わたしは全てが気に食わない
「リディア・フォン・アルヴェイン。貴様との婚約を、今日この場をもって破棄する!」
王立学園の卒業祝賀会。
天井から吊り下げられた巨大なシャンデリアが、何百もの燭台の光を受けて眩しく輝いていた。
磨き抜かれた大理石の床。いつもは殺風景な壁を彩る王家の紋章に、金糸を惜しみなく使った礼装。香水と葡萄酒と花の匂い。
王国でもっとも華やかな夜と言っても過言ではない。
その夜会の途中で第一王子アレクシスは高らかに宣言した。
百を超える視線が一斉に一人の少女へ集まる。
リディア・フォン・アルヴェイン。
公爵令嬢であり、王太子妃候補。彼女ほどの身分を持つものがいない今、未来の王妃となることはほぼ確定とも言える。
しかし今では、この場で悪役にされた女だ。
「……」
リディアは何も言わなかった。
アレクシスの隣には、小柄な少女が立っている。
ミア・ローレンス男爵令嬢。
淡い桃色のドレスを身に纏い、柔らかな金髪がシャンデリアの光を反射する。潤んだ瞳にはアレクシスだけが写っている。
庇護欲を誘うような、いかにも可憐な少女だった。
彼女はアレクシスの腕にそっと縋りながら怯えるようにリディアを見ている。
「リディア」
アレクシスは続けた。
「君がミアにしてきたことはすべて明らかになっている」
「……すべて?」
リディアが静かに口を開いた。
あまりにも静かで、逆に大広間のざわめきが止まった。
「そうだ」
アレクシスは勝ち誇ったように顎を上げ、高らかに罪を主張し始めた。
「彼女を階段から突き落とした」
「……」
「教科書を破いた」
「……」
「昼食会から締め出した」
「……」
「取り巻きを使って孤立させた」
「……」
「彼女が私へ近づいたことを妬み、脅迫までしたそうだな」
その言葉で、今まで黙っていた貴族たちの間にざわめきが走った。
「まあ」
「恐ろしい」
「未来の王妃が?」
「やはり気位が高すぎたのよ」
誰もが小声で好き勝手に囁いている。
それらの声をリディアは一つ残らず聞いていた。
不思議と腹は立たなかった。
いや。正確には、腹が立ちすぎていた。
怒りが一周してひどく冷静だった。
十七年間ずっと我慢してきた。
王家のため。公爵家のため。国のため。
未来の王妃なのだから。
いつもそれだけだった。
五歳の誕生日には玩具を片づけられた。
「もう遊びは卒業です」
代わりに渡されたのは王国史の教本だった。
六歳で外国語をマスターし。
七歳のときには礼法を。
八歳で舞踏。
九歳の頃には外交史。
十歳で財政学。
十一歳の頃には法律。
十二歳で軍事学。
十三歳の頃は神殿へと出向いて宗教儀礼について学んだ。
十四歳で王といえども、政策を通すためには宮廷派閥の力関係を考慮しなければならないということを学んだ。
十五歳で統治論を修めた。
十六歳になり、王太子妃教育が始まった。
そして17歳の今日。卒業祝賀会。
本来なら未来の王妃として正式に宮廷へ入るその直前最後のパーティーとも言えた。
泣くな。怒るな。感情を見せるな。食事を取りすぎるな。笑いすぎるな。早足で歩くな。背筋を曲げるな。誰か一人と親しくなりすぎるな。弱みを見せるな。知りすぎているように見せるな。しかし無知でいてもならない。
王子より先に答えるな。けれど王子が失敗すれば支えろ。王子が間違えれば、誰にも気づかれないよう訂正しろ。王子が功績を上げれば褒めろ。自分が功績を上げれば黙っていろ。
そうやって、ずっと。ずっと。ずっと。
王妃になるためだけに生きてきた。
そして、
「貴様は未来の王妃に相応しくない!」
アレクシスが言い切った、その瞬間に何かが切れた気がした。
もちろん、物理的に音はしなかった。
