第十九話
本日三話投稿してます。
翌朝、目を覚ますと、テントの天幕には雪が薄く積もり、外からは誰かのかすかな咳と、焚き火をかき起こす音が聞こえる。
アントンは毛布を肩から払い、慎重に靴紐を締め直した。まだ空は暗く、残り火がかすかに赤く揺れているだけだった。
「第三班、出発の準備を整えろ。警戒行軍に移る」
上級候補生の低い号令に、全員が無言で立ち上がった。
疲労と寒さが肌にしみるようだったが、それを口にする者はいない。無言で、黙々と、動くべきことを知っている。
この日の課題は警戒行軍と偵察。単なる移動ではなく、索敵、警戒、地形の把握と判断力を要する実地訓練だった。
雪原を抜け、斜面を登ると、視界の先に林と凍りついた小川が現れた。
先頭を行く者の足跡が、雪で白く均された地面に等間隔で並んでいる。
アントンは列の中ほどで、周囲を見回しながら静かに呼吸を整えていた。
訓練とはいえ、そこに漂う空気は張りつめている。何かが潜んでいてもおかしくはない。そう思わせる、無音の緊張が森全体を覆っていた。
そのとき
「前方に不審影あり! 左前方、十時方向!」
先頭にいたヨセフが叫び、列が一斉に伏せた。模擬敵の襲撃が始まったのだ。
「第三班、右斜面へ展開! 支援射線を確保!」
命令が飛び、アントンもすぐに雪を蹴って木陰に移動する。
銃器を構え、目の前の枝を押しのけると、雪が腿に絡みつき、息が熱を持って上がった。
そのとき、不意に足元の枝が折れた。わずかに体勢を崩したアントンの視界に、ラインハルトが足を滑らせて倒れそうになるのが映った。
彼は咄嗟に手を伸ばし、相手の腕をつかんで引き寄せる。
「…助かりました、大公殿下」
「気にするな。前を見ろ」
短く返したその声は、思ったよりも冷静だった。自分でも驚くほどに。
二人が体勢を立て直すのと同時に、模擬敵からの信号弾が木々の合間に閃光を放った。赤い煙が空へと上がり、演習が本格的な交戦想定に移行したことを告げる。
「後列、前進しろ!」
上級候補生の声が雪を裂くように響く。第三班は散開しながら、仮想の火点に向けて布陣を広げていく。
アントンも再び銃を構え、背筋を伸ばして木の影から目を凝らした。
敵の姿は見えない。向こうに居るという空気だけが、確かに場を支配していた。
一歩踏み出すごとに、雪を踏み締める音が響く。
指先はかじかみ、膝は冷え切っていた。それでも体は動いた。
前方の偵察係が旗を振る。敵部隊の撤退が宣言されたのだ。訓練とはいえ、緊張が一気に抜ける。
模擬戦闘は終息し、全隊に再集結の命令が下った。
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午後、演習地の凹地にて、最終整列が行われた。
並んだ候補生たちの制服は雪に濡れ、顔には疲労の色がにじんでいた。
教官が一班ごとに簡潔に評価を告げる。
「第三班、展開速度および命令伝達に問題なし。索敵、判断にやや迷いは見られたが、全体として柔軟な対応ができていた。演習の目的は達成とする」
言葉は淡々としていたが、アントンの胸には確かなものが残った。
机上では分からない、現場を体験しなければ知り得ない感覚があるということだった。
日が傾く頃には、候補生たちは馬車へと乗り込んだ。
夕暮れの橙が車窓の外に広がり、雪原と木立が流れていく。
アントンは窓にもたれ、静かに目を閉じた。
あの夜、同じ地面で眠り、同じ空気を吸ったことが、まだ身体に残っている。
(同じ目線で共に歩くということ、これは人として大事なことなのだな)
士官としても人間としても、未熟なままだ。
だが、それでもこの二日間に得たものは、皇族としてではなく、人間としての成長に繋がるものだった。




