第二十九話
内務省。その中でも、地方自治と民族問題を扱う地方行政局。
皇帝から与えられた特別課程、帝国の綻びを、己の目で確かめるため、アントンはそこに立っていた。
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応接室でアントンを迎えたのは、内務省付きの高級官僚だった。
灰色の制服と銀の眼鏡。長年の仕官で磨かれた重みが、その声に表れていた。
「大公殿下、ようこそお越しくださいました」
「ご多忙のところ恐縮です」
「いえ、大公殿下のようなお立場の方が、現実を見てくださることに我々も感謝しております。今回は、南部地域における自治状況の調査という名目でございますが、本質は、文化的対立の火種を観察していただくことにあります」
アントンは黙ってうなずいた。
「現地、ボスニア・ヘルツェゴヴィナでは、クロアチア系とセルビア系の対立が根深くなっており、特に教育分野で緊張が高まっております。一部の自治議会では、ハンガリー当局による文化的干渉への抗議声明が出されております」
「ハンガリーが、ですか」
「ええ。帝国南部においては、特にハンガリー側が主導する同化政策。たとえば教育のハンガリー語化に強い反発がございます。結果として、ウィーンの中央政府に対し、仲裁役としての期待が寄せられているという構図です」
アントンは眉をひそめた。
ウィーンが抑圧の中心ではなく、逆に頼られている。それは、彼の想像と異なる構図だった。
「つまり、私はその期待に対する観測者ですか?」
「その通りです。皇帝陛下は、政治判断に必要な情報を必要としておられるのです。殿下の視点で、何が見えるのか。我々も注視しております」
「承知しました」
「現地には、文化局から一名の通訳官が同行いたします。セルビア語に堪能で、地元事情にも通じています。少々、言葉が粗いかもしれませんが、使える人物です」
そう言って、官僚が扉を開くと、一人の青年が静かに入ってきた。
軍装に似た外套を羽織った二十代後半の男。
鋭い眼差しと無駄のない所作。肩の紋章は、内務省文化局のものだった。
「紹介いたします。文化局付通訳官、ヤノシュ・ナジ氏です」
「…はじめまして、大公殿下。光栄です」
「よろしくお願いします、ナジ氏」
二人は握手を交わした。
手の温度は冷たかったが、その目だけはまっすぐアントンを見つめていた。
「ご出身は?」
「ブダペストです。ですが、母はノヴィ・サドのセルビア系です」
「……複雑な立場ですね」
「ええ、ですから両側の声を聞いて育ちました。」
その言葉に、アントンは小さく頷いた。
この男は、この国の綻びを歩いてきた者だ。
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翌朝、ウィーン南駅。
厚い霧の中、汽笛が静かに響く。
アントンはホームに立ち、ナジと再び顔を合わせた。
「殿下。すでに座席を確保しております」
「ありがとう。昨夜は眠れたか?」
「いえ、帝都の空気は、私にはやや緊張が強すぎまして」
アントンは微笑した。
「ここの空気は、他の地域と比べると随分と綺麗に感じるのは分かる。私もこの前の視察でそれを知ったからな」
二人は一等客車に乗り込む。
列車がゆっくりと動き出し、霧の中にウィーンの街並みが沈んでいく。
アントンはしばし黙っていたが、やがて口を開いた。
「ナジ氏…ハンガリーをどう思っている?」
ナジはしばらく窓の外を見つめていた。
そして静かに、視線をアントンに向けた。
「私は、ハンガリーで教育を受け、暮らしてきました。多くの恩も借りもあります。しかし、母がセルビア語を教えたことで査問され、謝罪を強いられたとき、私は国とは何かを初めて疑いました」
「母は言っていました。言葉は民族の誇りだと。それを奪う国家は、民から誇りを奪うのと同じだと」
アントンは深く頷いた。
「言葉を奪うことは、存在を否定することと同じということか」
「はい。だから私は、国家に仕えるとき、常に問い続けています。国家は、誰のためのものなのか、と」
アントンはナジに目を合わせ、真剣に言う。
「国家が誰のものか、それを皇族である私が明言する事はできない。しかし、国家に仕えるということは、決して国民の声に背を向けることじゃない。私はそう信じているよ」
ナジはふっと笑みを浮かべた。
「正直に言えば、殿下。私はあなたに疑いを持っていました。皇族が、現場の痛みなど分かるものかと。ただ、少しだけ好感を持てました」
アントンは頷いた後に、窓の外へと視線を投げた。
白銀の山並みが、かすかに朝日を反射している。
「私に何ができるのか、それは分からないが、少なくとも今回の役割から逃げないさ」
ナジはゆっくりとうなずいた。
列車は、帝国の南へ。民族の裂け目へと、静かに走っていった。
最初の方の話が読みにくいと感じたので、少しずつ修正していきます。文字数は増えると思いますが話の内容は変わらないため、読み直しなどは必要ないです。もし、ここは直してほしいなどがあれば、優先的に確認します。




