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ハプスブルク最後の煌めき  作者: ここもろこ
ガリツィア視察編
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第二十五話

アントンは無言のまま、カロリ少佐の先導で北の納屋へと向かった。


道中、木々の間から差す夕光はすでに赤みを失い、音のない緊張がアントン達を包んだ。



アントンが低く問う。


「納屋には誰が出入りできる?」


「村の共有物ではありますが、実質的には地主の管理下です。村人たちは許可なく入れません」


「つまり。地主側の誰かの許可のもとで、事件が起こった可能性があるということだな?」


カロリは返事をしなかったが、それが答えも同然だった。



納屋の前には、すでに兵士二名が控えていた。扉は半開きで、微かに鉄臭い空気が流れてくる。


「こちらです、殿下」


アントンが足を踏み入れた瞬間、鼻を刺すような血の臭いが鼻腔を満たし、思わず息を止めた。

干し草の影に横たわる青年の遺体。それは記憶の中で何度も見た、映画やドラマものとは、まるで違っていた。


静かに目を閉じた顔には殴打の痕。首筋の裂傷にはまだ赤黒い血が滲み、鳩尾辺りの服は、どす黒く変色していた。


その場に立ったまま、彼の脚がかすかに震えた。


「これが、本当の人の死なのか…」


声に出すつもりはなかった。だが唇が動き、喉がかすれた。士官学校では戦術と死の数字を学んだ。しかしこの温度や臭いは、誰も教えてくれなかった。


ハルトマンが横目でアントンを見やり、一歩だけ近づいて低く尋ねた。


「…殿下、大丈夫ですか?」


アントンは目をそらしたくなる衝動を押し殺し、もう一度遺体に目を戻した。

だがその瞬間、喉の奥にこみ上げるものを感じ、ほんのわずかだけ後ずさった。


「…ああ、大丈夫だ。ただ…慣れていない。それだけだ」


カロリ少佐は無言で納屋の隅に立ち、あえて目を合わせようとはしなかった。


「……この男、村で聞き込みしたルテニア人の一人です。名はイヴァン・ロマネンコ。倉庫火災の関係者とされていた青年です」


「彼が再び狙われた?」


「おそらく、前回の件で騒ぎすぎたと見られたのか、口を封じられたのか…」


アントンは口を閉じ、しばらく黙ってから言った。


「これは事故では済ませられない。事件として扱われるのだろう?」


カロリ少佐は眉を寄せた。


「…我々が騒ぎ立てれば、更なる報復が起きる可能性もあります。村の均衡はすでに危うい。下手に動けば、もっと多くが命を落とすことになります」


「つまり、無かったことにすると?」


「現場指揮官としての判断です」


「皇族である私がこの場にいるというのにか?」


「残念ながら殿下がいるとしても、です。帝国の端の治安を安定させるには、法と秩序だけでは不十分なのです…」


「しかし…」


「殿下、私とてこれが正しくない事は分かっているのです。しかし、どうにもならないのです…」


納屋を出たとき、空はすっかり暗くなっていた。星もなく、ただ漆黒が辺りを包んでいる。


教会へ向かう途中、村の通りは静まり返っていた。扉は閉ざされ、窓に灯りひとつない。まるで、誰も住んでいないかのようだった。


神父の部屋に入ると、アントンは蝋燭の灯に浮かぶイコンをしばし見つめた。


神父は蝋燭を見つめながら言う。


「殿下。あの子の死に、誰も声を上げないことに、お気づきでしたか?」


「…ええ。村全体が、何も無かったことにしている」


「私達も本当は、声を上げたいのです…ですが、それをすれば争いが始まります。恐ろしくても、この場所で平和に生きていくためには時に目を閉じ、耳を塞がなければならないのです」


神父は、手を震えさせながらアントンに手紙を差し出す。


「この手紙は?」


「誰にも届くことのない私たちの声です。中身を読んだら殿下の記憶の中だけに留めておいてください。お願いいたします」


「分かりました。今回のことも含め、あなた達の声を忘れないと誓います」


神父は目を伏せたまま、呟いた。


「そのお言葉だけで、イヴァンの魂は救われるでしょう」


—————


翌朝、村を発つ際、兵士たちが静かに馬車を整備していた。アントンは手紙を内ポケットに収め、村の広場を最後に見渡した。


昨日と同じ村。だが、彼にとってそれは、もう決して同じではなかった。


ハルトマンが近づき、小声で尋ねた。


「…この件、報告書には事故と記しますがよろしいですね?」


アントンは頷き、答えた。


「納屋で一人の青年の遺体が見つかったが、外傷はなし。状況は不明だが、おそらく病死。それだけでいい」


「殿下…理解していただき、ありがとうございます」


「今回の事は素直には書けない。だが私は見たし、その記憶は失わない。それだけでいいのだよ。民族間の安定を得るためには、目を閉じることも必要なのだな…」


馬車が揺れながら出発したとき、遠くで鐘の音が一度だけ鳴った。誰かのための祈りか、それとも声にならない叫びか。アントンには分からなかった。


ただ確かなのは、彼がこの地を去るとき、法や秩序、規律といった物を無条件に信頼することは出来ないと知ったことだった。

後味が悪いかもしれませんが、実際に民族を跨ぐ事件が事故として無かった事にされる事はありました。これは下手な処理を行うと民族間の争いが起こるためです。村人達が報復を恐れ口を閉ざすこともあったとされてます。

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― 新着の感想 ―
逆にこの民族の切り貼り帝国が何百年も生きながらえた理由を知りたくなった。 何かしら必要と利点があったから続いたのでしょうね。
すげーな。 ここまで調べ上げてるのは普通に尊敬。 …ハプスブルクの帝冠は揺らいでいる。 幾つもの王冠を元にギリギリの綱渡りを続け帝冠を強引に成り立たしている。 言語問題、民族問題、軍制問題、官僚問題…
神は細部に宿るとの言葉通り、当時の小さな事象までよく調べて書いていらっしゃるのだと感心しました。 この様な歴史全体から見ればささやかな、けれども当事者たちにとっては心を決めさせるには充分な出来事が歴史…
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