第三十八話
会議を終え、アントンは士官学校に戻ってきた。
特別課程の修了報告を兼ねて、本部棟へ向かう途中だった。石畳を踏む靴音も、壁に掛けられた掲示の紙も、以前と変わらない。剥がされかけた訓示文の端だけが、かすかに揺れている。
事務室で決まりきった署名を済ませると、アントンはそのまま図書館へ足を向けた。
中央の机に座り、地図と帳面を広げる。鉛筆を取り、帳面の中央に一本線を引いた。
右は中央同盟、左に連合国。
その線を、開いた地図の上の国境線に重ねていく。オーストリア、ハンガリー、ドイツ。指でなぞるたびに、講義で聞いた数字や、特別課程で見た現場の光景がまとわりついてくる。
見た目こそ整っているが、という前置きは、もはや飾りでも皮肉でもなかった。帝国の軍備と産業は、確かに存在する。しかしその土台が自前ではない。
鉛筆の先で、北西の線を追う。オーストリア本土からドイツへ、そこからルール地方へ。石炭、鉄鉱、機械、そこから戻ってくる物資が、帝国軍の砲列を支えている。
一本線を引く。
対独供給線断絶時→砲兵運用不可能
隣の行に書きかけて、言葉を変える。
独立して総力戦継続:不可能
少し考えてから、それらをさらに短くした。
独立戦力 ― 皆無
筆圧が強くなり、紙がかさりと鳴った。破れはしなかったが、跡が残る。
わかっていたことだ。特別課程で、数字の裏側も見てきた。だが、こうして一枚の地図と一枚の紙に書き起こすと、言い訳の余地が消える。
この帝国の防衛は、自らの意志で完結していない。
教範ではドイツは同盟と書かれる。しかし現在のオーストリアは、ドイツが自分の都合で閉じたり開いたりできる血管に、心臓をつないでいる状態だ。
窓の外で号令が上がる。図書館の静けさを破って、規則正しい掛け声と軍靴の音が流れ込んでくる。校庭では候補生たちが銃を担ぎ、揃った歩調で進んでいた。
アントンは一瞬だけ顔を上げ、その列を見た。
姿勢は真っ直ぐで、動きも揃っている。教官たちが誇りにする帝国軍人の卵たち。
もし戦争が起これば、この男たちをどこに送るかを決める手が、ウィーンでもブダペストでもなく、ベルリンにあることを、この中で何人が認識しているだろうか。
彼はまた地図に視線を落とした。
「もしドイツが西部戦線に全力を振れば?」
指で南東部を押さえる。ロシア正面、バルカン、イタリア。動員できる予備は限られ、補給は細る。オーストリアは単独で大軍を止めるだけの余裕はない。
前線を縮める。撤退する。そうすれば、守れなかった土地と、守れなかったという事実だけが残る。
帳面に新しく線を引く。
自立防衛能力の欠如
それはすなわち、負け方も選べないということであった。
この国は、攻める力が弱いだけでなく、やめる権利すら持っていない。
隣の机から、紙をめくる小さな音がした。同じ課程の候補生が戦史の本を読んでいる。彼は時折、ふん、と鼻を鳴らし、何かを書き写している。
アントンは声をかけない。彼らは真面目で有能だ。それでも構造そのものは変えられない。
机上の地図の上で、帝国の輪郭が、薄い線に見えた。それは帝国国境ではなく、他国の戦略が届く範囲の線なのかもしれない。
鉛筆を回し、最後に一行だけ書く。
この国は、他の列強の戦略の中でしか息をすることができない。
それを書いてしまうと、奇妙な静けさが降りた。
廊下から聞こえる笑い声、靴音、遠くの号令。そのどれもが、さっきより少し遠い。
図書室を出ると、午後の光が廊下に帯のように落ちていた。若い候補生たちが、銃剣術の時間に遅れまいと駆けていく。肩が触れそうになり、アントンは半歩さがってやり過ごした。
彼らを見送りながら、足が止まる。
(守るための力がない。それでも、この国を守らなければならない)
アントンは廊下の先を見据えて歩き出した。
(継戦能力を高めるのは無理だ。間に合わない。しかし、自立防衛能力なら、ハンガリー議会さえ抑えられればまだ可能性はあるか?どうすれば、あの拒否権の外側に軍備を置ける…)




