二十八話
夏休みが終わり、第二年次が始まるのに伴い、アントンは、ウィーンの士官学校正門まだ帰ってきていた。
中庭に一歩踏み入れると、候補生たちの訓練の声が響いてきた。かつて自分も叫んでいた掛け声が、今では遠い記憶のように思えた。
事前に言われていた通り、執務棟に足を踏み入れると、将校用の制服姿の教官が一人、静かに待っていた。かつて戦術学を担当していた、初老の教官である。
「戻られましたか、大公殿下」
「お久しぶりです」
「我々のもとに戻られた、というより次の扉へと進むために帰ってこられた、という方が正しいでしょうな」
「次の扉、ですか」
「はい、事前に伝えられていたとは思いますが、あくまで任意です。内容を読み、この手紙を受け取るか決めていただきたい」
教官は手元の封筒を差し出した。封蝋には皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の私印が刻まれていた。アントンが封を切ると、簡潔だが威厳ある文面が目に飛び込んできた。
視察任務を終えたことを確認する。
特別課程の一環として、民族問題に関連する内部任務を命ずる。
皇帝 フランツ・ヨーゼフ
アントンは思わず息をのんだ。
「ガリツィアでの視察は、特別課程の一部みたいなものだったのですね」
「その通りです、大公殿下。特別課程は、教科書ではなく現場で学ぶ課程。皇帝陛下は、大公殿下に現実を経験させたかったのです。そして今、大公殿下は次の段階に入られる」
「民族問題…それは、どのような内容でしょうか?」
教官は手元の報告書を一冊取り出し、机に置いた。表紙には『陸軍省民族統合調査局・内密報告』と記されていた。
「殿下には中央軍政局に出向していただきます。諸民族の利害が衝突する局面に立ち会っていただき、まずは報告書の閲覧と、関係者への聞き取り。そして、その結果に基づく提言を、軍務局および皇帝陛下に提出していただきます」
「提言を?」
「はい。今度は殿下が問われる番です。見たものを、どうされるのか。今回の課程を受け入れてくださいますか?」
アントンは報告書の表紙に目を落としたままだった。視察で見たイヴァンの死、報告を控えた納屋、村人たちの眼差しが、脳裏に浮かんだ。
「今度は、見て見ぬ振りをすることはできないな…分かりました。今回の特別課程、受け入れさせていただきます」
小さな声だったが、教官はうなずいた。
「任務の詳細は出向後、追って通達されます。ただし、一つだけ申し上げておきます」
「なんでしょう?」
「この任務には、皇帝陛下とフランツ・フェルディナント大公、お二方の意思が絡んでおります。つまり、殿下は中間に立たされることになるのです。何かを選ぶたびに、何かを敵に回すことになる。どうか、その覚悟をお持ちください」
アントンは無言で立ち上がった。
「兄上と陛下、両方の覚悟を受け止めるつもりです。そのうえで、私自身の目で確かめ、判断します」
教官はわずかに目を細めてうなずいた。
「きっと、大公殿下に必要な現実は、もうすぐ目の前に現れます」
—————
その夜、アントンは久しぶりに寮の部屋に戻った。誰もいないその部屋は、過去の自分がまだ残っているようで、妙な居心地の悪さがあった。
ベッドの上に投げられた古い制服、窓際の書棚に残る講義ノート。机の引き出しを開けると、かつて自分が書いた戦術草案の下書きが、まだ無造作に折られて入っていた。
彼は窓辺に立ち、夜の中庭を眺めた。遠くでラッパの音が鳴っていた。整列、点呼、消灯。全てが変わらず、しかし自分だけが違ってしまった。
廊下から足音が聞こえ、扉がノックされた。
「大公殿下、お戻りだったのですね」
振り返ると、同期であるミロシュが立っていた。訓練服姿の彼は、どこか気まずそうに微笑んだ。
「…噂は聞いておりました。ガリツィアでの視察、そして特別課程」
「随分と広まっているようだな」
「はい、大公殿下はご注目の的ですので」
ミロシュは椅子に腰をかけ、少し黙ったあと、真剣な眼差しで言った。
「大公殿下は、もう我々とは肩を並べることはないのでしょうか…」
アントンは静かに答えた。
「いや、そんなことはないさ。特別課程が終わったら、きっとここに戻ってくる」
ミロシュは静かにうなずき、立ち上がった。
「大公殿下は、前へと進んでおられるように見えます。我々はまだ立ち止まったままです。だからこそ、応援しております。殿下がどのような答えを見つけられるのか、それを見届けたいのです」
アントンは苦笑しながら見送った。扉が閉まり、静寂が戻る。
(前に進んでいるのではない。戻れないだけだ。それでもこの国のために進まなければならない)
机の上に皇帝の命令書を置き、その隣に、そっと懐から、まだ封の開けられていないあの手紙を出した。視察の際、誰にも知られないまま、闇に消えた事実。
「もう、何も見なかったふりはできないな」
呟いたその声は、静かに広がって、部屋の天井に吸い込まれていった。




