第二十六話
村から戻り、一息ついたのちにカロリ少佐が告げる。
「殿下、本日は演習場の視察を行います」
視察団は第三十六歩兵連隊の演習場へと向かった。
昨日の村とは打って変わり、立ち並ぶ兵舎と仮設砲座には、秩序によって作られた空気があった。
「本日は、訓練中の陣地構築と弾薬庫の点検をご覧いただきます。あくまで例年の様式通り、という形ですが」
「例年通りがどんなものか、村の出来事を思い出すと知るのが少し怖いな」
アントンが静かに返すと、少佐は微かに眉をひそめたが、それ以上は何も言わなかった。
演習地では、兵士たちが匍匐しながら塹壕を掘っていた。遠目に見れば一糸乱れぬ動きだが、近づけば荒れた息遣いと、くぐもった罵声が交錯していた。
「前列、もっと深く掘れ! そこでは隠れられん!」
「うるさい!今やってるだろ!」
怒声はポーランド語だった。返された罵声はルテニア語。すぐに別の下士官が割って入った。
アントンは足を止め、少佐に問う。
「言語の指導は各中隊任せか?」
「はい。正規の兵籍上はドイツ語による統一教育が規定されていますが、士官レベルならともかく、実際には無理です。通訳が無いと私もどうにもなりません」
少佐の語尾は重たかった。
次に案内された弾薬庫の屋外区画には、覆いをかけた木箱が並び、ラベルには旧式の砲弾の記載があった。
「M1867式野砲用榴弾?これは…正気か?普仏戦争以前のものではないか」
アントンは指で埃をぬぐいながら呟いた。
「中央からの補給が滞っております。まだ撃てる砲弾は、まだ使えと」
「他の列強が次の戦争に備えて速射砲を量産しているというのに?」
カロリは苦笑で応じた。
「この地が戦場になるはずがないと見られているのでしょうね」
アントンは信じられないと言った表情を浮かべる。
「いくらここが中央から遠いとはいえ、ロシアと事を構えたら最前線になる場所だぞ…」
「そんなことはありえないと、上層部は本気で信じているのですよ。しかし、実際にロシアが来てしまった場合、ここは直ぐに陥落するでしょうね」
アントンは視線を箱から遠くの地平へ移した。
曇天の下、その先には見えない境界線があり、そこから更に先には、巨大な雪の帝国がある。
(複雑な軍事同盟。それを考えればフランツ兄上が暗殺されなかったとしても、いつか必ず世界大戦は起きる。これは、なんとかしなければ…)
ふと、兵舎の陰から一人の下士官が歩いてくるのが見えた。明らかに足を引きずっている。
「彼は?」
「実戦訓練中に足を負傷しました。ですが戦傷扱いにはなりません。予備役からの再編成組でして」
「民兵崩れか?」
「厳密には郷土団からの再編です。戦力には数えられていますが、実働には影響があるでしょうね」
「ならば、戦力とは見れないではないか」
アントンは短く言った。
「ここは、40年前の野砲が未だに主戦力であり、兵が不和で命令系統が混在している。それでも紙の上では千名配置と、立派に記録されるのだな」
カロリは一歩引いて、アントンを見た。
「殿下、お言葉を選ばれたほうが」
「少佐、これは愚痴ではない。数字の裏に何があるか、それを知るのが視察だろう?」
その言葉に、少佐は何も返さなかった。彼も現状の酷さが分かっていたのだ。
見回りの最後、アントンは衛兵詰所で一人の若い兵に声をかけた。
「君はどこの出身だ?」
兵はぎこちなく敬礼した後、答えた。
「ハリチナ地方です、殿下。祖父の代からこの土地におります」
「帝国軍に志願したのは?」
「村の生活が苦しく。それと、兄が以前、ここにいたので、同じ場所に立ちたくて」
「そうか。名前は?」
「アンドリー・シフチェンコ、です」
アントンは微かに頷き、肩を軽く叩いた。
「よく務めている。無理はするな」
そう言い残して背を向けた時、兵士の姿勢が少しだけ緩んだように見えた。
視察を終えた帰り、ハルトマン中尉が声をかけた。
「いかがでしたか、殿下?」
アントンは短く答えた。
「帝国の地図の上には、兵が千名と記されている。しかし、この目で見た千と、紙の上の千は、まるで違う」
「記録と現実に乖離が?」
「それだけじゃない。忠誠にも温度差がある。帝国に命を賭ける者と、命のために帝国を選んだ者。その両方が同じ軍服を着ている」
「…現場というのは、そういう場所かもしれません」
アントンは溜息をついた。
「もしこの国に戦争が来た時、何か信じるものがなければ、帝国は一つになれない。軍備の乏しさはともかく、軍人がこれではどうにもならないだろうさ」
(帝国を守るためには、最早なりふり構っていられない。いや、すでに詰みかけているのかもしれない…)
アントンは、酷すぎる帝国の実情に、どうすればいいのか、もう分からなくなっていた。




