表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
28/39

二十八話

夏休みが終わり、第二年次が始まるのに伴い、アントンは、ウィーンの士官学校正門まだ帰ってきていた。


中庭に一歩踏み入れると、候補生たちの訓練の声が響いてきた。かつて自分も叫んでいた掛け声が、今では遠い記憶のように思えた。


事前に言われていた通り、執務棟に足を踏み入れると、将校用の制服姿の教官が一人、静かに待っていた。かつて戦術学を担当していた、初老の教官である。


「戻られましたか、大公殿下」


「お久しぶりです」


「我々のもとに戻られた、というより次の扉へと進むために帰ってこられた、という方が正しいでしょうな」


「次の扉、ですか」


「はい、事前に伝えられていたとは思いますが、あくまで任意です。内容を読み、この手紙を受け取るか決めていただきたい」


教官は手元の封筒を差し出した。封蝋には皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の私印が刻まれていた。アントンが封を切ると、簡潔だが威厳ある文面が目に飛び込んできた。


視察任務を終えたことを確認する。

特別課程の一環として、民族問題に関連する内部任務を命ずる。

皇帝 フランツ・ヨーゼフ


アントンは思わず息をのんだ。


「ガリツィアでの視察は、特別課程の一部みたいなものだったのですね」


「その通りです、大公殿下。特別課程は、教科書ではなく現場で学ぶ課程。皇帝陛下は、大公殿下に現実を経験させたかったのです。そして今、大公殿下は次の段階に入られる」


「民族問題…それは、どのような内容でしょうか?」


教官は手元の報告書を一冊取り出し、机に置いた。表紙には『陸軍省民族統合調査局・内密報告』と記されていた。


「殿下には中央軍政局に出向していただきます。諸民族の利害が衝突する局面に立ち会っていただき、まずは報告書の閲覧と、関係者への聞き取り。そして、その結果に基づく提言を、軍務局および皇帝陛下に提出していただきます」


「提言を?」


「はい。今度は殿下が問われる番です。見たものを、どうされるのか。今回の課程を受け入れてくださいますか?」


アントンは報告書の表紙に目を落としたままだった。視察で見たイヴァンの死、報告を控えた納屋、村人たちの眼差しが、脳裏に浮かんだ。


「今度は、見て見ぬ振りをすることはできないな…分かりました。今回の特別課程、受け入れさせていただきます」


小さな声だったが、教官はうなずいた。


「任務の詳細は出向後、追って通達されます。ただし、一つだけ申し上げておきます」


「なんでしょう?」


「この任務には、皇帝陛下とフランツ・フェルディナント大公、お二方の意思が絡んでおります。つまり、殿下は中間に立たされることになるのです。何かを選ぶたびに、何かを敵に回すことになる。どうか、その覚悟をお持ちください」


アントンは無言で立ち上がった。


「兄上と陛下、両方の覚悟を受け止めるつもりです。そのうえで、私自身の目で確かめ、判断します」


教官はわずかに目を細めてうなずいた。


「きっと、大公殿下に必要な現実は、もうすぐ目の前に現れます」


—————


その夜、アントンは久しぶりに寮の部屋に戻った。誰もいないその部屋は、過去の自分がまだ残っているようで、妙な居心地の悪さがあった。


ベッドの上に投げられた古い制服、窓際の書棚に残る講義ノート。机の引き出しを開けると、かつて自分が書いた戦術草案の下書きが、まだ無造作に折られて入っていた。


彼は窓辺に立ち、夜の中庭を眺めた。遠くでラッパの音が鳴っていた。整列、点呼、消灯。全てが変わらず、しかし自分だけが違ってしまった。


廊下から足音が聞こえ、扉がノックされた。


「大公殿下、お戻りだったのですね」


振り返ると、同期であるミロシュが立っていた。訓練服姿の彼は、どこか気まずそうに微笑んだ。


「…噂は聞いておりました。ガリツィアでの視察、そして特別課程」


「随分と広まっているようだな」


「はい、大公殿下はご注目の的ですので」


ミロシュは椅子に腰をかけ、少し黙ったあと、真剣な眼差しで言った。


「大公殿下は、もう我々とは肩を並べることはないのでしょうか…」


アントンは静かに答えた。


「いや、そんなことはないさ。特別課程が終わったら、きっとここに戻ってくる」


ミロシュは静かにうなずき、立ち上がった。


「大公殿下は、前へと進んでおられるように見えます。我々はまだ立ち止まったままです。だからこそ、応援しております。殿下がどのような答えを見つけられるのか、それを見届けたいのです」


アントンは苦笑しながら見送った。扉が閉まり、静寂が戻る。


(前に進んでいるのではない。戻れないだけだ。それでもこの国のために進まなければならない)


机の上に皇帝の命令書を置き、その隣に、そっと懐から、まだ封の開けられていないあの手紙を出した。視察の際、誰にも知られないまま、闇に消えた事実。


「もう、何も見なかったふりはできないな」


呟いたその声は、静かに広がって、部屋の天井に吸い込まれていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