな。木下も同じ病院の外科医だからさ、なんか家で食事中もオペがどうのとか、あの患者がどうのとかって話になりそうじゃん?」
すると美夜子は「それでも幸せならいいのよ」と少し意味深な言葉を口にした。
「二楼ちゃん、もう前のように金髪頭にはしないのね。今もかなり明るい茶色だけど。それもよく似合ってるわよ」
美夜子が俺の髪に触れた。触れられた俺はまるでウブな少年のようにドキドキしてしまった・・・。
「俺も今年で30だからね。親父への反抗心がなくなったからか、年をとったからか、染める気も起こらなくなって、実はしばらく何も色を入れずに自然のままにしてたんだ。そしたらさ、ちょっと面倒なことが起きちゃって・・・」
「何???」
美夜子が興味津々に身を乗り出して聞いた。この表情、全然変わってない。俺の好きな表情だ。
「皆が俺と一霧を間違えるんだよ」
すると美夜子はたまらず噴き出した。
「二人、似てるもんねー!」
俺は苦笑した。
「特に、年寄りの入院患者。もう、しょっちゅう間違えるから、俺、たまに一霧の振りしてたし」
笑い続ける美夜子。
「でもさぁ、一霧も俺と間違われるわけじゃん? 一霧に嫌がられちゃって」
「あらら、かわいそうにー」
と言いながらもまだ笑い続ける美夜子。涙まで流してる。
「一霧、俺の代わりに女に殴られたし」
美夜子はなんとか笑いを抑えて俺を見た。まだ顔に笑いが残っている。
「またなんかやらかしたんでしょ」
「“また”って何だよ、人聞きの悪い。違うよ。向こうが勝手に俺の彼女だと勘違いしてただけ。一霧がカフェで木下と茶してたら、そいつがすごい形相でやってきて、一霧に思い切り平手打ちしたらしいんだ」
美夜子は笑いたいのを我慢しているようだった。笑いそうになるのをこらえてじっと俺の話を聞く。
「さすがに一霧もキレたよ。“お前、その頭、どうにかしろ”って」
美夜子はこらえきれずにまた笑い出した。
「でさ、仕方なく、また染めたわけ。親父も目をつぶってくれてるよ」
けらけら大口開けて笑う美夜子。俺はそんな美夜子がずっと好きだった。ちっとも自分を飾らない、その自然体な美夜子が大好きだった。
「美夜子こそ、もう鳥の巣頭はしないのか?」
以前していたアフロヘアのことだ。美夜子は「してもいいんだけど」と笑った。今は以前のストレートのロングヘアに戻っている。それもよく似合っている。
「美容師の仕事は? 続けてたのか?」
俺が聞くと美夜子はうなずいた。
「たまにね。アメリカも日本人多いからね、お客さんは日本人も多かったわ」
10年たっても美夜子は何も変わっていない。人を和ませる雰囲気もそのままだし、話すときに華奢な白い人差し指でたまに耳を触るクセもそのままだ。
ただやはり、10年多く生きた人間の顔になっている。ただ楽しいだけの毎日じゃなかったことが感じ取れる。美夜子はアメリカでどんな生活をしていたんだろう。ダンナとうまくいってなかったのだろうか。アメリカに行ったときはすでに妊娠していた美夜子。アメリカで真人を産み、ダンナと真人と3人で10年間暮らしてきた。それはどんな生活だったのだろう。
「しばらくはここに住むのか?」
俺が聞くと、美夜子はうなずいた。
「出戻ってかっこ悪いけど、お金もあまりないし、しばらくは仕方ないわ。お父さんがなんて言うかしら・・・」
「親父が追い出すはずないだろう。孫と一緒に住めるのに。」
俺が言うと美夜子は微笑んだ。
そのとき、真人が外で遊びたいと言い出した。
俺は真人の髪の毛をぐしゃぐしゃなでて、
「よし! じゃぁ、叔父ちゃんが公園に連れて行ってやろう!」
「やったー!」と手を上げて喜ぶ真人。本当にかわいい男の子だ。あまり美夜子に似てないから父親似だろうか。実は父親の顔は良く知らない。
そして3人で公園へ向かった。通りに植えられた桜の花が咲き始めていた。春の陽気が気持ちを落ち着かせてくれる。公園に着くと、真人はすぐさま遊具で遊び始めた。俺と美夜子はそんな真人を眺めながらベンチに腰を下ろした。
「あの子、本当に二楼ちゃんが好きね。たまにしか会わないのに、あんなになついて。でもわかるわ。二楼ちゃん、子供好きだし子供にそれが伝わるのよ」