むしろ、すっと何かが、つきものが落ちたかのようにすとんと消えた。
リディアはゆっくりと周囲を見回した。
アレクシスにミア。取り巻きの侯爵令息たち。
学園の教師たち。王宮から派遣された役人。
父。母。叔父。遠縁の親族。
そしてこちらを面白そうに見ている貴族たち。
誰も彼も気に食わない。
「……そう」
リディアは呟いた。
アレクシスが眉をひそめる。
「何だ?」
「気に食わないわ」
「……何?」
「気に食わない、と申し上げました」
リディアは手にしていた扇を閉じた。
ぱちん。
小さな音がわずかに響いた。
それだけなのになぜか大広間全体が静まり返った。
「まず、殿下」
「何だ」
「婚約を破棄すること自体には異論ございません」
その瞬間、アレクシスの表情にほんの少しだけ安堵が浮かんだ。
「そうか。ならば話は早い」
「ですが」
リディアは続ける。
「この場で行う必要は?」
「……何?」
「卒業祝賀会ですわよね、ここは」
「それがどうした」
リディアはそっと息を吐く。
「王家と公爵家の婚約を破棄するなら、通常は王宮内で両家の代表、宰相、法務官立ち会いのもと協議すべきでは?」
「それは……」
「なぜ百名以上の貴族が集まる祝賀会で?」
アレクシスが言葉に詰まる。
「私には、君の罪を公にする義務がある!」
「裁判所は?」
「……何?」
「証人は?」
「いる!」
「では名前を」
アレクシスが振り返ると側近の一人が一瞬たじろいだ。
「……複数いる」
「誰です?」
「それは」
「証拠品は?」
「ミアの証言がある!」
「調書は?」
「……」
「わたくしへの事情聴取は?」
「……」
「ないのですね」
リディアは淡く微笑んだ。
「それで公爵令嬢を公衆の面前で断罪?」
アレクシスの頬が赤くなった。
「貴様、言い逃れを――」
「いいえ」
リディアはミアをそっと見つめる。
「では確認しましょう」
ミアの肩が揺れる。
「ミア・ローレンス嬢」
「は、はい……」
「わたくしがあなたを階段から突き落としたのは、いつ?」
「……三月十七日、です」
「時刻は?」
「放課後……四時ごろ」
「場所は?」
「東校舎の階段です」
「そう」
リディアは頷いた。
「その日、わたくしは王宮にいました」
「え?」
「隣国エルグラン大使との晩餐会です」
ミアの顔が固まった。
「午後一時に登城。午後二時から王妃殿下と事前打ち合わせ。午後三時から晩餐会準備。午後四時には大使夫妻を迎えております」
アレクシスが振り返る。
「そんな話は」
「殿下もご出席予定でしたわ」
「……」
「体調不良という名目で欠席されましたが」
大広間のどこかで、誰かが吹き出しそうになる。
アレクシスの顔が引きつった。
「入城記録をご覧になります?」
リディアは続ける。
「王宮には正門、東門、北門すべてに記録がございます。さらに、陛下、王妃殿下、宰相閣下、隣国使節十三名、近衛騎士二十四名が証人です」
ミアが小さく息を呑む。
「次にいきましょうか。」
リディアは言った。
「教科書を破られたのは?」
「四月……二日です」
「時間は?」
「昼休みです」
「なるほど」
リディアは少し考えた。
「その日は領地にいました」
今度は何人かが明確にざわついた。
「北東部の洪水被害の視察です。アルヴェイン領から王都までは馬車で一日半。さすがのわたくしでも昼休みに教科書を破って、夕方には領地へ戻ることは不可能ですわ」
「でも!」
ミアが叫ぶ。
「でも、わたし、確かに……!」
「誰が破いたの?」
「え?」
「あなたは、わたくしが破くところを見た?」
「……」
「見たの?」
「見ては……いません」
「では、なぜわたくしだと?」
ミアの唇が震える。
