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悪女はお姉様ではあり得ない

作者: 葉紡 未知





 あなたの視界に、本が飛び込んでくる。

 吸い寄せられるように、あなたは紫の装丁に手をかけた。





*****





 階段を駆け降りてくる音がする。

 わたくしは振り返ったりなどしなかった。階段を駆け降りるだなんて、はしたないこと。


「おねえさま! どこへ行かれるんですか?」

「あなたに姉と呼ばれる筋合いはなくてよ」


 先月、十三歳の誕生日を盛大に祝われたばかりだというのに、その年にもなって人の話が聞けないのかしら。

 ちらり、と振り返ってやると、クリームイエローのドレスを着た、青い目に栗毛の子供がこちらを見ていた。


「お父様はいいっておっしゃったわ!」

「ええ、父上はそうでしょうね」


 思わず冷笑が漏れそうになるのを、なんとか留めた。ここまで、すべていつも通りのやり取り。

 この娘は、わたくしの異母妹にあたる。

 兄である異母弟は十五になり、わたくしを姉と呼ぶことに躊躇があるが、この子供はいつまでもめげずにそう呼びたがる。一体なぜなのやら。


「父上が良いと言っても、わたくしは良いとは言っていないわ」

「知ってるわ!! いいって言ってもらうまで続けますもの!!

 ねぇおねえさま、お出かけになるならメリィも連れていってくださいな」


 甘い声で強請れば、いつかは叶うと思っている子どもの声。

 父上も遅くにできた子に、本当に甘い。それ以上の言葉を交わす価値すら見つけられずに、わたくしは藍色のドレスの裾を翻し、その声を振り切った。

 仲良くしてくださいと言いながら、連れて行ってくださいを繰り返すような子ども。そんなものに、わたくしは興味がない。


 玄関ホールを出て、待たせておいた馬車に乗り込む。タラップを畳んだ御者に合図して、わたくしはさっさと馬車を出させた。




 さて、馬車に揺られる間に、この記録を読む人に自己紹介をするべきだろう。


 わたくしはフェリシテ・シビル・イアサント・ド・マーレ。

 オスマン伯爵セレスタン・ジャン・オーブリー・ド・マーレの娘である。


 オスマン伯爵の子は、上から順に女、男、女。先ほどの娘は末子で、十三歳の二女、メリザンド・レティシア。その兄は十五歳のエドガール・アラン。

 なお長女のわたくしは今年で二十三になり、嫁き遅れと陰口を叩かれているところだ。

 ええ、もうとうに二十を過ぎたのにと、わたくしの美貌を妬むものほどそう語るもの。

 別にどうでもいいけれど、わたくしが未婚なのは、わたくしの市場価値が失せていないせい。男たちの求愛は引きも切らず、よりどりみどりのわたくしの結婚がいまだに決まっていないのは、わたくしを高く売りつけようとしたオスマン伯───父上の仕業である。わたくしのせいではない。


 話が逸れた。つまるところ、わたくしは嫁き遅れの長女で、メリザンドは可愛い末娘というわけ。

 ええ、メリザンドの可愛げのある容姿は、きっと愛嬌があると呼ばれるのでしょう。丸い鼻とか、ね。


 一方、美貌で知られる母から生まれたわたくしは、相応の美貌を持って生まれた。

 すんなりとした目尻、きりりとした眉、凛とした鼻筋、微笑まなくても形だけで美しい唇。母譲りの、貴族的な美貌。いつも青系統のドレスを着ていて、それがよく似合う。だからこそわたくしの市場価値は、いまも社交界で維持されている。

 それに父上は今、メリザンドの婚約者選びに忙しい。さもありなん、わたくしは最悪どこにでも高く売りつけられる容姿だが、“可愛いメリィ”にそんなことをさせる気はないのでしょう。

 逆に言えば、わたくしはそのおかげで自由を許されている。出かける先こそ報告が必要だが、定期的に友人の家まで馬車を出させるのもその一環だ。

 

 我が屋敷の敷地の端にあるイトスギの林を抜けると、門が見える。それをくぐると貴族街だ。

 窓の外には貴族の屋敷が立ち並ぶ。庭先ひとつも目に楽しいように作られた、豪奢な家々。

 憂鬱を噛み締めながら、わたくしは頬杖をついた。

 ……そこのコール子爵家はハリボテ、ミシュラン伯爵家は借金が隠れていそう。ギベール男爵家は先代が爵位を得たばかりの成金だが慎ましやかな庭で、身の程を知っている。サヴァール子爵家は最近羽振りが良いようだ、魔法使いが何かした気配がある。珍しいこと。

 こうして庭先ひとつからそんな情報が得られるから、わたくしはいつも馬車をいろいろな道に走らせる。


 ぼんやりと外を見るうち、いつも通りに子爵家への到着を示す声が聞こえる。

 降りたらすぐ、彼女の歓迎が聞こえると思うと、わたくしはようやく少しだけ微笑むことができた。




*****




「おかえりなさいませ。旦那様がお呼びです」

「あら、そうなのね。身支度をしなくては」


 どういう理由で呼ばれたなどと、考えなくてもわかること。わたくしは目を細めて帽子を外した。楽しかった外出の気分が台無しだ。

 執事に帽子を預けて、わたくしは部屋に戻り、出迎えた侍女には「櫛を」と命じる。

 鏡台に座ると、かるくハーフアップに結い上げてあった髪が解かれていく。巻いても癖のすぐ取れる、わたくしの銀の髪。


「お嬢様、どうなさいますか?」

「きっちりと結いなさい、わたくしの年齢相応に」

「わかりました」


 命じるまま、髪がきちんと束ねられ、編み込まれて丸くシニヨンにまとめられていく。いつも通りだ。

 わたくしは指をふってもう一人の侍女を呼びつけた。


「サラ、ガーネットの髪飾り、四番を持っておいで」

「はい、お嬢様」


 すぐに持ってこられた装飾は、ぐるりとシニヨンを囲うものと、サイドヘアに差し込むコームのセット。それをつけさせて、わたくしは鏡を見た。

 青の──藍色のドレス、暗紅色のガーネット、それから、わたくしの紫の瞳。

 これなら父上も文句は言わないだろう。


「ええ、いいわ。父上に先触れを」

「はい、お嬢様」


 父上の元にはサラが向かった。残ったのはリズのほう。リズは手際良く櫛やらなんやらを片付けて、わたくしのほうを心配そうに見た。


「お嬢様、よろしければお茶の支度をしておきますが」

「……そうね、そうしておいて」


 父上との会話が憂鬱なことを知っているリズの提案は、すこし心が休まるものだ。この先のことはあまり考えたくない。


「茶菓子は果実にしてね、太りたくないわ」

「はい、存じ上げております」


 そんな話をしたところで、サラと執事が呼びにきた。

 わたくしはまた憂鬱な気持ちになりながら、父上の書斎に向かう。


 書斎のマホガニーの扉は変わりなく重たい。執事がノックして声をかける。


「フェリシテお嬢様がおいでです」


 くぐもった、入れ、という声のあとで、内側から扉が開いた。父上が手を止めてわたくしを見る。


「お前はまた、未亡人のような髪型をして。それだけ美しい髪飾りにも負けない容姿なのだから、もっと華やかにしなさい」

「父上、二十も過ぎた女がそんなことをしては笑われます」

「お前はそうも見えんのだから良いではないか」

「父上の贔屓目ですわ」


 ばたりと、後ろで扉が閉まる。


「ええ、それで、父上、お呼びと伺いましたけれど」

「メリィのことだ」

「メリザンドがどうかなさいまして?」

「またメリィに姉と呼ばせなかったそうだな。果ては話も聞かずに置いていったと」

「今日はベルジュロン子爵ブリュノ家のレディ・モルガーヌとのお茶会の日でしたから。遅れてはいけませんからと、申し訳ないことをしました」


 白々しくも、わたくしの唇はしょんぼりとそんなことをのたまった。父上の深々としたため息がかかる。


「メリィはお前の妹なんだぞ、フェリ」

「もちろん、承知しています」

「先ほどの話とて、ブリュノ家に妹も連れて行きたいと早馬を出せばいいことだろう」

「遅刻してまですることではありませんもの」

「はぁ……お前は、まったく。いくら母が違うからといって、なぜそうもなおざりにするのだ」

「やはり、メリザンドもエドガールも、わたくしなどに愛称で呼ばれたり、姉と呼んだりするのは苦痛ではないでしょうか?」

「メリィもエドも、そんな心の狭い子ではない。なぜお前はそんなにも弟妹を疑うのだ」


 父上は大袈裟にそんなことを言う。

 メリザンドとエドガールがどう感じるかなど、わたくしにとってはどうでもいいことだ。

 呼びたくない、呼ばせたくないのは、わたくしが嫌なだけだ。父上の言葉を借りるなら、わたくしの心は狭いので。


「申し訳ございません。そんなつもりではないのですが……学院の友人の一部のように、仲良くしてから、嫌われてしまうのではと思ったら、怖くて」

「そんなことはどうでもいい。お前はメリィの話も聞いてやれないのか、メリィお前の妹で、お前はメリィの姉なんだぞ」

「その、お声をいただく時、いつもタイミングが悪くて。予定を合わせて、お茶でもと思っております。せっかくの姉妹なのですもの、わたくしも勇気を出さなくては」


 申し訳なさそうに微笑むと、父上はそれ以上は何も言わなかった。


 当然ながら、わたくしと、メリザンドとエドガールは母親が違う。それを示すように、メリザンドと父上は青の目、エドガールとその母は茶色の目だ。そしてわたくしは、母上とおなじ紫の目。

