壁の向こうの声
実家の二階、六畳の自室。カーテンは一年中閉め切られていて、光は隙間からしか入らない。男はそこで一日の大半を過ごしていた。
きっかけは些細なことだった。押し入れの奥から出てきた古いギター。買ったはいいが一度も弾けたことのない代物だった。何気なくタブ譜を眺めていたら、数字を目で追う作業がなぜか脳トレのように感じられて、気づけば指が動いていた。理屈は分からない。ただ、譜面の数字を追うという単純作業に没頭しているうちに、指がそれをなぞるようになっていたのだ。
嬉しかった。一年間できなかったことが、ある日を境にできるようになる。そんな瞬間は人生でそう何度もない。
だがその喜びは長くは続かなかった。
「……キショ」
最初は聞き間違いかと思った。ギターを弾き始めると、窓の外、塀の向こうあたりから、そんな声が聞こえてくる。一度きりならいい。だが弾くたびに、必ず聞こえる。
「キショ、キショ」
誰かが笑っている気配もする。男は弦を止め、耳を澄ませた。何も聞こえない。また弾く。また聞こえる。まるで男の指の動きを見ているかのようなタイミングで。
カーテンは閉め切っている。見えるはずがない。それでも、弾くたびに、狙い澄ましたように声が降ってくる。
集中が保てなくなった。指が止まる。またあの声。止まる。また。
ある夜、限界だった。男はギターを持ち上げ、床に叩きつけた。乾いた音がして、ネックが折れた。もう一度、もう一度と、木片になるまで振り下ろし続けた。
それから、何かが壊れたのは男の中の何かも同じだった。
部屋の中で、意味もなく叫び、物を投げ、壁を殴った。何に対して怒っているのか、自分でも分からなかった。ただ何かを壊し続けていないと、息ができない気がした。
「おい、うるせえんだよ」
窓の外から、聞いたこともない中年男の声が飛んできた。近所の誰かだろう。男は動きを止めた。荒い息だけが部屋に響いていた。
しばらく、放心したように座り込んでいた。視線がふと、本棚の隅に転がっていた一冊の本に留まった。何年も前に、資格でも取ろうかと思って買ったきり、開かずじまいだった簿記の参考書。
なんとなく、手に取った。適当にページを開く。数字と勘定科目の羅列。目を滑らせているうち、あるページで、ふと理解ができた。仕訳の意味が、するりと頭に入ってきた。
不思議な感覚だった。ギターのときと同じだ。理由はわからないが、できる。理解できる。
その日から、男は毎日、参考書を読んだ。今日はここまで、と自分でノルマを決め、それを守った。一ページ読むごとに、昨日より少しだけ視界が開けていくような感覚があった。借方と貸方、仕訳の連なりが、パズルのピースのように噛み合っていく。それが楽しくてたまらなかった。
部屋にこもって、誰とも話さず、それでも毎日、何かが積み上がっていく実感があった。久しぶりに、生きている気がした。
その充実は、しかし長くは続かなかった。
ある日、参考書を開いていると、外から話し声が聞こえてきた。
「あんたあいつに勉強教えてもらえば?」 「え?いやだー」
女の声と、それに答える別の声。わざとらしいほど、はっきりと。
男は本を持つ手を止めた。
――勉強していることを、知っている。
カーテンは閉め切っている。見えるはずがない。親にも、勉強を始めたことは一言も話していない。友達にも、誰にも。なのに、なぜ。
偶然か。そう思おうとした。だが、あまりにもタイミングが良すぎた。ページをめくった瞬間、集中した瞬間、決まってその直後に、からかうような声が聞こえてくる。まるで、部屋の中を誰かがずっと見ているかのように。
男の頭の中で、何かがぐらりと揺れた。
もし本当に見られているのだとしたら。カーテンの向こうに、壁の向こうに、誰かがずっと自分を監視していて、何かに没頭するたびに、それを笑っているのだとしたら。
ギターのときも。今も。ずっと。
そう考え始めると、もう本のページに目を落とすことができなくなった。文字が意味を持たない記号の羅列に戻っていく。
どうしたらいい。何かに夢中になるたびに、外から邪魔が入る。何をしても、誰かに見られ、笑われる。逃げ場がない。
そんな中、また新しい声が聞こえるようになった。
「お前が悪いんだろ」 「だから謝れよ」
何度も、何度も。日を追うごとに頻度を増していく。まるで催促するように。責め立てるように。
男の中で、限界がゆっくりと形を成していった。謝れば終わる。声はそう言っている。ならば謝ればいいのか。何に対してかは分からないが、うるさくしていたことに対してだろうか。ギターを叩き壊した音。壁を殴った音。叫んだ声。近所に迷惑をかけたのだとしたら、それを詫びれば、この状況は終わるのかもしれない。
男は家を出た。隣の家、そのまた隣の家。インターホンを押し、出てきた見知らぬ住人に向かって、深く頭を下げた。
「うるさくしてすいませんでした」
相手が困惑した顔をしていたことは、覚えている。
家に戻ると、親に怒鳴られた。近所に何をしに行ったのか、恥ずかしいことをするな、と。理由を説明する気力はもう残っていなかった。
自室に戻り、ドアを閉める。座り込む。
外から、また声がした。
「ばっかみてー」 「気色悪いことしてんじゃねえーよ」
男は膝を抱え、壁の向こうに向かって耳を澄ませた。誰の声か、何人いるのか、もう分からない。ただ、確かなことが一つだけあった。
この部屋の中にいる限り、自分は一人ではない。何をしても、誰かがそれを見ていて、何かを言ってくる。ギターを弾いても、本を読んでも、暴れても、謝っても――結果は同じだった。
声はやまない。
男はカーテンの隙間から、外の光をじっと見つめていた。それが本当に光なのか、それとも別の何かなのか、もう自分でも判断がつかなかった。




