2. スカベンジャー
〈時刻2023時。日本、大阪府(上空)〉
『隊長、目標の速度は時速60キロ。約二分後に関西国際空港連絡橋へ到達。予定通り、目標車両を一番左の車線に誘導する』
「了解」
橋長3750メートル、関西国際空港連絡橋。大阪府泉佐野市りんくうタウンと関西国際空港島を結ぶ、日本最長のトラス橋。関西国際空港へと続く唯一の陸路だ。橋は二階構造になっており、上層には六車線が敷かれ、下層には鉄道が通っている。
『目標は約三十秒後に橋のゲートを通過予定』
通信の相手は男性。零の仲間、井凪一だ。彼は今、車で目標を追跡している。目標は関西国際空港へ移動中。通信機器をジャミングしているため、目標は専用機をチャーターすることはできない。チャーターをしたとしても空港到着までには間に合わない。一般人に紛れて日本を発つつもりだ。
今のところ目標は一の尾行には気付いていない。だが気付かれない保証はない。追われていること自体は理解している。逃げられる前に目標は始末しなければならない。国外まで追いかけるのは時間の浪費だ。
「山彦、機体を安定させろ」
『了解です』
零が搭乗しているのはRz‐72。右翼と左翼にそれぞれ一基ずつローターがあるティルトローター機だ。ローターを上方に向けることで、ヘリコプターのように垂直離着陸でき、ローターを前方に向けることで、プロペラ機のように飛行することが可能。Rz‐72は現在アメリカ軍の主力輸送機であるが、零課用に大幅な改良が加えられている。特筆すべき項目として一般のRz‐72にはない第四世代光学迷彩が搭載されており、機体価格としては二百億円を超える。
操縦しているのは山彦響、副操縦士は菅田直樹だ。二人とも航空機の操縦に長けている。響はRz‐72のローターを上方に向け、ホバリング飛行を開始。機体が前後反転する。
「いいぞ。後部ランプを開放。狙撃体勢に移行する」
後部のハッチが徐々に下へ下りていき、外との気圧差でキャビン内に気流が生じた。キャビンで伏射の体勢を取っている零。彼女の腰や脚には固定用のベルトが巻かれている。それらのベルトは直接、床と結合しているものもあれば、ベルトから伸びた多数のケーブルにより、背後のバランサー装置に繋がれているものもある。銃には二脚銃架が取り付けられ、発砲時の衝撃を吸収できるようにしてあった。また、二脚銃架の足先部分は床の側溝にはめて固定されている。万が一、銃が零の手から離れても機体の外へ落ちていくことはなかった。
零の目の前には関西国際空港連絡橋が垂直方向で見えている。高度7267フィート(約2215メートル)。橋上の車はベルトコンベヤーで流されているかのように、一定の速度で走行していた。法定速度以上で走行する車はない。これは車の自動走行機能が働いているためだ。直線路だと人はどうしても加速したくなる。それを防ぐため、橋の入り口ゲートを通過すると自動的に車は自動操縦となる。
橋の法定速度制限は時速80キロ。零から見て橋の左側がりんくうタウンから空港へ向かって進んでいる三車線、右側が空港からりんくうタウンへ戻って来ている三車線だ。目標は現在左側の三車線の内、一番左の車線を走っている。もちろん、偶然そうなったわけではない。一による自動走行システムのハッキングだ。
『目標は連絡橋を走行中。時速キロ80。目標周囲の右車線、後方に民間車両なし。橋の通過まで残り150秒』
零は言葉を返さなかった。ただ静かに銃を構え、右目でスコープを覗いていた。この時、左目も先を見据えていた。これは両目で見なければ立体視ができず、標的までの正確な距離感が失われるためである。スコープ内に捉えられたほんの小さな黒点。一がマーキングした車両だ。零がスコープの倍率を上げていくと、ようやく車らしき輪郭が現れた。標的は左後部座席にいる。
今回、零が使用する狙撃銃はSRA‐55J。対ヘリコプターや対装甲車を想定して開発された超電磁式狙撃銃SRA‐55を改良したもので、その威力は申し分ない。長距離狙撃用に専用の超高性能ライフルスコープもある。RLスコープと呼ばれるこの超高性能スコープは熱源感知、暗視、透過等のモード切り替えも可能という優れもの。問題なのは銃の大きさだった。全長189.4センチと非常に大きい。重量は見た目ほどなく8.74キログラムだが、携行するには分解しなければならない。分解自体は熟練者で14秒ほど。
5キロメートルという距離をホバリングしているとはいえ車に乗った標的を機内から射抜くというのは至難の業だ。いくら銃の性能が良くても、最終的には使用者の技量がものをいう。重力、風向、風速、気温、気圧、湿度、粉じん量、弾の性質、弾の速度、標的の移動方向、標的の移動速度、標的への入射角、コリオリの力、狙撃手はあらゆる影響を考慮しなければならない。長距離ほど弾は環境要因を強く受けてしまうため、標的が遠ければ遠いほど命中させることは困難になる。
そもそも、SRA‐55Jで報告されている最長狙撃距離は4030メートル。しかも狙撃に適した人工環境下という限定された状況下での記録である。お世辞でも今回の狙撃環境が良いとは言えない。どんな凄腕のスナイパーに頼み込んでも無理な内容だと断られるだろう。直線距離は5213メートル、入射角は25.144度、南南東の風秒速2.012メートル。車の移動速度は変化なし。遮蔽物なし。
「逃がしはしない」
零が引き金を引いた。と同時にキャビン内で轟音が響き渡る。
同時に視界から標的車両が消えた。
秒速約2172キロという超音速で放たれた弾丸は車の屋根を容易く貫通し、左後部座席の男性を完熟トマトの如く無残に吹き飛ばした。弾はそのまま床に大きな穴を開け、車下部の車体電子制御システムを射抜いた。
「弾着、命中」
狙撃後、零はスコープの倍率を落とし視野を広げた。目標の車は橋上にいない。
『弾着を確認した。生命反応の消失を確認。目標は死亡。繰り返す、目標は死亡。車は側壁を突き破り海に転落した。完璧だ、隊長』
現場に近い一から報告が上がる。弾が標的に命中したことは零自身分かっていたが、一の報告で命中は間違いなかったことが証明された。橋上、ガードレールと側壁に大きく欠けた箇所があるところを見ると、目標の車は計画通り海に落ちたようだ。証拠は海に流してしまうのが早い。
『目標は即死。肉体が吹き飛んだのを俺が見ている。全くむごい死に方だぜ』
「運転手は?」
『ああ。運転手の方は車が壁を突き破った時に死んだようだ。頭を強くぶつけたんだろう。生身の人間には耐えられなかったようだ。彼自身に非はないのにな、可哀想に』
「一、道路に弾が残っていないかスキャンして。可能ならば回収。長居は無用だ。山彦、後部ランプを閉めろ」
響は後部ランプの開閉ボタンを素早く押し、機体の後部ランプを閉じる。ランプが完全に閉じると零は自身に付けられたベルトやコードを外していった。
『こちら一。道路のスキャンを実行する』
一方、一は車を降り道路をUCG(Universal Combat Glasses:万能戦闘用メガネ)でスキャンした。一見して道路には何も無さそうに思えるが、転落した事故車を確かめるフリをしながらスキャンを続けた。あまり時間をかけるわけにはいかない。
と、UCGのレンズ状ディスプレイに赤い矢印が表示される。矢印の下は箇所を強調するように赤い丸で囲まれ、傍まで近寄ると〝該当〟の文字が出た。弾だ。弾は地面にめり込んでいる。既に変形して歪な形をしていたが、鑑識の手にかかれば弾丸と判明するだろう。スキャンしておいて正解だ。
『隊長、弾を見つけた。回収したぞ』
「了解。警察が現場に向かっている。そこから離れろ。ヘマはしないように」
『ヘマなんかしないって。撤収する』
一は車に戻り、そのまま空港へ向かった。パトカーのサイレンが夜の街に響いている。警察だ。橋に急行している。
「山彦、菅田、我々もここから離れるぞ。本部へ帰投する」
コックピットの後部右座席に零は座った。零から見て左斜め前の席は直樹、前の席は響が座っている。機長である響はホバリング飛行から固定翼モードに切り替え、本部に針路をとった。UCGのマップ表示を見るとパトカー四台が橋に向かっている。まもなく、警察により車線を規制されることになるだろう。明日の新聞やテレビニュース、ネットニュースでは大きな見出しを付けて記事が出るはずだ。
〝国防陸軍少将、事故死〟
〝朝霞駐屯地司令官 死亡〟
何せ、さっき暗殺したのは国防陸軍少将、東部方面総監部幕僚長の井口千秀なのだ。軍の将軍が死亡したということは電子世界でいいネタになるだろう。インターネット上では多くの憶測が出てくるはずだ。何者かが車に細工、道路に異物、軍内部の派閥争いなどなど。ネタとしてはかなり大物だ。ミステリー事件として取り上げられるかもしれない。番組で特集が組まれ、真相解明への探偵ごっこが始まるのもあり得そうだ。
だが真実は一つだ。一つしかない。彼は国の裏切り者である。中華人民連合国、通称「中華連」の軍特務機関〝第505機関〟と繋がりがあることが確認され、上から暗殺命令が出た。それが真相だ。
光学迷彩により姿を消したRz‐72はその擬装を解くことなく、関西国際空港連絡橋を離れていった。
〈日本、広島県(国家特別公安局本部)〉
広島県に置かれている公安局本部。地上38階、地下4階という巨大な建物で、その周囲には訓練施設や研究室、ドーム状の演習場、様々な乗り物が揃えられている格納庫が見られる。公安局本部は警察庁の公安警察本部として機能しており、建物としては法務省とその外局である公安調査庁もこの建物に集約されている。
国家特別公安局零課は屋上を含む建物最上階の全フロアを専有している。表向きは公安調査庁の管轄で、37階、36階も公安調査庁の管轄になっているが、実際は零課が所有している。この公安調査庁というのは書類上、形式上のダミーになっており、公安調査庁のフロアは別の階層にちゃんとある。最上階を含めたこれら三階部分を訪れるには、主に階段とエレベーターの二つがあるが、どちらの場合でもパスワード、顔認証、音声認証、指静脈認証、虹彩認証が必要である。地下の最下層にも零課専用のフロアが存在しているが、同様に各種認証が必要だ。
「課長。今戻りました」
一が皆より遅れて課長室に入って来た。課長室には零課の主要メンバーが揃っている。広い部屋の中央には長方形の机が置かれおり、その左右には長いソファがある。右のソファには奥から零、直樹、響、左のソファには奥から滝珠子、鶴間由恵が座っていた。零はUCGで何かのデータを見ている。おそらく国防省情報部の情報を覗いているのだろう。響はソファに大きく寄りかかり、直樹と珠子は外務省の書類を見ている。由恵は薄型ラップトップを開いていた。
部屋の奥には課長のデスクがあり、零課の課長である宮川武佐が一に声をかけた。
「一、戻ったか」
武佐はこの時代にしては珍しく白髪の男性だった。年齢といえば年齢なのだが、今の時代、再生医療やナノマシン医療で黒髪を取り戻すことは何も難しいことではない。
「皆が揃ったところで、話を始めよう。今回の任務、皆本当によくやってくれた。井口少将が中華連と繋がっていたことは疑いようのない事実だ。彼が素直に投降してくれていればこんなことにはならなかったが……仕方のないことだ。我々はすべきことをした。しかし、まだこれで終わりではない。まだ厄介な話は続いている。どうも、少将と密接に連絡を取り合っていた中華連のエージェントがまだ国内に残っているようだ。零、代わってくれ」
零が課長の横に立つ。
「ここからは課長に代わって私が説明する」
零は中央にホログラム映像を起動させた。井口少将の顔が表示され、そこから横に矢印が伸びている。その矢印の先には『中華連・第505機関』と書かれていた。
第505機関は中華人民連合軍の諜報機関で人的諜報活動を行っている。日本にとってかなり面倒な相手であるのは違いない。零課を含む国家特別公安局は今までも彼らと関わりのある者達を逮捕あるいは暗殺してきたが、第505機関の中枢までたどり着けてはいなかった。
「井口少将は中華連の特務機関『第505機関』と繋がりを持っていたのは間違いない。皆の知っての通り、第505機関は中華連の秘密組織だ。連中は国内でスパイ活動をしている。まるでゴキブリのようにな。そして、由恵が先ほど連中のアジトを見つけた。アジトは全部で4か所」
日本の形をしたホログラムマップが表示される。続けて、国内に4つの丸印が付けられた。
「北から東京、岐阜、広島、福岡の4つ。東京、福岡の二県はWDU(Wide area Deployment Unit:広域展開部隊)が担当し、我々は岐阜と広島を担当する。今回の任務は中華連工作員の身柄確保。同時刻に全アジトへ突入し制圧する」
WDUは警察庁警備局公安課の特殊犯罪対策室特別戦術機動班に所属している特殊部隊。各都道府県警察本部に置かれている特殊部隊SATや特殊事件捜査係SITとは異なり、WDUは警察庁直轄で公安警察という異色の存在だ。
「ほお、WDUが動くのか。久しぶりだな」
一が口を挟んだ。
「話を戻すぞ。既に岐阜では矢羽田、真川、藤崎が待機している。由恵と珠子は本部で課員のサポート。一、菅田、山彦は私とともに、これから三世羅市のアジトへ向かう。移動は陸路だ。奴らに素敵な夜をプレゼントしてやるぞ」
〈時刻0324時。日本、広島県〉
暗い山道に警察の装甲車両が停車した。こんな山道に警察の特殊車両を停めるのは、あまりにも不自然に思える。だが街中に装甲車両を停めるわけにもいかなかった。一般市民に騒がれ、敵に気付かれるという最悪の事態は避けたい。それにここから目的地まではそこまで距離が離れていない。敵がもし車で逃走を図ったとしても、すぐに阻止あるいは追跡できる。戦術的要素を考えてもここが最適だった。
