二人の未来をあきらめない
別れ
母親が幽霊となって俺の前に現れてから、ひと月が経った。
このひと月、母親に言われた事。この事だけを考えてきた。
(一体あれは何だったのか?あれは夢だったのか?)
否定したかった。
(そう、夢だ!夢なんだ。)夢であって欲しいと何度も何度も思った。
仕事に集中できずミスを何度もした。大事に至らなかったがそれでも立て続けにしたものだからさすがに所長から心配された。
「高村、ここのところ、なんか様子が変だぞ。何かあったのか?」
「すみません…別に…何も…」
「ま、何かあるならいつでも言えよ。聞くから。」
「……はい…」
相談に乗るとは言われたがまさか死んだ母親が幽霊になって現れて自分はもうすぐ死ぬと言われたなんて言えない。
当然殊も俺の様子がおかしい事に気づいていて
「陽さん…最近…様子がおか…何かあった?」
俺のただならぬ様子から何かを感じ取っているのだろう。だが、
「何も無いよ…」と言うと、それ以上聞いてこない。知るのが怖いのかもしれない。
俺だって言えるものなら言いたい。でもこれが真実なら絶対言えない。俺が死ぬかもしれないと告げた後の殊を想像すると尚更告げる事なんて出来ない。
毎朝目が覚めた途端、重くドス黒い気持ちが襲ってくる。それでも起きて、ごはんを食べ、仕事に向かう。食欲は無かったが食べなければ殊が心配するだろうと思い無理にでも食べた。会社に行く途中駅のトイレで何度か戻した。漠然とした、死への不安、恐怖?便器にすがりながら自分の惨めな姿に涙が溢れて止まらないこともあった。死への恐怖から心が押しつぶされそうな感覚。
なんとかもう一度母親が自分の前に姿を現してくれることを願った。話がしたかった。聞きたかった。
「本当に?俺は本当に死ぬの?」
だが何度夜を迎えてもあの日以来母親は姿を現さなかった。
誰にも言うことも出来ず悶々とした思いを抱えたまま時は過ぎていった。
殊が俺の異変にもう黙っていられなくなったのだろう、ある夜ベッドの布団の上で俺の来るのを待っていた。ドアを開けると不安気な表情で俺を見つめる殊がいた。俺は殊から目をそらした。
「陽さん、どこか悪いの?身体のどこか?」
俺は何も答えず、ベッドの反対側にまわり布団に潜り込んだ。殊に背を向けて
「どこも悪くないよ。早く寝ろよ」
俺は今まで殊に対してこんな突き放すような冷たい言い方をしたことが無い。自分が放った言葉の冷たさに、その言葉の中に“怒り”が含んでいることに自分でも動揺した。
「何でもないならいいの。でも、もし何かに苦しんでいるなら教えてほしいの…今の陽さん見ていると…どうしたらいいのかわからない…」
俺は返事をしなかった。背中に殊の視線を感じる。その後、押し殺すような溜息を洩らし布団に入る殊。背中合わせの二人の間に冷たい空気が入り込んで来る。暫くすると体を震わせて声を押し殺して泣く殊がいた。
(何をどう相談しろって言うんだよ!俺だってお前の前で泣けるもんなら、話せるもんなら…)
「泣くな!」と
叫びたかった。背中に感じる殊の存在にさえまたもや怒りを感じた。
それからは、殊を露骨に避けるようになった。目も合わせず。話しかけられてもろくに返事もせず、同じ空間にいるのを拒んだ。職場でも必要最低限の会話しかしなかった。所長や、同僚が俺の様子に戸惑っている気配を感じた。が、かと言って誰も必要以上に関わってはこなかった。嫌、俺が誰も近寄らせない空気を出していたんだろうと思う。ひとりだけどこか次元が違う空間にいるようだった。深い孤独を感じた。否定と怒り、孤立。
やがて俺は自分の犯した罪を考えるようになった。死ななければいけないのは自分が過去になにかをしてしまったせいだと。一体何をした?何がいけなかったのか?それとも何もしなかったからか?ずっと、ずっと記憶がある小さい頃まで遡って考えた。母親との間で有ったこと、友達との事。それとも学校で?先生と何か?思い出す限り色々考えた。思い出して、考えて、考えて
(もしかして、あの事が、あれがいけなかったのか?)
