【侍女アンナ視点】お嬢様、殿下のお気持ちに気づいていないのは、お嬢様だけです
本作は、短編『婚約破棄されたい悪役令嬢の悪行ノート、なぜか毎朝赤ペンで添削されています』の侍女視点のおまけです。本編のネタバレを含みますので、未読の方はぜひ本編からどうぞ。
侍女の仕事は、主人の身の回りを整えることである。
朝は髪を巻き、昼はお茶を淹れ、夜は明日の服を選ぶ。主人が転べば手を差し伸べ、主人が泣けばハンカチを出す。
主人の恋路に口を出すのは、侍女の仕事ではない。
……ないのだが。
お二人の婚約から五年。すれ違いっぱなしのお二人をそばで見ていると、さすがに言いたくなることもある。
◇
私、アンナがヴァイスフェルト侯爵家にお仕えして、もうすぐ八年になる。
リーゼロッテお嬢様付きになったのは、お嬢様が九歳のときだ。
お嬢様は、口が悪い。目つきも悪い。ついでに縦ロールの巻きが甘い日は、一日中機嫌が悪い。
けれど、使用人の誰一人として、お嬢様を嫌ってはいない。
怪我をした庭師の見舞いに一番に駆けつけるのも、厨房の下働きの子の誕生日を覚えているのも、お嬢様だからだ。本人は「たまたまよ」と言い張るけれど、たまたまが八年も続くわけがない。
そのお嬢様が、十七歳の春、新学期の始まる直前に、お屋敷の階段から盛大に転げ落ちた。
幸い怪我は軽かった。ところが翌朝、お嬢様は真剣な顔でこうおっしゃった。
「私、辺境でパン屋をやりたいのよ……」
「お嬢様? まだ頭を打った影響が?」
私は迷わず、お嬢様の額に手を当てた。
熱はなかった。困ったことに。
◇
その日の午後、王太子ジークハルト殿下がお見舞いにいらした。
滞在時間、およそ三分。
お言葉は「……具合は」「そうか」「お大事に」の三つだけ。
「ほら、アンナ。あれが私の婚約者よ。五年間ずっとあの調子なの」
お嬢様は呆れたようにおっしゃった。
私は殿下が置いていかれた花束を花瓶へ移しながら、そっと息をついた。
白いマーガレット。
お嬢様の一番好きな花だ。
お嬢様は「侍従が適当に選んだのだろう」と思っていらっしゃる。
違う。
五年前、婚約の顔合わせが終わった翌週から、殿下の侍従が季節ごとに私を訪ねてくるようになった。
「リーゼロッテ様のお好きなものを、差し支えない範囲で」と。
好きな花。好きな色。好きなお菓子。苦手な食べ物。最近お読みの本。
侍従は毎回、ものすごく申し訳なさそうな顔で帳面に書き留めていった。殿下に頼まれたとは、一度も言わなかった。言わなくても分かる。
ちなみにこの五年、お嬢様の誕生日に王家から届く贈り物は、一度も外れたことがない。
お嬢様はそれも「王家には優秀な侍従がいるのね」で片づけていらっしゃる。
それから、もう一つ。
「お嬢様。殿下、お嬢様が落ちたと聞いて、公務を放り出して馬で駆けつけたそうですよ」
「三分で帰ったけど?」
「……そういうところだと思います」
お嬢様は、殿下のことだと受け取られた。
本当は、お嬢様のことも申し上げたのだけれど。
◇
話は少し戻る。
春休みのうちに、新学期の帳面を揃えておくよう、お嬢様から言いつかっていた。
「丈夫で、表紙のしっかりしたものがいいわ」とのことだった。
学園通りの文具屋を何軒か回って、三番地の小さな製本屋に入った。
看板には『青い栞』とある。
店の奥にいたのは、白い髭のご老人だった。
お嬢様のご注文を伝えると、ご老人は棚の奥から、濃い紺色の表紙のノートを一冊出してきた。
「これがよろしいでしょう。紙が丈夫で、よく馴染む」
「インクが、ですか」
「ええ。赤でも、青でも」
変わった言い方をなさる方だと思った。
代金を払って店を出ようとすると、ご老人は穏やかに付け足した。
「お嬢様にお伝えください。書きたいことは、全部お書きなさいと。――書かれた計画は、いつか誰かが読みますからね」
私は、それをそのままお伝えしなかった。