「本部、これよりクロウを展開する」
『こちら本部、了解』
カラス型の試作偵察ドローン《クロウ》が作戦区域を旋回する。クロウは人工知能搭載の自律機動型ドローンだ。高感度望遠カメラや各種センサーが取り付けられており、視覚は瞳と腹部、背部の三か所。見た目は本物のカラスと見間違えるほど精巧に作られており、羽ばたき方も本物を徹底的に模倣している。まるで生きているようだ。クロウは必要とあれば鳴くことさえ可能で、偵察用ツールとしては非常に強力なものだろう。クロウが見ている映像は現場の隊員と本部に共有され、作戦区域の様子を詳しく知ることができる。
『クロウからの映像を受信。映像はクリア。標的に動きなし』
通信相手は由恵だ。彼女は人工衛星や監視カメラ、クロウで目的地周辺を見ている。クロウから受信できる映像は通常モード、赤外線モード、熱赤外線モード、通信感知モードの四種類だ。人工衛星とクロウで現場の零達の姿もはっきり見えている。敵のアジトは二階建ての一戸建て住宅だ。明かりは点いていない。
「了解」
通信機器として零課員はUCGと骨伝導ヘッドセットを併用している。今の時代、サイボーグ同士なら脳内思考を直接通信することができるが、零課は由恵を除き、脳を電子化していない。通信自体は量子ネットワーク通信のため、距離の離れた本部や別動隊とタイムラグ無く、盗聴されることなく音声を届けることができる。
「それじゃ、そろそろ行きますかねぇ」
UCGでドローンの映像を見た一が言った。映像を見る限り、敵がアジトの外に罠を仕掛けている様子も、待ち伏せしている様子もなく、公安が来ていることも気づいてなさそうだ。
「そうだな。迎えに遅刻するわけにはいかない」
車両の助手席には零。運転席には響、後部座席左には一、後部座席右には直樹が乗っている。
零課員が着用しているのは俗にいう戦闘スーツだ。灰色を基調色としており、闇に溶け込めるよう配慮されているだけでなく、第四世代光学迷機能を有している。正式名称は《ACS4型》。スーツの上には各種弾薬が収められたタクティカル・アーマーベストを着用し、さらに腰には予備弾薬、医療キット、簡易工具、フック付きワイヤー、予備通信端末など様々な装備が収められたユーティリティベルトを着用。
「山彦、貴方は車で待機。奴らが車で逃げようとした時は迷わず突っ込め。私達は徒歩で目的地に向かう」
零、一、直樹の三人がドアを開けて装甲車両から降りた。この装甲車両はWDUが使用しているものと同一のもので、車両側面には〈Police〉の文字が描かれていた。
「間違っても相手は殺すな。情報を聞き出さなくてはならない。聞きたいことが山ほどある」
零の言葉に対して全員が「了解」と答えた。
零達は主武器としてUCR(Universal Combat Rifle:万能戦闘ライフル)のNXF‐09を手にしている。一般的にUCRはあらゆる環境下や戦場で運用できることを目的とし、高度にモジュール化することでバレルやグリップ、キャリングハンドル、ストック等を簡単に交換、取り外しができる。零課のUCRであるNXF‐09は発砲音とマズルフラッシュを極限まで抑え、高温湿地帯、寒冷地帯、砂漠地帯、海中といった過酷な環境でも確実に作動する性能を持つ。基本形態のカービンライフル・モードでは全長が短く、取り回しが良いため近接戦闘にも対応している。
「一、お前が先頭だ」
「了解」
「よし。全員、光学迷彩起動。これより移動する」
光学迷彩を皆起動する。零達の姿は武器も含めて完全に周囲の景色と同化した。至近距離で見て、ようやく彼らの輪郭を捉えることができるが、一見して目の前に人がいるということは分からない。それほどまでに第四世代光学迷彩の完成度は高い。加えて光学迷彩は着用者の放射赤外線量を周囲の赤外線量と同調させるため、赤外線センサーでも光学迷彩使用者を判別することができない。ただし光学迷彩にも弱点はある。それは影まで隠せないことだ。零達の影が月明かりで薄っすらと地面に映っていた。
「周囲に敵影なし。民間人なし。そこの道を右だ。目的地まで150メートル」
UGCには目的地までの距離と方向が示されている。周囲に敵性反応は無い。味方の反応が画面左上の二次元ミニマップに緑色の三角形として表示され、頂角は顔が向いている方向を表している。またUGCを通して味方を見ると、味方の頭上には名前が緑色で表示されており、名前の右側には味方が今、手にしているNXF‐09の残弾数(31)が数字で表示されている。
「菅田、左からポイント・アルファ3裏へ回り込め」
『了解』
直樹は零と一から離れ、別ルートから目的地に向かう。
「こちら伊波、目的地まで30メートル。明かりは点いていない。目標は就寝していると推測される」
深夜の月明かり。照らされた3つの影が一つの家に近づいていく。姿は見えない。足音も聞こえない。何も知らない人が見れば幽霊を見ていると錯覚するかもしれない。真昼だったらその不気味さが際立つことだろう。幼い子供が見たらトラウマものだ。
第一世代の光学迷彩はメタマテリアルを応用して開発された。量子テクノロジーの産物ともいえる。これらは姿を隠すことのできるクロークやシートといったもので、被ることにより着用者は姿を周囲と同化させることができた。赤外線センサーや色彩識別センサーでも映らないため、専用装備の無い者が光学迷彩使用者を見つけることはほぼ不可能であろう。第二世代では戦闘服として形状が整えられ、利便性が向上。第一世代と比較し防弾性、耐爆性、防炎性、防汚性が強化された。第三世代では機能が向上し、装着者自らが好きな時に姿を消せるようになった。ただ第三世代で全身を完全に消すのは困難で頭髪や顔などの身体の一部、装備品や銃が見えてしまうという欠点があった。
そして第四世代。第四世代光学迷彩は従来の光学迷彩を凌駕していた。量子テクノロジー、ナノテクノロジー、ピコテクノロジー、バイオテクノロジーといった先端工学と人間工学の粋を結集して開発された第四世代。身体能力が向上する戦闘スーツに光学迷彩を付与することが可能となった。戦闘スーツ着用者は生身の人間であっても身体能力が大幅に強化される。さらに第四世代は身に付けている装備品や手に持っている銃、第三世代で消すことができなかった身体の一部まで消すことが可能になった。その上、従来の光学迷彩と比較し全ての性能が大幅に強化された。
零と一は中華連の工作員が根城にしている家の玄関前まで来た。直樹も既に家の裏に回り込んでいる。中から人が出てくる様子はない。話し声は聞こえない。明かりも見えない。
静寂な世界。
「菅田、裏口から逃げられないように罠を仕掛けて」
『了解。二か所仕掛けておきます』
直樹は裏庭と勝手口の下にトラップを仕掛ける。このトラップは非致死性の罠で地面、壁、天井などに設置でき、有効範囲内に侵入してきた敵を無力化する。敵味方識別機能を有しており、設置した本人や味方に反応することはない。有効範囲は半径約1.34メートル。対象が侵入すれば催眠ガスと追跡用ナノマシンが瞬時に放出される。また設置されたトラップの場所はUCG上のミニマップで味方全員に分かるようになっている。
「さて。中の様子を見るとしよう。クロウ、内部スキャン開始」
クロウは零の音声を認識。アジトの屋根に下り立ち、屋根の上をちょこちょこ歩いている。何をしているのか一般人には分からないが、これは家の内部をスキャンしている。各種電磁波を応用した空間スキャンであり、UCGに建物の内部構造が伝達される。
「どうやら相手は二階の寝室のようだ」
UCGの透過モードで零、一、直樹の三人は家の構造を確認した。
「隊長、二階に誰かいます」
人影に気付いた直樹。彼の言う通り、人型の輪郭が2つ、二階に表示されている。もし標的が寝ていればベッドか布団にいるはずであり、このように垂直方向で輪郭が現れることはない。対象は立っている。それに二人は銃らしきものを手に持ってゆっくりと歩いていた。
「ばれたか?」
一は不安そうに口を開いた。もしこの突入がばれていたら他のアジトでも突入がばれているかもしれない。
「一階にも二人いる」
二階に比べて輪郭ははっきりしていないが人型の輪郭が二つ一階にもある。スキャンの範囲ぎりぎりだ。それでも人がいるということは分かった。
「嫌な予感がする……」
零は胸騒ぎがした。どうも対象の動きが普通ではない。警察を迎え撃つというよりかは、そいつらの方が家に侵入したような感じだ。二階の二人はそれぞれ銃を構えて、二階の寝室と思われる場所に移動。部屋の中に入り、そいつらは明らかに銃を構え直した。
パスパスッ……
クロウは空気が抜けるような、小さく奇妙な音を拾った。
「まずい! 先客だ!」
零の嫌な予感が的中した。今の音は銃声抑制器を装着した銃の発砲音だ。彼らは殺し屋で、今まさに確保すべき中華連の工作員が殺されたと考えるべきだろう。予想外の展開だ。
「本部、こちら伊波。チーム3突入する。一、やれ!」
『零、待て。どうした!?』
「おうよ!」
状況を理解した一は課長からの命令を待たず、すぐに玄関ドアを蹴り破った。直樹も零が言いたいことを理解し、裏の勝手口を蹴り破って突入した。
玄関ドアが壊れた音を聞きつけて、一階リビングから銃を持った敵が玄関廊下に出てくる。その敵は何が起こったのか分かっていないようだった。光学迷彩で一と零が見えていないのだ。一の背後でカバー位置にいた零が、的確に敵の右手と左脚に銃弾を一発ずつ撃ちこんだ。
―ぐはっ……
「ターゲットダウン」
持っていた銃を手放し、敵は後ろに倒れた。痛みで声を上げながら、身体を起こそうとしている。男だ。出血し、痛がっていることからサイボーグではなさそうだ。一は慎重に倒れた男に歩み寄り、その男の銃を蹴って遠くに離した。副武器のハンドガンが右の大腿部ホルスターに収納されているが、男はそれを取り出す力も、狙いを定めて引き金を引く力も残ってはいない。脅威はゼロだ。零の正確な射撃に一は毎度驚く。
(この男はプロだ。間違いない)
男を見て一は確信した。男は目出し帽を被って顔を隠し、指紋を残さないようにグローブを着用している。銃は内蔵一体型サウンド・サプレッサーを装着したサブマシンガン。バレル下部には反動抑制用グリップ、光学照準器として自動偏光機能付きのホロサイト及びサイトの倍率を向上させるブースターを装着している。胴体を守っているのはミノムシ糸繊維製のアーマーベスト、通信機器はノーハンドタイプの咽頭マイク。装備が豪華だ。豪華すぎる。この男は軍人かもしれない。
『零、どうなっている!』
「コンタクト、正体不明」
一は一階に残りがいないかクリアリングを、零は銃を構えながら廊下の階段を上り二階に向かう。
『タンゴダウン』
直樹の方もどうやら相手を無力化したようだ。
『こちら本部、全チーム突入! 何者かがチーム3と交戦中。各員、警戒せよ!』
(やはりこっちを見ているか)
UCGの透過モードで零は二階廊下先の敵が見えている。クロウのおかげで二階の敵の位置は丸わかり。敵は待ち伏せしているが、場合によっては窓から逃げる可能性もある。彼らは一階で異常事態が発生したのは理解しており、既に暗殺という目的は果たしている。わざわざ戦闘を続けることもないからだ。
一人は寝室の奥に、一人は寝室の扉を少し開けて廊下を見ていた。廊下の電気は点いていない。敵に暗視赤外線装置はあるようだがステルス・スキャナーは無さそうだ。慎重に行けば第四世代光学迷彩が見破られることはないだろう。
(あの二人を対処するのに銃は必要ない)
一瞬でそう判断した零はNXF‐09を背中に回し、ゆっくりと相手に近寄っていく。動きを抑えることで光学迷彩の弱点である〝輪郭の揺らぎ〟を防ぐとともに、足音を消していた。
目の前の敵は近づく零の姿を視界内に捉えている。それでも全く気が付いていない。
これが光学迷彩の怖さだった。
ある程度の威力は加減して、零は敵の首に右手で手刀を入れた。ここでの力の入れ方は自分でも驚くほどの軽さである。戦闘スーツによる身体能力強化を意識していなければ、この手刀だけで相手が死ぬこともある。戦闘スーツで自身の身体能力を抑える感覚というのは身に付けるのが非常に難しい。その感覚を戦場で活かすのはさらに難しかった。
寝室奥の敵は隅で味方が何かによって倒されたのを目撃した。一見して味方が自ら床に倒れ込んだように見えた。同時に何かから身を守ろうと態勢を変えていたのも彼は目撃していた。この部屋に何かが来ているのを彼は感じている。
それでも、正体は見えない。正体は分からない。
自分に何が迫っているのか、相手は人間なのか。
刹那の時を彼は恐怖で過ごした。
「うっ……」
彼の恐怖は痛みに。
男の右腕がひとりでに後ろに回ったように見えた。当然これは零の仕業である。
「動くな。警察だ。大人しくしろ」
「くっ……警察だと。なぜ警察が」
右腕を背後に回され、床に倒される男。彼は銃を持っていたが、零に対しては一発も撃つことができなかった。銃は手から既に落ち、抵抗しようにも身体はきっちり抑え込まれている。男には両腕に手錠が掛けられ、右脚には電気ショック機能がある追跡リングがはめられた。
「二階、クリア」
「おーお、俺達の出番は無しか。オールクリア」
全員が光学迷彩を解除した。一は零に言われるよりも先に廊下に倒れたもう一人の男に手錠を掛け、右脚にリングを付けた。
「山彦、こちらに車を寄こしてくれ。クロウ、上空から周囲を警戒。一、菅田、二人とも捕虜を車に連れていけ。本部で取り調べだ。こいつらには聞かなければならないことがある。我々の獲物をご丁寧に仕留めてくれた。きっちりと吐いてもらわないとな」