 その通り、わたくしは前妻の娘で、母上は父上の浮気に愛想を尽かせて侯爵家に帰っている。

 その後、あれこれと揉めた挙句、この三年で父上はかつて発覚した浮気相手とは違う女を妻にした。あろうことか、自分の息子と娘を連れて。

 その時すでに二十歳で、知人たちの中には結婚している子もいたわたくしは、白けた顔を押しこめて彼女たちを迎えた。


「しばらくはよしなさい、メリザンドには子息達との顔合わせがある」

「まあ! 良縁が整うことを心より祈っております」


 ぱぁ、と笑ってみせると、父上はすこし安心したらしい。突然呼び立てて悪かった、とわたくしを解放してくれた。


 わたくしの表情は、声音は、間違いなくうまくいっていたかしら。うまくできたかしら。


 悩むことすら憂鬱で、わたくしはそのまま寝室に向かった。リズもサラも仕方がありませんねという顔しかしない。この二人はもともと、父上の手配した侍女ではないから。


「ドレス、出してちょうだい」

「お支度できております」


 用意されているのは、布製の、骨の入っていないコルセットとドレス。わたくしの肌からはドレスとコルセットが外されていく。

 柔らかなコルセットを身につけ直し、寝台のそばでひと息つくと、サイドテーブルにはカモマイルティーと、最近流行の茘枝が並ぶ。

 綺麗に剥かれた茘枝はジューシィで、小さなデザートフォークがついている。ひとつひとつ口に運びながら、お茶を口にした。

 今日はもうこれ以上、なにもしたくない。

 茶器を置いてすぐ、わたくしはベッドに入った。








 さて、そんなことがあってから半年。

 わたくしはメリザンドに声をかけられることのない、安息の半年を過ごした。

 なにせ、子息たちとの顔合わせ、そして相性の良さそうな相手とは複数回。そのなかから婚約者を定めていくわけだ。成立には更なる時間がかかる。現在は内定というところだろう、婚約者という存在にメリザンドは浮かれているようだ。

 わたくしはいつも通り、定期的にベルジュロン子爵家を訪ね、孤児院の慰問をし、修道院や教会を訪ね。領地の子女たちから届く嘆願についてを処理して過ごしていた。悲しいことがあるとすれば、母上からの手紙がないことくらいだろう。


「……お元気かしら」


 母上、という言葉は舌の上だけで転がした。

 わたくしの母上のことは、この家では禁句だ。お義母様が気になさるからと言って、父上が禁じている。


 もちろん、手紙のやり取りも、原則は禁止だ。

 母上や母方の親類とのやりとりが許されるのは、ユールの祝いと、雪解けの祝いの頃の親戚づきあい、それから同じ夜会に招待された時だけ。

 それこそ、滅多に会うこともできないが、いつだって母上はわたくしを連れ出せなかったことを悔やんでいらっしゃった。ユールの祝いと、雪解けの祝いには必ずわたくし好みのプレゼントをくださるし、誕生日にはなんとかしてメッセージカードを届けてくださる。……趣味の合わない花束を持ってきて、得意げに笑った父上とは大違い。


 まあ、そんなことはさておいて。

 メリザンドの婚約が整ったら、つぎはわたくし。

 浮気程度で愛想をつかした、美貌の元妻によく似た娘。良いように売るために家に残した娘。その美貌の娘をどう使うか。父上の腕はいかほどだろう。

 わたくしはそれを上回れるだろうか。


 わたくしはペンを置いて、シーリングを施す。溶かした蝋に、間違いのないように刻印を施した。

 それから指先を拭って、ベルを鳴らす。


「お呼びですか、お嬢様」

「ええ。これを、レディ・モルガーヌに」

「承知いたしました」


 サラの手配なら問題はない。見送って、わたくしはため息をついた。


「間に合うと良いわね」




 まず、レディ・モルガーヌはわたくしの協力者だ。厳密には、レディ・モルガーヌとその兄君だけれど。


 端的に言えば、わたくしの恋人と繋ぎをつけてくれているのが、ベルジュロン子爵ブリュノ家なのだ。


 レディ・モルガーヌ───モルガーヌ・フルール・ミラベル・ド・ブリュノ。

 そしてその兄君で、アルベール・エリク・ティモテ・ド・ブリュノ。


 この兄のほうが、わたくしの恋人のそばで働いているのだ。その交友を口実に、ベルジュロン子爵邸で会えるよう、とりはからってくれている。

 もっと言えば、お母様からのメッセージカードもベルジュロン子爵ブリュノ家を経由する。

 わたくしの恋人が、母上と繋ぎをとってくれたから。母上から恋人へ、さらにそこからブリュノ家を経由することでわたくしの手に渡る。


 これらを踏まえて、わたくしの目的は、オスマン伯爵マーレ家から籍を抜き、母方の侯爵家、当主の伯父の元に養子入りすること。

 そして、父上がわたくしに縁談を持ってくるよりも早く、確実に、恋人と婚約すること。



 わたくしの目的はこのふたつ。

 父上を出し抜くことは難しくない。難しいのは、父上という、家父長制の権力者を差し置いて、わたくしの意志を貫くことだ。

 つまり、父上がなにかを、それこそわたくしの結婚相手などを気軽に決めるよりも先に、わたくしの回した手が決着を得なくてはならない。

 こちらは簡単なことではないと、わたくしもわかっている。

 母上がこの屋敷を去った、九つの時から。わたくしは己の無力を痛感しているのだから。



 わたくしには、きょうだいがいる。

 けれどそれはあくまで()()()で、()()()ではない。



 わたくしのきょうだいはただひとり。


 生まれ名を、セドリック・ギィ・アンブロワーズ・ド・マーレ。


 オスマン伯爵マーレ家では存在しなかったことにされた、わたくしの同母の弟である。






 話は十四年前に遡る。

 わたくしは九つで、下に八つの弟がいた。

 父上は弟を膝の上に抱き上げて、わたくしはそれを微笑ましく眺めながらお茶菓子を摘んでいた。暖炉の火が暖かい、冬の日のこと。

 食後のお茶を飲み終えた母上が口火を切った。


「セレスタンどの。お話があります」


 クリスティーナ・エロイーズ・ド・ブラン。歴史と権勢を誇るカルパンティエ侯爵ブラン家の愛娘である母上は、そう言った。いまでも覚えている。


「どうした、クリスティーナ」

「殿方が愛人を囲うのは、甲斐性のうちとも申しますが。セレスタンどのはご記憶でいらっしゃいますか、わたくしとの婚姻と、わたくしの父がカルパンティエ侯爵であることについて」

「もちろんだとも。オスマン伯を継ぐのはセディだ」

「いいえ、そちらではございません。わたくしにわかるように女を囲ったことです」


 ピリピリとした空気を、わたくしですら感じていた。父上の膝にいた弟はもっと怯えた顔をしていた。


「それは、まあ、そういうものだろう」

「いいえ。あなたはカルパンティエ侯爵ブラン家の娘を妻にしながら、わたくしに愛人を認めよとすら言わず、黙って囲われましたね」


 当時ですら、父上が道理の通らないことをしたのだろうとは、何となくわかった。

 実態として考えると、カルパンティエ侯爵ブラン家は、四代前には王妹殿下も降嫁した由緒正しいお家柄。その家の出身の、すでに後継となる男児を産んだ妻に黙って愛人を囲うのは、『王家の血を引くカルパンティエ侯爵ブラン家の女では物足りない』と表明するに等しい。

