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第三十七話

会議の進行は、まるで冬の河のように緩やかで、冷たいものであった。

机の上には、各省の報告書が整然と並び、誰も声を荒げることはない。

発言する者は順に立ち、数字と制度を読み上げるだけだった。


「ボスニア地方の徴税高は依然として低迷しております。自治権付与の可否については、財政的裏付けが未整備のため、来年度以降の審議が妥当と考えます」


(…これが閣僚級の議論だというのか)


アントンは胸中で呟いた。

形式だけが整った、血の通わない言葉が漂っている。

それでも彼は、黙って聞いていた。焦って声を上げたところで、誰の耳にも届かないことを知っている。


話が進む中で、アントンの耳には聞き流せない言葉が流れてきた。


「現地での文化的対立は沈静化の兆しあり」と


(沈静化? この報告のどこに、あの街の現実がある?)


指先が僅かに机を叩く音を立てる。

彼は考えた。ここで何も示さなければ、この会議では何も進まない、言葉の迷路を描くだけだと。


アントンは静かに立ち上がり、鞄から一つの封筒を取り出した。

麻紐で軽く括られた薄い紙束。サラエボでナジが見つけた請願書式の束だった。


「陛下、閣下方。こちらをご覧ください」


室内の視線が一斉に集まる。

アントンは封を解き、一枚を抜いて机上に広げた。


「サラエボの印刷所で見つかりました。請願書の雛形が百枚、すべてキリル文字で刷られています。氏名欄は空白、提出先も記されていない。印刷所の帳簿にも、支払いの記録がありません」


ベック参謀総長が眉を寄せた。

「…それが、殿下の言われる証拠と?」


「はい、形式は請願ですが、これは明らかに無視できないものです。紙はもう刷られており、少なからず民族としての意思表示があります」


しばし沈黙が流れた。

首相ベック伯が口を開いた。


「殿下。ご懸念は理解いたします。しかし、現地で一印刷所が見本を刷っただけでは、政治的判断の根拠としては弱いです。仮に誰かが自治を求める意図であっても、実際に行動がなければ対処は困難です。」


アントンは返答しなかった。

紙の束の上に手を置き、指先に紙の冷たさを感じた。

誰もそれを取ろうとはしない。


(これでは足りないか…)


胸の奥で小さく呟いた。

現地の空気を吸い、ナジが命懸けで持ち帰った、兆しでさえ、机の上ではただの紙になる。

今のこの帝国では、現実は報告書に溶かされ、痛みは数字に変換されて消える。


財務相が淡々と議事を戻した。

「それでは次に、これからの対策について―」


その声を聞きながら、アントンは僅かに目を閉じた。

脳裏に、総督アルボリの言葉が蘇る。


『民族の上下関係が無くなるほどの衝撃が、この帝国に降り注げば―』


(衝撃…?そうだ。これでは、何も変わらない。言葉も理屈も、ここではすべて鈍る。今まで通り続くと閣僚でさえも信じている。では、一体どれほどの衝撃なら、この国は目を覚ます?戦争か、暴動か、あるいはもっと別のなにかか?)


その思考を断ち切るように、皇帝の声が響いた。


「今日はここまでとしよう。各自、次会までに具体案を整えておくように」


会議が終わり、閣僚たちが退出していく。

紙束は机の上に取り残されたまま、誰にも触れられなかった。


アントンは立ち上がり、ゆっくりと封を閉じる。

その仕草は、何かを諦めるというより、胸の奥で何かを固めるようでもあった。


(もし本当に、衝撃が必要なのだとしたら?それを待つだけでいいのか?)


扉の外では、フランツが立っていた。

そして小さく笑みを浮かべた。


「誰も動かないな」


「動くには、痛みが要るようです」


フランツは短く息をつき、低く言った。


「この国は年を取りすぎたんだ。だから誰もかれもが、今までのままで行けると信じている。変革が必要だと気が付いているのは陛下だけだろうね」


アントンはわずかに目を見開く。


「陛下がですか?」


フランツは少し困惑した表情を浮かべていた。


「気がついていなかったのかい?アントン、お前なら何かを変えられると一番信じているのは陛下なのだよ。だからこそお前は特別扱いされているのだ」


アントンは静かに息を吐いた。


「兄上。陛下はおそらく、私に何かを託しておられるわけではありません」


フランツが首を傾げる。


「どういう意味だ?」


「陛下は帝国を救うものを、ずっと探しておられるのです。人でも制度でもなく、希望そのものを」


フランツが少し笑った。


「それなら、まだ救いはある。陛下が希望を捨てていないなら」


アントンはわずかに首を横に振る。


「あの方が見ておられるのは、帝国の最期かもしれません。そしてその先にあるものを、確かめようとしておられるのです」


廊下の外で、扉の蝶番が軋む音がした。

遠くで、宮廷の時計が時を告げている。


「アントン、お前は何を…」


アントンは何も答えないまま、軽く一礼し、歩き出す。


(やっと理解した。陛下は救いを求めておられる。そして、その救いが破滅である可能性も、とうに承知している)


彼は思った。

ならば、その衝撃の形を見つけなければならない。それによって形が保てなくなったとしても。

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国の現状維持や保身と目逸らしで手一杯というのがよく分かります。
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