UCGで周囲をスキャンする零。ベッドに目を向けた。ダブルベッドの上には男女の死体がある。中華連の工作員だ。偽装結婚しての現地活動といったところか。ベッド横には携帯端末とPC、枕元には奇襲に備えての銃がある。残念なことに指令書らしき資料はない。
「こちら伊波。本部、アジトを制圧した」
『目標は?』
「目標は死亡。男性一人、女性一人。頭に弾が撃ち込まれている。即死ね。とりあえず二人の身分や活動を示すものがないか確認する。PCや端末があるから持ち帰るわ。あと、こいつらにも色々と話してもらう。他のチームの様子は?」
『交戦は無かったが、目標は全員死亡していた。どうやら中華連の存在を隠そうとしている連中がいるようだ。各邸宅からは時限式の起爆装置が発見された。暗殺の証拠をもみ消そうとしたのだろう。いずれの起爆装置も起動する前に解除され、安全は確保された』
「起爆装置? 随分と本格的ね」
『そうだな。手練れの505を暗殺しているのだ。この連中は並の殺し屋ではないだろう。かなりの実戦経験を積んでいる』
「そうね。どうやってここが分かったのかしら。こいつら戦闘服を着ているし、使っていた銃はCQN‐2Sでホロサイトとブースター、グリップ付き。アーマーはフィセム社製バグワーム・シルクファイバー・プレートキャリア、通信機器はレデン・フォークス社製軍用咽頭マイク。おまけに、靴は市街戦を想定したタクティカル・ブーツ。そこら辺のテロリストや犯罪者が手に入れられる代物ではない」
『ああ。そいつらの正体を突き止める必要があるな』
〈公安局本部〉
零課専用の取調室。ここは零課が捕まえた犯人や容疑者を取り調べるための部屋であり、零課の担当官が取り調べを実施する。様子は監視カメラによって記録されるだけでなく、取調監視室あるいは隣の部屋で様子を見ている課員にも中継される。部屋の側壁は一方向からしか見えない強化マジックミラーガラスで、このガラスは〈ルパートの滴〉を応用し開発されたもの。サイボーグの驚異的な力でも壊れないように設計されている。そのため、生身の人間がいくら暴れても傷一つ付くことはない。
「なかなかしぶとい連中だな。もう三日も粘っているんだぜ?」
全取調室の様子を零と一の二人が取調監視室のモニターで見ていた。現在、第一から第四取調室まで部屋が使用中である。それぞれの部屋では紺色の制服を着た取調担当官が、先に捕まえた中華連工作員暗殺犯を取り調べている。犯人達は零達によって受けた傷を治療されてはいるが、万が一に備え体内に追跡用のマイクロ発信機を埋め込まれている。
「かといって拷問しても吐くとは思えない。それに拷問をしても苦しみから逃れようと嘘を付く可能性がある。仮に自白剤を打ったとして、副作用で廃人になってもらっても困る。今のところ唯一の情報源だ」
ちょうど十五分前に零と一は取り調べの様子を見に来た。取調監視室の椅子に座って、取り調べの様子を見ているが進展はない。暗殺犯達は完全黙秘を貫いている。
「日本の警察も舐められたもんだな。脳内スクリーニングした方がいいんじゃないか?」
脳内スクリーニングとは脳にある記憶情報を強制的に電気信号へ変換し、外部機械に出力、そこから必要な情報を得る手法だ。国際的にこの手法は司法機関が許可を出さなければ、警察が使うことを許されていない。が、このルールを守っている国はおそらくないと思われる。
「そうね。そろそろ課長から許可は下りるんじゃない? 口頭による取り調べも限界だ。分かったのは国籍がアメリカとオーストリア。四人のデータはICPO(国際刑事警察機構)犯罪者データベースでは該当せず。両国の国民データバンクに侵入した方が早いかもしれないわね」
今に至るまで暗殺犯達の口から情報は全く出ていない。このままでは何のために生け捕りにしたのか分からない。国籍については指紋と声紋をもとに、入国管理局のデータベースから調べ上げたが、この情報が正しいとは限らない。国籍なぞ飾りであり、名前は確実に偽名だろう。
「口が堅いのは彼らの忠誠心か、それとも属している組織が怖いのか……見ている限り後者のように見えるわね」
「かもな。表情には出してないが、奴らの潜在的恐怖を担当官も検出している。こいつは一筋縄ではいきそうにねえな。そういえば、開発部の三島が呼んでいたぞ」
「三島が?」
零課の開発部は課員達のために様々な武器や装備を開発している。零が先に使用したAI搭載カラス型偵察ドローンのクロウも開発部の試作機だ。
「ああ。急用ではないから、暇な時に来てくれだと。何でも画期的な発明をしたようだぞ」
「それは楽しみね。今から行くわ」
椅子から零は立ち上がり、取調監視室を出た。
開発室に入る零。ここでは零課独自の装備や兵器を開発している。各国の警察や軍が見たらさぞ驚くことだろう。最先端技術による試作品が山のようにある。潤沢な予算を持つ零課はそれだけでも異質な組織ではあるが、場合によっては国防省や海上保安庁、文部科学省(宇宙開発)の予算枠で、零課は追加予算を獲得する。このことは一般の公務員や市民が知るはずもない。
「三島、私を呼んだか?」
「お、来た来た。隊長、画期的な僕の発明を見てくれ」
開発室の中で一人、黙々と作業をしている男。彼が零課の頭脳、三島ケナン。ケナンはトルコ人の母と日本人の父を持つハーフで左腕全てが義手だ。元々、コンバットエンジニアとして現場で活躍していたが、爆発物処理の任務で爆弾が爆発し、左腕を失ってしまった。それがきっかけで今は現場ではなく、裏方として装備品の開発に従事している。
「これは……クロウ? これのどこが画期的な発明? いや、まあ、確かに画期的な発明だけどね。てっきり、私は新しいものができたのかと」
「今までのは試作機でした。ですが、今日から試作機は卒業です!」
作業台の上に置かれていたのは偵察ドローンのクロウだ。見た目は何も変わっていない。何か新しい機能を取り付けたのだろうか。本物のカラスの如く、作業台の上で首を傾げたり、周囲を見渡したりしている。と、クロウがこちらの方に顔を向けた。
「隊長、はじめまして。私はクロウのスフルです」
「なるほど。発声機能が追加されたのね」
まさかドローンであるクロウが日本語で挨拶してくるとは思っていなかった。
「その通り! 通信にも介入できる。会話によるコミュニケーションを通じて、クロウはより学習し進化する! 元々、僕が開発したんだからクロウは最高の発明品に間違いないけど。ああ、僕は天才だ!」
端的に言って、ケナンは開発に対する情熱がすごい。芸術家と言ってもいい。発明品は彼の芸術作品だ。完璧、最高、究極な物を生み出すという彼の信念。そこに一切の妥協はない。彼自身それを楽しみながら実現している。まさに天才だ。
アメリカやロシア、中華連で第三世代光学迷彩が開発されたという話を聞いた時、ケナンはこう言った。「は? なに中途半端なもん作ってるんだ?」と。そもそも、彼は当時の零課で使用されていた第二世代光学迷彩にも苛立っていた。ただ当時、ケナンは現場で働いていたため、彼の才能が発明品に活かされることはほとんどなかった。
「あと、クロウは追加でもう一体作ったよ。愛称はビル。これで偵察や陽動、奇襲などの選択肢が増えるだろう。もちろん今まで通り、野生のカラスとも会話ができる。各種カラス語は完璧。これは隊長の協力のおかげだね。二匹とも上手く使ってやってくれ」
クロウは一般的なドローンと異なり、野生のカラスと交流ができる。これは零がありとあらゆるカラスと自由に意思疎通する会話術を会得しているため。クロウを用いれば零以外の課員でもカラスと会話することが可能だ。全てのカラスは事実上、零課の工作員なのである。
「スフルとビルか」
トルコ語でスフルは0、ビルは1のことだ。現場で英単語が飛び交うことも配慮して、トルコ語の数字を採用したのだろう。零課ではゼロとワンという番号がよく使われる。特にゼロに関しては特別な意味合いを持つ。例えば射撃演習やVR(仮想現実)戦闘訓練などで完全無欠の成績を叩き出したものにはゼロ(零)の称号が与えられる。これは満点の成績を収める者がいるはずがないという意味からだ。また零課にとっての最高機密情報や人物はレベルOと表現する。
「さすがケナンだ。いい趣味している」
ピピピピッ、ピピピピッ……
零の左腕に装着されている端末から電子音が響いた。このパターン音は課長からの緊急呼び出しだ。新しい任務だろう。もしかしたら暗殺犯達の素性が分かったのかもしれない。
「課長からの呼び出しだ。行ってくる」
課長室に入り、課長の前に立つ零。武佐の表情は険しく、良くない話が出てくることは容易に想像できた。
「課長、要件は何でしょう?」
「結論から言うと、軍から零課に出動要請が来た」
「軍から?」
軍から零課に出動があること自体は別に珍しくもない。軍が絡む事案は大抵、大きな問題に発展する。軍からの出動要請であったものは極秘研究兵器の後始末であったり、海外に派遣されている非公式特殊部隊の支援であったり、テロ組織掃討作戦の依頼であったりする。
「零、〝ブレインシェイカー〟と呼ばれるドラッグを知っているか?」
「ここ最近、世界で急速に拡がっている新種のドラッグのことですか?」
「そうだ」
ブレインシェイカー。近年中東アジア、アフリカで蔓延し始めた謎のアッパー系ドラッグで、日本には中華連や南米を経由して入ってきていると言われている。このドラッグの問題点は体内から薬物反応が検出されないということ。これが最大の問題だった。脳内神経伝達物質に影響を及ぼしていると考えられているが、未だにその作用機序は判明していない。
ブレインシェイカー中毒の症状としては、従来の薬物乱用者と同様に幻覚や幻聴、落ち着きのなさ、発作が確認されている。何がきっかけになるのかは分からないが、最終的には殺人や強盗、傷害等犯罪行為に走ってしまう。どうもブレインシェイカー中毒者は危険な行為や犯罪行為に快感を得るらしい。潜在脅威が計り知れないドラッグだ。
「困ったことにブレインシェイカーは軍内部でも拡がりを見せているらしい。東京練馬区朝霞駐屯地でブレインシェイカー中毒者の隊員達が武装し、敷地内で戦闘を行っているそうだ」
零課の任務内容が何となく分かってきた。しかし、ここで零は疑問が生じた。駐屯地内の案件なら普通、警務隊の出番になるだろう。事前に警察が捜査していたならともかく、突発的な出来事なのだから、警察が介入する余地はない。警務隊が対処する事案だ。警務隊で対応できないほどの本格的な戦闘ならば、軍自前の対テロ特殊部隊〝第803特別戦術攻性中隊〟を投入すればいい。ちょうど朝霞駐屯地に部隊を置いている。
「第803特別戦術攻性中隊は出ないということですか?」
「いや、それが不可能なのだ。なぜなら、その彼らが敵になったからだ」
零は武佐からそのような言葉が出てくるとは思っていなかった。軍内部でブレインシェイカーが拡がっているのも初耳だが、まさかよりにもよって対テロ特殊部隊が汚染されたとは。このことを誰が予想できただろう。
「つまり、私達の相手は特戦中隊ということね」
「そういうことになる。零課の任務は彼らを鎮圧することだ。各部隊による鎮圧が試みられてはいるが、特戦中隊は精鋭中の精鋭部隊。駐屯地内部の部隊では手に負えない。既に死者も出ているとの情報もある。これ以上、事が大きくなる前に極秘に処理しろ」
「了解」
「気を付けろ、零。軍は何か隠しているぞ」
武佐は今回の任務に大きな疑念を抱いている。一番気がかりなのは軍の動きだ。井口少将暗殺の件もあるが、どこまで中華連の手が伸びているのか分からない。加えてその中華連すら何者かに操られているふしがある。零課の状況としては非常に厳しい。
「それは重々承知。心配しないで課長」
言葉の真意を理解している零はそう言葉を返した。
常に先を見通し死力を尽くす。それが彼女の強さである。
〈時刻1402時。日本、東京都・埼玉県〉
国防陸軍朝霞駐屯地。現地部隊と一時間以上こう着状態が続いており、時折銃声が聞こえる。相手が特殊部隊ということもあり、軍の手の内は知られている。そのため軍は思い切った行動が取れないでいた。下手をすれば攻撃隊が全滅することも考えられる。このことを鑑み、現地の対策本部は細心の注意を払いながら、第803特戦中隊が敷地外へ逃げないよう守備隊を展開させていた。
メディアや一般人の写真撮影、インターネットへの情報拡散を避けるため、駐屯地上空は民間ヘリコプターやドローン等、航空機の飛行が規制されている。それでも万全とは言えないため、敷地地内に無許可で侵入した機体は対空レーザー機銃で迎撃されるか、武装警備ドローンにより捕獲あるいは撃墜される。
今現在、各報道機関やネットニュースに基地の情報は上がっていない。仮に上がったとしても国防省は屋外特別訓練とでも言い訳するだろう。問題は負傷あるいは死亡した隊員についてだ。どう事後処理するのか、それが難しい問題になるはずだ。訓練中の事故死が可能性としては妥当か。当然遺族は納得できない。万が一、事件の隠ぺいが露呈した場合、国防省の信用は大きく失墜することは間違いない。
「相手は軍の虎の子、第803特戦中隊か。しかも駐屯地内で戦闘。前代未聞だわ」
C‐MATV(Compact high mobility Multipurpose All-Terrain Vehicle:全地形対応小型高機動多用途車)に乗って、零課のメンバーは朝霞駐屯地に向かっていた。
C‐MATVは4×4駆動の対赤外線ステルス性能を有する国産軍用兵員輸送車両である。次世代燃料電池を搭載しているだけでなく、サテライト太陽光発電による充電及び蓄電を実現しているため、想像している以上に静音で長時間走行できるのが特徴だ。不測の事態の備えとしては人工光合成が可能な予備バッテリーが用意されている。
