第三十五話
皇帝フランツ・ヨーゼフの視線を受け、フランツ・フェルディナント大公は、静かに立ち上がった。その動作は優雅でありながら、決意に満ちていた。
「陛下。そして諸閣下。私の構想について、率直に申し上げます」
フランツは室内を一瞥し、静かに言葉を紡いだ。
「三重帝国構想は、確かに現行法に抵触します。しかし、この帝国が生き延びるためには、法よりも現実を重視せねばなりません。ハンガリーが反発することも承知している。だが、スラヴ諸民族を敵に回し続けることの方が、より大きな脅威となるでしょう」
ベック参謀総長が眉をひそめた。
「殿下のお考えは理解いたします。しかし、軍事的観点から申せば、ハンガリーを敵に回すことは即座の内乱を意味します。一方、スラヴの不満は段階的なものです。どちらがより差し迫った危険か、明らかではありませんか」
「いいえ、ベック伯」
アントンが口を挟んだ。
「サラエボで私が見たのは、段階的な不満ではありません。青年たちの目には、絶望の色がありました。この街は、いつか燃える、彼らはそう言い放ったのです」
シュリッタ陸軍相が身を乗り出した。
「つまり、殿下は暴力的な蜂起の可能性を示唆されているのですか?」
「可能性というより、必然に近いものを感じました。問題は、それがいつ起こるかということだけです」
室内に緊張が走った。
皇帝は深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
「アントン。そなたが見た青年たちの中に、特に印象に残った者はいるか?」
アントンの脳裏に、あの路地で見かけた青年の鋭い眼差しが浮かんだ。
「一人、気になる青年がおりました。ただし、名前も素性も不明です。しかし、彼の目には...何か危険な意志が宿っているように感じました」
フランツがアントンを見つめた。
「アントン、お前は現地で何を考えた? 報告以外に、何か感じたことがあるのではないか」
アントンは兄の問いかけに、慎重に言葉を選んだ。
「兄上。私は...現状のままでは、取り返しのつかない事態が起こると確信しております」
「どのような事態だ?」
「それは...」
サラエボでの銃声、そして続く長い戦争。しかし、それを口にすることはできない。少なくとも、フランツを見捨てる選択肢が存在している今は絶対にできなかった。
「申し訳ございません。具体的な形は見えませんが、そうした予兆を、肌で感じました」
首相ベックが眉をひそめた。
「殿下。そんな予感だけでは政策は決められません。もう少し具体的な根拠をお示しいただけませんか?」
「総督のアルボリ閣下が仰っていました。『民族の上下関係が無くなるほどの衝撃が帝国に降り注がなければ、スラヴの民は対等な権利を得ることはできない』と」
フランツがアントンの肩に手を置いた。
「アントン。お前の懸念は理解する。しかし、我々はそれだけで動くわけにはいかない。現実的な改革案を考えねばならない」
「では、兄上はどのような道筋をお考えですか?」
フランツは窓辺に歩み寄り、外の景色を眺めた。
「段階的な自治拡大だ。まず、文化的権利の保障から始める。言語、宗教、教育における選択の自由を認めることから始めるのだ」
ベック参謀総長が疑問を呈した。
「それでハンガリー議会の承認が得られるとは思いませんが?」
「説得するのだ。ハンガリーもまた、かつては支配される側だった。その記憶を呼び起こし、共感を求めることはできるはずだ」
シュリッタ陸軍相が首を振った。
「殿下。不可能です。それは理想論に過ぎません。ハンガリーの政治家たちは、自らの特権を手放すことは決してないでしょう」
「兄上」
アントンが静かに口を開いた。
「私もそんな平和に解決することは不可能と考えます。それに、もし、段階的な改革が間に合わなかった場合、どうされるおつもりですか?」
フェルディナントは振り返り、アントンを見つめた。
「間に合わせるしかない。我々に他の選択肢はないのだ」
皇帝が立ち上がった。全員が起立する。
「今日の議論はここまでとしよう。しかし、これは始まりに過ぎない。諸君には、それぞれの立場から具体的な提案をまとめてもらいたい。次回は一週間後、同じ時刻にここに集まろう」
一同が一礼し、退室の準備を始めた。
その時、皇帝がアントンを呼び止める。
「少し残ってもらえるか」
他の者たちが去った後、皇帝は静かに言った。
「そなたの目に映っている未来は、我々よりも暗いもののようだ。隠している何かがあるな?」
アントンは動揺を隠そうとしたが、皇帝の鋭い洞察力の前では困難だった。
「陛下...この帝国を救うために、私たちは自ら、試練に飛び込まなくてはいけない。そう考えています」
「それはどれほど近い将来の話だ?」
アントンは心の中で計算した。現在1905年、そしてサラエボ事件は1914年。
「おそらく...10年以内に、何かが起こると思います」
皇帝は長い間、アントンを見つめていた。そして、重くうなずいた。
「分かった。それを軽視はしない。しかし、漠然とした不安だけでは対処のしようがない。具体的な備えを考えねばならない」
「はい、陛下」
「アントン。予感が杞憂に終わることを祈っているが、万一に備えることは決して無駄ではない。思考を止めないように」
———
部屋を出た後、アントンは難しい顔をしながら廊下を歩いていた。
(兄上の三重帝国構想は、帝国維持の観点では悪くない。だが、段階的などという甘い手法では、到底間に合わない。)
民族自決。諸民族が自らの旗を掲げる日は、もう遠くない。アントンはその現実を裏づける証拠を、一週間以内に見つけ出さねばならなかった。
長らくお待たせいたしました