 これはブラン家に対する侮辱だったと、今のわたくしなら理解できる。

 本来、母上は格上の家から嫁いできたと尊重されるべきであり、黙って愛人を囲うなどされては怒り狂うのも当然だ。それを、母上は理性的に契約違反だと突きつけた。立派だったと、わたくしは思う。



「わたくしはマーレ家を出ていきます。後ほどブラン家から書類を届けさせましょう。

 ……おいでなさい、セディ、フェリ」

「待て、待て!」

「なんです?」

「子どもたちは、マーレの子だろう!」

「ブランの血を引くこの子たちをも、あなたは蔑ろにしました。そのような方に言われたくありません」

「マーレに生まれた子だ!! マーレのものだ!!」


 父上の怒声を聞いて、母上が呆れたようなため息をついた。覚えている。

 父上は母上を引き留めなかったが、子どものことは引き留めた───否、所有権を主張した。


「……セディ、フェリ」


 わたくしもセディ──セドリックも、母上についていこうとした。母上を蔑ろにした挙句、理性もなく怒鳴るような父上についていく気にはならなかった。

 けれど、父上はセディの襟首を掴んだ。膝から降りられないように。


「わ、わああ、父上、父上、くるしいです父上!」

「うるさい!」


 セディの様子を見た母上は血相を変え、なりふり構わず父上に飛びかかろうとして、そして父上が振りかぶった腕に弾き飛ばされた。


「っい、……っ、た……」

「私はオスマン伯だぞ!!女風情が口答えするな!!」


 ─────賢い母上を、父上は最後まで妬んでいた。


「喜べ、クリスティーナ。お前とは離婚してやる」

「……そう」

「お前のようなじゃじゃ馬はこちらから願い下げだ!

 ……だが、フェリシテはだめだ。お前のようにならんよう、私が育てる。ああ、そうなら仕方がないか、セドリックはそちらにやる。フェリシテのためだ、フェリシテはこちらに残せ。その条件を呑むなら、離婚届にサインしてやろう」


 わたくしと、母上と、そしてセディの頬から血の気が引いた。

 セディがすがるようにわたくしを見た。

 ……わたくしは、ふらふらと立ち上がった。


「セディを、はなしてください、父上」

「フェリ。フェリは父上が大好きだな」

「はい」


 わたくしは、機械のように頷いた。

 母上がわたくしを呼ぶ声がする。わたくしは答えなかった。セディが父上の腕から離れて、母上に泣きつく。わたくしは、父上のそばでにっこりと微笑んだ。


「父上、じゃじゃ馬とはなんですか?」

「ははは、お前の母親のような、反抗的な女のことだ。……良い子だね、フェリ」


 わたくしは、じゃじゃ馬の意味を知らないような子供では、なかった。

 それでもあえて、わたくしは知らないふりをして、無垢な子供のふりをしたのだ。

 わたくしを呼ぶ母の声と、セディの泣き声。母を急かす侍女の声が、遠くなっていく中で。




 いまなら、わかる。

 あのころ、父の愛人のうちひとり──いまの伯爵夫人──の元には、すでにエドガールが生まれていた。

 後継のスペアはすでに手に入っていて、そして嫁がせて家を強くするための娘が、父上には足りていなかった。もっといえば、より血統の良い、価値ある娘を、父上は欲しがった。

 だからわたくしだけが、マーレ家に残されたのだ。


 父上は、離婚証明書へのサインを『してやる』立場だった。父上が家庭内の問題だと言い張れば、それで終わりだ。教会も司法もどこも動きはしない。

 わたくしが残らなければ、母上もセディも、マーレに縛られたままだった。だからわたくしに後悔はない。

 けれど、セディは────わたくしの弟は、マーレ家での籍を抹消された。死んだことにすらならず、生まれなかったことにされた。問題なくエドガールにオスマン伯爵を継がせる、そのためだけに。


 籍ごと消されたせいで、セディはいま、侯爵家の家の中にしか立場がない。

 戸籍のない子供など、貴族社会では愛人の子などに実によくあることだが、あれは親が認知しなければ何の権利も生まれないのだ。

 セディは、もとはオスマン伯爵マーレ家の嫡子として生まれ、現在はカルパンティエ侯爵ブラン家の子息の一人として認められて良い立場のはずだ。なのにあの子は、あの男が家長として出生を抹消したせいで、いま何の権利も持っていない。

 わたくしが通わせてもらった貴族学院すら、あの子は通えなかった。

 家長は、それができてしまう────この社会においては、そういう権利を持った存在なのだ。

 わたくしはそれが、とてもつらい。





 だからわたくしがすることは、父上を出し抜くことではなく。

 父上よりも強い発言力を得ることだった。





 その日は王宮での夜会、三日目のこと。

 三日間を通して開かれる王宮の壮麗な夜会は、婚約披露の場としても最適だ。最終日ともなれば陛下もお出ましになる、伝統ある席である。

 ────そわつく父上に微笑みかける。


「おめでたいことですね、父上」

「そうとも! ああ、メリィ、とても可愛いよ」

「ええ、とても。おめでとうございます、メリザンド」


 わたくしもにこやかにそう告げた。祝う気持ちは、嘘ではない。何も知らない子どもたちの幸せな婚約くらい、祝えないわけではないのだ。

 今日はメリザンドが初めて婚約者と公式に踊る日だ。次回の夜会からは、婚約者にエスコートされて参加することとなる。


「エドも今日のタイは綺麗に結べているな。婚約者殿が来るまで、メリィのエスコートを頼むぞ」

「もちろん! さ、メリィ、手を」

「ええ、お兄さま」


 ただ、そんな、ままごとみたいな……わたくしの母上と弟を踏みにじって生まれた茶番を見ると、憎悪が鎌首をもたげるだけ。


「フェリは今日もひとりなのか?」

「ええ。だってまだどなたとも、何も決まっていないんですもの」

「お前の婚約者も見繕っているところだ、遠からず決めてやるからな」


 優しげな笑顔の裏で、いったい誰にわたくしを売り払うつもりなのだろう。嫁入りの支度金はいったいどれほど高値をつけたのやら。

 持参金は規則としてその一部はわたくしの財産になるはずだが、わたくしの取り分を減らすためなら持参金を減らすか、婚家でそれを取り上げて良いことにするか、そのくらいはするはずだ。父上なので。


「楽しみにしておりますわ。では父上、お義母様、わたくしレディ・モルガーヌとお約束がありますので、お先に失礼いたしますね」

「こんなめでたい日だ、メリィを支えてやってほしいんだがな。仕方あるまい、行っておいで」

「ええ! 楽しんできてね!」


 にこやかに良き父として振る舞う父。マナーもなっていないのに、母親のように振る舞う義母。わたくしが家族の輪の中にいないことを都合良くも思っているくせに。

 腹立たしさは喉の奥。わたくしは申し訳なさそうに微笑んで、グローブに包んだ手を優雅に振ってみせた。


 ……父上は本当に、わたくしに『申し訳ない』と思わせるのがお好きね。




 ベルジュロン子爵ブリュノ家の馬車に乗っていくから、あちらのお屋敷でおろしてちょうだい。

 わたくしがそう告げた通り、御者はベルジュロン邸にわたくしを降ろした。


「レディ・フェリシテ、ようこそいらっしゃいました」


 美しいカーテシーで、今日もわざわざ出迎えてくれた、ブルネットの美女がレディ・モルガーヌ。わたくしの二つ下の、貴族学院時代の後輩にあたる友人だ。


「今日はお誘いありがとう、レディ・モルガーヌ。とても楽しみにしておりました」

「ええ、ええ! すこしですが、おもてなしの用意をしております。こちらへ」


 儀礼通りの会話をしてから、御者をマーレ家に返す。そしてわたくしの元に残ったのは、もともとは母付きの侍女であったサラとリズだけ。


「……いつもごめんなさいね、モリー」

「いいえ! フェリ様のためですもの! 殿下からはドレスと靴、パリュールをお預かりしています」

「ドレス? 靴にパリュールまで? ああ、だからこんなに集合が早かったのね」

「はい。ぜひこちらに、と殿下からも伺っていましたから」


 わたくしの今日のドレスも青である。今どき流行りの淡さの、青藤色を選んだ。ええ、淡桃色の華やかなドレスだったメリザンドに合わせて、既製品を手直ししたもの。

 父上から、わたくしへのドレスの予算はほぼ降りていない。お前はたくさん持っているのだから妹に譲ってあげなさい、とかいうよくわからない言葉と共に、本来わたくしのために組まれた予算は、婚約間近のメリザンドに回されているのだ。自然とそうもなる。