「隊長、結構やばい件ですよね? もし国民に知られたら反政府、反国防軍運動が再燃しますよ」
C‐MATVを運転している直樹。彼は自分の思ったことを助手席の零に言った。
直樹は広島県警HRT(Hostage Rescue Team:人質救出チーム)の出身であり、零に誘われて零課に転属することとなった。つまり生粋の零課員ではない。零課には他の組織から引き抜かれたメンバーと、最初から零課に所属している古参メンバーがいる。直樹が知っている古参メンバーは武佐、零の二人だけだ。
その零はいつもと変わらない表情でUCGのマップ情報を見ている。
「そうならないようにするのが我々の仕事。それに、ブレインシェイカーの出所を調べなければならない。軍は信用するな」
軍から出動要請を受けているのに、軍を信用するなというのはどういう意味なのか。直樹はすぐに理解できず、零に尋ねた。
「それって、どういうことですか?」
二人の会話は後部座席の珠子、真川進の二名、後ろからついてきている、もう一台のC‐MATVに乗っているメンバーにもヘッドセットを通じて聞こえている。二台目には一、響、矢羽田ブライアン、藤崎健の四名が搭乗している。
「ブレインシェイカーの国内蔓延に軍が関与しているかもしれない。どうもおかしい。特戦は他の部隊よりも秘匿性が高く、規律も厳しいはず。それなのに特戦でブレインシェイカーが蔓延した。普通に考えて変でしょう。そして、気になる点がもう一つ。朝霞駐屯地の前司令官が暗殺した井口少将ということだ」
「言われてみれば確かに。隊長の言う通りですね。特戦の身に何か起こったんでしょうか……不気味ですね」
零課の車両二台が朝霞駐屯地第二北ゲート前で止まった。
「公安零課だ」
零は窓を下ろし、守衛に国家特別公安局の手帳を見せる。手帳といっても俗称であり、アメリカ警察のバッジケースとほとんど変わらない。身分証明書と国家特別公安局記章があるだけで、手帳としての機能はない。国家特別公安局手帳の色は八課も含め勝色(濃紺色)であるが、零課の手帳だけは他の課とは異なり至極色だった。黒に極めて近い色だが、完全な黒色ではなく深い赤紫色で、深紫と呼ばれることもある。この手帳を目にする人間は基本いない。理由は単純で〝国家最高機密組織たる零課〟が零課として、身分を明かすことがまずないからだ。
「お待ちしておりました。伊波隊長」
UCGのスキャンでデジタルデータがインターフェイスに表示される。
〈国家特別公安局 第零課〉
National Special Security Agency Section 0
・役職:国家最上級特務情報調査官
Chief special officer of National intelligence and research
・氏名:伊波 零
INAMI Rei
「ゲートを開けろ」
小銃を肩からぶら下げている守衛はもう一人の守衛にゲートを開けるよう伝える。
テロリストによる車両突入を想定された防壁ゲートが右にスライドしていく。それと連動して地面から生えている侵入車両防止ポールが収納された。
車両が通れるようになると、守衛が中へ入るように促した。
基地内から発砲音は聞こえない。零課の車両はそのまま降車地点に向かう。
零は窓の外を見た。いくつかの道路や小道は防弾盾を持った兵士達、陸戦支援ドローン、装甲車などによって完全に封鎖されている。また、敵の狙撃位置を特定するための集音マイクと狙撃手位置解析装置が要所に設置され、自動哨戒機銃も三台見えた。その全てが破壊されている。地面には血痕らしき染みがあちらこちらに飛び散っている。出血量からいって負傷者は重傷だ。死者もいることだろう。
基地の中は別世界だ。
日本とは不釣り合いな戦場、日本人の嫌いな死の臭い。
生きるか死ぬか。
強いものが生き残り、弱いものは死ぬだけ。
皮肉なことにここは一番命の尊さを味わえる場所になってしまった。
『おいおい、基地内で戦争かよ』
響が静かに声を漏らした。彼の言葉通り、本格的な戦闘が今まで行われていたようだ。バリケード代わりに並べられた装甲車。負傷者を治療する衛生兵。倒れて動かない兵士が多数見えた。
「あそこが降車地点だ」
降車地点には武装した味方兵士が四人。零課は彼らから最新の情報を得ることになっていた。事は一刻を争う。
「よし、降りるぞ」
零課員は周囲を警戒しながら降車した。
「状況は?」
UCGには味方兵士の名前が水色で表示されている。零は一番階級が高い向江少尉に状況を尋ねた。彼らは国防陸軍制式多用途カービンライフル、甲137式小銃を手にしている。バレル下部にはグリップとしても二脚架としても使用できる可変型フォアグリップを装着し、スレヴィス社製射撃補助サイトを倍率可変照準器として取り付けていた。
「現在、敵の総数は54人です。こちらの負傷者数は58。死者37。十二分前には攻撃隊に撤退命令が出ました。激しい銃撃が続いていましたが、今は比較的落ち着いています。しかし、油断はできません。敵には狙撃手がいるため、遠距離からの狙撃に注意する必要があります。狙撃手が最後に目撃された地点をUCGに表示します」
三か所、赤い三角マークがUCGの立体マップに表示される。屋内に二つ、屋外に一つ。通常、国防軍の観測手は狙撃手の傍にいるはずだが、今回は離れた場所にいる可能性も考慮すべきだろう。狙撃手は恐ろしい相手だ。彼らは特段、目が良い。視力だけではなく、視界の広さ、深視野、動体視力、洞察力、色彩識別能力、形状識別能力、直感。そのどれもが優れている。
「やはりスナイパーがいるのか。攻撃隊が撤退するのも無理はない。特戦の狙撃手は高度な狙撃訓練を受けている。観測手もいるだろうな。敵の主力は今どこに?」
「現在、第803特戦中隊はここより南南西250メートル先、第四訓練棟に本部を構え、防御陣を敷いていると思われます」
さらにホログラムマップには大体の敵位置が表示される。相手は中隊ということもあり、兵士の数は多い。ほとんど死角のない配置になっている。
「待て、本部? 本部だと?」
零が言いたかったことを一が代弁した。
「はい。通信機器と武器、弾薬を集めているのが目撃されています。さらに基地内には敵の電波妨害装置、広域ドローンジャマー、対光学迷彩用の超音波反響式自動機銃が展開されています。おそらく、他にも対光学迷彩兵器やトラップが仕掛けられているかと」
黙って話を聞いていた直樹がここで口を挟む。
「相手はブレインシェイカーに冒されたヤク中だと聞いている。いくら特戦中隊とはいえ、そこまで統率が取れているのはおかしくないか?」
「小官もそう思いました。ただ、ブレインシェイカー中毒者は快楽行動時、行動自体は逸脱していますが、健常者と変わらない思考判断力と身体能力を発揮するそうです」
そのような情報を零課は聞いたことがない。もしその情報が本当だとしたら、ブレインシェイカー中毒者達は犯罪行為を働いている間、責任能力があるということになる。今までのブレインシェイカー犯罪者は従来の薬物乱用者と同様、身体及び精神に異常を来たし、その結果、犯罪をしていると考えられていた。
「その話を誰から聞いた?」
疑問に思った一は少尉に問うた。
「香川中佐です。ただ、香川中佐は今日の戦闘で亡くなりました……」
後で香川中佐について詳しく調べる必要があるだろう。中佐は特戦中隊の創設者で同中隊長だ。薬物中毒とはいえ、ある意味クーデターをやらかしてくれた。調査しないわけにはいかない。中華連の第505機関と繋がっていた井口少将も一枚噛んでいたかもしれない。
「それは誠に残念だ。少尉、あとは我々に任せてくれ」
中佐へのお悔やみを伝え、零は置かれている状況を整理する。
「ドローンジャマーがあるうちはクロウが使えない。ステルス・スキャナーもあると考え、光学迷彩の使用は控えよう。相手は特戦だ。サイボーグを中心として構成されている。油断するな。我々は二手に分かれて第四訓練棟を目指す。第一班は西から、第二班は東から攻める。場合によっては軍の部隊を動かしても良い。しかし、原則我々だけで対処する。スナイパーには十分に注意しろ。対象は全て排除だ。いいな」
「了解!」
零以外のメンバーが答えた。全員始末というのは任務として珍しいことではない。
戦場では相手を生かすということが、殺すということよりも遥かに難しい。まして相手は国防陸軍の対テロ特殊部隊で装備も充実している。ブレインシェイカー中毒者ということもあり、射殺するのが妥当だろう。
「こちら滝、前方40メートル先、交差点にAWセントリーガン一台とサイボーグ兵四人を確認」
珠子の偵察報告がヘッドセットから聞こえる。UCG上でも敵の位置情報が更新され、セントリーガンの予測有効射程と探知範囲が表示された。セントリーガンは各種センサーにより敵を自動で、正確に、蜂の巣にすることができる拠点防衛兵器である。有効射程は約50メートルから約120メートル。この範囲内に足を踏み入れば六砲身の銃身が回転し始め、一瞬で細切れ肉にされてしまう。
サイボーグ兵は特戦の兵士達だ。彼らは全身義体化がされており、高密度の人工筋肉で生身の肉体を凌駕する身体能力を実現している。また、フルフェイス・ヘルメット一体型HMDにより、UCGと同じく様々な情報がARインターフェイスに表示される。ここには敵味方の位置情報、立体マップ、ミニマップ、目的地までの距離といった兵士に必要な情報が拡張現実(AR)情報で提供される。
「土嚢と盾、死体で即席のトーチカか。珠子、直線路に何か仕掛けられていないか?」
交差点のど真ん中で歩哨が立っているのはあまりにも不自然だ。確かにセントリーガンとサイボーグ兵士はそれぞれ生身の人よりも強力だが、それでも兵士やセントリーガンが身をさらけ出しているのは理解できない。遠方から狙撃される可能性があるからだ。セントリーガンなんて有効射程外から狙撃してしまえば怖くはない。そのような危険性を冒してでも、あのような配置をしているには訳があるはずだ。
「いえ、今のところありませんが、待ってください」
建物の陰に隠れながら、珠子は光学迷彩機能がある光ファイバースコープを使っていた。ファイバースコープは地面を這うように交差点に向かっていく。セントリーガンはファイバースコープに反応しない。
これは対人・対ドローン用に開発されたセントリーガンの弱点でもあった。セントリーガンはセンサー得られた様々な情報を処理して、自身が狙うべき標的かどうかを判断する。特に大きさ、輪郭は標的判断への大きな要素である。一定の大きさを満たさないものや、事前にプログラムされている小動物等の生き物には反応しない。
「やはり何もないです」
「とすると交差点よりも奥に伏兵がいる可能性が高い」
狙撃手がいそうな建物はいくつもある。確かめたいのは山々だが、狙撃手を探すため、今隠れている建物の陰から顔を出せば撃ち抜かれる可能性もある。回り込んだとしても同じことだろう。向江少尉の情報では前線防衛としてサイボーグ、セントリーガン、対人トラップが、後方支援要員としてスナイパーが控えている。
「穴がないな。うかつに動くことはできない。空中からの陽動か奇襲でもできれば、話は違うんだが。一、そっちはどうだ? ドローンジャマーを見つけられないか?」
『第二格納庫にジャマーは見つけた。が……やはり、警備は厳重だ。格納庫内部にはサイボーグが二人、外には三人。AWセントリーガン三台。セントリーガンにはシールドが付いている』
「シールドか。こっちのセントリーガンにも付いているだろうな」
遠目から見たら分かりにくいが、実はAWセントリーガンの前面には敵の銃撃を防ぐ高性能防弾プレート(シールド)が展開している。このプレートは発砲時に開く仕組みになっているため、前方向に限っていえば遠距離から狙撃して破壊するのは困難である。
『隊長、敵には死角がない。このままじゃ埒が明かない。状況打開でちょっと陽動を仕掛けるわ。邪魔なセントリーガンをどうにかしないとな。藤崎、デコイの準備』
健は一に言われ、すぐにDf‐3デコイを手にした。Df‐3デコイは見た目がただの手榴弾のように見えるが、全く違うものだ。Df‐3デコイは敵のUCGやセンサー類に偽の反応を表示させる。またセントリーガンもデコイに反応するため、標的を自分達から逸らすことにも使用できる。
『了解。デコイの準備よし』
『俺はスモークを張る。ブライ、お前のタイミングでいくぞ』
ブライの愛称で呼ばれるのは零課狙撃担当のブライアン。彼の祖父はフランス人、祖母は日系アメリカ人、父親が日本人だ。ブライアンは零課実動部隊の中では狙撃手を担当し、その狙撃の腕前は零に次ぐ。
彼はマークスマンライフル仕様のNXF‐09を構え、熱源感知モードに切り替えた。スコープ内の映像がサーモ表示へと変わり、周囲よりも温度が高いものは黄色、赤色で強調される。熱を持つセントリーガンやサイボーグの姿は黄色。一目瞭然だ。
『了解。スリーカウントでいく。3、2、1、ゴー』
一の手からQ22スモークグレネードが、健の手からDf‐3デコイが投げられた。
スモークグレネードが爆発し、瞬く間に白い煙が広がる。計算通り、セントリーガンは計算通りデコイに砲身を向け射撃を開始した。デコイは人間と比べ小さく弾が当たりにくい。だが撃たれ続ければいずれ命中する。特戦隊員も通常の人間とは異なり、義眼に熱源感知モードがある。奇襲としてデコイとスモークに期待できるのはほんの一瞬だけ。
ブライアンはセントリーガンをそれぞれ二発で確実に無力化し、それを確認した一と健がツーマンセルで、一気に格納庫に突入する。UCGの熱源感知モードでサイボーグの姿は見えるが、相手もこちらが見えている。健が右にいた二人の胴体を撃ち抜き、一は左にいた敵の額を撃ち抜いた。
―敵だ! 敵がいるぞ!
