第二十三話
アントンはウィーン南駅の構内に立っていた。周囲は騎兵将校や事務官たちが行き交い、出征ではないにせよ、空気にはどこか緊張が漂っている。
向かう先はガリツィア東部の軍政管区、民族間の対立が表面化しつつあるこの地である。アントンは、特別課題に備えるため、皇族の視察と称して、夏休みの間に視察に行くこととなった。
「お荷物はすべて積み込みました、大公殿下。列車は十分後に発車いたします」
傍らに控えるのは、陸軍省から派遣された参謀補、オットー・ハルトマン中尉。三十をわずかに越えた人物で、軍務においては実直さを絵に描いたような男だった。
「ありがとう。…緊張しているのか?」
アントンがそう尋ねると、中尉はほんの少し眉を動かし、苦笑交じりに答えた。
「申し訳ありませんが、この様に天上のお方をエスコートするのは初めてなので」
「そんなに気にしなくていい。私は皇族としての顔を見せに行くが、同時にこれは学びの一環だ。気の抜けぬ道行きであることは確かだろう」
汽笛が鳴り、列車はゆるやかに動き出した。
車窓の景色がウィーン郊外から草原へと移り変わるにつれ、アントンはふと、窓の外に目を留めた。
農夫が鍬を振るい、子どもが麦の束を運んでいる。どこにでもある帝国の農村風景だ。
「大公殿下、先にお伝えしておくのですが、現在向かっているガリツィアでは、ポーランド系とルテニア系の争いが、農地の境界をめぐって顕在化しつつあります。地元の部隊も治安維持に手を焼いているようです。先週、境界をめぐって、小規模ながら農具での乱闘も発生しております」
「民兵ではなく、正規軍が派遣されているのか?」
「はい。第三十六歩兵連隊が配置されています。とはいえ、本来なら戦時の予備にあたる部隊です。長くは保たないでしょう」
アントンはわずかに表情を引き締めた。
「しかし、ハンガリー議会が口を出してくる以上、この先の援軍や支援は限られる。となると、第三十六歩兵連隊には悪いが、無理をしてでも頑張ってもらわなければな…」
「まさにそのとおりです、大公殿下」
列車内の空気は、いつしか士官学校での学びの延長ではなく、実務のそれへと変わっていた。
————
二日後、列車は目的地に到着した。小さな駅舎には、軍用馬車が数台並び、近郊に駐屯する部隊から迎えが出ていた。
「ガリツィア軍政管区、第三十六歩兵連隊所属、エルンスト・カロリ少佐です。お迎えに上がりました」
「アントン・マリア・フェルディナント・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲンだ。今回はよろしく頼む」
カロリ少佐はひとつ頷き、アントンの顔をじっと見た。
「大公殿下におかれましては、こうした地にお越しになるのは初めてと伺っております。ご覧のとおり、ここは中央から遠く離れた帝国の端です。言葉も習慣も、ウィーンとはまったく異なります」
「分かっている。今回はそれを学びに来たつもりだ」
少佐は微かに目を細めた。
「ならば、歓迎いたします」
歓迎の挨拶が終わると、アントンは少佐に連れられて、軍用馬車に乗り込んだ。
軍用馬車は未舗装の街道を揺れながら進んだ。途中、村落を通り過ぎるたび、軍服に目を留める村人たちの視線が、いくつも突き刺さる。
やがて、軍の駐屯地に到着すると、アントンは簡単な敬礼ののち、すぐに装備の確認と日程の調整に入った。視察の一環とはいえ、士官候補生としての態度を崩す気はなかった。
その日の夕刻、カロリ少佐が小さな書類鞄を手に現れた。
「先ほどもお話ししましたが、明朝、現地村落の視察を予定しております。正規の同行者は私とハルトマン中尉のみ。殿下には、皇族としてだけでなく、出来れば未来の士官として民の声を聞いていただきたい」
アントンは、静かにうなずいた。
「そうするつもりだ。ただ、皇族による視察という名目上、完全に士官候補生としての振る舞いは厳しくなる」
「はい。それでも構いません。私は、帝国の端の地域について、大公殿下に理解していただきたいのです」




