第三十一話
セルビア系地区視察の翌朝、アントンはナジと共に、クロアチア系住民が多く暮らすサラエボ市内のカタリナ地区の教会を訪れていた。
「この地域ではカトリック系のクロアチア人が主流です。表向きは帝国に忠誠を誓っていますが、ハンガリーだけでなく、セルビア系との文化的・政治的摩擦は根深くなっています」
「宗教の違いだけではないのだろう?」
「ええ。表面上は信仰の対立に見えても、背景にあるのは民族意識と自治権の問題です」
ナジの声は慎重だった。
「同じ南スラヴ系でありながら、クロアチア人とセルビア人は文字体系、教会、歴史的支配体制すべてが異なります。クロアチアはハンガリー王国の枠内で自治を守ろうとし、セルビア系はロシアとの連帯や独立志向が強い。進む道が違うのです」
アントンは窓の外を見た。赤瓦屋根と石造りの教会塔の間に、セルビア正教会のドームが遠くに浮かんで見えた。隣人でありながら、異なる世界を背負って生きる人々。
(対等な自治。それが叶えば、この対立は和らぐのだろうか…)
ふと、兄・フランツ大公の三重帝国構想が脳裏をよぎる。オーストリア、ハンガリー、そしてスラヴの三本柱で帝国を支えるという未来。理想のようでありながら、アントンにはあの構想によって、どれほど帝国が安定するのかを考えずにいる事は出来なかった。
小さな教会前に降り立つと、神父がすでに外で待っていた。
「ようこそお越しくださいました、大公殿下。私たちの話を聞こうとしてくださることに、深く感謝します」
年のころ六十ほどの神父は、やせた体を外套で覆いながら、誠実な目でアントンを見た。
「少し中で、お話ししてもよろしいでしょうか?」
教会の中は静かで、古びた聖像が蝋燭の光に照らされていた。
「大公殿下、我々クロアチアの民は、この地で何百年も教会と家族を守りながら生きてきました。帝国に忠誠を誓う者も多い。だが、今のように文化や言語の扱いに差がある限り、それは決して対等ではありません」
その後の話は、昨日セルビアで聞いたものと同じく、ハンガリーの苛烈な抑制の話であった。
話はそこそこに、アントンは新たな問いを問いかけた。
「セルビア系と、なぜここまで対立してしまうのでしょう?」
神父は一瞬口ごもり、それから慎重に言葉を選んだ。
「我々は、帝国の内に自らの居場所を見つけようとしているのです。我々が自治にこだわるのも、過去に強国の板挟みとなってきた歴史があるからです。ですが、セルビア系の中には、自身の国家を目指す動きもある。そこに不安と、時に怒りも生まれます」
「つまり、方向性が違うのですね」
「ええ。我々が求めているのは、特権ではありません。ウィーンとブダペストに対して、対等な国民であるという扱い、それだけなのです」
ナジが横で控えめに補足した。
「クロアチア人達は、徴兵制度の一部免除や、ハンガリー語の教育義務化への異議を表明しています。ですが、制度上はあくまでハンガリー王冠の下に属しているため、反発は容易ではない」
神父は重くうなずいた。
「帝国が、我々の声を本当に聴いてくださるのなら、セルビア人とも手を取り合えるでしょう。だが今は、隣人と争うか、黙って従うかしかないのです」
アントンは蝋燭の火を見つめたまま、静かに言った。
「帝国が今の形のまま続くことは、もう難しいと私も感じています。まだ夢物語に過ぎませんが、兄が構想しているもう一つの柱。スラヴの人々が、対等に帝国を支える未来。その一端を私も見極めたい」
神父は驚いた顔でアントンを見たが、何も言わなかった。
アントンは立ち上がり、神父の手を握った。
「今はまだ、答えを出す時ではありません。だが、この目で見たものを、必ずウィーンに届けます」
神父はわずかにうなずいた。
「帝国に大公殿下のような皇族がいてくださった事に、感謝いたします」
———
帰りの馬車の中、ナジがぼそりと漏らした。
「彼らは、帝国を信じる最後の希望なのかもしれません。裏切られ続けて、それでもまだ、見捨てきれずにいる」
アントンは頷いた。
「だからこそ、我々が先に裏切ってはならない。民族が違えども、未来を託してくれている限り、応えねばならない」
街の屋根を越えて遠くに鐘の音が響いた。
それはセルビア人達の激しい炎のような怒りではなく、クロアチア人達の忠誠の祈りを表しているようだった。
アントンは鐘を聞きながら考える。
この帝国が多民族国家である限り、民族による主張や正義は、一つの言語や宗教の中には収まりきらないのだと。