格納庫内部の敵二人は物陰に隠れ撃ってくる。
―戦闘司令所、こちらエコー2。接敵した。増援を要請する。
一と健は間一髪のところで、格納庫前のコンテナの陰に転がり込んだ。
「くそ、撃ちまくりやがって。どうしようもねえな。しょうがない、こいつでいくか」
一は右手に持ったN3特殊閃光弾、通称フラッシュバンを健に見せ、健はその意味を理解しうなずいた。
フラッシュバンは敵を傷付けることなく、迅速に無力化することを目的とした非殺傷兵器である。起爆すれば強烈な爆音と閃光が発生、これにより相手は目のくらみ、難聴、耳鳴りなどを一時的に引き起こす。サイボーグの場合、それらの症状は抑えられるが、今は周囲に漂う白煙により、相手は熱源感知モードを使用している。フラッシュバンは起爆時、相当の熱量が生じるため、熱源感知モードなら起爆時の熱で視界は真っ白になるはずだ。例え相手がサイボーグでも目は眩むだろう。
「いくぞ」
一がフラッシュバンの安全ピンを引き抜き、奥に投げ入れる。
バンッ!
まばゆい閃光と鼓膜をつんざくような強烈な爆音。
フラッシュバンが起爆したと同時に二人は奥へ進み、目が眩んでよろめく敵を難なく射殺した。
―エコー2、どうした? 応答しろ。こちらCP。エコー2、応答せよ。
「増援が来るぞ。急げ」
ドローンジャマーに向かって一は銃に残っていた弾を全て撃ち、マガジンを交換する。
「隊長、ジャマーは破壊した。これより移動する」
「よくやったぞ、一。スフル、ビル。偵察を開始しろ。特に狙撃手と観測手を探し出せ」
一の報告を聞いた零はすぐにクロウ達を呼んだ。
『了解。いくぞ、ビル』
『僕は初仕事だ。わくわくする』
とある建物屋上の柵から、二匹のカラスが朝霞駐屯地の敷地内に飛んでいく。二匹は飛びながら別れ、狙撃手と観測手を索敵する。低い高度で飛ぶこともあれば、建物の屋上に止まることもある。彼らは時折「カァー」と鳴き声を発し、自身がカラスであることも忘れずアピールしていた。
ビルの言葉を聞いた時、零は違和感があった。AIである彼らにわくわくするという感情があるのだろうかという疑問だ。機械に感情が分かるのだろうか。零はよく分からない。彼らは機械であり、そもそも兵器だ。開発者のケナンは兵器に感情を持たせたいということなのか。面白い事を企む男だ。
『隊長、偵察完了しました。スナイパーとスポッターの位置を黄色で表示します』
「よし、いいぞ。やはり、奥の建物にスナイパーとスポッターいるのか」
『隊長、ブライがポイント・デルタ3の連中を始末した。そちらに増援が向かっている』
「了解。真川、ポイント・チャーリー1のスナイパーとスポッターを。菅田、珠子、二人は二時の方向から来る増援部隊をやれ。私が前のセントリーガンと兵士を相手にする」
零は背中の収納スペースに銃を固定し、近接戦闘の準備を行う。
「こちら伊波。出るぞ」
零が物陰から飛び出した瞬間、セントリーガンの砲身が高速回転を始め、毎秒百発という速度で弾が発射される。それを零は戦闘スーツによる身体強化、持ち前の反射神経を活かして大きく左右に回避していく。
―何だ!
サイボーグ四人も零に気付き、発砲を開始するが、既に零はセントリーガンの懐に入り込み、超高周波ナイフで本体を綺麗に切断していた。
零の両手首の下には小型の超高周波ナイフが備えられている。隠しナイフだ。
零はセントリーガンに接近した後、まるで抜刀するかのように左手首下のナイフで一気にセントリーガンを切断したのだった。予想を遥かに上回る零の俊敏性に、サイボーグ兵もすぐには対応できなかった。サイボーグの情報処理能力を超えていた。
射撃から近接格闘戦へ移行しようとするサイボーグ兵士達。彼らのその判断は間違ってはいなかったが、零の上段回転蹴りによって全員が倒れた。その後、零は両手を地面につけて、後方へ飛び下がった。これは体勢立て直しと回避行動の意味があった。
二時の方向から敵の増援部隊。直樹と珠子が抑えていたのだが、どうやら更なる増援が来たようだ。弾丸が次々と飛来する。
「菅田、珠子、ポイント・ブラボー7から敵を迎え撃て。私は上から援護する。スフル、ビルは偵察を継続」
そういうと零は跳躍して倉庫の上に上がった。敵の増援がよく見える。間もなく直樹と珠子が交戦するだろう。相手の規模は二個分隊。全員サイボーグだ。
―CP、こちらオスカー4。倉庫屋上に敵を発見。
―撃て。奴らを逃がすな。
―くそっ。三時の方向に新手だ。後退しろ。
零の姿を視認した敵部隊は銃を撃ち始めるが、進と珠子が別の場所から射撃してきたため、敵部隊は即座に後退する。
「山彦、そちらに敵が回る。私が追い立てるから対処しろ」
『了解』
敵の銃撃をものともせず、零は倉庫の上から撃ち続ける。彼女の射撃は牽制目的だったが、全てサイボーグに命中した。それでも動じることなく彼らは撃つことを止めない。サイボーグに恐怖も痛みもない。彼らが後退しているのは戦術的なものだ。クロウ達よりも彼らの方が機械のようだ。
問題なのは、やはりブレインシェイカー中毒者らが正常な思考と判断力を有している。さらに気になるのは、サイボーグでもブレインシェイカーの中毒症状が出るということだ。根本的な話で、そもそも特戦が本当にブレインシェイカーに冒されているのか疑わしい。
『第四訓練所からウルフが五体来ます』
スフルからの報告。皆のUCG情報が更新される。明らかに今までの移動速度と違うものが五つ。自律機動型陸戦支援ユニット・ブルータルウルフG3だ。閉所での偵察及び屋外戦闘を想定して開発された狼型の無人兵器で、口の中には収納式の二連砲身(25mmグレネードランチャー、対人用火炎放射器)を内蔵、背中には小型チェーンガン(.40S&W弾)を搭載している。また尾部は姿勢制御の役割だけでなく、自身の位置を味方へと送信するアンテナとしても機能している。
『ちっ』
響は銃の引き金を引き、接近するウルフの前脚を撃ち抜いた。彼は曲がり角から出てきたところを上手く狙えたが、ウルフの戦闘能力は伊達じゃない。すぐに立ち直ろうとするウルフの頭部に銃弾を追加で五発見舞った。
『おいおい、ウルフかよ。そんなのアリか?』
ウルフのチェーンガンによる猛攻を避けるため、とっさに一は第二兵舎へ窓から飛び込んだ。正面からやり合って勝てる相手ではない。機動力はサイボーグをも上回る。次にウルフが取る行動はおそらくグレネードランチャーで兵舎を吹き飛ばす。それを理解していた一はすぐに裏口へ向かった。ここに留まるのは危険だ。
(ん? あれ? 来ないな?)
が、爆発は予想に反して起こらなかった。
『井凪、大丈夫か?』
グレネードランチャーをまさに撃とうとしていたウルフに向かって、健は撃ちまくり、ウルフは穴だらけになる。一を狙っていたウルフは機能を停止し、崩れるようにその場に倒れた。
『藤崎か。サンキュ。危うくケツの穴が増えるかと思ったぜ』
「ウルフ……ロックはしていたんじゃないのか。いや、連中が中身を書き換えたのか。さすがだな」
軍は特戦が基地内の無人機を使用しないようにロックし、起動パスコードを変更、敵味方の識別情報も更新済み。そのままウルフを特戦が使用できるはずがない。しかし、特戦は軍の対抗措置を当然の如く突破したということだ。
ウルフが二体、倉庫の上に飛び上がって来た。二体来たということは特戦にとって零は危険度が高い、優先目標ということだろう。
「犬にはしつけが必要だ」
チェーンガンを斉射してくるが、零は大きく跳躍し、弾丸の波をかわした。次の瞬間、右手ガントレットの射出装置から左のウルフにワイヤーが撃ち込まれる。ワイヤーはまるで零を引っ張るように射出装置に巻き戻され、零は一気にウルフとの距離を詰めた。カーバインとバグワームシルク・グラフェンを主繊維とする複合繊維で編み込まれた特殊ワイヤーは象の体重でもちぎれやしない。
零は身体を一回転させながら、左手で右手首の隠しナイフを引き抜き、ワイヤーが刺さったウルフの首を切り落とした。と同時に右隣のウルフに、左腕が向いた瞬間、鈍い輝きを持つ小物体がそのウルフの胴体を切り裂いていた。
「さて、あと一体はどこかしら」
床に刺さっている銀色の小物体を回収する。零の暗器は隠しナイフ、ワイヤーだけでない。左手ガントレットにはスライサーディスクと呼ばれる、小型の超高周波手裏剣を射出する装置が装着されている。スライサーディスクはUCGとリンクしており、標的を個別に捉えることが可能。また、独自のバランサーとフロートシステムが搭載されているため、一度追尾されてしまうと振り切ることは困難だ。
『こちら滝。隊長、最後のウルフを撃破しました』
「了解。これでウルフは全滅した。敵の脅威レベルは低下。前進だ」
第四訓練所。三階建ての訓練施設で、内部は立て籠もり犯の制圧を想定したセットになっている。VRモードでの訓練にも対応している比較的新しい訓練施設で、本番さながらの緊張感を持った厳しい実戦経験を積むことができる。
「タンゴダウン」
零達第一班は第四訓練所の一階エントランス前の歩哨三人、屋上の狙撃手と観測手を始末した。それに呼応するかのように、エントランスから盾を持った兵士二人が、右手でサブマシンガンを構えながら出てくる。
零と進は銃を構えている右腕を正確にそれぞれ射抜き、痛みで怯んだ二人を珠子が綺麗にヘッドショット。これで正面はクリアだ。新たな敵影は見えない。
「よし、正面クリア。真川は私と一緒に来い。菅田と珠子はここで周囲警戒。私達は屋上から突入する。第二班は一階から突入しろ」
『了解。位置に付く』
基地兵士の情報によると、第803特別戦術攻性中隊は午前中、各訓練施設で実弾を用いたVR訓練を行っていたらしい。その中で、彼らは駐屯地内の他の部隊員に次々と銃撃を加え、駐屯地を血みどろの戦場へと変えていった。最初、銃声と悲鳴を聞いた職員や隊員達は単なる誤射、事故だと思ったが、実際は一方的な虐殺だったという。
実におぞましい光景だ。
その場にいた兵士達は意味が分からなかったはずだ。
疑問は尽きなかっただろう。
なぜ、味方を撃つのかと。
なぜ、同士を撃つのかと。
なぜ、信じていた者に撃たれなければならないのかと。
なぜ、味方を撃たなければならないのかと。
建物の壁に辿り着いた零と真川は右腕を上に向け、ワイヤーを射出した。ワイヤーの返しが上手く屋上の柵に引っかかる。二人はワイヤーを巻き取りながら静かに壁を歩き、屋上に到達した。
「真川、このマガジンを使え。私はこっちでやる」
零は進にNXF‐09のマガジンを一つ渡した。彼女はCQB(近接接近戦闘)に備え、左右両方の大腿部ホルスターからサイドアームのNXA‐05ハンドガンを引き抜く。ハンドガンの二丁持ちだ。
NXA‐05はNXF‐09の副武装として開発された零課用自動拳銃。銃はセミオート射撃だけでなく、二点バースト射撃も可能。さらに対サイボーグ用の強装弾やショック弾といった特殊弾薬が使用可能な強化ナノフレームで作られている。零用NXF‐09は全てのパーツが零自身で吟味され、アイアンサイトはCQBでの使用を重視しゴーストリングサイトを採用。ただ彼女にとってアイアンサイトはおまけのようなものである。装弾数は12発+1。
「こちら伊波。屋上に到達した」
『了解。こちら井凪、第二班。いつでも突入できる』
「クロウの偵察情報によると、内部に対人トラップはない。両班ともブラインドグレネード投擲後、光学迷彩で突入する」
スフルは建物の上を飛び、ビルは屋上の柵に止まることで建物内のスキャンを実行している。心配事だった対人トラップ類は確認できない。
「総員、光学迷彩を起動。よし、突入!」
第一班、第二班ともにE4ブラインドグレネードを中に投擲した。ブレインドグレネードは別名EMP(Electromagnetic Pulse:電磁パルス)グレネードであり、EMP対策が施されていない電子機器を無力化するために使用される。サイボーグ兵士を無力化するには非常に優れた武器である。ブラインドグレネードは非常に高価で効果範囲も狭いため、戦場で使用されることはそう多くない。仮にEMP対策されたサイボーグであっても、完全にE4ブラインドグレネードを防ぐことはできない。
ピュイン
―ぐっああ……
―E、EMPだと……
ブラインドグレネードによって、突入口付近の待ち伏せ部隊は倒れ込み、抵抗する術もなく、頭や胴体に次々と穴が開いていった。
サイボーグの身体からは半透明の血液が流れ出る。軍用の人工血液だ。これには色素ヘムが含まれていない。長期保存が可能で、なおかつ血液型に左右されない。ナノマシンが赤血球の代替を行うことで、血中酸素濃度及び二酸化炭素濃度の調整を容易にし、さらに各種栄養素の運搬を高速化することで、身体機能の向上に繋げている。自己修復用ナノマシン群も含まれており、ある程度の傷ならば瞬時に修復される。そうはいっても銃弾を至近距離で撃たれては意味もない。
―何者だ! うっ……
―光学迷彩!?
