第三十二話
サラエボ滞在四日目、アントンはナジとともに、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ州の総督官邸を訪れた。
迎えるのは、この地を1903年から統治するオイゲン・フォン・アルボリ。ウィーンから派遣された経験豊富な文官であり、帝国南部の要を預かる人物だ。
応接室に通されると、アルボリは分厚い書類の山から顔を上げ、深く一礼した。
「ようこそ、殿下。あなたのようなお立場の方が現地に足を運ばれるとは、ありがたい限りです」
アントンは控えめに頭を下げる。
「現地の実情を、自分の目で見るべきだと考えました。総督閣下からもぜひ、現場の声をお聞かせください」
アルボリは眼鏡越しにアントンを見つめ、重々しく口を開いた。
「では率直に申し上げましょう。現在この地域では、ハンガリーによる文化の強制と、セルビア系とクロアチア系の対立が問題となっております。文化、教育、言語、そのすべてが火種となっており、行政の均衡が揺らいでいる」
アントンは頷いた。
「昨日、セルビア系とクロアチア系の方々と会いました。それぞれが帝国への忠誠を語りながら、対立と疎外感を抱えているようでした」
アルボリは書類のひとつを指先で叩いた。
「それは分かっているのです。ただ、帝国を一つにまとめるには、統一された制度と価値観が必要です。教育の言語統一もその一環であり、特にハンガリー側の官僚たちはこれを国家の骨格と見なしている」
アントンは少し眉をひそめた。
「しかし、それが民衆には文化的な抑圧と受け取られているのです」
アルボリは短くため息をついた。
「彼らとて、それは分かってはいるのです。殿下、大きな声で言う事は出来ませんが、ハンガリー系官僚たちは、ある種の恐れを抱いています」
「恐れ、ですか?」
「はい。もしスラヴ諸民族が一つにまとまり、自治や特権を求め始めたとき、自分たちが少数派になるのではないかと。ハンガリー王国は今でこそ帝国の対等な一翼を担っていますが、ドイツ系とスラヴ系という巨大な両端に挟まれた彼らにとって、言語と制度の主導権を保つことは、自らの生存戦略なのです」
アントンは沈黙したままうなずいた。
その姿は、彼がただの貴族ではなく、統治に深く関わろうとする者であることを示していた。
アルボリは声の調子を落とした。
「殿下、支配とは常にバランスの上にあります。我々はこの土地で、宗教、言語、出自の異なる複数の民族を統治しています。誰か一方に特権を与えれば、残る者たちが必ず反発する。だからこそ、我々は国家が安定する選択肢を選ばざるを得ないのです」
「では、真の和解や共存は、幻想なのですか?」
「そう断ずるには早いですが、現場はあまりにも複雑です。民は自身の苦悩しか見ておらず、官僚は制度の維持しか見ていない。互いが同じ方向を見ることは難しいのです」
アントンは視線を落とした。
三重帝国構想。この地に来てから幾度となく脳裏に浮かぶこの構想。夢物語と思っていたが、現地で耳にする声がその必要性を静かに訴えている。
(スラヴを対等な構成要素に加えられれば、少なくとも彼らの感情は間違いなく鎮静化できるが…)
その思考を、アントンは口に出さなかった。
構想の重みを知っているからこそ、軽々に触れてはならないと自覚していた。
アルボリは静かに言った。
「殿下。どうか、帝都に戻られたら、現場の複雑さも伝えてください。民の叫びも、官僚の苦悩も、どちらも帝国の現実なのです」
アントンは深くうなずいた。
「心得ております。必ず、その全てを伝えます。最後にお聞きしたい事があるのですがよろしいでしょうか?」
アルボリは話は終わったと油断したのか、少し虚をつかれた表情で答える。
「もちろんです。なんでもお答えいたしますよ」
アントンは少し息を吸い、表情を切り替えた。
「総督、もし、スラブの民を対等な民とするのであれば、一体どのような事が必要だと思われますか?」
———
官邸を出た後、ナジとともに乗り込んだ馬車の中で、アントンは窓の外に目をやった。サラエボの街が、赤く染まりながら揺れている。
「ナジ氏、総督の答えはどう思った?」
アントンの問いに、ナジは少し間を置いて答えた。
「申し訳ないですが、私には総督の話す事が想像もつきません。あのようなことを考えた事はなかったので…」
アントンは静かに頷いた。そして先ほどの答えを思い出す。
総督の答えは、とても簡単なものであった。
“民族の上下関係が無くなるほどの衝撃が、この帝国に降り注げば、スラブの民は対等な権利を得る事ができるのではないでしょうか”
アントンはため息をついた。
アントンの脳裏には、総督の言った衝撃となるであろう大戦が、どうしてもへばり付いて仕方なかった。
(大戦を利用すれば、第二次世界大戦後の日本の体制がガラリと変わったように、この国は変われるか?いや、何年あっても軍備改革は絶対に間に合わない。しかし、負ければ民族自決によって解体される…)
「大公殿下、大丈夫でしょうか?」
考えこむアントンを心配して、ナジが話しかける。しかし、アントンの思考は止まらない。
(英仏側に付けるか?いや、無理だな。味方になり得るのはドイツしかいない。となると、負けた上で、この国を保つ方法を考えるか?)
思考を遮るように、ナジが大声を上げる。
「大公殿下!」
アントンはそこで呼ばれている事に気がついた。
「ああ…すまない。ナジ氏、何かあったのか?」
ナジは、返答が返ってきた事に安心した表情を浮かべていた。
「いえ、ぼーっとしていらしたので声をかけただけです」
「そうか。何もないならよかった。」
なんとなしに、アントンは、先ほど思考したことをナジに聞くことにした。
「ナジ氏。複数の国々が絡み合う戦争に負けた国が、大きな犠牲を出さずに負ける方法はあると思うか?」
ナジは30秒ほどの思考をした後に答える。
「そうですね…大した賠償を取らずとも、抜けてくれた方が、戦勝国側に利益がある状態であればいいのではないでしょうか?」
この答えによって、アントンの中の思考が組み上がって行く。
(連合国に、帝国の存続を納得させる理由を用意し、さらにドイツを相手にする上で、邪魔だと思わせればいいのか?)
またもや考え出すアントンを見てナジはため息を吐く。そんな様子にアントンは気がつく事はなく、考え続ける。
(いや、待て。今ならまだ国民国家という概念が希薄だ。将来アメリカが掲げる民族自決という言葉を、弱める余地があるかもしれない)




