第三十話
列車がサラエボ駅に到着したのは、午後に差し掛かる頃だった。
(サラエボ事件によって、火薬庫と呼ばれるバルカン半島に火がつく場所。まさか来ることになるとは…)
車窓の外に広がる風景は、ウィーンとはまるで異なっていた。石造りの古い建物と、オスマン様式のモスクが隣り合っている。交差点ごとに並ぶ露天と、異なる言語で飛び交う喧騒。
ナジはアントンの荷物を引き受け、駅の構内を歩きながら小声で説明を続けた。
「この街は、見た目以上に緊張しています。特に最近、クロアチア系の青年団と、セルビア系の自治組織が言葉の応酬を続けていて。昨日も市庁舎前で衝突未遂がありました」
「行政は?」
「帝国の官吏が表向きには統治していますが、実態は民族ごとの勢力が棲み分けしている状態です。文化的象徴、たとえば言語や校章ひとつで争いが起きます」
駅前広場を抜けると、アントンたちを迎える馬車が待っていた。
馬車の外に見える風景には、街の壁に描かれた多数のスローガンがある。
「セルビア語を奪うな」「我らに誇りを」
アントンは目を細めた。
「直接、現場を見せてもらえますか?」
ナジはうなずいた。
「本日、セルビア系の学校を訪問する予定です。教師会が非公式に殿下と話をしたいとのことでした」
—————
午後三時。
アントンたちは、郊外にある小学校に到着した。
木の門をくぐると、校庭に遊ぶ子どもたちの笑い声が聞こえた。その光景が、アントンに一瞬、安心を与えたが、それは錯覚だった。
迎えに出てきたのは、四十代の女教師だった。彼女はセルビア語で流暢に挨拶をし、ナジがその通訳を始める。
「大公殿下にお会いできて光栄です。お忙しい中、我々のような小さな学校にお越しいただき、感謝しております」
「私の方こそ、実情を知る機会を与えていただき感謝します」
案内された教室には、木製の机と黒板、そして掲示板にセルビア語の詩が並んでいた。
そのうちの一枚に、赤いインクで大きくバツが付けられていた。
アントンが指差すと、ミリツァは苦笑した。
「ハンガリーの教育局の視察官が昨日来ました。『この詩はハンガリー語に訳して貼り直すように』と命じられました。私たちは、母語がどれほど大切か知っている。だから、抵抗しているのです」
ナジは一言も加えず、ただ通訳する。その声に、感情が抑えられていた。
アントンは教室の一隅に置かれた古いセルビア語の教科書を手に取った。破れ、補修された跡。ボロボロではあったが、大切に扱われているのが分かった。
「この地域では、どれほどの学校が同様の圧力を受けているのですか?」
「公式には自主的移行ですが、教師の免職や補助金の打ち切りをちらつかせれば、従わざるを得ません」
ミリツァの目には、憤りと疲れの両方が宿っていた。
「我々が求めているのは、特権ではありません。ただ、子どもたちに自分の言葉で、自分の物語を教えたい。それだけです」
アントンは黙って耳を傾けていたが、やがて静かに答えた。
「帝国が強さを保つには、抑えつける力ではなく、共に立つ姿勢が必要だと私は考えています。この事はしっかりと、ウィーンに報告させていただきます」
ミリツァは皮肉げに笑った。
「ウィーンに伝わったところで、何も変わらないと思いますがね」
—————
帰り道の馬車の中。ナジは無言だった。
しばらくして、アントンが問いかける。
「ナジ氏、どう思った?」
「正直に申せば、あのような光景は日常です。ですが、大公殿下が真正面から向き合ったこと、それが何かのきっかけになるかもしれないと、少しだけ思いました」
そのとき、通りの角を曲がったところで、騒がしい声が聞こえた。
そこで通りを塞ぐように立っていたのは、街の青年団の一団だった。腕章に記された十字の紋章と、胸元に縫いつけられた刺繍が、彼らの所属を物語っていた。
その中の一人、髭の薄い青年がアントンに視線を向ける。年齢はアントンとそう変わらない。しかしその瞳には、明確な敵意と覚悟が宿っていた。
リーダー格の青年が叫ぶ。背中越しの空気に、集団の苛立ちが伝わる。
「帝都の者か? また文化局の回し者か?」
ナジがすぐに前に出て制する。
「ウィーンによる、帝国直轄の視察です。妨害は重大な処罰を伴います」
「つまり、我々の母なる言葉が消えるのを見にきたのか?」
アントンは静かに馬車を降りた。
「そうではない。現状を知るためにきたのだろ。何が起きているか、ウィーンが正確に知るために」
青年がにらむ。
「はっ!どの口が言うか。俺たちの訴えは何度届いた? 何度捨てられた?!それでも、今までお前らは動かなかっただろう!」
「それは正確に伝わる事がなかったからだ。だから私は、それを確かめるために来た」
「じゃあしっかり確認するといい!」
青年は怒鳴った。
「俺の弟は、セルビア語を話したことで校庭に立たされた。恥だと叱られた! 家族で書いた詩は破かれた! それでも教育だと? 平等だと? ハンガリーの都合で塗り替えられた現実を、本当に伝えるというのか!?」
アントンは目を逸らさなかった。
「正確に伝える事を誓おう。しかし、私は、正すために来たわけじゃない。お前たちの痛みを報告する責任があると感じたから来た。それだけだ」
青年は拳を握りしめたまま、しばらく動かない。
後方の一人が低く言う。
「どうせまた、俺たちの怒りは都合よく編集されるんだろ…」
前方の青年は歯を食いしばったまま、最後に吐き出した。
「忘れるな。この街は、いつか燃えるぞ」
アントンは静かに頷いた。
「そうか。なら、俺はそれを見届ける。目を逸らさずに」
青年はそれ以上言わず、道を開けた。ただし、誰一人としてその目から怒りを外さなかった。
ナジが呟く。
「彼らの目には、まだ怒りの火が灯ったままですね」
「当然だ」
アントンは乗馬の足元に目を落とし、ゆっくりと息を吐いた。
(これは思った以上に酷い。彼らの選択肢に銃が入る日も、そう遠くないかもしれない…)