「机の上に、あなたの家紋が……」
「家紋?」
「はい……」
「どのような?」
ミアが説明し、リディアは小さく息を吐いた。
「それ、アルヴェイン家の家紋ではありませんわ」
「え?」
「古い意匠です。三代前に変更されています」
今度こそ、大広間がざわついた。
「現在のアルヴェイン家の家紋は銀鷹と月桂樹。あなたの言っているものは銀鷹と剣。百年以上前のものです」
「でも……」
「王都の土産物屋で売っている紋章集には、古い方が載っていますわね」
沈黙。誰も話さない中、リディアはアレクシスを見る。
「殿下」
「……」
「調べたのですか?」
「何を」
「何もかも」
「もちろん調べた!」
「誰が?」
「私の側近たちが」
側近たちが一斉に目を逸らした。
「では」
リディアは微笑んだ。
「側近の皆様は、王宮の入城記録すら確認せず、アルヴェイン家の現行家紋すら知らず、証言の時系列すら照合しなかった?」
誰も答えない。
「なるほど」
リディアは扇で口元を隠した。
「無能が集まると調査ごっこも大変ですのね」
「リディア!」
アレクシスが怒鳴った。
「言葉を慎め!」
「なぜ?」
「私は王太子だ!」
「だから?」
「……何?」
「王太子なら、無能でも敬われるのですか?」
空気が凍った。
「貴様……!」
「それも気に食わない」
リディアは一歩前へ出た。
「身分さえ高ければ、愚かでも従えと?」
「王家には王家の権威がある!」
「権威?」
リディアは笑った。
「それは能力の代用品ですか?」
「黙れ!」
「黙りません」
「リディア!」
「今まで十七年間、黙ってきたのです」
声が少し変わった。怒鳴ってはいないけれど、それまでよりずっと低かった。
「殿下」
リディアは言った。
「あなたが十三歳のとき」
アレクシスの眉が動く。
「北方騎士団への冬季補給予算を削減しましたね」
「……」
「理由は?」
「それは昔の」
「答えて」
「予算が過大だったからだ」
「違います」
「何?」
「新しい狩猟宮を建設したかったからでしょう?」
何人かの貴族が顔色を変える。
「リディア!」
「結果、冬季補給が不足しかけました」
「だが問題は起きなかった!」
「わたくしが補填案を作ったからです」
「……」
「十四歳。東部の穀物税を一律引き上げようとしましたね」
「それは国庫が」
「凶作の年に」
「……」
「止めたのはわたくしです」
「十五歳。隣国使節に不適切な発言をして外交問題になりかけた」
「……」
「謝罪文を書いたのはわたくし」
「十六歳。軍務卿との会議で海軍予算と河川警備予算を混同した」
「……」
「訂正したのはわたくし」
アレクシスの顔から血の気が引いていく。
「それでも」
リディアは続ける。
「全部、殿下の功績になりました」
誰も何も言えない。
「なぜでしょう?」
沈黙。
「わたくしが未来の王妃だったからです」
リディアは笑った。
「王子を立てるのが役目ですものね」
誰かが俯いた。誰かが目を逸らした。
「お父様」
リディアは父を見る。
アルヴェイン公爵。
王国最大の領地を持つ大貴族。厳格で冷静で。
常に家を第一に考える男。
「……リディア」
父が低い声で言った。
「今は感情的になるな」
その瞬間リディアの目から最後の温度が消えた。
「それ」
「……?」
「それも気に食わない」
「何を」
「感情的?」
リディアは父へ歩み寄る。
「わたくしが十三年間学んだ財政も」
「……」
「六年間担当した王太子殿下の補佐も」
「……」
「四年間続けた領地運営の補助も」
「……」
「すべて無視して」
父の前で立ち止まる。
「意見を述べれば、感情的?」
公爵は答えなかった。
「お父様」
「……」