自分の書いたものを誰かが読むなどと聞いたら、お嬢様は絶対に何も書かなくなる。そういう方だ。
紺色のノートは、それからしばらく、お嬢様の机の引き出しで新品のまま眠っていた。
目を覚ましたのは、あのパン屋宣言の朝だ。
お嬢様は引き出しからノートを取り出すと、表紙にでかでかとこう書かれた。
『悪行ノート』
……ご老人、申し訳ありません。
たぶん、とんでもないものが書かれます。
◇
お嬢様はそのノートを、決して寮の部屋へ持ち帰らなかった。
私が毎朝お部屋を掃除するので、見られては困るらしい。
見ません。
侍女は、主人の帳面を盗み見たりしない。たとえ表紙に『悪行ノート』と書いてあってもだ。
……表紙は、もう見てしまったけれど。
それからのお嬢様は、毎日たいへんお忙しそうだった。
ある日はタオルと保温瓶を抱えて中庭へ走っていき、ずぶ濡れの男爵令嬢を連れて戻ってこられた。
ある日は他人様の教科書を抱えて、製本屋へ駆け込まれた。あの『青い栞』だ。ご自分のノートを買った店だとは、お嬢様はご存じない。
ある日は小一時間かけて、男爵令嬢にスコーンの割り方を教えていらした。ご本人いわく「いびっていた」そうだ。
一度だけ、お嬢様が忘れた日傘を、教室まで届けに行ったことがある。
お嬢様は机でノートを広げていて、私に気づくと、慌てて閉じた。
閉じる前の一瞬、見えてしまった。
お嬢様の字で書かれた計画の横に、赤いインクで、まったく別の人の字。
几帳面で、少し右上がりの、とても綺麗な字だった。
見ていません。
私は何も見なかったことにして、日傘だけをお渡しした。
◇
「アンナ。私、今夜、犯人を突き止めるわ」
赤い字が現れてから、ひと月ほど経ったころだ。夕食のあと、お嬢様は拳を握ってそう宣言なさった。
「犯人、ですか?」
「ノートの赤ペンよ。幽霊か、妖精か、それとも私が夢遊病で書いているのか……」
「お嬢様の字ではありませんよ、あれ。お嬢様よりだいぶ達筆です」
「さらっと傷つくこと言わないで」
言ってから、しまったと思った。
見たことを白状したようなものだ。
幸い、お嬢様は字を比べられたことのほうに傷ついていて、気づかなかった。
その夜のことは、正直、あまり思い出したくない。
夜中にふと目を覚ますと、お嬢様の寝台が空だった。
手を入れた布団は、もう冷たかった。
犯人を突き止める、とはおっしゃっていた。
けれどまさか、夜中に寮を抜け出してまで捜しに行くとは思わなかった。
お仕えして八年、あれほど血の気が引いたことはない。
寮監室へ走ろうと廊下へ飛び出したところで、向こうから寮母様と当直の侍女たちがやってきた。
担架を抱えて。
担架の上には、すやすやと眠るお嬢様がいた。
心臓が止まるかと思った。
眠っているだけだと分かって、今度は膝から力が抜けた。
「教室で寝ていらしたそうよ」
寮母様はそうおっしゃった。
「さる高貴な方の護衛の方が、見つけてくださって」
さる高貴な方。
お嬢様を寝台へ移し、肩にかかっていた毛布を整えようとして、私は気づいた。
上等で、ずしりと厚い毛布。ほんのりと柑橘の香りがする。
その端に小さく、金糸の刺繍があった。
王家の紋章だった。
私はしばらく、その刺繍を見つめていた。
それから毛布の端を内側へ折り込んで、紋章が見えないように掛け直した。
お嬢様は、きっとご自分で気づきたいはずだ。
侍女が先に答えを言ってしまうのは、野暮というものである。
……五年間、申し上げても聞いていただけなかった恨みが、少しもなかったとは言わないけれど。
翌朝、お嬢様は飛び起きるなり叫ばれた。
「アンナ! 私、どうやって帰ってきたの!?」
私は、知っていることを正直にお答えした。
知っていることの、全部ではなかったけれど。
◇
それからしばらくして、お嬢様は寮の小さな厨房を借りて、オレンジの皮を刻みはじめた。