思い当たることが少しでもあると、自分で勝手にこじつけて原因を決定させたいと思ってしまう。原因だけでも判れば、もしかして死ななくてもいいかも知れないと思えるからだ。自分の過去を思い返してみると胸のあたりが少し疼くような出来事が結構たくさん有った。だがそれらが命を獲られるようなこととは思えない。
結局、答えは出なかった。何かわかってそれを思い出しただけでも、自覚しただけでも、何か変わるかもしれないとその思いにすがっていたが、駄目だった。
今まで、自分の人生を思い返すことなんて無かった。それも自分の過ちを探すなんて。自分の犯した罪を見つけて助かろうなんて
(なんなんだ、これは…無様すぎる)
自分の中で自問自答を繰り返し、もしかしてという希望と落胆を繰り返しているうち、一体そもそも自分は何を求めているのかもわからなくなった。第一、俺は本当に死ぬのか?母親(幽霊)の言った事は事実なのか?幽霊になっているの母親の言った事が…本当のことなのか?もし、本当の事だとしても教えてほしくはなかった。何も知らない方が良かった。自分の息子を苦しめる事を告げてきた母親に初めて憎しみに近い感情を抱いた。
暫くして、過去の自分の行った事を悔いたってもう変えることはできないんだとふと思った。それにどう考えても命を獲られる程の事をしたことがあるとは思えない。俺は「善人か?悪人か?}と聞かれたら「善人」と答えてしまう。
それから今度は俺は交換条件を考えるようになった。死ななくて済むいうのなら何をすればいい?だから、誰でもいいから、何でもいいから提示してくれ。金をくれというのならいくらでも差し出す。とにかく、何をどうすれば、何をすればいい?死ななくて済むには何を?
(母さん!教えてくれよ!母親なら俺を助けろよ!)
結局、何もわからず、起こらず、見つからず、時だけが流れた。
どす黒いヌッとした水の底にいつもいるような毎日。
朝、起きて、仕事には行った。どんなに気持ちが押しつぶされそうな状態でも仕事には行った。
車に乗ってハンドルを握っていてもふっと涙が溢れて、頬を伝う。朝、洗面所で鏡を見ながら歯を磨いていてもふいに涙が溢れてくる。ここにいるのにここにはいないような自分。又、苦しい一日が始まるのかと確認する日々。誰かと言葉を交わすのが苦痛で出来るだけ目を合わせないようにする。食欲もない、辛うじて最低限口に入れる。好きだったミュウジシャンの音楽も聞く気にもなれない。心がうつろで肉体だけが存在しているようだった。目一杯石が詰め込まれた、ずた袋をいつも心に抱えたような日々をどれくらい過ごしたのか…。
ある朝、目が覚めると辺りが明るくなり掛けていた。隣を見ると殊が寝息をたてて眠っている。
俺はベッドから出て、ベランダに向かった。サッシを開けると10月も半ばのせいか少し冷え込んでいて寒い。右頬にまぶしさと温かみを感じて顔を右に向けると東側の建物の間から今昇ろうとしている太陽があった。太陽の形は眩しすぎて見えないが光は刻一刻と強さと眩しさを増した。今、この自分を照らしているのは眩いほどの程の光だ。黄金に輝く光が自分に向かってきている。今、この瞬間、圧倒的に輝く光をこの世界で自分だけに向けてくれている。そう感じた。俺は目を閉じた。光が自分の全てを照らしている。光が自分の肉体に、全身に浸透してくるのを感じる。まるで全身の細胞が裏返っていくような感覚。そして圧倒的な安らぎ。でも、その奥には何かワクワクするようなかすかな興奮と、そしてさらに奥深い、深いところから喜びのような感情が湧き上がってきた。気が付くと涙が頬を伝わっていた。嗚咽を抑え込み肩を震わせて泣いた。それは悲しみでも苦しみでもない今まで感じたことのない思いだった。忘れていたことを思い出した感覚だった。