 こちらですよ、とモルガーヌに案内された部屋で、わたくしは息を呑んだ。


 そのドレスは、艶めかしい黒のサテンでできていた。

 サテンの上を黒の刺繍が華やかに舞い、ボルドーのベルベットがその上を多彩にゆらめき、決して喪服のようには見せない。

 垂れ下がったリボンのひらめき、形どられた花の煌めき。どれもただ一色のボルドーだけが形作っている。けれど花にはきらきらと水晶を縫い取って、朝露のような瑞々しさをみせてあり、決して単調な印象にはならない。

 そばに置かれたパリュールは、ボルドーと色を揃えたガーネットに、殿下の瞳の色を汲み取ったスフェーンが輝いている。


「ねぇ、モリー」

「はい」

「わたくしね、青のドレスなんて大嫌いよ」

「……はい」


 モルガーヌがくしゃりと笑った。


「だめよ、モリー。淑女のお顔ではないわ」

「わかっております……っ! それでも! フェリ様がここまで漕ぎ着けられたことが、嬉しくて……」

「……ありがとう、モリー」


 そう答えるわたくしがきっと、いちばん、淑女の顔ができていない。


「青のドレスなんて大嫌い。わたくしに似合わないんだもの。……それでも、そうしなくてはいけなかった」


 青のドレスは、母上が着なかった色だった。

 そして、わたくしにとっては『似合わないとは言い切れないが、一番似合うとは言い難い』色だった。

 そして、あの父上の目の色でもあって。

 だから、あのガーネットの髪飾りはささやかな反抗心だった。


 それでも、まず父上が『家族の色』をまとったわたくしを見て満足する。その上で、目立たず、メリザンドの横に収まって違和感ない程度の容貌に落ち着くために、また父上が変な高望みをしないように、そしてわたくしの魅力を抑えるための色が、青のドレス。

 なおかつ、青は遠く縁戚でもある王家の───恋人である殿下の持たない色でもある。

 近年はそれも含めて、わたくしはずっと青のドレスが嫌いだった。


 今日、ようやくわたくしは、青のドレスを脱ぐことができる。


「ありがとう、モリー。……サラ、リズも。どうか、いっとう素敵に着せてちょうだい」


 



 化粧直し、ドレスの着付け、パリュールをひと揃え。

 すべてが終わってわたくしが目を開けたとき、モルガーヌは感無量という顔をしていた。


「お綺麗です。本当に」

「ありがとう」


 微笑みかけるだけで、わたくしの顔を見慣れているはずのモルガーヌさえ頬を染める。これならば上出来だろう。

 最後に、添えられていた白い花をサイドヘアに組み込ませる。これは大切なことだ。ブラン家の(ブラン)を示すもの。


 支度を終えたわたくしたちが玄関ホールに赴くと、殿下の側近でもあるアルベールが支度を整えて待っていた。


「ようこそ、レディ・フェリシテ」

「ええ。今日はよろしくお願いいたしますわ、サー」

「もったいないお言葉です。モリー、首尾は?」

「一切の問題なく。あとはフェリ様が赴かれるだけです」

「それは重畳」


 ベルジュロン子爵ブリュノ家の兄妹はにっこりと微笑みあって、それからすぐにわたくしのほうを見た。


「そのお姿を初めて目にする男が私であったこと、お褒めするのが私であること、殿下はきっとお怒りになるでしょう。本当にお美しくていらっしゃる」

「ありがとう。でも褒め言葉には慣れています、殿下のもの以外なら」


 わたくしがそう言うと、アルベールは破顔した。


「ええ、ええ! さあ、参りましょう。殿下が首を長くしてお待ちですよ」

「ええ、そうね」


 差し出されたアルベールの手を取り、後ろにモルガーヌを従わせて、わたくしは馬車に乗り込んだ。



 どうでも良い青はひとつも残さない。

 深紅のドレスがお似合いになる母上のように、けれどそれよりさらに重たい色で。

 今日、隠してきた牙を曝け出してでも、わたくしは父上の上を行く。

 必ず。






 王宮に着くと、ベルジュロン子爵ブリュノ家の兄妹たちは急いで、けれどまさしく今来ましたよという顔で会場に向かって行った。もちろん、わたくしへの丁寧な礼は忘れることなく。

 アルベールは殿下の側近だから、その分遅く入場することが許されている。それゆえの特権だ。


 さて、わたくしはといえば、ひとり馬車に揺られて、王宮の奥まで進む。


 馬車が止まり、扉が開く。

 外から差し出された、見慣れた手を取り、タラップを降りる。



 馬車の外では、手を差し伸べたご本人が本当に嬉しそうな顔をしていらっしゃった。



「ようこそ、フェリ。とても綺麗ですよ」

「殿下のお見立てが正しくなかったことなどありません。素敵なドレスをありがとうございます」


 わたくしの手に、グローブ越しにキスを落として。輝くスフェーンの目で、その人は微笑んだ。

 ラファエル・ジュスト・ル・ラヴォー。この国で唯一、姓の前にLeを持つ一族のお方。


 ミドルネームがおひとつなのは、一人目の子ではない証。この国には、男女ともに最初の子にはひとつ多くミドルネームを与える風習があり、わたくしの名前もそうである。フェリシテ・シビル・イアサント。ひとつ多いのはそういうわけだ。


 さて、ミドルネームがおひとつであるこの方は、この国の第二王子でいらっしゃる。


「フェリ、私のフェリ。やはりフェリは青ではありませんね。こんなにも黒が、赤がよく似合う」

「はい、殿下」


 とろとろと微笑みながら、わたくしと同じ黒の礼服に身を包み、赤の装飾を設けた殿下がそう語る。


「まだ夜会の前だから、名前で」

「……ありがとう、ラファ」


 この方に褒められるのだけは、いつまで経っても照れくさい。わたくしはすこし頬が熱いのを感じながら、殿下の賞賛と許しを受け取った。

 なめらかなエスコート。いつものように速さを合わせて歩いてくださる殿下の腕に手を添えながら、殿下とともに、王室のための扉の方へ向かう。


「ようやく、フェリに家族を返してあげられる。本当に良かった」

「ラファのご助力の賜物です。感謝してもし足りないほど」

「いいえ、フェリ。どうか誇って」


 殿下がこちらを見て、笑みを深める。このうつくしい方の笑みだけが、数多の男たちの中でわたくしの心を揺らした。


「フェリの努力に報いたいと、その姿勢が愛おしいと思ったのは、私なのだから。

 あなたには、私にそう思わせるだけの力がある。どうか、胸を張って、誇ってください」

「……はい、ラファ。心強いわ、とても」


 震えそうな手に、そっと大きな手が重ねられる。


 殿下は───ラファは。わたくしとオスマン伯爵マーレ家、そしてカルパンティエ侯爵ブラン家の間にある確執と問題のすべてをご存知だ。


 何を隠そう、ラファは学院時代の先輩にあたる。

 ラファとは、よく図書館でお会いしたものだ。そのときすでにわたしは、本から顔を上げて、ふと微笑む姿が好きで、ラファに憧れていた。

 いつかどこかで王家の誰かと縁を持ちたいと思っていたこともあって、いつだって美しいカーテシーを心掛けた。だのに、あまりにも会うからと礼を免除されるに至るような関係だった。

 そしてある日、婚約を申し込みたいと、それを前提に恋人になってほしいと、望外のことを打診をされた折。


 わたくしははじめ、それをお断りした。

 殿下とはこうしてお話する関係性で十分で、わたくしが求めていたのは、そういう伝手だ。せめてセディの復籍にお力をお借りしたいとかけ合えれば、わたくしはそれでよかった。その程度で良かったのだ。