「同レベルと思われてんだよ」
すると美夜子は「そうかもね」と言って笑った。
「ちょうど真人と同じ年だったよ。俺が桜木家に引き取られたのは」
「・・・もうずいぶん前の話になるのね」
本当だ。いつのまにこんなに年月が流れていったのだろう。
俺は美夜子と初めて出会ったときのことを思い出した。俺は美夜子に一目ぼれした。それからいつでも美夜子が俺の一番だった。
美夜子は園内に植えられた桜の木をしばらく見つめていた。俺はそんな美夜子を見ていた。
「二楼ちゃん、孤児院にボランティアにも行ってるんでしょ?」
「ああ。子供たちの体と心の健康診断も兼ねて。子供は健康でいる権利があるのさ」
「孤児院への働きかけは南総合病院の新プロジェクトだって、前にお父さんから聞いたわ。二楼ちゃんが発案したって」
俺は幼いころの自分と同じ立場の少年少女たちの力になりたかった。だから小児科と精神科の医師になり、子供たちを診ることにしたのだ。
「二楼ちゃん、変わったわね。包容力もついてなんだか一段とかっこよくなったわ」
「そうだろ? 俺にしとけよ」
「そうしようかな」
俺たちは冗談っぽく言って笑いあった。
でも俺は冗談で終わらせたくなかった。ここでちゃんとけじめをつけようと思った。
「美夜子」
美夜子は「なあに?」と微笑んで俺を見た。
「俺と結婚してくれ」
その瞬間、美夜子が驚いて目を丸くした。俺は続けて言った。
「ずっと好きだった。いまでも好きだ。愛してる」
美夜子はただ呆然と俺を見ていた。俺は美夜子を見つめ返した。
「もうはぐらかさないでくれ。俺のことを弟以上に見れないのなら、ちゃんとそう言ってくれ。じゃないと俺は他の誰も本気で好きになれない」
その瞬間、美夜子の目に涙が溜まった。
「ごめんなさい。ごめん、二楼ちゃん。私、あなたがそこまで私を好きでいてくれたなんて知らなかったのよ」
「いつも言ってただろ。信じてなかったのか?」
美夜子の目から涙があふれた。
「あなたはまだ若かったし、いつもたくさんの女の子たちに囲まれてた。私は信じることが怖かったの。“姉弟なんだ”って自分に言い聞かせて、あなたを信じようとする気持ちから逃げてたんだと思う。きっとあなたは私でない他の誰かと一緒になる人だって、勝手にそう思い込んで、逃げてた」
「女ってのはよく分からない生き物だな。なんでいつも自分勝手な想像の世界に入っちゃうんだ? なんでそうやって考えるんだ? 俺には理解できないよ」
俺は少し腹を立てて言った。
美夜子はただ「ごめんなさい」と泣きながら謝り続けた。
俺はそんな美夜子の頭をなでた。
「ごめん。もう泣くなよ。怒ってないから。真人が変に思うだろ?」
真人は夢中に遊んでいて、美夜子の涙にはまだ気づいていないようだった。
「二楼ちゃんは私を好きでいてくれたのに、私は他の人と結婚してしまったのよ。そんな私を許してくれるの?」
「許すも何も、怒ってないって言ってんだろ。ちゃんと人の話聞けよ」
「ほら、怒ってるじゃない・・・」
「怒ってないって!」
「怒ってる」
「怒ってない!」
しばらくの押し問答の後、俺たちはたまらず噴きだした。
「相変わらずね、私たち」
「変わらないよな」
今度は二人で腹を抱えて笑った。たくさんたくさん笑った。俺たちは今まで悩んできたことや苦しんできたことなんかを吹き飛ばすかのように笑った。
そして美夜子はふと笑いをとめた。そして俺をまっすぐ見た。
「もう、自分の気持ちにうそをつかない。桜木二楼くん、愛してます。私と結婚してください」
美夜子の晴れ晴れとした幸せそうな顔を見たとたん、すごく熱いものがこみ上げて来た。
これがずっと俺の求めていたもの。出会ってから14年、俺はこれだけを求めてきた。
俺は美夜子に触れた。そして力強く抱きしめた。
「愛してる」
とうとう手に入れた。俺は泣きそうになった。こんなに嬉しい気持ちは初めてだった。
美夜子はしばらく俺の胸に顔をうずめていたが、ゆっくり顔をあげて俺を見た。
「今、激白しちゃうけど」
「ん?」
「真人はあなたの子なの」
驚きすぎて目の前が真っ白になった。
真人が俺の子供?!