(俺は今、生きている)
その日から俺の心は静かになった。「お前は死なないよ」と誰かに言われたわけでもない。俺は死なないと確信を得た訳でもない。ただ、なぜか、起こるかどうかもわからない不確かな未来に悩んでも仕方ないと思えてきた。心にいつも抱えていたずた袋が無くなった。ドス黒い水底にいるような気分が消えた。外側が変わったのではない。心が変わったのだ。心が静かになった。
この何か月か「不確かな死」というものに対する訳のわからない感情に振り回さられ、自分の事だけしか考えられていなかった事に気が付いた途端、いつも側にいても感じる事が出来なかった殊の存在が鮮明に自分の前に現れ始めた。
「殊、俺さ…ずっとおかしかったよな。悪かった…ごめん」
久しぶりに自分から声を掛けた。
殊の目が驚きをもって自分を見つめる。そして、見る見るうちに両目から涙が溢れだした。俺は抱き寄せた。
「ごめん、ごめんな」
「陽さん…」
この数か月「死」への恐怖でのたうち回って苦しんでいたように、殊もきっと違う意味で苦しんでいたであろう。
(痩せたな…)
自分の事ばかりで殊に思いを馳せる事が出来なかった。そんな自分を恥じた。抱きしめる手に力が入る。
「陽さん、ずっと、ずっととても苦しそうで…でも…聞いてはいけない気がして…ううん、違う、
知るのが怖かった…陽さんが何に苦しんでいるのか…」
殊を更に強く抱きしめた。殊には仕事上の事で悩んでいたと伝えた。本当に納得してくれたかはわからないが今の俺にはそれしか思いつかなかった。
(そう、何に苦しんでいたかなんて言えない…真実かどうかもわからない事を話して殊まで苦しめる事は出来ない。誰にも言わず、本当にその時が来るなら潔く迎えるしかないんだ。)
殊に何が自分を苦しめていたかは言えない。不確かな事だし、本当に起きる事ではないにしても話したところで殊に不安を与えるし苦しみも与えるだろう。だから言えない。
俺は知らされた事によって苦しんだ。この、数か月悶え苦しんだ。殊は何も知らずにいて、ある日突然俺を失ってしまうという苦しみが襲ってくる。殊がどんな風になってしまうか想像できない。いや、この数か月、俺の様子をそばで感じ苦しんでいた殊だ、きっと想像を絶する程の苦悩を味わうのだろう。それを思うと胸が張り裂ける。でも俺にはどうすることもできない。
自分の中に感じるこの静けさは一体どこから来るんだろう。決して「死ぬかもしれない」ということが怖くなくなったのではない。ただ「死」の恐怖というものに飲み込まれなくなった。距離をおけるようになったというのか。でもまだまだ、些細な不安に襲われそうになる時はある。そういう時には母親から教わった事を行った。小さい頃母親はよく俺に教えてくれた。
「陽、心の中がモヤモヤしてきたり、いやーな気持ちが出てきたりしたら陽が好きなものの事を思い出すんだよ」
「好きなもの?」
「そう、例えば、陽の好きな食べ物は?」
「母さんの作ったロールキャベツ。」
「ハハハ、嬉しいなぁ。他には、好きな場所は?」
「ディズニーランド」
「だよねー。また行きたいねぇ」
「うん」
「好きなアニメキャラは?好きな色は?………」
母親とお互いの好きなもの言い合った。
「それから、上を向くのもいい。空が見えたら尚更良し。母さんは上を見た時木々の葉が見えると嬉しい。葉っぱが風に揺れてざわめいていると不思議な気分になるの。」
小さい頃はただ言われるままに行っていたが、小学校の高学年の頃になると母親の言っている事の意味が少しわかるようになった。ひとりで母親の帰りを待っていると、時々無性に淋しさに襲われときがあった。そういう時には好きなもの、好きな空間、気に入っている事を考えた。幼かった時よりもたくさん思いつくようになっていた。そうすると不思議と心の中が変わるのが子供ながらにも感じる事が出来た。そう「心」が変わった。
