おっちゃんのいない夜
下へ向かうエレベーターが止まり、チーンと音が鳴りの扉が開く。
多門は呆然とした顔でエントランスを抜け、マンションの駐輪場へ歩いた。
外はもう真っ暗で、照明が通路を照らしている。
多門は芝次郎のマンションに来る際、いつも原付でスーパーに寄ってから来ていた。
しかしいつもの場所に多門のスクーターはなかった。
「あ…今日飲むつもりやったから電車やった…」
呟いて多門は鞄の中の箱を見た。中身は純米大吟醸の日本酒の瓶だ。
航平の誕生日は多門にとっても初めての特別な日だった。
だから芝次郎と飲むつもりで奮発したのだが…。
「芝ちゃん家置いて来たら良かったかな…まあええわ」
そのまま多門は鞄を肩にかけて徒歩で駅へ向かった。芝次郎のマンションは駅から比較的近く、駅からは帰路に就く人々が歩いていた。
切符を買い、ホームで待っていると程なくして電車がやってきたので多門は乗り込んだ。
上り列車の車内はもう夜遅いせいか人は殆どおらず、多門はグリーンのロングシートの真ん中あたりに座った。
人の少ない車内は誰かの話し声もなく、ガタン、ゴトン、と電車が走る音だけが時折響く。
やる事もなくぼーっと座っていた多門は、ようやく母親に会えて泣いていた航平の背中を思い出していた。
良かったなぁ…航ちゃん。
多門は寂しそうに微笑んだ。
航平、芝次郎との今までの事が頭に浮かぶ。
「おっちゃん、ありがとう!」
嬉しそうに抱き着いてくる航平。
「モンちゃん、これからも頼むな」
安心して自分を頼ってくれる芝次郎。
…楽しかったなぁ……
おっちゃん!
モンちゃん
航平の笑顔が、芝次郎の笑顔が、多門の頭に浮かぶ。
ガタン、コトン
夜の電車内に音が響く。
窓から遠くで流れていく夜空と建物の明かりが見える。
ぽたっ、ぽたっ。
多門の足元に雫が落ちる。
人のいない車内で、シートに一人座った中年男が俯いて肩を震わせていた。
「ママがフシンシャの人だったんだ…」
多門が去った芝次郎のマンションでは、芝次郎、航平、玉子で家族会議のような状態になっていた。
玉子が持ってきたバッグから航平の誕生日ケーキとプレゼントを出そうとした時、サングラスが床に落ちた。
それを見た時、航平はぼそっと呟いた。
そう言われて玉子は語り始めた。
「…そうよ…父のコートと帽子借りてこっそり見に行ってたのよ…」
航平はあの時、不審者になぜか懐かしい感じがして目が離せなかった。その原因は見た記憶のある鞄と、不審者が上げた声だった。その時ははっきりと玉子だとは気付かなかったが…。
「お前、何してるんだ…」
芝次郎が呆れ顔で言う。
「だって私パート先で大変なのにあなたは全然話聞いてくれないし、当分実家にでも帰らないと真剣に考えてくれないと思ったけど、航ちゃんの事は心配だったんだもの…」
玉子が泣きながら話し始める。
玉子はパート先の人間関係が悪く嫌がらせを受けており、駆け落ちをしたというのも勝手な噂だった。
パート先の主任の坂崎という男に相談をしていた事、また現在隣県で入院中の坂崎の見舞いに行っていた事があり、そんな時に芝次郎がいなくなってしまった玉子を探しに来た為、悪意でその噂を吹き込まれたのだろうと玉子は話した。
近所でもパート先の人と出会うのが怖く、芝次郎にも気付かれず航平の様子を窺う為に変装をする事を思いついたのだという。
「ママ…」
航平が玉子の体をさする。
やれやれ…と芝次郎が肩を落とす。
航平は全てを理解したわけではないが、母が帰って来てくれた事が、心配してくれていた事が本当に嬉しかった。
でも、一人で帰ってしまった多門の事が気にかかってもいた。
おっちゃん、どうして帰っちゃったんだろう…?