「俺は・・・今までもいろいろ驚きの事件に遭遇したが、これが一番驚いた」
「そのわりには冷静だわ」
「驚きすぎてるのかも」
「きっとそうね。無理ないわ」
美夜子は俺から離れて、前を見つめた。そこには元気いっぱい遊ぶ真人の姿があった。
「俊一さんは・・・」
俊一とは美夜子の別れた夫の名だ。
「すべてを知って、結婚を申し込んでくれたの。この世にこんなにいい人がいるなんて、って本当に驚いたわ。彼の私への愛情は本物だった。いつでも優しくしてくれたわ。真人にも本当の子供のように接してくれた。私もそんな彼をとても愛しく感じていた。これからもずっと私たちはうまくいくと思った。でも彼はとても仕事が忙しくて家にいる時間が少ないし、アメリカという慣れない土地にいたし、しかもはじめての育児にとまどっていて、いつのまにか私は少しずつ精神的に病んでしまってたの。うつ病って診断されたわ」
俺は耳を疑った。ショックだった。美夜子が精神病にかかっていたことも、そして俺がそのことを何も知らなかったことも。
「どうして俺に話してくれなかった? なんで一人で悩んでたんだ」
「私はあなたを置き去りにした女よ。こんなこと相談できないわ。あなたは精神科医だし、あなたに会ったら一目で私の病気のことわかっちゃうでしょう?」
「当たり前だ」
俺はショックで声を少し荒げてしまった。
「私はあなたに幸せになってもらいたかったの。私が病気になったって聞いたら、あなたは私のことを放っておかないと思った。そしてまた私のことで振り回されてしまう」
「そんな言い方よせよ。それが俺の望みなんだ」
俺が言うと、美夜子は俺を見て「ありがとう。ごめんなさい」と言った。そして深いため息をついて話を続けた。
「俊一さんは、とても良くしてくれたわ。いい医者を紹介してくれたり、もっと優しく接してくれたり。でも私の病気は良くなるどころかひどくなっていった。とうとう俊一さんも限界になってしまった。それが半年前よ」
「おまえ、半年も前に離婚してたのか?!」
美夜子はうなずいた。
「この半年間、実は家の近くにアパート借りて住んでたの。今家に戻っても、何もよくならない気がした。私がちゃんと自分で自分のことを考えなくちゃいけないと思ったの」
「お前なぁ、なんのために医者がいるんだよ。俺は美夜子の力になりたかったよ」
美夜子の目はまっすぐで曇りはなかった。今はうつ病は回復しているのがわかる。少し情緒不安定な感じはするが、病気と診断するほど悪くはない。
「で、わかったのよ。私が病気になったのは」
美夜子は俺を見据えた。
「あなたがいなかったからよ」
その瞬間、俺の心臓が美夜子の言葉に反応した。激しく脈打つ。
美夜子は少し笑って言った。
「ばかでしょ? こんな簡単なこと、10年間もわからなかったなんて。きっと私、もう長いこと病気だったのよ。思考回路がおかしくなっちゃってたんだわ。昨日、アメリカにいる俊一さんに電話したの。自分の本当の気持ちを伝えるために。そしたらね、彼、なんて言ったと思う?」
美夜子は俺の答えを聞かずに続けた。
「そんなことは初めから分かっていた。教えてやらなくて済まなかったって。それでも私をそばにおいておきたかったんだって。病気にさせてごめんって。謝るのよ、あの人。私が悪いのに」
そう言って美夜子は泣き出したので、俺は美夜子を抱きしめた。
「もういいよ。もう悩まなくていいんだから。もう泣くなよ」
美夜子はうんうんと何度もうなずいて顔をあげた。涙のあとはあっても、とても晴れやかな顔だった。
「真人はね、あなたに似てとても勘が鋭いの。そしてとても頭がいいのよ。日本に帰るとき、あの子は言ったの。『ママとボクは、ボクの本当のパパのことろに戻るんだね』って。驚いちゃったわ。そしたらね、後で聞いたら、俊一さんが真人に言ったらしいの。『これから真人は、ママと一緒に、ママが本当に好きな人のところで暮らすんだよ。パパとは離れ離れになっちゃうけど、パパはいつも遠くから真人を見守っているから。真人の本当のパパは、真人の大好きな人だから、心配することは何もないよ』って」
俺はなんともいえない気持ちになった。
俊一がどんな気持ちでそれを言ったかと考えると胸が詰まった。
「いい人と結婚できてよかったな」
俺は無意識のうちにそんなセリフをはいていた。
俺は思った。逆に美夜子はこの人と結婚しなかったら、俺とも結婚しようと思わなかったかもしれないと。
「ママー! のどかわいたー!」
そのとき、真人がこちらへ走ってきた。
真人。俺の子供。
美夜子に似ていないと思ったら、俺に似てたのか・・・。俺はまじまじと真人の顔を見た。
そして俺は真人を抱きかかえた。
「よし! 少し早いけど花見しようぜ。あ、大蔵省がきた!」
ちょうど公園の向こうの通りを親父が歩いているのが見えた。一霧も一緒だ。仕事を終えて、一緒に帰ってきたんだろう。一霧と若菜もこの近くに住んでいるのだ。親父もいつもは車を使うのだが、やはり桜を見たかったのかもしれない。仕事が休みの日は、家族でよく桜並木を歩き、桜の木の下で花見をした。
「おじーちゃーん! 特上寿司で花見しよーぜーー!!」
俺が叫ぶと、親父がぎょっとした顔でこちらを向いた。
一霧もこちらに気づいて、俺らを見つけると微笑んだ。
桜はまだ三部咲きで他に誰も花見をする人はいなかったが、そんな中でもにぎやかに花見をする桜木一家。もちろん、後で母さんや葵、碧、若菜も合流した。
花見をする俺たち家族はそれはそれは”幸せな家族”に見えたんじゃないだろうか。
俺は自分のひざに座っている真人を抱きしめながらそう思った。
END