 憧れの方を射落としたいなんて欲を抱くほどのゆとりは、わたくしにはなかった。


 わたくしの美も、知識も、人脈も、なにもかもはセディのために得たもの。ラファがそれを見抜いて、認めてくださったのは、当時は完全に予想外のことだった。


 なにせわたくしはその頃、わたくし自身のことはとうに諦めていた。


 子女の教育には時間と手間と金がかかる。それをかけてもらったのは、よい売り物にするためだ。そういうものだとわかっていたし、よい売り物にするための手間をかけてもらったのだから、よい売り物になるべきなのだ。

 わたくしはあの日、母上とセディだけでも逃がしてやれた。

 わたくしはそのことで心を慰め、自分のことは諦めた。どこでも嫁いで、どこででものたれ死んでやろうと。



 わたくしは婚約の打診をお断りし、ラファの前に跪いて、身内の話を洗いざらい口にした。

 そしてラファに、セディの復籍の協力を願った。



 セディの復籍について、やりようはもうわかっていた。

 貴族人事院の中での、セディの戸籍抹消についての記録を遡る。さらに母上や乳母、そしてカルパンティエ侯爵ブラン家での育成の様子を調書にまとめ、間違いなくセドリック・ギィ・アンブロワーズという男児が生まれていたことを証明し、そして不当に出生抹消が行われたことを明らかにする。


 これが復籍のために踏める手順だと、わたくしも知っていながら、女の身ではその調書の提出権利がない。たとえ提出しても、女の私では信用されない。

 政治の裏の、その端を暗躍するわたくしでは、貴族社会を変えるほどの力を持てなかった。

 ではブラン家ならどうかというと、ブラン家からではマーレ家の中に保管された証拠品には手が出せない。下手をすれば、他家に迂闊に手を出したと謗られるだろう。


 しかし、たとえ女の身での提出をいつか成し遂げたとて、父上に覆されては意味がない。父上の上にまで話を通し、手を借り、かつ撤回させないだけの力が私には必要だった。

 その『父上の上』で、撤回させない力を持つラファは、その点、協力相手としては理想であり。

 あの日、ラファは口約束にせず署名を含めて、わたくしにはその写しを与え、そちらにも直筆の署名をした上で、協力を約束してくれた。



 わたくしはいまでも、あの夕暮れのことを覚えている。




 屋敷に帰りたくなくて、知識がほしくて、わたくしは図書館に長々と居座っていた。よく図書館を訪れるラファは、遅くまで帰らないわたくしを心配して、何度も何度もそれに付き合ってくれた。

 その日、婚約の打診を受けて、断って、セディの復籍の話をして。

 そして、ラファはまだ口を開いた。


「でも、それだけでは足りませんね、レディ・フェリシテ」

「そんなこと……! 十分すぎるほどのお約束をいただきました」

「いいえ、レディ・フェリシテ。そうではありません。


 あなたは、もしかして、青色は……いえ、青色を身につけたり、青色のものを使うのは、嫌いなのではありませんか」




 ひゅ、と息が止まる。

 淑女にあるまじき振る舞いだった。


 けれど、だれにも見抜かれたことはなく、指摘されたこともなかった。

 青が嫌いなのでは、なんて。


 母上ですら、青より好きな色があると知っていても、青が嫌いとまではおっしゃらなかった。

 嫌いな青を身に纏っていたのは、父上のお嫌いな母上とわたくしでは、違うふうに育ったのだと示すための、父上のことを家族だと思っていると示すためのカモフラージュ。

 だれにも、嫌いな色だとは知られてはいけないもの。



「どう、して。そんなことを、思われたのですか? ご存知でしょう、わたくしがいつも青のドレスを着ていること」


 誤魔化すには遅すぎるとわかっていて、わたくしはそう語ることしかできなかった。

 そのわたくしに向けて、ラファはそっと首を振った。


「ならばなぜ、あなたのハンカチーフはすべて黒なのですか。羽根ペンもそうです。私はあなたの持ち物に、青の刺繍すら見たことがありません」


 舌が絡まったようだった。

 わたくしはなにひとつ語ることもできず、茫洋として、必死に言い訳を考えようとする頭は空回りするばかり。


 わたくしは、ドレスに青を取り入れても、他のものには青を使わなかった。父上はわたくしの持つ小物など見てはいない。ハンカチーフも、羽ペンも、刺繍ひとつ、宝石ひとつ、紫は許しても青にはしなかった。嫌いな色を、服以外にまで許したくなどなかった。


 この方は、わたくしの小物のひとつまで見て、わたくしの青がはりぼてだと気づいてしまわれた。


「すみません。泣かせるつもりはなかったのです。失礼なことを言いました。申し訳ない」

「……いいえ、いいえ。違うのです」


 ラファに言われてはじめて、わたくしは自分が泣いていることに気づいた。


「だれも、わたくしが青を嫌いだなんて、お気づきにならなかったから」


 淑女らしくないとわかっていた。それでも、いまだけは微笑みたいと思って、わたくしは泣きながら笑った。


「たすけてください、ラファエル様」


 そうして、わたくしは殿下の名前を初めて呼んだ。




 それから、ラファはわたくしの同年で、幼少より側近候補であったアルベール、そしてわたくしは後輩として付き合いのあったモルガーヌを巻き込んで。

 まずは、セディの復籍。そして、オスマン伯爵マーレ家からどうしたらわたくしが離れられるのか。何年もかけて計画した。

 その甲斐あって、セディの復籍は、残るはセディ本人が社交界に顔を出すだけとなっているし、わたくしの養子入りも、許可が降りたということを示す正式な書類が父上のところに届けば完遂である。


 そう、わたくしの名は、実は戸籍の中ではすでにマーレ家の中にはない。

 いまのわたくしの正式な名は、フェリシテ・シビル・イアサント・ド・ブラン。


 この夜会が、侯爵令嬢としてのわたくしの初陣になる。

 怖いけれど、怖くはない。そのための知識も、技量も、礼儀も。すべて身につけてきた。


 扉の前で、わたくしの方を見て、とろけるように殿下が微笑んだ。


「行きましょう、フェリシテ」

「はい、殿下」



 我が国の若き星、ラファエル・ジュスト殿下、ならびにご婚約者の方、ご入来!



 高らかに叫ばれる声。どよめく扉の向こうには、突き刺さるばかりの視線があるとわかっている。


 昨年ご成婚なさった王太子殿下に続き、ラファの婚約者がどうなるかと取り沙汰されていたのは知っている。これまで事前情報なく、情報漏洩を徹底的に防いできたのは、わたくしの事情にラファが、そして王太子殿下と国王陛下がご配慮くださったから。

 むしろ、セディの復籍について、自力で判断する基準に辿り着き、ラファと協力して隠し通す力量を認めていただけた。また、民の見本たるべき貴族に、そのような不正があってはならないとも。

 けれど、なにも知らない貴族たちがわたくしについてどう噂するか、想像は容易い。



 そのなかで、わたくしだけは顔をあげていなくてはいけない。

 なにより、わたくしのために。


 

 知識をつけ、裏をとった。王室という権力に縋り、いくつも手を回した。セディのためなら苦にもならなかった。

 学院時代の友人たちを味方につけ、カルパンティエ侯爵ブラン家の子が増えることへの賛成を勝ち取った。もちろん、ラファ相手の恋敵だって蹴落とした。

 その過程で、あのお可愛いメリザンドやお義母様が聞いたら眉を顰めそうなことをいくらでもやった。

 はたから見れば、わたくしは嫁き遅れの伯爵家ごときの娘がラファを籠絡したとしか見えない女。そのわたくしは、王家の権力のもとであれこれを成し遂げた。

 悪女と罵られても仕方のない真似だ。


 それでもいい。

 わたくしは、わたくしの思う正しさを貫いた。

 俯く必要などどこにもない。



 静まり返った会場へ、ラファに半歩遅れて足を踏み出す。

 慣例通りの拍手が始まるまで、三秒開いた。

 わたくしたちが入り、すぐにカルパンティエ侯爵がこちらに向かってきた。わたくしの伯父上で、現在の義父にあたる。


「カルパンティエ侯。姪君をお借りしている」

「もちろんです、殿下。久しぶりだね、フェリ。元気そうで良かった」

「伯父上もお元気そうで何よりです。この度は本当に、色々とお引き受けくださりありがとうございました」

「なに、フェリのためだからね。なにより、フェリの手腕は見事だった。

 ああ、そのドレスもとても素敵だよ、まるで赤と黒の薔薇が咲き誇るようだ。こうしてみると、フェリはクリスの若い頃にとても似ているね。殿下のお見立ては見事だ」

「ふふ、嬉しいです。ありがとうございます」


 話していれば、母上もこちらへ寄ってくる。

 離婚したとはいえ、本来は父上側の有責。もっと言えば、母上はいまは侯爵家の持つ爵位のうちフェレール男爵位を持っているので、女男爵としての出席である。


「フェリ!」

「母上!」


 赤いドレス、銀の髪に紫の瞳。今になっても社交界でその麗容を知られてやまない母上は、すぐにわたくしをの手を握ってくださった。


「殿下。わたくしどもへのご尽力、本当にありがとうございました。感謝に堪えません」

「フェリには笑顔が似合いますから。私のわがままですよ」


 そう話しているところで、また入場官が声を張り上げる。



 若き太陽、王太子カジミール・フロラン・ヴァレリー殿下! ならびに王太子妃ジョジアーヌ・キトリ殿下、ご入来!



