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第十四話

宮殿に着く頃、ウィーンの夜空には雪が舞っていた。

屋敷の外はすっかり静まり返り、年の瀬の空気がゆっくりと宮廷を包みはじめていた。


アントンは帰還の挨拶を終えたあと、自室で軍帽を脱ぎ、軍靴を脱いだ。

その瞬間、重たい何かが肩から外れる感覚があった。


「おかえりなさいませ、殿下」

共に帰ってきた教育係のビッシンゲン少佐が軽く頭を下げる。


「ありがとう、少佐。あとは休んでいてくれて構わない。母上のところに行きたいんだ」


珍しい言葉に少佐は軽く目を細め、「承知いたしました」とだけ残して静かに部屋を去った。


————————————————————

暖炉の火が赤々と灯る部屋の扉を叩くと、中から女官が顔を出した。


「大公妃様はお部屋にてお待ちです。どうぞ」


アントンは静かに部屋へ入る。

そこには椅子に腰かけ、刺繍の手を休めていたマリア・テレジア大公妃の姿があった。


「アントン。よく帰ってきてくれましたね」


柔らかな笑みが、アントンの心を少しだけ和らげた。


「ただいま戻りました、母上。特に大きな怪我もなく、過ごしています」


「そう。よかった」


穏やかな笑みで母は告げた。


「寒くなったわね。ノイシュタットの方は、もう凍ってしまっているのでしょう?」


「ええ、毎朝、隊列の呼気が一斉に白くなるんです。その様子は少し面白いです」


微かに笑うと、母もつられて微笑んだ。ただ、どこかに陰りを宿したままだ。


「…生活は、辛くない?」


アントンは答えに困り、カップの縁に視線を落とした。


「辛くないとは言いません。しかし、必要なことだと自分では思っています」


母はそっと湯気の立つ紅茶を見つめた。


「私はね、あなたに軍務のことを教えてあげることはできないの。私自身が生まれた時から護られる側だったから」


静かに語るその声に、アントンは逆に胸が締めつけられた。


「でも、あなたをみていると…私には見えない物を見て、その上で自分で何かを選ぼうとしているように思えるの」


「母上…」


「あなたは、まだ若くても自分で悩み、それでも一生懸命もがいているように見えるわ。それを私は、どこか誇らしいと思っているのよ」


アントンは何も言わず、ただその言葉の重みに身を委ねた。


少しして、母は話題を変えるように紅茶をもう一杯注いだ。


「アントン。今日は何も考えず、暖かく過ごしなさいな。明日からはまた忙しくなるのだから」


「はい。ありがとうございます、母上」


静かな時間が流れた。窓の外には、白銀の庭園と凍った噴水。どこか夢のような風景だった。


————————————————————

「母上、とても楽しい時間でした」


「私もよ、アントン。また明日ね」

母は慈愛のこもった笑顔で見送る。


アントンは一礼して席を立ち、扉へと向かった。


扉を開け、廊下に出たその時だった。


絨毯の向こうから歩いてきた一人の女性と目が合った。


落ち着いた深緑のドレスに身を包み、栗色の髪を結い上げた上品な女性。見覚えのある姿。


彼女も一瞬、立ち止まった。そして静かに微笑んだ。


アントンは言葉を飲み込む。そう、彼女の名は


ゾフィー・ホテク


十年後、彼女は皇位継承者の妻として、ボスニアの街角で銃声に倒れる。

世界を巻き込む未曾有の大戦争、その扉を開く最初の被害者として。


そんな彼女も、今はただ、穏やかに微笑むだけのひとりの上品な女性として、この冬の宮廷に確かに存在していた。

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