「次」
零は二丁拳銃をまるで自分の手足の如く、軽やかに使いこなす。サイトを全くと言っていいほど使っていない。それでも零は確実に狙った箇所へ銃弾を命中させる。それも敵の射撃を紙一重でかわしながら。
廊下を歩き、目の前の二人をそれぞれ頭に二発ずつ。左右の部屋から同時に出てきた敵の頭に三発ずつ撃ち込んだ。
「真川、左だ!」
進が左の部屋の残党を、零が右の部屋の残党を始末。
「この階にはあと五人」
クロウのスキャンにより敵の位置情報がUCGに表示されている。
「二つ先、右の部屋だ」
「了解」
進の右手から部屋の中にブラインドグレネードが投げ込まれた。
「行くぞ」
部屋にはブラインドグレネードで身体の動きがぎこちない、五人のサイボーグ兵。彼らは何とかして銃を構えようとするが、それは不可能だった。
―お、お前達は……
目の前に立つ人間の気配を感じ取った特戦隊員。
フルフェイスで相手の顔は分からないが、零ははっきりと目が合ったのを感じた。
「悪いが仕事だ」
サイボーグ兵の額に強装弾を撃った。この一撃で彼の意識は完全に消えたことだろう。
その証拠に彼の頭が再び上がってくることはなかった。
「こちら零。三階クリア」
『こちら一。一階クリア』
一からの一階制圧の報告が入る。
「残りは二階か……」
敵の残りは二階のCQB(Close Quarters Battle:近接戦闘)訓練室。動きはない。
「一、私達が先行する。真川、カバーしろ」
「ラジャー」
周囲を確認後、零はNXA‐05のマガジンを新しいものと交換し、古いマガジンを弾薬ポーチに入れた。
「こちら伊波、前進を再開する」
目的地のすぐ近くまで来た零と進。ハンドジェスチャーで後方の進に「止まれ」と伝えた。それに従い、後ろの進は足を止めた。中から殺気が伝わって来る。UCGには敵の姿がはっきり映っていた。敵は銃を構え、引き金に指をかけて待っている。このまま行けば蜂の巣だ。
そこで零は「フラッシュバン」の合図を進に出した。それを視認した進が部屋の中へフラッシュバンを投げ入れる。
起爆後、二人は間髪容れず突入。
部屋にはSMGを構えた盾兵三人が中央前列に、後列左右には甲137式小銃を構えた兵士二人ずつ。
銃弾が飛び交う中、零が両手の拳銃で左右の兵士をなぎ払い、進が盾持ちの右腕を正確に撃ち抜いていく。倒れた盾持ち兵士は零が直接顔を見ることなく、頭に銃弾を撃ち込み、全員のとどめを刺した。
「二階クリア。敵の全滅を確認。生存者なし。真川、怪我はないか?」
「大丈夫です。どこも撃たれてはいません」
「そうか。それは何よりだ」
零は何か情報を得られないか、周囲を見渡した。
「本当に彼らは汚染されていたのか……クロウ、特戦の死体から血液サンプルと生体組織片を回収しろ。もしかしたら、何か分かるかもしれない。本部で調べよう」
『了解。それでは回収してきます』
『採血、行ってきます』
建物の外にいたスフルとビルは近くの死体に寄り、それぞれ大きく自分の口を開けた。口の中には注射針のような、長く鋭い採血用の針があり、その針を死体に突き刺す。針に半透明の血液が吸引され、クロウ内部の液体貯蔵庫へ流れ込む。その光景はまるでカラスが死体を漁っているかのようだ。
特戦の隊員がブレインシェイカーの中毒者だったのかが、零には判断できなかった。先に述べたようにブレインシェイカーは体内から検出されない。検出する方法がない。そこが従来のドラッグと大きく異なる点だ。戦った限り、彼らは至って正常だ。
「こいつは貰っていこう」
部屋の隅に設置されている映像送受信装置から、記憶媒体であるメモリーカードを取り出した。この装置には特戦隊員が見た視覚情報を記録してある。戦闘司令所では各隊員の視覚情報をリアルタイムで見ながら、指示を出すのが普通だ。このメモリーカードには特戦の隊員達が見た記録が残っている。今回の事件の発端が分かるかもしれない。突入時にブラインドグレネードを投げ入れなかったのは正解だ。
「隊長、これを」
一が零に携帯端末を渡した。画面が薄黒い血で汚れている。
「これは?」
「香川中佐のだ。中身はまだ生きている」
そう。この端末は戦死した香川中佐の端末だった。パスワードにより電子ロックされているが、本体は生きている。
「ということは、中にブレインシェイカーの情報があるかもしれない。課長、映像データの入ったメモリーカードと香川中佐の携帯端末を入手。本部で解析します」
『了解だ。後始末は軍に任せて戻ってこい。今回の事件、何か裏がありそうでな。どうも嫌な予感がする』
「井口少将と香川中佐の裏を調べれば何か出てくると思います。全員、車に戻るぞ。菅田、珠子、今から建物を出る。撃つなよ」
駐屯地内では軍による死傷者の確認と現場調査が行われ、野戦病院では負傷者の応急手当てが行われていた。衛生兵を示す赤十字の腕章を付けた兵士達が、負傷兵の重傷度合をトリアージし、重傷者を処置テントへ移送していく。
その光景を見ながら零達はC‐MATVに乗り込む。座席は来た時と同じだ。幸いなことに零課員は負傷していない。ただし駐屯地内の被害は深刻だ。それをまじまじと見せつけられている。何も感じないわけがなかった。
「今回の任務、きつかったな」
『全くだ……』
直樹と一がそういうのも無理はない。本来は味方である軍の最精鋭部隊を相手にした。精神的にも肉体的にも厳しい。少し休息が必要だ。
「全員乗ったな。よし、車を出せ」
皆が乗車したのを確認すると、零は直樹に発車するよう命令した。C‐MATVが動き出し、来た道を引き返す。
「スフル、ビル、帰るわよ」
『了解』
クロウ達は空を飛びながら、車の後をつけて来る。クロウはサテライト太陽光発電によるワイヤレス充電、体毛での太陽光発電・太陽熱発電を行うことができるため、長時間起動していても問題はない。
「隊長、俺は彼らが汚染されているようには到底思えませんでした……」
車を運転している直樹の声はいつもよりも小さかった。疲労もあるだろうが、精神的なダメージの方が大きいだろう。
「ああ、同感だ。少尉が言っていた話を考慮したとしても。彼らはサイボーグ。体内には医療用ナノマシンも注入されているはずだ。ブレインシェイカーの影響を受けるとは考えにくい」
医療用ナノマシンには免疫系統に作用するナノマシン群が存在する。人体にとっての異物(有害な化学物質や病原体など)に分子標識を付けることで、体内酵素の活性化や異物の体外排出を促す。また、ナノマシンが直接異物に結合し、分解することで免疫機能の向上に繋がっている。場合によっては薬剤等をナノマシンに内包させ、注射等でナノマシンを外部から注入、体内の腫瘍や傷の治療を行うこともある。民間でも広く使用されている。
「彼らは二年前に共同演習をした時と何ら変わらないように見えた。そんな彼らが駐屯地内で虐殺を行ったとは私も信じられない。だが、ブレインシェイカーとはそういうものなのかもしれない。我々はブレインシェイカーを知る必要がある」
駐屯地ゲート前に着き、直樹は左窓を下ろした。それに合わせて守衛が助手席の零に歩み寄る。
「公安零課だ。ゲートを開けてくれ」
国家特別公安局の手帳を示し、守衛は本物であることを確認した。
「ハッ。ゲートを開放しろ」
守衛は少し疲れた様子だった。
ゲートが右にスライドしていき、侵入車両防止ポールが地面に収納されていく。本日、二度目の光景だ。少々時間がかかるがこればかりは仕方がない。
「おい、ちょっと待て!」
敷地の外側から守衛の叫ぶ声。その声の意味はすぐに分かった。
突然、前から装甲バンが突っ込んできたのだ。
「何だよ、いったい!?」
これには直樹も驚きを隠せない。
「山彦、菅田、下がれ!」
零が二人に車を後退させるよう即指示した。ただの暴走車という雰囲気ではない。
「いっ!?」
直樹はさらに驚く光景を見た。不審車の窓から目出し帽を被り、アサルトライフルを持った連中が身を乗り出してきたのだ。おまけに装甲バンはご丁寧なことに二両いる。
「伏せろ!」
零の言葉とほぼ同時に銃弾が飛んできた。敵の銃撃だ。C‐MATVのフロントガラスは防弾だが、撃たれ続ければいつかは割れる。過度に信用することはできない。
『こいつら、505を暗殺した連中と同じ格好をしていやがる』
一が言う通り、今撃ってきている連中は、中華連第505機関の工作員を暗殺した集団と装備が酷似している。何らかの関係があるのは確実だ。
「菅田、しっかり運転しろ。私が撃ち返す」
零は足元の備え付けガンケースから予備のNXA‐05を取り出した。銃を左手で持ち、フロントガラスで敵を見た。敵のリロードタイミングをうかがう。
零から見て左側後部座席の敵がマガジンの交換を始めた。
その瞬間を待っていた零は窓から腕を出し、敵に向かって発砲。二発がフロントガラスに、一発が敵の頭部に、一発がタイヤに命中した。
しかし敵車両のフロントガラスは予想通り防弾仕様。さらにタイヤも防弾仕様だ。ハンドガンではびくともしない。
「何者なんだよ、あいつらは!」
「分からない。幸いなのは対車両火器を持ってないことね」
バックしながら二台のC‐MATVは別々に敵の追跡を振り切ろうと試みる。だが、相手は国防軍兵の射撃や装甲車には目もくれず、零課だけを執拗に狙ってくる。
直樹の華麗なハンドルさばきで駐屯地内をバックのまま走行しているが、逃げ切るのは無理だろう。
「クロウ、プランBを実行しろ。被害を抑える」
『了解です』
零の言葉を聞き、ビルは警視庁にSATの緊急出動を要請した。
『まるで俺達が特戦にやられなかったから、襲いに来たかのような登場だな』
二班のブライアンも副武装であるCrF‐3100で反撃を開始した。CrF‐3100は世界各国の軍隊が使用している自動拳銃である。ハンドガン用の様々な弾薬を使用することができ、直進性に優れるため、精度が非常に高い。装弾数は13発+1。
『山彦! そこの鉄塔に奴らをぶつけろ!』
一の言葉を受けて、響はハンドルを左に切り返し、敵車両を通信塔へ突っ込ませた。
『よっしゃ。このまま反撃に出るぞ』
通信の内容から第二班の方は状況打開に成功したようだ。続いて銃声が聞こえる。
零も何とかこの状況を打開しようと考えていた。
「菅田、このまま後退して格納庫に寄せろ。そこで迎え討つ。やばくなったら装甲車を使う」
「了解!」
装甲車が収容されている第一格納庫へ、直樹は車を後退させる。第一格納庫のゲートが開いていたのは運がいい。一気に加速して、敵車両との距離を少しだけ稼ぎ、格納庫の中に車を急停止させた。C‐MATVは格納庫から少しだけ前部が出る形で止まっている。このまま下がれば格納庫内の装甲車にぶつかるためだった。
C‐MATVが止まるとすぐに全員がドアを最大まで開いた。銃弾が飛んで来る中、零と直樹は前部ドアの後ろに隠れ、進と珠子は後部ドアの後ろに隠れた。
「銃を構えろ!」
零は素早く体勢を整えると、スライサーディスクを射出するとともに、「撃て」の号令をかけた。突っ込んで来る敵装甲バンに向かって皆が発砲を始める。
スライサーディスクが刃を回転させながら、装甲バンの右側前輪のタイヤを引き裂いた。そこでスライサーディスクの勢いは衰えず、自律飛行で飛び続け、同様に後輪タイヤも引き裂いた。
右側のタイヤを失ったことで装甲バンはバランスを崩し、格納庫前で大きく左に旋回した。これにより敵は車から降りざるを得なくなった。相手はまだ全員生きているようだ。彼らは使い物にならなくなった装甲バンの物陰に隠れ、こちらの様子をうかがっている。
「まだ生きているのか。しつこい連中だ」
距離にして約十三メートル。近距離だ。弾の残りが少ない。むやみやたらに撃つことはできない。そんな状況の中、零と珠子が顔を出した敵を二人、それぞれ一発で射抜抜いた。仲間が無残にも殺されたのを目の前で目撃し、残りの敵は引き気味だ。攻めようとした直樹だったが、すぐに零がそれを止めた。
「菅田、撃たなくていいぞ。弾の無駄だ」
「分かりました」
相手を狙っていた直樹を制止する零。珠子も、進も、直樹も、そして零も、この戦いがこちら側の勝利であることを確信した。今、この時刻をもって手を下す必要が無くなった。こちらはただ相手の気を引いておけばいい。相手は理解できていないだろう。
もし、理解していれば両手でも挙げるに違いない。
彼らは死ぬ。確実に死ぬ。それはもはや決定された運命だ。
ダンッ!