 殿下方を拍手で迎えた後、すぐに入場官が声を張り上げる。国王陛下、妃殿下のご入来である。



 我らが太陽、国王エルヴィール・ポール・レナルド陛下、ならびに王妃ナディーヌ・マルゴ・アナベル殿下、ご入来!



 わたくしたちは一斉に礼をして、陛下方をお迎えした。


「表を上げよ、我が臣下たち」


 陛下はまず、季節の挨拶を述べられ、この三日が無事に開催できたことを寿がれた。これは、今年も大難なく乗り切ることができ、この祝いの夜会を設けられたということを示している。大切なことだ。

 それから。


「また、此度は喜ばしい知らせがある。ラファエル、フェリシテ、これへ」


 わたくしが、陛下にファーストネームで呼ばれたことに息を呑む声が聞こえた。たかか伯爵家の嫁き遅れが、と思っていたものたちだろう。

 わたくしたちはゆったりとした足取りで、陛下の前へ出る。


「我が息子ラファエルと、ブラン家の息女、フェリシテ・シビル・イアサントとの婚約が整った。フェリシテはオスマン伯爵マーレ家の生まれだが、我が息子ラファエル、カルパンティエ侯爵、そしてフェリシテ自身の申し立てにより、カルパンティエ侯爵の養女とすることを余が認めた」


 なっ、と声が落ちる。オスマン伯爵───我が父上だった。(まつりごと)の表舞台を通ることなく、裏側だけでわたくしが成し遂げたから、なにも知らない父上。

 その声を黙殺して、陛下はわたくしとラファの手を取った。


「したがって、ラファエル・ジュスト・ル・ラヴォーと、フェリシテ・シビル・イアサント・ド・ブランの婚約が整った。皆にも喜んでほしい」


 ラファの手と、わたくしの手を結び合わせて、陛下はそうおっしゃった。

 父上のことだ、そんなことが簡単に認められるか、という顔をしているのだろう。見たくもない。それでも、わたくしがそれとなく根回しをしておいた貴族たちは、すかさず拍手を返してくれた。


 陛下が宣言し、諸貴族が認めた。それを、娘を養子に出すと売れなくなるから嫌だと、そんな理由で覆すことはできない。人によっては、格上の家に養子になどという名誉、さらには娘が王子妃になるのになんの不満があるのだと呆れるだろう。

 ただ、父上は娘を直接送り出せないことで、己の取り分が減るのを嫌がる。あるいは、自分の可愛い末娘に、姉に対して公式の場で頭を下げさせるのが不本意。ただ、それだけだ。


 それでも、父上は笑って手を叩かなくてはいけない。陛下がそうおっしゃった、決定事項なのだから。知っていたふりでそうしなくては、父上の面子が潰れるだけだ。……まあ、さきほどの声で潰れたでしょうけれど。



 ふと、わたくしの手に、さらにラファの手が重なる。みれば、ラファはわたくしのほうを見てふんわりと笑ってくれた。



 そうね。そうだわ。

 父上のことなんて、もうどうでもいいの。

 わたくしはもう、オスマン伯の娘ではない。カルパンティエ侯の娘。

 セディにも、母上にも、ラファにも、心置きなく会っていい。



 陛下に次いでのファーストダンスに、王太子殿下夫妻とともに足を進める。

 足元は滑るように、軽やかに。壇上から降りるにも、まるで階段の上を浮いているような足取りで。そう、あの娘のように、駆け降りるなんてはしたないことは論外。


 公式の舞台でラファと踊るのは、もちろん初めて。

 非公式の舞台でも、踊った回数はほとんどない。無人の図書館で何度か、ベルジュロン邸で何度か。どちらもたった二人での、ひそやかな逢瀬でのこと。


「ようやく、あなたとここで踊ることができますね」

「ええ、はい。……たくさんのお時間をいただきました。ありがとうございます」

「いいえ。相手があなたであるのなら、待つことすらも私には喜びでした」


 かつりと進めた最初のステップ。人目につかないように、それでも何年もずっと一緒に歩いてきたラファの歩幅は知っている。ラファだって、わたくしの歩幅をよく知っている。

 なんの障害もなくステップを踏み出して、わたくしは思わず微笑んでしまった。淑女の微笑みではなく、心からの微笑みで。


「ようやく、殿下を独占できるのですね」

「……フェリ」


 きゅう、とスフェーンの煌めく瞳が細くなる。

 ああ、これからはもう、ダンスのたび、この瞳に映る女たちに嫉妬しなくていい。

 わたくしよりも息が合っているのじゃないかしらとか、わたくしのほうが上手くできるのに、とか。そんなことも、気にしなくていい。殿下なんて興味ないわみたいな顔だって、もうしなくていい。殿下にだけ特別甘く微笑みかけても、殿下がわたくしにだけ甘く語りかけても、それでいいのだ。

 なにより、こうしてフェリと呼んでいただける。


「……ラファ」

「なにかな、フェリ」


 ひそめた声が周囲に聞こえるかもしれない、聞こえなくても唇を読まれると分かっていても、わたくしはラファをそう呼んだ。

 もちろん、お互いに愛称で呼び合う関係だという、周囲への牽制も兼ねて。


「わたくし、こんなに幸せでいいのかしら」

「誇って、私のフェリ。フェリ自身が、それを掴み取ったのだから」

「ラファはいつもそう。でも、ラファがそう言ってくれるから、挫けずにいられたの」


 そう答えたわたくしの言葉は、ずっと前に置いてきた幸福の味がした。





 ダンスを踊り終えると、殿下と共に諸貴族からの祝福と挨拶を受ける。

 大半は、表面上だけでも寿いでくれる。出身こそオスマン伯爵マーレ家のものとはいえ、母はカルパンティエ侯爵ブラン家の直系で、出戻りでありながら爵位を持つ女男爵。

 その娘であるわたくしは髪に白い花を飾り、あからさまにブラン家のものであるとアピールしている。

 ブラン家は、四代前には王妹殿下も降嫁したお家柄。その血を引き、カルパンティエ侯爵の後ろ盾を持つ娘であれば、そう簡単に爪弾きにはできるまい。


 まあ、わたくしもそう踏んで、“こう”しているわけですけれど。


 大半の挨拶を受け終えたころ、殿下はわたくしにシャンメリーを差し出しながらおっしゃった。


「フェリシテ。もうすこしで矢羽が夜を裂きます(零時を回ります)が、どうしますか?」

「あら、もうそんなお時間なのですね。楽しい時間とは早いものです」


 わたくしは微笑みながら言葉を返した。


「すっかりドレスの裾が重たく(楽しくて帰りがたく)なってしまいましたけれど、これ以上殿下を独り占めしては皆様に申し訳がありません。友人に挨拶をしたら、そろそろお暇をいただきとうございます」

「送りましょう、フェリシテ」

「ありがとうございます」


 殿下とすこし分かれて、ホールの端へ足を進めると、ぱたぱたと寄ってくる足がある。淡桃色のドレスの若い娘。


「おねえさま!」


 無論、黙殺する。いま呼ばれたのは、わたくしではない。そうでなくてはならない。


「おねえさま、おめでとうございます! どうしてもっと早くに教えてくださらなかったの? 教えてくださったら、お父様とお母様と、おねえさまのお祝いの用意ができたのに」


