第十五話
彼女はアントンの存在に気づくと、微笑みながら足を止めた。
「殿下。お帰りなさいませ」
静かな声が、宮廷に染み入るように響いた。
「ゾフィー様……」
言葉に詰まりそうになりながらも、アントンは礼を取った。
すでに彼女は結婚している。アントンの兄であり、皇位継承者であるフランツ・フェルディナント大公と。
しかし、その結婚は帝室から正式に認められたではなく、彼女は大公妃と名乗ることは許されていない。
「礼など取らなくとも結構ですわ。私は、ただの場違いな女、でございますから」
ゾフィーは冗談のように微笑んだが、その目には張り詰めた光があった。
アントンは目を逸らしそうになった。
この人の運命を、自分は知っている。
十年後、夫とともに撃たれ、死ぬことを。
「今宵の宮廷は、いつにも増して寒い気がいたしますわ」
ゾフィーの声が、思考を引き戻した。
「お寒くはないですか?」
安易に返してしまったが、彼女の言った寒さというのは気温のことではなかった。
それは宮廷内が彼女に向ける、冷たい態度のことであった。
「ええ、寒いですわ。でも…その寒さを選んだのは私ですから」
アントンは一瞬、呼吸を忘れた。
「この立場で生きるということは、他人の目には、決して幸せには見えないかもしれません。けれど私は、心から愛する人の隣に立つことを選びました。その代償に何があるのかも、わかっていました」
彼女の声に悲しみはなかった。ただ、覚悟があった。
「選択には…覚悟がいるのですね」
アントンがそう呟くと、ゾフィーはわずかに頷いた。
「そうですわ、殿下。何かを選ぶということは、同時に何かを手放すということ。それでも失っても後悔しないと自分に誓えるかどうか、それが本当の意味での選択ではなくて?」
「…生き方を決める、ということですね」
彼女はもう一度だけ微笑んだ。それは、この場所にいることを誰よりも知っていて、それでも立ち続けようとする人の笑みだった。
「どうか殿下も、選ぶということを恐れずにいてください。選ぶことからしか、本当の強さは生まれませんから」
言い終えると、彼女は上品に一礼し、廊下の先へと歩み去った。
その背筋は凛として、誰にも屈しない意志のようにまっすぐだった。
アントンは立ち尽くしていた。
あの人はただの悲劇の貴妃なんかではない。
あの人は、覚悟をもって、愛と共に生きる道を選んだ者だった。
それは、何よりも勇敢な選択だとアントンは思った。
毎回文字数1500いかないようにしてるのですが、どれくらいがいいんでしょうかね