ダンッ!
二発の銃弾が敵の胸を正確に撃ち抜いた。スナイパーライフルによる狙撃だろう。狙撃手は九時の方向、約170メートル先。
全身黒の格好で登場してきたのは警視庁特殊部隊SATだ。彼らの存在はUCG上で味方の反応を示す緑色の表示になっている。
「テロリストは死亡。繰り返す、テロリストは死亡」
SATの突撃班が一気に襲撃犯達の元に走り寄り、死亡を確認する。隊員達は黒のバリスティック・ヘルメットに濃紺のアサルトスーツ、黒のタクティカル・ブーツ、さらに黒の目出し帽とユニバーサル・コンバット・ゴーグル(UCG)。黒基調で統一され、いかにも特殊部隊という装備だ。
襲撃犯を射抜いたのはSATの狙撃班。仮に彼らの狙撃が失敗したとしても、次の手段として制圧班による武力制圧が待っていた。どのみち襲撃犯達は投降しなければ死ぬことになっていた。
「SATだ。ふぅ」
珠子はSATの登場に安心して思わず息を漏らした。
「珠子、それは違うぞ。彼らは正確にはSATではない」
「えっ? どういう意味ですか、隊長?」
「彼らも身内だ」
零の言葉を理解できない珠子。珠子は警察庁警備局警備企画課(八課)の出身で、零課には比較的新しく入ってきた方だ。HRT出身で、新しい零課員である直樹も理解できていない。
「?」
「あ、本当だ。この人達は零課なんですね」
直樹はUCGでSATの反応を確認し、零の言葉を理解した。それとは対照的に珠子はまだよく分かっていない。
「そうよ。UCG上で零課員は緑色、それ以外の味方は水色」
「え、それは分かっていますけど……どこからどう見てもSATなのに、同じ仲間なんですか?」
「紹介しよう。彼らは警視庁特殊部隊SATの第零小隊。表向きというのも変だがSATの秘密小隊で、本当の所属としては零課になる。主に国内任務の支援をし、彼が小隊長の久藤啓太だ」
一人のSAT隊員が零の左横に立ち、直樹達へ敬礼した。
「はい。伊波隊長の言う通り、我々は皆さんと同じ零課に所属しています。久藤です。皆さんには新しい車両を用意してあります。後始末は我々がしておきますので」
久藤は敬礼を終え、現場の保護と警視庁への連絡を開始した。
「零課って、やっぱりすごいところだ」
新しい車両に向かって零達は歩き出す。直樹は歩きながら、さっきの久藤の言葉を思い出していた。まさか、警視庁SATに秘密部隊がいて、さらにそれが零課の身内とは。
「確かにすごいところだわ、零課は」
珠子も驚きから離れられない。自分が狐に化かされているのではないか、そう思わずにはいられない。
「そういう貴方達も零課なんだけどね」
直樹と珠子に対して零が言葉を返す。進はこのことを知っていたので、二人のように驚くことはない。そのため、驚く二人の姿を見て内心楽しんでいた。零課に関する内容は例外なく全て最高機密事項だが、それは零課員であっても全て公開されない。零課にはまだまだ多くの秘密がある。それらを新人の直樹や珠子が知るのは先の話だろう。
「さて。一、そっちはどう?」
『こっちも終わったところだ。ただ、車がおしゃかになったのは参った参った』
「久藤が車両を用意している。そこで合流しよう」
『了解。足があって助かった。てっきり徒歩かと思ったぜ』
「お前だけ徒歩でもいいんだぞ」
『え、そいつはマジで勘弁してくれ』
零と一の会話を聞いていた皆が一斉に笑った。二人の絡みは皆が戦闘感覚から解放されるいいきっかけになった。それは非現実的な、これ以上ない現実世界からの帰還だった。
〈公安局本部〉
「隊長、香川中佐の端末からデータを取り出せたよ。これだ」
開発室のケナンが香川中佐の端末データを取り出すことに成功した。椅子に座ったまま、ケナンは零にPCの画面を見せる。香川中佐の端末は軍用だったが、国防省の情報部よりかはセキュリティが甘かったらしい。わずか一時間でケナンは様々な記録を掘り起こしていた。
「これは?」
零はケナンの右隣の席に座り、画面を指さした。
「香川中佐と井口少将の通話記録。軍用回線を使ったね。で、この日付の、ここを見て欲しい」
日付は今年のもの。それも井口少将暗殺任務の二日前のものだ。
「例の組織に殺されるかもしれない? これは私達のこと?」
「いえ。違います。ここにある例の組織というのは、公安や零課のことではないですよ」
ケナンが補足した。井口少将は中華連でも零課でもない、第三の組織から命を狙われているという主旨の会話がある。彼は中華連の第505機関に保護を要請したが、断られたという。そのため、香川中佐率いる第803特別戦術攻性中隊に警護を依頼したらしい。
「それはどういうこと? 井口の背後は中華連ではなかったのか?」
「違うみたいで。多分、最初彼は505機関の保護を受けて、中華連に高跳びする算段だったんだろうね。でも、その筋道が途絶えたから身内に助けを求めたっぽい。それも上手くいかなかったようだけど」
「六課が国防省へ先に釘を刺していたからな。軍は井口のために動くことができなかったはずだ。特戦は井口の警護に回れず、結果、井口は単独で逃走することになったというわけか。とことん残念な奴だな」
「確かに。保身に走った愚か者の末路って感じ」
「問題は第三の組織の存在だ。その第三の組織はほぼ間違いなく、スパイの暗殺と駐屯地襲撃事件の連中だろう。どうにかして正体を掴みたい。ブレインシェイカーの解析はどうだ?」
ここでケナンはブレインシェイカーに関する資料を画面に表示する。
「ブレインシェイカーについてはまだ調査している。それらしい化合物とか出てきてないんだよね。念のために微生物学的検査もしている。ただ、ブレインシェイカー中毒者の脳内シナプスを調べてみると、やはり典型的なドラッグ中毒者に見られるドーパミン異常の跡が見られた。間違いなく何かが作用している」
「特戦の脳はどうだった?」
「サイボーグ化しているから、そのまま生身の人間と比較することはできないけど、やはり脳内ではドーパミンの過剰分泌が見られた。しかも、サイボーグなのにそれを抑制した形跡がない」
「それはおかしいな」
「そうなんだよねえ。ナノマシンが投与されているはずのサイボーグで、このような神経伝達物質の異常が起こること自体、普通あり得ない。考えられる一番の要因はナノマシンが機能しなかった。ブレインシェイカーはナノマシンを破壊して、興奮作用をもたらすものかもしれない」
零は何かが引っかかっていた。ブレインシェイカー中毒者から薬物は検出されず、おまけにサイボーグでも作用する。体内に存在するナノマシンを化合物が破壊するというのは現実的ではない。しかし現実として他のドラッグと同様、脳へ作用している。
ここから考えだされる推論が一つある。
「いや、待て。ナノマシンそのものがブレインシェイカーとは考えられない? 何らかの誤作動で脳に悪影響が出たという可能性は?」
ナノマシンが根源。この考えが零には一番しっくりきた。突拍子もないことだが、ナノマシンがドラッグの正体かもしれない。ナノマシンは厳格な基準に則り、機械で正確に製造されている。そんなはずはないと思いたくなるが、それを白黒はっきりさせなければならない。
「ナノマシンそのものが……それは盲点だったな。確かに、隊長の言う通り、その可能性はありますね。間違いとは言い切れません。実際、うつ病や精神疾患等の治療用として神経伝達系に作用するナノマシンがあります。ちょっと待ってください。調べます」
ケナンは世界中で発生したブレインシェイカー事件の情報を集め、被害者がナノマシン療法を行っていたか、あるいはサイボーグであったのかを調べる。リスト化された名簿が出来上がり、その名簿に対しデータ解析ソフトでフィルターをかけた。
「百パーセントにはなりませんが、98.8%の被害者が体内にナノマシンを有していたようです」
「今の時代、ナノマシン投与は珍しくないからな」
この割合自体に零は驚かなかった。
「ここからさらに共通点を洗っていきます」
ナノマシンの製造元、種類、投与年数、投与期間、投与された医療機関、投与した医師、被害者の国籍、職種、持病、性格、血液型といった、ナノマシンに関する膨大なデータをケナンは整理していく。
「おっと、これは興味深い。必ず含まれている会社が二つ」
「どことどこだ?」
「トクロス社とフィセム社です」
その二つの会社は零も知っている。どちらもナノマシン市場で圧倒的シェアを誇っている多国籍大企業だ。
「製薬大手と軍事大手だな、両方ともここ二十年で急成長した。世界でも有数のナノマシン企業だ」
トクロス社は医療機関向けに疾病の治療用として、フィセム社は軍隊や警察向けに身体強化剤として、それぞれナノマシンを開発製造している。ナノマシン量産技術も他社より早く確立し、ナノマシン関連の特許数もこの二つの企業が多く取得している。
「この二つの会社は確かに多くのナノマシンを作っていますからねぇ。欠陥ナノマシンが製造された可能性は十分にありますよ」
被害者に投与されていたナノマシンの種類について、ケナンがさらに詳しく分類していく。
「混合ナノマシンが普通だから……ふーむ」
ナノマシンは単一種類だけを投与する事例がほとんどない。通常は数種類のナノマシンを一緒に投与する。さらに、両社のナノマシン・ラインナップは合わせて数百万を軽く超える。これらのことを踏まえ、ブレインシェイカーと思われるナノマシンの絞り込みをしなければならない。ナノマシン専門家でもため息が出そうな内容だ。
「絞れそう?」
解析ソフトとナノマシンデータベースを使っているとはいえ、対象となるナノマシンは百万種類を超えているのだ。すぐに答えが出るとは零も思っていない。
「ちょっと時間がかかりますね。データの詳細と事件の全容もまとめたいので十二時間ほど貰えますか?」
「時間は明後日の十七時までやる。気が済むまでやってちょうだい。ケナン、頼んだわよ」
「任せてください。いざとなったら助手を山ほど付けます」
開発室を出て、零は射撃演習場に向かっていた。これは射撃の練習と気分晴らしを兼ねてのことだ。少し時間を潰したいということもある。
「ナノマシンか……」
ナノマシン、それは零課員にも投与されている。全員ではないが、戦闘スーツを着用する者は例外なく投与されている。これは義務付けられている事項だ。なお零課のナノマシンは既製品ではなく、零課独自のものである。
零課が戦闘スーツ着用者を対象にナノマシンを投与する理由は簡単だ。戦闘スーツを着用すると、徐々に身体がスーツに頼ってしまう。これを補うためにナノマシンを投与している。もう少し詳しく説明すれば、戦闘スーツ着用者は筋肉への負荷が戦闘スーツの補助により少ない。このため、せっかく身体についている筋肉量が落ちてしまう。これを防ぐため、ナノマシンが筋肉の破壊と再生を促し、筋肉トレーニングの効率を高めるとともに、普段の生活で筋肉が失われることを防いでいる。
もちろん零課員は自分に合ったナノマシンをそれぞれ投与しており、メンテナンスも零課で行われている。ナノマシンは無くてはならない時代だ。ナノマシンの大量生産、短時間生産の実現は、瞬く間に世にナノマシンを普及させることになった。世の中、便利なものはすぐ広がる。良い意味でも、悪い意味でも。それは長生きしていれば分かること。時間が経てば、新しい技術であっても当たり前となり、新しい世代にとっては普通の技術、あるいは古い技術になっていく。技術の発展。
そう、技術の発展だ。
世界は上書きされていく。
そんな中、ふと思うのは人類がどこまで突き進むのか、ということだ。
生きることを〈時計の針〉で考える人がいる。時計を進むことは不可逆的な進行(老化)を表し、刻んだ時が人生であるということだ。針が止まった時は死を表している。では今の人々の時計はどうなっているのだろう。
再生医療の発展は人類に新しい時計をもたらした。寿命の延長だ。今まで以上に時針の速度は遅い。そして有機生命体である人類はサイボーグ技術も手に入れた。つまり無機生命体への扉を開いたということだ。このままいけばヒトは情報生命体になるかもしれない。記憶のダウンロード技術や複製技術の研究は未だかつてない速度で進んでいる。
改めて生きるということ考えよう。生きることを〈時計の針〉と捉えた場合、不老不死はどう表現すればよいのだろうか。〈時針を止める〉のか、それとも〈永遠に時を刻む〉のか。それは時を進める、この意味をどう見ているかによって答えが変わってくる。
そもそも今日における《生きている》の定義は何か?
人工心臓が高性能になった今日では、心臓が脈打つことを《生きている》と定義することはできない。
では、脳活動があることだろうか?
