第三十四話
ホーフブルク宮殿、その奥まった私室に、アントンは帰ってきて早々に足を踏み入れた。
厳かな沈黙に包まれた室内。そこには、帝国の心臓ともいえる五人の男たちがすでに揃っていた。
アントンの兄であり、皇位継承者であるフランツ・フェルディナント大公。
その隣に、軍服の襞を正したフランツ・フォン・シュリッタ陸軍相。
少し離れて、冷静な目を光らせる参謀総長フリードリヒ・フォン・ベック=ラモンツァ伯。
そして、やや硬い表情で資料を抱えた文官、首相マックス・フォン・ベック伯。
そして最奥の椅子に、フランツ・ヨーゼフ皇帝が周囲に抗いがたい威厳を放ちながら、腰掛けていた。
「アントン、お疲れであろう。だが、まずは聞かせてほしい。そなたがサラエボで何を見て、何を思ったかを」
皇帝の言葉に、アントンは息を整え、前へ進んだ。
「はい、陛下」
彼は、ゆっくりと言葉を選びながら話し始めた。
「ボスニアの地で、私はその地で暮らす民族達のの現状を確認いたしました。セルビア系も、クロアチア系も、一様に帝国に忠誠を誓うそぶりは見せていましたが、その言葉の裏には、疎外と不安、そして圧力への怨嗟が渦巻いておりました。この帝国には、すでに取り返しのつかない罅が入りかけています」
部屋の空気が微かに変わった。
「制度と象徴だけでは、もはや帝国を一つに繋ぎ止めることはできません。彼らの感情を鎮めることの出来る何かを考えなければならないと、そう実感いたしました」
皇帝は、静かにアントンを見つめた。
長い沈黙のあと、ふっと息をつくように言葉を吐いた。
「…まるで、フランツのようだな」
兄上が眉をひそめるのを、アントンは横目で見た。
「いや、そなたは直接口にしたことはなかった。だが、私の耳には届いておるよ。三重帝国なる構想。ドイツ、マジャール、そしてスラヴ。三つの冠による新体制。夢物語のようではあるがな」
フランツは黙して語らず。ただ視線で、アントンに続きを促した。
「その構想を私はまだ理解しきれておりません。ですが、少なくともあの地にいる人々の顔を見て、現状のままでは帝国は崩れると確信いたしました」
その瞬間、参謀総長ベックが静かに口を開いた。
「殿下のお言葉、興味深く拝聴しました。軍の観点から申せば、スラヴ諸民族が帝国に忠誠を保ち続ける体制は望ましい。だが、そのためには徴兵制度の地域化、軍語の多言語対応、士官教育の枠組みすら再編せねばなりません。少なくとも十年はかかる」
「十年あれば十分ですか?」
アントンが問う。
ベックは答えず、手に持っていた懐中時計を指でなぞるように撫でた。その仕草が、十年という長くとも短い期間では、何ともならないことを物語っていた。
次に、シュリッタ陸軍相が口を挟んだ。
「殿下。貴殿の意見はよく理解できます。しかし、ハンガリーを敵に回して良いことはありません。彼らが帝国に留まっているのは、特権を脅かされないという前提があるからこそ。スラヴに自治を許せば、ブダペストは憤激し、帝国議会は炎上します」
「それでも、未来を変えるには、火の中に手を入れねばならぬ時があるのではないでしょうか?」
アントンの言葉に、シュリッタは視線をそらした。
彼とてこのままではいけないことは、理解しているのだ。
最後に、首相ベックが低い声で語った。
「私は制度の番人として、法を重んじる立場です。構想は理念として整っていても、現行憲法では明確に違反となります。法改正には、皇帝陛下とすべての構成国の同意が必要です。政治的にも、現実的ではありません」
アントンはそれでも、口を噤まなかった。
「では、なぜ我々はここに集められたのですか? 夢物語と片づけるには、あまりに重い人選ではありませんか」
再び沈黙が満ちた。
そして、皇帝がようやく口を開いた。
「アントン。そなたは見る目を持っているようだ。だが、帝国は脆い。安定の名の下に、我々は何十年も何も変えずに来た。今さら改革の名を掲げれば、それだけで骨が軋む」
「ならば、改革は不可能ですか?」
「少なくとも余の時代では無理であろう。だから今回、次世代を担うお主ら兄弟と、大臣達をここに呼んだのだ。将来どのような未来を描くことができるのか考えるために」
皇帝はそこで口を閉じた。
そして視線は、無言のままフェルディナントへと流れていた。
アントンは理解した。
今、この場で、この国の将来が変わる。おそらく史実には存在しなかった歴史の分岐点に、立たされているのだと。
話し合いは始まったばかりである。