「お嬢様、それは」
「殿下への誕生日の贈り物よ。わざと地味なものにして、がっかりしていただくの」
焼き菓子だった。
オレンジの皮入りの、素朴な焼き菓子。
私は、洗っていたボウルを持ったまま手を止めた。
覚えている。十二歳の、婚約の顔合わせの日だ。
緊張して一言もしゃべれない王子殿下に、お嬢様はご自分のおやつを半分に割って差し出した。
オレンジの皮の入った、少し焦げた焼き菓子だった。
「無口な人は、お腹が空いているのよ」と言って。
殿下はそれを受け取ると、最後まで一言もしゃべらなかった。
お嬢様は帰りの馬車で「殿下を怒らせた」と大泣きなさった。
けれど私は、お茶を下げるときに見ていたのだ。
お嬢様が席を外したほんの一瞬、殿下が手の中の焼き菓子を、宝物みたいに見つめていたのを。
あれは、人が恋に落ちる顔だった。
「お嬢様。あの日の殿下は、怒っていらっしゃいませんでしたよ」
「慰めなくていいわよ」
申し上げました。
五年前にも、申し上げました。何度も。
お嬢様が聞かなかっただけです。
◇
卒業記念パーティーの夜、お嬢様は王太子殿下に求婚された。
赤いペンで「訂正:結婚」と書き直されたノートを見せられて、お顔を真っ赤にして。
会場の隅で、私はそっと目元を押さえた。
お嬢様にお仕えして八年。殿下の片想いを見守って五年。
ようやくだった。
結婚式は、お嬢様の卒業を待って、王都の大聖堂で挙げられた。
花嫁の付添人を務めたミア様は、誓いの言葉の途中から号泣していて、私はハンカチを三枚お渡しした。
新居が北の辺境ノルトマルクの離宮になることは、求婚の夜に殿下がおっしゃったとおりだ。
式のあと、殿下の侍従がいつものように申し訳なさそうな顔でやってきて、こっそり教えてくれた。
離宮の一階には、パン工房を作ってあるのだという。お嬢様には、着くまで内緒にしてほしいと。
この侍従とも、すっかり長い付き合いになった。
「お嬢様がパン屋になる夢を、まさか殿下が叶えるなんて」
思わず遠い目になった。
つまり私も辺境へ行くということだ。そして、たぶん、パンを焼くことになる。
侍女の仕事に、パン焼きは含まれていない。
……含まれていなかった、はずだ。
◇
ノルトマルクの離宮は、思っていたよりずっと素敵な場所だった。
窓からは国境の深い森が見えて、丘の上には「星読みの塔」と呼ばれる古い塔の影が立っている。
私の朝の仕事は、髪を巻くことから、パン生地をこねることに変わった。
お嬢様は――本当は妃殿下とお呼びすべきなのだけれど、どうにも口が慣れない――毎朝楽しそうにパンを焼き、殿下は毎朝それを無言でたくさん召し上がる。
ときどき、お二人で一冊のノートを取り合っていらっしゃる。
お嬢様が新しく買い足したノートで、表紙には『悪行ノート・第二部』。
見ません。
侍女は、主人の帳面を盗み見たりしない。
ある日の夕方、紅茶を下げに入ると、テーブルの上にそのノートが開いたまま置かれていた。
お二人は窓辺で、何か話し込んでいらっしゃる。いつになく真剣なお顔で。
見るつもりはなかった。
でも、目に入ってしまった。
ページの一番下に、一行だけ。
赤ではない。深い夜空のような、青い字。
『――次の計画は、辺境の地下にて』
私はカップを盆に載せたまま、しばらく動けなかった。
頭の中で、あの製本屋のご老人の声がしていた。
――よく馴染む紙です。赤でも、青でも。
あの店で、最初のノートを買ったのは私だ。
……侍女の仕事に、謎解きは含まれていない。
含まれていない、はずなのだけれど。
私は盆を置き、エプロンの紐を締め直した。
まずは明日、王都の『青い栞』へ手紙を書こう。
お嬢様の侍女として、それくらいは仕事のうちだ。
お読みいただきありがとうございました!
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