それも無理がある。
脳死の場合、心臓は動いているからだ。加えてサイボーグ技術あるいはクローン技術を用いれば、脳死、肉体死での死という概念に囚われることはない。
面白い話を聞いたことがある。宇宙を研究しているある研究者の話によると、「宇宙人は存在するのだが、彼らに会うことはできない。なぜなら彼らは既に肉体という器を捨て、デジタルの世界にその精神を移したからだ」という。この話を聞いて思うことは、やはり《生きる、生きている》の定義は何なのかということだ。
では《人間として生きる》とは何なんだろうか。ただ生物として生きることと、人間として生きるということには大きな差があるのも事実だろう。人間は人間としてのプライドがあるからだ。変なプライドだが、そのプライドは人間を語る上では欠かせない。人間は地球で最も繁栄してきたという自負が少なからずある。
生物にとって《生》は始まりであり、《死》は終わりである。不老不死との呼び声も高い、ベニクラゲは生物としての寿命はないといわれる。成熟した自身の身体を自分で退行させ、未成熟な状態へ若返させる。老化した身体を若い身体にリセットするのだ。だがベニクラゲは被食者である。ベニクラゲにも天敵はいる。そのため厳密にいえば《永遠の命》ではない。
一方、人類は医療の発達によって寿命を伸ばしてきたが、それは《死》へ抵抗するために見える。知識と知恵を武器に、自然を操り、他の生物種を研究し、さらに人類は発展する。天敵と呼ばれる種もいない。しかし《死》への恐怖は別だ。《死》は人類につきまとうことを決して止めない。クローン技術、サイボーグ技術、再生医療、人類はあらゆる手段を尽くして《死》を克服しようとしている。《死》は人類の天敵だ。
生物が生きていく上で《死》への恐怖は不可欠だ。有機生命体では進化の過程で手に入れたものだろう。《死》があるからこそ、《生》に執着する。極めて分かりやすい話だ。不老不死を手に入れるということはどういう意味か。それは《死》を克服すること。同時に生物としてのプライドを捨てることになるのではないか。《生》と《死》は対になっている。《死》なくして《生》はあり得ないし、《生》なくして《死》はあり得ない。《死》を捨てた瞬間、《生》の価値は無に帰してしまうのではないか。再生医療やサイボーグ技術の発展を別に否定するわけではない。そうはいっても生命を考えるにあたって、手放しに喜ぶこともできない。
現在の地球人口は約87億人。それに対して、食料も住居も労働も何もかもが有限だ。各地では内乱や戦闘が発生し、難民問題について目に触れない日はない。現実は甘くない。少し前まで死んでいた者が生きられる世界……それを無条件に喜ぶことはできないのだ。まさに、今、人類は己が築き上げてきた技術と矛盾により蝕まれている。
どこかで清算することになるかもしれない。そのことから皆は目を逸らしている。だから人類は辛いのかもしれない。分かってはいるが避けられない問題。タブーの領域は誰も触れたくはない。人類は《永遠の命》を求めてはならないだろう。
そういえば似たような話を国連で述べた科学者がいた。彼は確固たる信念を持って演説していた。おそらく人口推移に関する問題提言だった気がする。彼曰く「今、手を打たなければ後戻りできなくなる」と。世界で中継されたわけではなかったため、一般人はほとんど知るまい。彼は自分の主張に芯を持つ、なかなか面白い科学者だった。彼の目には獣にも似た、他者を威圧し、他者を噛み殺すかのような強い意志が宿っており、自身の考えを曲げることは百パーセントないだろう。
「……私は長く生き過ぎたな」
零が射撃演習場に入ると先客がいた。射撃レーンから発砲音が聞こえる。一人だ。
おそらく一がいるのだろう。CrF‐3100を愛用しているのは一とブライアンの二人だ。
「お、隊長。奇遇だな」
零の予想通り、二番レーンに実弾射撃中の一がいた。彼は訓練用のUCGを身に付けており、零に気が付くと一は銃のセーフティをかけて射撃台に置き、耳当てを外した。零の方を見る。
「隊長も射撃訓練か?」
「ええ、そうよ。ケナンの解析結果を待っているの。時間潰しよ」
射撃演習場ではVR空間による疑似射撃演習と実空間における実弾演習の両方が行える。仮想訓練では高度な環境設定を行うことが可能だ。通常の演習場では難しい気圧、重力、風向、風速、高度、気温、路面温度、湿度、粉じん量等の詳細設定が行える他、水中での射撃、車両搭乗中等の設定も行える。ただ、ここで行えるのはあくまで射撃の訓練であり、さらに高度で専門的な仮想訓練はVR訓練場で行う。
一の後ろを通り抜け、零は一のレーンより奥の五番レーンへ入る。
「そうか。結果次第では零課も大きく動くことになるな」
彼が使用している銃はCrF‐3100。特殊部隊向けハンドガンで、サイボーグやアンドロイドの使用も考慮されている。このため、イギリス海軍特殊部隊SCS(Special Cyborged Service:特殊機装化部隊)やアメリカ統合軍特殊部隊MTF214(Mechanized Task Force 214:第214機装化任務部隊)の他、イスラエル国防軍特殊部隊サイェレット・マトカル、ドイツ連邦捜査局GSG‐9といった世界各国の特殊部隊で幅広く使用されている。
《CrF‐3100》
〈概要〉
世界各国の特殊部隊が使用しているストライカー式自動拳銃。ハンドガン用の様々な弾薬を使用することが可能で直進性に優れるため精度が非常に高い。装弾数は13発+1。
パーツ数は極力少ないように開発されており、堅牢な銃に仕上がっている。また、特別な工具がなくとも簡単に分解、メンテナンス、組み立て、拡張パーツの取り付けが可能である。標準仕様であるアンダーレイルには「統合捕捉モジュール(レンジファインダー、可視レーザーサイト、不可視レーザーサイト、フラッシュライトが一体化したもの)」を装着することができ、銃口には任務に応じてサプレッサーを装着することも可能。
「ブライもそうだけど、どうして05を使わないの?」
一方、零はNXA‐05を使用する。この銃は零課用に零課で開発されたハンドガンであり、零課員は任務に応じてNXA‐05を携行している。言い換えればNXA‐05を持つ者は零課員だ。
《NXA‐05》
〈概要〉
零課用としてケナンが設計したストライカー式UCP(Universal Combat Pistol:万能戦闘ピストル)。課員に合わせたカスタマイズが施され、課員ごとのモデルで細部が異なる。
セミオート射撃だけでなく、二点バースト射撃も可能な「クィナズ強化ナノフレーム」で作られている。あらゆる環境下での使用を想定され、初弾速度は当然だが次弾以降も弾速は安定維持されており、高精度な連続射撃を実現化。装弾数は12発+1。対サイボーグ用強装弾、ショック弾、炸裂弾、閃光弾、無薬莢弾といった特殊弾薬も使用可能である。加えて、本銃は金属探知器や危険物探知機で検知されない。サプレッサーの装着可。
「そうだなぁ。俺の場合、別に05が嫌ってわけじゃないんだが、重さがしっくりこない。軽いくせに反動もなく、扱いやすいっていうのが、何だかなじまないんだよ。六課の頃からのなごりだろうな。CFの方がしっくりくる」
一は元々、国家特別公安局第六課「内閣官房国家安全保障局高等戦略情報室」の出身。零課を知らない一般人や警察、軍関係者にとって六課は最強の諜報・防諜機関として知られている。事実、六課は零課を除いて、他の課よりも非常に強力な権限が与えられている。零課ほどではないが秘密の塊のような組織で、公安局幹部らは六課を表の零課と呼ぶ者もいる。
「隊長、勝負しないか?」
「勝負?」
「そうさ。勝った方が晩飯をおごる。モードはクイックBのナチュラル。どうだ?」
「いいだろう。お前の財布を破産させてやる」
余裕の表情で零はその勝負を受けた。零がそういうのも当然だ。射撃勝負は今のところ343試合中、零が341勝していた。
「おおう、おっかねえ」
一は耳当てを再び付け直し、銃のマガジンを交換した。
零もUCGと耳当てを付け、自分のIDカードを射撃台のカードリーダーに通した。射撃台の下にある弾薬ボックスから予備のマガジンを四つ取り出し、射撃台の上に並べる。続けて右サイ・ホルスターから銃を抜き、マンターゲットへ銃口を向けた。
よく警察や軍の演習場で見られる人型の的だが、使用した銃の口径と弾薬、発砲位置からの距離、命中箇所により敵の状態判定〝軽傷〟〝重傷〟〝歩行困難〟〝歩行不可〟〝気絶〟〝死亡〟〝部位破壊〟〝貫通〟〝機能停止〟の記号をマンターゲット頭上に表示させることができる。また、マンターゲットにも種類があり、ナチュラル(生身)、サイボーグ、アンドロイドの三種類で切り替えができる。当然、生身よりもサイボーグやアンドロイドの方が耐久力は高い。
「準備はいいか?」
「いいぞ」
「よし」
一が射撃台仕切りに埋め込まれたタッチパネルを操作する。メニュー画面を開き、〝射撃訓練(ハンドガン)〟の項目を選択。続いて自分のいるレーンと零がいるレーンを選択した。
モードは実弾演習のクイックB(ナチュラル)。このモードでの全ターゲット数は60、満点は600、基準スコアは500。リロードタイミングは使用している銃が弾切れになった時点で、わずかな時間自動的に用意される。リロードの回数で減点されることはないが、リロード回数が多いほどリロードミスに繋がるため、リロード回数は少ない方が良い。リロードに手間取ればリロード時間を超え、ターゲットを大量に見逃すことになる。単純な話、基準スコアを超えるためにはリロードの成功が必須条件ということだ。
両者のUCGにモード名とカウントダウンが表示される。
『クイックB(ナチュラル)』
『レーン設定完了。開始まで』
『3』
『2』
『1』
零と一は高速で出現するマンターゲットを順に撃っていく。見たところ両者ともにヘッドショットを連続で決めているように思える。
クイックモードB(ナチュラル)では三つのレーンを同時使用する。ターゲットの出現タイミングは一定だが、ターゲットの切り替え間隔が非常に短い。文字通り一瞬だ。あっという間に次のターゲットへ変わるため、挑戦者は広い視野を持ち、隙の無い早撃ちを心掛けなければならない。ターゲットの出現場所はランダムである。
いきなり目の前に出てくることもあれば、奥の方に出ることもあり、同じ場所に出てくることもある。またターゲットが常に真ん中に出てくるとは限らず、左右レーンに現れることもあり、場合によってはマンターゲットが上下反転して出現することもある。
ターゲットの採点については次の通りである。生身ならばヘッドショット判定又はハートショット判定で、サイボーグならばヘッドショット判定又は脊椎(動力の中枢伝達系)破壊判定で、アンドロイドならばCPU(Central Processing Unit:中央処理装置)破壊判定又は中央動力部破壊判定で、満点の10点を獲得することができる。それ以外の箇所についてはターゲットの外側に行くほど、スコアが低くなり、的に当たらなかった場合は0点となる。スコアは小数点以下3桁まで採点される。
装弾数が1発少ない零がわずか先に一回目のマガジン交換を行い、一息つく間もなく、射撃を再開する。一も最初のリロードは成功し、落ち着いた様子で淡々と引き金を引き続ける。上下反転のターゲットや連続同じ位置のターゲットが出てきても二人は冷静に、動じることなく対応していた。
一度のミスも許されないクイックモード。機械の如く、二回目のリロードを両者は成功させる。モードBではターゲットの出現間隔は変わらないため、最初から最後まで一貫して同じことを繰り返せばいい。しかしそれが極めて難しい。クイックモードBの基準スコアである500というスコアも、目指す目標としては非常に高いものだ。
そうはいっても零と一の様子を見ていては、その難しさも伝わってはこない。見ることと実際にやることには雲泥の差があるのだが、この二人を見ていると何もかもが簡単そうに思えてしまう。
両者三回目のリロード。コース中盤。やはり二人にリロードでのミスはない。そのリロードテクニックは華麗の一言。まるで芸術のようだ。二人は滑らかに、正確にマガジンを交換した。このことは彼らの実戦経験の豊富さを物語っている。
四回目のリロード。これが最終リロードであり、挑戦者の踏ん張りどころである。クイック終盤は本人達が意識していなくても集中力が落ちてくるため、終盤にスコアの差が開きやすい。一瞬の判断ミスがその後に大きく響いてしまうのだ。
最後のターゲットが現れる。
二人は今まで射抜いてきたターゲットと同じように弾丸を放った。
『終了』
『採点結果』
『井凪 一:582.797 Excellent』
『伊波 零:600.000 Perfect』
『勝者:伊波 零』
射撃レーンの宙に大きく採点結果と勝者の名前が表示された。勝者は零。スコアは満点。
そもそも銃の性質上、満点を取ることは普通できない。銃は短時間に撃ち続けることで銃口が高熱を帯びてしまうからだ。熱膨張によりライフリングにわずかな歪みが生じ、結果として発射された弾の軌道がその分狙いよりもずれる……はずなのだが、零は満点を当たり前のように取っていた。
一も負けたとはいえ、基準スコアの500点を82点以上上回る超高得点だ。普通の警察官や軍人ではこのような成績は出せない。加えて零課の中央スコア576.496を上回っている。このことから一の射撃技術も十分卓越していることが分かる。ちなみに彼のスコアを上回るのは零とブライアンの二人だけである。
採点結果を見た一は「ヒュー」と口笛を吹いた。
「マジかよ。はあ冗談だろ」
このスコアに一は驚くしかなかった。他の射撃訓練モードでも満点スコアを取った者は零以外におらず、いかに零の射撃技術が正確無比なのかを客観的に示していた。
「くっそ、あり得ねえ。毎度毎度、よく満点を取るよな。今回も俺のおごりだ。隊長、何をご所望で?」
完全無欠にして人間の域を超えた存在、一が零に対して持つ率直なイメージだった。
「そうね。寿司がいい」
しかし、同時にこんなくだらない勝負に毎回付き合ってくれる零はごく普通の人間だとも感じていた。晩御飯をおごるという、小さな賭け事が、ちっぽけでありきたりな現実を映し出すのだ。零という人間は空想でもなければ、夢でも幻でもない。
「寿司か。いつものとこでいいか?」
「ええ。ごちそうになるわ」
銃をホルスターにしまい、耳当てを外した零は左手を振りながら射撃演習場を後にした。
追いつけない背中だと見せつけられながらも、なぜかその背中に一は追いつけそうな気がした。根拠はまるで無いのだが。追いつけそうな気がするからこそ。一はその背中を目指し、いつか必ず追い抜いてやると胸に秘めていた。