「死」というものに対しても考えるようになった。なぜ「死」をこんなにも恐れるのか。死ぬことは怖い。何が怖い?死ぬときの痛み、苦しみだろうか?そもそも死ぬときは痛みと苦しみが伴うというのは本当の事なのだろうか?確かに事故や病気で死を迎える時はそれがあるかもしれないが…。本当に恐れているものはそれか?「死」は別れだ。愛する人、大切な人、大切な存在、愛する人と永遠に二度と会うことは出来ない。その切なさ。そしてこの自分の肉体。死んだら荼毘に付され永遠にこの世界から無くなる。自分の肉体が焼かれるところ、焼かれて骨だけになってしまったところを想像する。何とも表現できない感情が襲う。この世に生を受けてから一番長く共に生きてきたのがこの肉体なのだから。
「死」への恐怖に支配されなくなった俺に今度突きつけられたのは残される「殊」の事だった。もし自分がいなくなったら殊はどうなるのか?殊はまだ二十五だ。まだ俺たちには子供はいない。この先長い人生がある。好きな奴が出来たっておかしくない。その時の事を考えれば子供がいないことは良かったのかも知れない。だが、
(殊が…他の奴と…)
殊が俺以外の誰かを好きになって結婚。ましてや子供が出来るかもしれない…。
(嫌だ)
殊が俺以外の誰かといるところなんて考えただけでいたたまれない。
「嫉妬」
結婚して二年になる。結婚してからお互いの話を聞いてみたら俺も殊も初恋同士。まして、殊はずっとを俺だけを思ってきたというのだ。正直驚いた。大学で再会したのは偶然だと思っていたのが、殊は俺に会いたくて同じ大学を選んだと言っていた。それを聞いたときの俺は殊への愛おしさでいっぱいになった。それが他の男と?
「嫉妬」
殊の隣に見知らぬ男性、そしてその間にそいつと殊との子供。駄目だ。何かが胸を塞ぐ。考えたくもない。だが、一人で生きている殊も想像したくない。
(あぁ、、無理だ。どっちも嫌だ。殊が一人で生きているのも、誰かと一緒になるのも。殊の側には俺だ。俺しか考えられない…)
殊を好きになり、人生を共にしようと決めて、結婚した。自分が欲しかった家族。にぎやかでいつも笑って、そんな家庭、家族。殊と幸せになろうと決めていたのに…。いつも俺の前では笑ってはいたが苦労していた母親を見て、殊にはそんな思いはさせないと思っていたのだが……。
殊に残せる物は残そうと考えた。生命保険は入っている。暫くは経済的にも困らない額が受け取れる。殊の両親もそう遠くないところに住んでいる。殊は教員免許も持っているからいざとなれば仕事にも就けるだろう。
(あとは何だ?残せる物。生命保険だけか?)
結局他に何も思い当たらない。
(情けない。殊にしてやれることが何も無いなんて)
一人残される殊は大丈夫だろうか?俺がいなくなった直後は多分きついだろう。どんな感情に押しつぶされてしまうのか?
今、俺の前にいる殊を見詰める。俺の視線に気がついて
(何?)という表情をする殊。
そんな殊をみて、彼女が不幸になると決めつけるのは違う気がする。殊はそんなに弱い人間だろうか?確かに死んだ母親はバイタリティーあふれる人だった。殊はそんなタイプでは無い。母が「動」なら殊は「静」だ。でも殊のその「静」の中に「芯」のようなものが確かにある。それに知性も備えているから何かあっても思慮深く対応するだろう。殊の中には母親と違った強さが確かにある。
だが、そうとは言え、俺に出来る事はもうないのか?殊の強さを信じるだけか?
(母さん、母さんは父さんが死んでから何を支えに生きてきたの?