「わたくしが男なら、同じことを言いました?」
公爵は再び沈黙を選んだ。それが答えだった。
「気に食わない」
次に母を見る。
「お母様」
母は顔を強張らせた。
「女は耐えるものだと教えましたね」
「リディア……」
「夫を立てなさい。家を守りなさい。怒りを見せてはいけない」
「それはあなたのために」
「気に食わない」
「……」
「先生」
王妃教育を担当した老女を見る。
「あなたは、殿下より優秀だと悟らせてはいけないと仰った」
「それは王太子妃として」
「気に食わない」
「リディア様」
「宰相閣下」
白髪の男を見る。
「わたくしの提出した税制改革案を殿下の名義で議会へ出しましたね」
宰相の顔が固まる。
「それは」
「気に食わない」
「軍務卿」
「……」
「北部補給路の改善計画」
軍務卿の肩が揺れる。
「提出者『L』が誰か、ご存じでした?」
「……まさか」
「わたくしです」
ざわめきが大きくなる。
「商務卿」
「……」
「四年前から王都西市場の物流改善を提言していた匿名商会」
商務卿の目が見開かれる。
「まさか」
「わたくしです」
大広間の空気が変わる。
もはや誰もリディアをただの捨てられた婚約者として見ていなかった。
「何が言いたい」
アレクシスが掠れた声で言った。
「君が優秀だと自慢したいのか?」
リディアは、しばらく彼を見た。
「……本当に」
ゆっくりと呟く。
「何だ」
「本当に、何も分かっていないのですね」
「何を」
「わたくしは」
リディアは自分の胸に手を当てた。
「十七年間、自分が何者なのか考えたことがありませんでした」
アレクシスが黙る。
「公爵令嬢だから」
「……」
「未来の王妃だから」
「……」
「国のためだから」
「……」
「全部、それだけ」
リディアは王家の紋章を見上げた。
光輝く黄金の獅子。
この国そのもの。
「けれど」
彼女は笑った。
「ああ」
その笑みはどこか晴れやかだった。
「わたくし、この国が嫌いですわ」
ざわめき。
「リディア!」
父が叫ぶ。
「王家も嫌い」
「貴様!」
「貴族社会も嫌い」
「正気か!」
「公爵家も嫌い」
母が息を呑む。
「婚約も」
「王妃教育も」
「身分制度も」
「男だから」
「女だから」
「生まれが」
「血筋が」
「家名が」
「伝統が」
「格式が」
「全部」
一息に言い切ると、リディアは笑った。
今度こそ本当に楽しそうに。
「わたしは全てが気に食わない」
その夜。
リディア・フォン・アルヴェインは、アルヴェイン公爵家を出た。
父は止めた。
正確には命令したのだ。
「部屋へ戻れ」
リディアは拒否した。
「公爵家を捨てる気か」
「ええ」
「何を言っている!」
「今決めました」
「お前はアルヴェイン家の娘だ!」
「それが嫌なのです」
父の手が上がる。
しかし、頬を叩かれる直前にリディアは父の手首を掴んだ。
公爵の目が見開かれる。
「離せ」
「嫌です」
「リディア」
「お父様」
リディアは静かに言った。
「今日から、わたくしに命令しないでください」
「何?」
「従いませんから」
荷物は少なかった。
宝石や豪華なドレスのようなものはすべて置いていった。
持ち出したのは、数冊の本と地図。
そして黒い外套。
それだけだった。
ただし一つだけ家族が知らないものがあった。
リディアには自分だけの金があった。
十三歳のとき彼女は小さな商売を始めた。
王都の市場で捨て値になっていた北部の羊毛を買い、南部へ流した。
利益は銀貨二十三枚。
次に硝子、香辛料。次に紙。鉄だって取り扱った。
そしてものだけではなく、運送も。
少しずつ、誰にも知られないように。
名前も変えた。
ルディア商会。
四年で王都に三店舗。
地方に倉庫七つ。