 何も聞こえないふり。わたくしはもはやマーレ家のものではなく、ブラン家のもの。

 今度こそ、そう呼ばれる筋合いも、馴れ馴れしく作法も無視して話しかけられる謂れはない。

 わたくしは目的の姿を見つけて微笑んだ。


「レディ・モルガーヌ」

「まあ、レディ・フェリシテ!」


 話しかけると、さっと礼を取るモルガーヌ。二人きりの時、非公式の場であればわたくしをフェリ様と呼ぶモリーは、公式の場ではこのようにきちんとする。これが社交の礼を知る姿だ。


「最後にご挨拶をと思いましたの。殿下とわたくしの力になってくれたこと、本当に感謝しています」

「いいえ! わたくしもこの方にお会いするためでしたもの」


 ねえ、とモルガーヌが微笑みかけた先は、その手を支える男性だった。

 わたくしはゆっくりと微笑んだ。


 わたくしと同じ紫の瞳を輝かせて、けれど父上と同じ栗毛をきちりと梳ってある。父上と似ているものの、母上の華やかさを取り入れて、父上よりも美しく、すらりと背の高い青年。


「……セディ」

「お久しぶりです、姉上」

「大きく、なったわね。セディ」


 もう十四年、ひっそりと手紙を交わすことがあるか、ないか。

 母上から様子を伝え聞くことしかできなかった、わたくしの、たったひとりの弟。



 知らぬ間に背が伸びて、声変わりをして、大人になった。

 それでも、わたくしのかわいい弟だと、すぐにわかる。



 わたくしは手を伸ばして、セディの手をきゅうと握った。



「セディ……セディ、ほんとうに、苦労をかけたわ。遅くなってごめんなさい」

「謝らないでください。僕はとうに復籍を諦めていたのに、それを叶えてくれたのは姉上です。おかげでモリーを泣かせずに済むのですから」

「ふふ、そうね」


 わたくしはつい微笑んだ。

 モルガーヌが、殿下と噂を立てられるリスクを犯してでもわたくしに協力的だったのは、殿下の頼みだからというだけでなく、モルガーヌ本人がセディのことが好きだったからだ。


 モルガーヌはずっと、わたくしの話や、セディが触れられない外の話をしてくれたのだそうだ。先日セディのほうから婚約を申し込んだと聞いている。

 セディが復籍し、貴族籍を持ったことで、モルガーヌとの結婚も、貴賤結婚の壁に阻まれることはなくなった。


「その、レディ・フェリシテ」

「なにかしら」


 気恥ずかしげなモルガーヌがなにを言おうとしているのかは、見当がつく。わたくしはつと微笑んだ。


「すこし、気は早いのですが。フェリお義姉さまとお呼びしても?」

「ふふ、いいわよ、モリー」


 返答は、愛称に愛称で。これを公式に呼ぶということは、血族の中に認めるということでもある。

 ぱぁ、とモルガーヌの顔が明るくなる。これはカルパンティエの子女であるわたくしたちとの仲の良さのアピールである……ということにした、モルガーヌの本音だろう。礼節を知りながらも素直。可愛いことだ。


 ふふ、と未来の義妹と笑い交わした、その時。



「どうして?!」



 耳をつんざく声。

 本当にあの娘、礼儀をどこに置いてきたの。本当に陛下のお話を拝聴していたの?

 お可愛いピンクサファイアのイヤリングをつけているそれは、ただの飾りなのかしら。



「どうして、どうしてなのですかおねえさま! メリィがおねえさまと呼ぶことはお許しにならないのに! メリィのおねえさまなのに!」



 陛下から殿下の婚約者としてご紹介に預かり、今日の実質的な主役となったわたくしが、先ほどからメリザンドを無視しているのは注視されていた。メリザンドの無礼で、こちらを見る好奇の視線が増したことをわたくしも感じる。


 とはいえ、メリザンドとの不仲を隠すつもりがないことへの好奇から、メリザンドの様子からわたくしへの同情寄りの視線に変わっている。



「レディ・モルガーヌ、すこしよろしくて?」

「ええ。目に余りますもの、わたくしがいたしましょうか?」

「いいえ。家は違えど、わたくしの血縁ではありますもの」



 モルガーヌに許可をとったら、むしろ代わろうかと気遣われてしまった。わたくしはすこし苦笑したけれど、それでもそれは刹那で消える。

 ぴた、と視線を合わせると、メリザンドは怯えるように震えた。

 そんな顔をされると、余計に腹が立つのに。ねえ?



「レディ・メリザンド。あなたにお姉様などと呼ばれる筋合いはありません」

「そ……」


 言葉に詰まったメリザンドの隣に、男が一人寄ってくる。ぽん、とメリザンドの肩に手を置いてそいつは言った。


「フェリ、メリィはお前の、()()()()()()、妹なんだぞ。いかに養子に行くとはいえ、姉と呼ぶことくらいは許してやったらどうだ」


 ()()()()()()、とやけに強調しながらその男は言った。

 わたくしは冷笑する。


「オスマン伯爵。血の繋がりなど、どうでも良いのです」

「お前……っ!」


 父上をそう呼んでやると、いきり立ったように彼は顔を歪めた。わたくしはとっくに、彼の血縁=家族という理論には辟易している。


「オスマン伯爵。わたくしはカルパンティエの娘です、お前などと呼ばれる筋合いもありませんよ」

「……ッ、フェリシテ、いつからだ!」

「さて、いつ、と言われましても。なんのことでしょう?」

「…………ッ!! フェリシテ、いつからそんなに不遜になった!! メリィをなぜそんなにも蔑ろにする!!」

「蔑ろ、ですか。……セディの存在を無かったことにし、陛下に顔向けのできないようなことをなさったあなたに言われたくありません」


 わたくしの言葉は、まるであの日をなぞるようにするすると唇からこぼれた。ああ、やはりわたくしは、どこまで行っても母上に似たのだろう。嬉しいことだ。


「セディ……?」


 まさかこの男、自分の息子に気づいていないのか。わたくしはすこし振り返り、セディに目配せした。モルガーヌには母上がついてくれたようだから、問題ないだろう。


「セディ」

「はい、姉上」


 苦笑しながらも答えてくれたセディの顔を見て微笑んでから、わたくしはオスマン伯爵に視線を戻す。


「ご紹介致しますわ、こちらはセドリック・ギィ・アンブロワーズ・ド・ブラン。フェレール男爵の令息で、わたくしの弟です。

 ええ、オスマン伯爵にとっては、かつてのご嫡男ですね。あなたの計らいで、長らく生まれなかったことになっておりましたが、このたび陛下の御計らいで、ブラン家に復籍を許されました」


 オスマン伯爵の顔がやおら青くなった。

 セディの顔を見て、その振る舞いを見て、自分が何を手放したのかをようやく知る。けれど、いまさら自分の手元に戻すには、カルパンティエ侯爵ブラン家の権力が面倒だということは、離婚の騒動でよく知っている男だ。

 周囲の視線が、そろそろオスマン伯爵に対して冷たくなってきた頃合いでもある。


「お久しぶりです、……いいえ、フェレール男爵ブラン家のセドリックと申します。()()()()()、オスマン伯爵」


 オスマン伯爵の顔が青いわけ。そして、周囲の視線が彼に冷たいわけ。

 もちろん、理由はある。

 ここにきて、オスマン伯爵と現フェレール女男爵の離縁の理由があからさまになったからだ。

 男爵家だかなんだかの娘だか姪だかに男児ができ、正妻は八年間も男児を産まないのならばまあ、乗り換える理由はわかる。オスマン伯爵とて、それを狙ってセディの出生を抹消させたのだろうから。

 だが、その正妻が格上の家から迎えた王家の血を引く妻、さらには健康な、これほど見栄えのする男児を産んでいたともなれば話は変わる。


 貴族家において、娘とは子供を産む、とくに後継となる男児を産むための道具である。だからこそ、役目を果たせなければ用無しとなる。

 一方、所属する家のものであるから、大切にすることが貴族男子の礼節というものだ。役目を果たしたものならなおさら。

 すなわち、誰がどう見ても、オスマン伯爵側の有責となる。


 母上とセディを、わたくしをも虚仮にして生まれた茶番を、ようやくひっくり返してやれた。

 積年の、わたくしの溜飲がすこし下がった気がする。


 ついでに、わたくしはにっこりと微笑んだ。


「オスマン伯爵。わたくし、カーテシーやボウ・アンド・スクレイプのお上手な方から話しかけられたいの。分かってくださる?」


 オスマン伯爵の顔色が、青から赤に変わった。うふふ。ああ、いい気味。

 でもこれは、わたくしには礼儀が振る舞いが心根が髪型がと煩いくせに、愛人上がりの妻と末娘の方の礼儀作法はほうっておいた、オスマン伯爵の自業自得。

 かなり直接的に礼儀知らずに話しかけられたくないと言ってしまったけれど、ここまでされているならお目溢しの範囲内だろう。

 