その日は朝から厚い雲が立ち込めていた。数日前から気象予報で「災害級の大雨に注意」と呼び掛けていた。
(とうとうこの日が来たのか…)
あの日母が言った言葉が蘇る。
「何か月か後にこの辺りに大雨が降る。信じられない位の大雨でその時あんたは…」
気が付くと雨が降り出していた。災害級の雨になるとは思えない静かな振り方だった。
「結局、殊には何も残せなかった…」
降り出した雨に向かってつぶやいた。
外を見ると雨は強くなり始めていたが豪雨というほどではない。車を飛ばせば30分ほどで殊の両親の家に着くはずだ。
「殊、酷くなる前に今のうちにお父さんの所に行こう!」
殊の両親の家は高台にある。かなり急な坂をいつも昇っているからあそこなら大丈夫だろう。
何日か前から気省庁は予報で豪雨の恐れがあると注意を呼び掛けていたので、殊にはそうなったら念のためご両親の家に寄せてもらおうと話していた。殊も避難する可能性が高いことを考えていたのか必要なものがバッグに入っていた。
外に出ると先よりも雨が激しくなっていたが、今までにも経験しているレベルだった。
しかし、車を出して、5分位経った頃だろうか突然雨が激しく降り出した。それこそ今まで経験した事が無い雨だ。フロントガラスが割れるのではと思うくらい激しく打ち付ける雨粒。前が完全に見えない。乗り出したころからライトは付けていたが対向車のライトが付いていたとしてももうわからない。
ということは自分たちの車もわからないということだ。恐怖で冷や汗が出る。横を向くと助手席の殊が目を見開き雨が打ち付けるフロントガラスを見つめている。
「殊、大丈夫か?」
無言で頷く殊の横顔が恐怖でこわばっているのが判る。
俺はハンドルにしがみつき土砂降りの雨で見えない前を目を凝らして見つめる。
(一体、ここはどの辺りなんだ?)
と、その時いきなりハンドルが取られ車がくると回転した。
「陽さん!」殊の叫ぶ声。濁流に吞まれてのだろう
「あっ」という間だった。水が下から上がって来た。
「殊、車から出るぞ!」
当然ドアは水圧で動かない。座席の脇に備えてあったハンマーを掴むと殊を運転席に寄せ助手席の窓ガラスを叩く。一度ではひびが少し入ったくらいだった。二度、三度目に一気にガラスが割れた。それと同時に大量の水が流れ込んできた。
「殊、出ろ!」
殊の体を掴み助手席の窓に導き押し出す。必死に外に出ようとする殊。殊の体を押し出す。その後を俺も死にもの狂いで出る。殊は車のフロントグリルを掴んでいる。殊の体を掴み
「殊、手を放せ!俺に捕まるんだ!」
殊が俺の上着を掴んだ。俺は確りと殊を抱き寄せる。殊のしがみつく力が強くバランスが取れず沈みそうになるのを堪えた。
ゴーゴーと音を立てる濁流。凄い勢いで俺たちも流される。
殊を片手で抱えるかたちで必死に泳ごうとするが激しい流れの前ではどうにもならない。殊を抱えているのに必死だった。
(このままじゃ……何か捕まるものが…)
殊の目が開いていない。唇が紫色に変わり、やっとのことで顔を水面に出している。
「殊、しっかりしろ!目を開けろ!殊!殊!」
(駄目だ、このままじゃ殊がもたない!)
水の冷たさと流れの強さで体力が奪われたいくのがわかる。
ふと、流れが押し寄せてくる方へ目をやると何か大きな固まりが流れてくる。
(あれだ、あれに)
その塊が流れる方へ殊をかかえ必死に泳ぐ。中々進まないが運よく塊の方が側まで流れてきた。
片手で塊を掴む
「殊、殊、しっかりしろ!これに捕まれ!」
殊の体をその塊に寄せて片手で何とか体を押し上げる。
「しっかり上るんだ!」
話す度に泥水が口に入ってくる。殊は言われた通り必死にしがみつきよじ登ろうとする。
俺も夢中で殊の体を押し上げていた。
何とか体が上がりゲホゲホ言いながら殊が俺の方へ体を向けて手を伸ばしてくる。
「陽さん、陽さんも早く!」
殊が乗っかった塊を見ると俺が乗れるスペース等無かった。俺がしがみつけたとしてもバランスが崩れて殊をまた流れに落としてしまうかもしれない。無理だ。
(そういうことか…)
あの夜母親の言った言葉が蘇る。
「殊さんは助かるよ」
俺の手は塊から離れていた。
殊と俺はアッという間に離れた。
「陽さん!いや!陽さん!陽さん!」
叫ぶ殊が遠くなる。
(殊…殊……大丈夫…お前なら…)
「生きろ!殊!生きて‼」
ガクンと体から力が抜けた。
流れの中に体が沈む。
不思議だ。苦しくない。何も感じない。
(俺、死ぬんだな…)
目は閉じている。
水の中だから暗いはずなのに、まぶしいほどに明るい。
「陽」
母親の声が聞こえた。
(これが死か?)
意識が遠のいていった。