輸送馬車四十六台。
船二隻。
商人六十八名。
雇用人数三百名以上。
公爵令嬢として与えられたものではない。
自分で作った。
唯一自分だけのもの。
王都を出た三日後。
リディアは西部へ向かっていた。
目的地は海沿いの小都市レアル。
王都から遠く、中央貴族からは見向きもされない。
小さな港町だった。
けれどリディアは知っていた。
ここには天然の良港がある。
後背地には鉄。北には森林。南には穀倉地帯。
さらに大河の河口。
物流拠点としてこれ以上ない場所だった。
「ここにする」
商会の責任者が驚く。
「ここをですか?」
「ええ」
「ですが、王都に比べれば」
「だからいいの」
リディアは港を眺めた。
「誰も価値に気づいていない」
最初の一年でリディアは港を整備した。
二年目には倉庫を建てた。
三年目に造船所を造り、四年目になると学校を設立。
五年目には診療所。
六年目とうとう銀行をつくった。
七年が経ったとき、レアルは西部最大の交易都市になった。
王都が気づいたときには遅かった。
「ルディア商会を王家の直轄管理下へ置く」
そう命令が届いた。
リディアは書状を読み、無表情に破いた。
翌月。第二の命令。
「交易税を三倍にする」
リディアは払わなかった。
翌々月。
「反逆罪に問う」
リディアは笑った。
「ようやく来たわね」
その頃王都では別の問題が起きていた。
税収減に穀物不足が重なり、軍事費増。
商人の流出。貴族間対立。
そして王太子アレクシスは八年前のあの日から一つも変わっていなかった。
それどころか悪化していた。
リディアがいなくなったから、誰も後始末をしてくれなくなった。
誤った命令に不適切な外交発言。
過剰な宮廷費と無計画な軍事拡張。
すべてそのまま結果になった。
そして国王崩御、アレクシス即位。
即位から二年後。
北部三領が納税拒否。
その翌年、西部諸都市が自治権要求。
さらに翌年。
レアルが完全自治を宣言。
「王が攻めてきます」
側近が報告する。
リディアは地図を眺めていた。
「何人?」
「二万」
「少ないわね」
「少ない?」
側近が青ざめる。
「こちらは八千です」
「知っているわ」
「では」
「でも、あちらは二万」
リディアは地図に指を置く。
「ここ」
細い街道。
「補給路が一本だけ」
「……」
「橋を落とせば?」
側近の目が見開かれる。
「兵は戦えません」
「そういうこと」
戦争はたった十二日で終わった。
二万人の王国軍は一度も大規模戦闘を行わずに撤退した。
その報せは王国中を駆け巡った。
王家は弱く、レアルは勝った。
その翌月北部が蜂起。
さらに東部諸侯が中立宣言。
半年後、王国は事実上三つに割れた。
それから一年。
王都の食料価格は四倍になった。
民衆の暴動。
軍の離反。
貴族の亡命。
そして九年目。
リディアは満を持して王都へ戻った。
馬車ではなく、騎馬でもない。自分の軍勢を連れて乗り込んだ。
けれど門は閉じられなかった。
守備兵が内側から開けた。
リディアは黒い軍服を着ていた。
かつての華美なドレスはない。
髪も短く切っていた。
腰には剣。
背後には商人、兵士、農民、学者、職人。
地方貴族。聖職者。
そして民衆から選ばれた代表者たち。
王宮へ着く。
玉座の間。
九年前と同じ。
黄金の獅子。
その下にアレクシスがいた。
ずいぶん老けて見えた。
まだ三十にもなっていないのに。
「……久しぶりだな」
アレクシスが言う。
「ええ」
リディアは答える。
「九年ぶりです」
「私を笑いに来たのか」
「いいえ」
「復讐か」
「違います」
「では何だ」
リディアは一枚の紙を取り出し、玉座の前へ置く。
「署名を」
アレクシスは紙を見て、顔色を変える。
