第二十話
野外演習から戻った翌週、アントンは初めて外出申請を行った。
行き先はウィーンのレオポルトシュタット。
移民が多く住み、貧しさと民族ごとの文化が混ざり合う、皇族の立場としては、まず訪れることのない場所である。
「アントン様、本当にこの地区に向かわれるのですか?」
「ああ、今まで目を向けてこなかったものにも、向き合った方がいいと思ったからな」
アントンの答えに、少佐は軽くうなずいた。
二人は騎兵用の曳馬車に乗り、レオポルトシュタットへと向かった。
商店の並ぶ小道には、聞き慣れない言葉が飛び交っていた。クロアチア語、セルビア語、ハンガリー語、そしてイディッシュ語。
「殿下、皇族がここを歩くなど、かつては考えられなかったでしょうな」
「だからこそ、来てみたくなった」
アントンは外套の襟を正しながら答えた。
通りでは、クロアチア語が怒鳴り合い、ルーマニア語の歌がどこかで流れ、ハンガリー語とイディッシュ語が交差していた。
ただ一言すら理解できないまま、人々はすれ違う。帝国の主たるドイツ語の響きはここでは疎外されていた。
「このあたりでは、同じ街の中にあっても、互いの言葉すら通じない者たちが共に暮らしています」
少佐は通りを歩きながら、静かに語った。
「私からすると。彼らは帝国の一部だが、彼らからしたらそんなことは関係ないのか」
「はい、アントン様。法はあれど届かず、命令はあれど届かず。ここは帝国という響きがもっとも虚しく聞こえる場所です」
少佐の声は皮肉でもなんでもなかった。ただ、現実をそのまま述べるものだった。
露天商が並ぶ市場では、古びた服を着た女たちが食料をめぐって声を荒げ、傍らでは、痩せたセルビア人の少年が地面に寝転び、帽子を差し出していた。
「この地区に駐在する憲兵は、ウィーン内の地区であるにも関わらず、ドイツ語が話せないものも多くいます。居住登録も追いつかず、正確な人口すら把握できていません。」
少佐はそう言いながら、少年の帽子に僅かばかりの小銭を入れた。
ふと、路地裏の一角から、怒鳴り声が上がった。マジャル語で何かを叫ぶ男に対し、ルテニア語の返しが飛ぶ。
歩き続けるうちに、焚き火を囲んだ男たちの集団に呼び止められた。
「いい外套だな、坊や。どこのお屋敷のご子息だ?」
挑発するでもなく、冗談めいた口調だった。
ビッシンゲン少佐が一歩前に出ようとすると、アントンが軽く首を振った。
「テレジアニウム陸軍士官学校から来た者です」
そう答えると、男たちは目を見開き、それから笑った。
「つまり陛下の兵か!なら、このあたりの水場は避けたほうがいい。魚より瓶の方がよく浮いてるからな!」
「忠告、感謝します」
頭を軽く下げると、男たちは火の前に戻っていった。アントンの言葉に、嘲りも畏れもなかった。
————
帰路、馬車の窓から流れる街並みを見つめながら、アントンは思った。
(大戦後、この国が解体されたのは知っている。だが、もうすでに、この国はバラバラになっているじゃないか)
思考しているアントンに対して、少佐はこちらも見ずに言う。
「殿下にとって帝国とは、法と秩序の象徴かもしれません。しかし、彼らにとっては、法は遠く、秩序は冷たいものです」
アントンは今日、1つの国家に10以上の民族を抱える帝国の現状と、教本には決して書かれることのない現実を知った。