「フェリシテ」

「殿下」



 背後からの声に、咄嗟に振り返る。殿下だ。


矢羽が夜を裂きました(零時を回りました)よ。そろそろでしょう?」

「まあ、ありがとうございます。皆様に弟を紹介していましたら、つい」


 わたくしはうっとりと微笑んで、差し出された腕に手を重ねる。


「恐れながら、殿下」


 震える声で水を差したのはオスマン伯爵。殿下は微笑みを絶やさずに答えた。


「なんでしょう、オスマン伯爵」

「その女は悪女ですぞ! 父を父とも思わない狡猾さで、弟妹を可愛がる愛情も知らない! そんな情のない女で、殿下がお幸せになれるとはとても思えません」


 流石のこれには、周囲が静まり返った。

 わたくしは、オスマン伯爵の言葉を否定できずに、そっと目を伏せる。まあ、メリザンドのほうが! などと馬鹿なことを言い出さなかっただけ、理性は残っていた方だろう。

 その静寂に響いたのは─────



「ふ、ふふふ」



 殿下の、ラファの抑えた笑い声。


「ご心配には及びませんよ、伯爵。私はね、フェリにとても愛されていますから」

「殿下!」

「本当のことでしょう? 私がフェリを愛したのと同じくらい、フェリは私を愛してくれた」


 ────こんな気恥ずかしくなる言葉、人前で言われたのは初めて!

 いいえ違うわ、そもそもわたくしが人前にラファと出たのは今日が初めてだった! ああもう、こんなにも頬が熱いなんて。


「…………存じておりますわ」


 こんなにも恥じらいを噛み締めたのは初めてだ。


「なにより、その狡猾さを含めて、私はフェリが好きなのですから。

 フェリ、フェリシテ、愛しいひと。どうか誇ってください、こうして成し遂げたあなたのことを」





*****

 

 



 母上とセディと、三人で馬車に乗るなど何年振りのことだろう。

 すこしばかり、気持ちがそわつく。わたくしの前では、セディが呆れたように言った。


「姉上は本当に博打がお好きだ。昔からですよね、それ」

「博打だなんて」

「殿下がすぐに来るとわかっていて、あいつの前にもう十四年も会っていない僕を放り込むのを、博打以外の何で表すんです?」

「まあ、心外ね」


 わたくしにとって、あれは博打でもなんでもなかったというのに。


「母上がその程度の教育で満足するわけがないじゃない。現にいま、プロスペールの補佐をしているのでしょう?」

「それはまあ、そうですけど」


 それを聞いて、思わずといった顔で隣の母上が笑った。


 プロスペールは伯父上の嫡男───つまりカルパンティエ侯爵の後継である。わたくしたちからすれば従兄弟にあたり、わたくしにとっては義理の兄でもある。

 セディは今後、フェレール男爵位を継いで、そのプロスペールの補佐をしていくのだそうだ。


 カルパンティエの領地は広大で、侯爵一人で面倒を見られるような場所ではない。カルパンティエが保有する爵位の持ち主たちが、それぞれに当主を助けるのだ。侯爵以上の家であればそういうものである。

 その補佐のうち一人──どころか補佐役筆頭が、将来のセディなのだそうだ。


 セディは八歳の時から侯爵家で育った。そのぶん、プロスペールとの絆も強く、わたくしは夜会でいつもプロスペールにセディを自慢されていたのだ。なんと羨ましい。


「ふふふ、買い被りすぎよ、フェリ。でも……ええ、ええ、嬉しいわ、こうしてまた、あなたたちの会話を聞けるなんて」

「……、わたくしも、」


 ふいに、わたくしの喉が詰まった。


 吹き飛ばされた母上の背中。苦しむセディの顔。

 母上とセディをあんなふうに扱っておきながら、浮気で作った子どもを弟妹と呼ばせたがって、わたくしに愛情を強要した、あの男。


 大嫌いな青のドレス。

 

「…………、」

「フェリ?」

「え、姉上?」


 嬉しくて、つらくて、わたくしは化粧が崩れるのを恐れながら唇を引き結んだ。


「フェリ、フェリ? どうしたの」


 母上が心配そうにわたくしの顔を覗きこむ。喘ぐように息を吸った。


「……夢では、ありませんよね」

「夢ではないわ」


 母上にそう肯定されて、わたくしの視界がじわりとぼやけていく。

 女の涙は化粧を崩すが武器にもなる。使い所を間違えてはいけないと、常々わかっているはずなのに。

 セディが、わたくしの手を握って。母上が、わたくしの背を撫でてくれる。


「夢ではないのよ、フェリ。あなたが頑張ってくれたから、あなたがあの家でも折れずにいてくれたから、セディは立場を取り戻せたし、わたくしはまたこうしてあなたに会えるの」


 夢ではない。夢ではないなら。


「…………もう、青のドレスを、着なくていいの?」


 一拍おいて、母上はわたくしを抱きしめてくれた。

 だれかに抱きしめられたのは、もうずっと久しぶりのこと。

 かつて一度だけ、「抱きしめても、いい?」とラファが抱きしめてくれた時にも、みっともなく泣いてしまったことを覚えている。……人の温もりは安心した。


 目元の涙を、母上のハンカチーフが拭っていく。


「ごめんなさい、フェリ。あなたに嫌いなドレスを着ながら育ってほしいわけじゃなかったのに、……わたくしのせいで」


 ああ、ラファは言ってしまったのね。


「姉上、僕もその話は聞いているから。殿下の指揮で、カルパンティエの屋敷にあるドレスに青は一枚もないよ。部屋の内装にも、小物にも、青は使わせてない」

「……そう、なのね」


 そのことに、心が安らぐ。

 青い目も、青いドレスも、何もかも嫌いだった。

 朝起きて、自分の目の色を確認して、紫のままであることに何度安堵しただろう。


「そうなのね」


 わたくしの唇から、細く長く、ため息が漏れていく。そうよ、と母上が微笑んで、セディは真剣な顔で頷いてくれた。


 いつか、青を憎まなくていい日が来るかもしれない。けれどそれは、もう少し先のことだ。



「ねえ、母上。帰ったら、サラのハーブティーが飲みたいわ」




 

*****





 ……と、これで書き込めたのかしら?


 うん、大丈夫そうだ。ふふ、この本を開いた人は驚くだろうね。


 ラファはそういうところ、お茶目さんだわ。まさかセディにこんなものを作らせるなんて。


 セディが魔法使いだったのは望外のことだよ。まあ、ブラン家はもともと、魔法が廃れる前は魔法で知られた家柄だったそうだし、不思議はないけれど。本当に私のそばに引き抜きたいのだけどな。


 最近はずっとプロスペールとその話ばかり! セディをいつか口説き落とせるといいわね。


 案外姉上でつられてくれるんじゃないかとは思っているけれどね。

 さぁ、本を閉じるよ。これで完成だ、フェリの伝えたかったことは書き込めたかな。


 ええ。

 ────この本を読むあなた。

 どうか諦めないで。狡猾でもいい。悪女と罵られてもいい。どれほど振り回されても、どれほど悔しくても、どれほどの目に遭わされても。

 諦めないで、意志を曲げないで。

 積み重ねた果てにこそ道は開かれるのだから。






 いまこの本を開いて、彼女の追憶を味わったあなた。

 その手の中の、本を開いてすぐの右側。

 挟み込まれた肖像画には、青い礼服にスフェーンの瞳の男性と、銀の髪に紫の瞳、紫のドレスに青のコサージュをつけた女性が笑っている。


 その姿を見付けたくなったら、王家のギャラリーを訪ねるといい。

 ときの王弟ラファエル・ジュスト・ル・ラヴォーと、その妃フェリシテ・シビル・イアサント・ル・ラヴォーの姿があるはずだ。

 相思相愛、生きる限りずっと睦まじかった、彼らの幸福な生涯の記録とともに。


短編にするために削った部分は、またいつか。


2023/11/08 誤字報告ありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 設定がしっかり作りこまれていて、面白かったです。 [一言] これからも頑張ってください。
2023/11/10 15:37 退会済み
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