「国王退位」
「ええ」
「王政廃止」
「ええ」
「身分制の段階的撤廃」
「ええ」
「貴族の免税特権廃止」
「ええ」
「議会設置」
「ええ」
「司法の独立」
「ええ」
「地方自治」
「ええ」
「初等教育の無償化」
「ええ」
アレクシスの手が震えた。
「こんなものを」
紙を握りしめる。
「認めれば」
顔を上げる。
「王国がなくなる」
リディアは頷いた。
「ええ」
「三百年続いた国だぞ!」
「知っています」
「父も!」
「……」
「祖父も!」
「……」
「その前も!」
「……」
「皆が守ってきた!」
「ええ」
「伝統なんだ!」
リディアは少し考え、それから笑った。
「だから?」
アレクシスの顔が歪む。
「貴様には何もないのか」
「何が?」
「忠誠心だ!」
リディアは静かに答えた。
「あります」
アレクシスが僅かに息を止める。
「国ではなく」
リディアは背後を見る。
そこには何百人、何千人。
その向こうにさらに何万人。
「ここに生きている人たちへ」
アレクシスは黙った。
「あなたは」
リディアが言う。
「王国を守ろうとした」
「……」
「わたしは」
彼女は王冠を見る。
「人を守る」
長い沈黙の末、アレクシスが呟く。
「……勝ったつもりか」
リディアは首を傾げる。
「勝ったつもり?」
「ああ」
「違います」
「何が」
「勝ったのです」
王冠が床へ落ちた。
からん。
乾いた音。
三百年続いた王国最後の日。
後に歴史家たちはこの日を。
『大革命』
『王政終焉』
『レアル改革』
『新時代の夜明け』
などと呼んだ。
けれど数十年後、晩年のリディアに若い記者が尋ねたとき。
「閣下は、ご自身の功績をどのように評価されていますか?」
リディアは顔をしかめた。
「閣下?」
「はい」
「その呼び方」
「え?」
「気に食わないわ」
記者は慌てる。
「で、では、リディア様」
「様も嫌」
「……リディアさん?」
「まあ、それなら」
「では、リディアさん」
記者は咳払いをする。
「あなたは王国を倒し、新しい国家を作りました」
「ええ」
「歴史に名を残す偉業です」
「そう?」
「誇らしくは?」
リディアは窓の外を見た。
学校へ向かう子どもたち。荷車を引く商人。市場で働く女。新聞を読む老人。兵士ではなく、市民警備隊。
王族専用ではなくなった大通り。
「別に」
「では、なぜ?」
リディアは考える。
長く考える。
そして少し笑った。
「あの日」
「はい」
「婚約を破棄されたとき」
「……」
「全部嫌になったの」
「王子が?」
「違う」
「では」
「世界が」
記者が黙る。
「おかしいと思っているのに」
リディアは続けた。
「皆、仕方ないと言っていた」
「……」
「昔からそうだから」
「……」
「決まりだから」
「……」
「女だから」
「……」
「男だから」
「……」
「貴族だから」
「……」
「平民だから」
「……」
「王家だから」
「……」
「伝統だから」
「……」
「誰も」
リディアは目を細めた。
「それ自体を疑わなかった」
「だから、変えた?」
「いいえ」
記者が首を傾げる。
リディアは笑った。
「あまりにも」
窓の外を見る。
「気に食わなかったから」
そして彼女は最後にあの日と同じ言葉を口にした。
「わたしは全てが気に食わない」
その言葉はやがて。
この国で誰かが理不尽に抗うとき、必ず使われる言葉になった。
王も。神も。伝統も。常識も。
正しいとは限らない。
嫌なら疑えばいい。
間違っているなら変えればいい。
そうやって一人の悪役令嬢が国を壊した。
そして新しい国を作った。
ただし本人は最後まで、悪役令嬢と呼ばれることすら気に食わなかった。