少し落ち着いた玉子は、ソファーに置いてあったフィルムカメラのDPEサービスの袋を目に入れた。
「あら、この写真…」
「ああ、こないだ航平と森林公園に行った時の写真を今日現像してきたから、皆で見ようと思ってな」
芝次郎が答える。
「この子…」
玉子が手に取った写真には、航平とゲン太が仲よく肩を組んでピースサインをしている姿が映っていた。
「この子、あの暴れん坊の子じゃない!」
その写真を見て玉子は言った。
「暴れん坊?」
芝次郎が反応する。
「そうよ。すごい暴れん坊で、ご近所でも有名なのよ。大人の言う事も全然聞かなくて大変で…クラスでも椅子をなげて暴れたりしたってすごい噂なのよ、私もボールぶつけられたし…。あなたもこの子と遊んだのね。大変だったでしょう?」
まくしたてる玉子の言葉に少し戸惑いながら、芝次郎が言う。
「いや、いい子だったが…航平の面倒もよく見てくれたし…」
芝次郎はあの日公園で遊んだゲン太の顔を思い返していた。その時ふと、なんだか懐かしいように思えて、とてもそんな悪い子には思えなかった。
「あらそう…でもみんな心配してたのよ~」
「そ、そうか…」
「そうよ~。若島津さんの奥さんがいつもとっても心配されててね、あっ、この方とってもいい方なんだけど…。下柳さんもね、いつもお話されてるんだけど、でもパート先の宮本さんがね・・・」
「…」
誰なのか知りもしない名前を次々に聞きながら、芝次郎は呆れつつも、なんだかんだで友達が多そうな玉子の様子には少しほっとしていた。
ひとしきり話し終えると玉子はテーブルの上のケーキや料理皿に目をやった。
「…そういえばさっき帰られたの斧山さんよね?いつも斧山さんがお料理作ってくださってたのね・・・」
「ああ、そうなんだよ。モンちゃんのおかげで本当に助かってな」
「そう…お祝いもしてくださってたのに申し訳ないわ…またみんなでお礼しないとね」
玉子は芝次郎と航平を見ながら言った。
きょとんとした顔で玉子が話すのを聞いていた航平は、その言葉を聞いて笑顔になった。
「うん!」
芝次郎は一人帰っていった多門の様子を思い出し、少し目を伏せた。
モンちゃん転勤か…。そうか…。
結局、多門は打診のあった転勤を受ける事にし、引っ越しまでの二か月、通常業務と引継ぎの為に会社と自宅を往復するだけの日々を送っていた。
あれから何度か芝次郎からの電話があったが、何と言えば良いのか分からず、出る事ができなかった。
その日、日も暮れた頃、電車を降りた多門は会社帰りにいつものスーパーに寄った。
スーパー前の広場では何か催しものをしているのかいくつかの屋台が並び、クレープやチキンなどのメニューに何組かの親子連れが集まっていた。楽しそうな笑顔がやけに目に付いた。
「けっ…」
多門はしかめっ面をして目をそらし、そのままスーパーへ入った。
適当に弁当二つとカップメンと総菜パン、また酒瓶をガチャガチャと音を立ててカゴに入れ、清算して多門は買物袋を片手にアパートに帰宅した。
アパートに着いた頃にはもうあたりは真っ暗だった。
鍵を開け、手探りで電気のスイッチを探す。カサカサと買物袋の音だけが響く。
ぼんやりと明かりに照らされた部屋には、一人用のテレビとちゃぶ台に敷きっぱなしの布団。その枕元には写真立てと空の酒瓶がいくつも転がっていた。
スーツを脱ぎネクタイを外した多門は弁当をさっさとかきこみ、酒瓶を開けた。
コップに注いだ酒をグイグイ飲み干すと、やっと落ち着いたのか多門は大きく息を吐き、俯いて肩を落とした。
しかしその肩は震えていた。
「うっ、うっ…芝ちゃん…航ちゃん………敦…」
多門の右手には、一枚の写真があった。
それは以前、芝次郎、航平、多門の三人で釣りに行った時の写真だった。
そこには嬉しそうに釣り竿と魚を掲げた芝次郎と、クーラーボックスに腰かけて笑顔の航平をなでている多門の姿が映っていた。
多門は、目をぎゅっとつぶり、さらに酒をあおっていった。
翌日土曜日の朝、多門のアパートの扉を隣人の中年女性が小鍋を持って訪れていた。
「斧山さんおる~?夕べカレー作り過ぎたんやけどよかったら…」
ドアをノックしようとしたところ、鍵がかかっていなかったのか、ドアはキィと音を立てて簡単に開いた。
その奥の部屋では、何本もの転がった酒瓶とともに多門がうつぶせに倒れていた。腕がだらんと下がっており、見るからに様子がおかしい。
「お、斧山さん!?大変やわ…!!」
数十分後、芝次郎のマンションの電話が鳴った。たまたま電話の近くにいた芝次郎が出る。
「もしもし、こちら救急隊です。斧山多門さんの御親族の方のお電話ですか?」
「え、いや、親族ではないですが、友人です。多門くんに何か…?」
「急性アルコール中毒で、危険な状態です」
「モンちゃんが?!」
つづく…。
キャラクターの名前を一部変更しました。
・ゴン太→ゲン太
・敦志→敦




