第二十七話
アントンは視察を終え、ウィーン行きの列車に揺られていた。
ガリツィアの風景は、ただ遠ざかるのではなく、胸の奥に重たく沈んでいく。
軍政管区で見たものは、報告書に記せるような整然とした現実ではなかった。
彼は目を閉じ、胸元にそっと手を当てる。
そこには、誰にも見せない彼らの嘆きがあった。
———
その翌日、アントンは次期皇位継承者であり、兄であるフランツ・フェルディナント大公に呼び出された。
「おかえり、アントン」
「戻りました、兄上」
「どうだった? ガリツィアの現実は」
「報告書には特記事項なしと記しました」
「だが、君の目はそうは言っていないようだ」
兄の口調は穏やかだったが、鋭く核心を突いていた。アントンはその言葉に返す答えを持っていなかった。
「まあ、いいさ。帝国の綻びを見てきたのだろう?顔を見ればわかる」
「兄上もご存じでしたか」
「これでも次期皇位継承者だ。しっかりと体感したわけではないが、それでも情報は届く」
「そう…ですか」
「アントン、この国を存続させるためにはどうすればいいと思う?何か答えを持っているか?」
それはアントンが、帰ってくる時にずっと考えていた問いであった。
「どれだけ考えても、何も出てこないのです」
フランツはゆっくりと椅子に背を預け、重く呼吸をついた。
「そうか。やはり、お前には話すべきだな」
フランツは机の上に一枚の地図を広げた。そこには、見慣れた二重帝国の地図があり、南方には新たな赤線が引かれていた。
「これは?」
「三重帝国構想だ。オーストリア=ハンガリーに、もう一つ。スラヴ王国を加える。南スラヴの民族を、帝国の対等な柱として迎える」
それはアントンには、全くなかった構想であったが、それでもこれが理想論にすらならないことは分かった。
「兄上それは、理想論にすぎません。ハンガリーが、そんなものを認めると思われますか?」
「もちろん、簡単ではない。だが、合理的な交渉の余地は」
「ありませんよ。三重帝国のような再編は、ハンガリーが決して許さないでしょう。彼らは二分の一でいたいのです。スラヴに対等な三分の一を与えた瞬間、自分たちの特権が崩れることを、最も恐れている」
フランツはしばしアントンの言葉に黙し、やがて静かに言った。
「無理だとしても、変革を行わなければ私たちの帝国は、歴史の中に埋もれてしまう…」
アントンは地図から目を離し、フランツを見つめる。
「兄上、私も帝国を憂いています。ですが、この案を通すにはハンガリーの許可が必要なのです。そして彼らは、その許可を絶対に出さない。」
フランツは口を閉じた。だがその眼差しには、まだ諦めがなかった。
「ではアントン、お前はどうしたい? このまま何も変えず、崩壊を待つのか?」
「変えねばならないとは思います。しかし、私は理想よりも先に、現実を直視する必要があると考えています」
「ならば君は、理想を見ずに現実だけを追うのか?」
「兄上。現実に耳を塞いで理想を語るほうが、よほど危ういと私は思います」
二人の間に、しばし沈黙が落ちた。
「理想論でもいい。理想なくして、何が国を繋ぎ止められる?だから私は信じている。この帝国は、もう一つの柱がなければ持ちこたえられないと」
アントンは返答を行わず、地図の上で分断された境界線に、長く視線を落としたままだった。もしこれが実現できるのであれば、三重帝国の案は安定化に繋がる可能性があることは分かっているのだ。
フランツは、そんなアントンの様子を気にもかけず、言葉を重ねた。
「今はこの案を信じてくれなくても構わない。それでも私は、全力でこの構想を形にする。そして、将来的にはお前にスラヴの守護者となってもらいたいと思っている」
アントンは目線を上げる。
「いきなりどういうことでしょうか?」
「私が皇位を継げば、必ず改革に着手する。スラヴを柱とするためには、お前が必要だと言っているのだ」
フランツの覚悟が込められた言葉に、アントンは声を出せないでいた。
「ガリツィアで民の感情を知り、帝国の綻びを見た。それでいて帝国を本気で憂うことが出来る皇族であるお前は、すでにこの国にとってかけがえのない人材なのだよ」
アントンは目を伏せた。
脳裏には、遺体のあった納屋、何も言わなかった村人たち、そして、何も報告しないことを選んだ自分自身の姿があった。
「とりあえず、無理かどうかは置いておくとして、スラヴの守護者それは、帝国の中で最も矛盾した立場です。ドイツ系からも、ハンガリー系からも、疑いの目を向けられる。それでもそんなものになれと?」
「そんなものになれるのは、お前しかいないのだ。血筋があり、それでいて民の感情に寄り添える。そんな人物はこの帝国にはお前以外に、もういない」
アントンはしばらく黙り込んだのち、ぽつりと答えた。
「はぁ…分かりましたよ。もし本気で三重帝国を形にできる時が来るなら、その時は、私もこの帝国のために力を貸しましょう。…その時が来れば、ですが」
フランツはわずかに笑みを浮かべた。
「それで十分だ。ありがとう」
アントンは返事を返さず扉に向かった。
ドアノブに手をかけたその時、背を向けたまま静かに言った。
「それだけの覚悟を見せたからには、実現するまで死んではいけませんよ。兄上」
実際にフランツ・フェルディナントが、三重帝国の構想を持っていた記録があります。サラエボ事件でそれどころではなくなりましたが。彼が皇帝になることができていたら、三重帝国がほんとに生まれてたかもしれませんね。




