1. プロローグ
2050年現在。
再生医療とサイボーグ技術の発展により、人々の健康寿命は飛躍的に向上した。また太陽の衛星軌道を周回する人工衛星によって高効率太陽光発電を行い、その電力をマイクロウェーブ波で地球の送電中継基地に送信するという「サテライト太陽光発電システム」が実現した。これにより、人工光合成技術と合わせ、地球におけるエネルギー問題の約52%が改善された。宇宙進出も進み、国際宇宙コロニーの完成も間近で月面基地や火星基地への実験的移民計画も進められている。
このように科学技術の進歩は人々の生活を変え、新たな希望を与えている。その一方で、深刻な問題を世界で引き起こしてもいる。世界保健機関(WHO)は「再生医療の発展により、世界の貧富の差は拡大し、裕福な者だけが最新の治療を受けて長生きしている。本来救われるべき人々が傷つき、死んでいる」と警鐘を鳴らしている。
サテライト太陽光発電システムについても大きな問題が存在している。サテライト太陽光発電システムの恩恵を受けているのは、いわゆる経済大国のみであり、中東やアフリカにまでその恩恵が届いていない。この問題は決して無視できないことであり、国際連合(International Union)内部では先進国と発展途上国間の争いが絶えない。このまま解決策が出なければ、国連の機能不全も現実味を帯びてくるだろう。
サイボーグ技術の発展は戦争の歴史と言っても過言ではない。サイボーグ技術は元々、医療分野ではなく軍事分野で広く研究された。とりわけ、サイボーグ技術の軍事利用を進めたのが、アメリカ合衆国である。アメリカは世界で初めて軍用サイボーグ技術を実用化し、世界で初めてサイボーグ兵士を実戦投入した。通常の人間を遥かに超える身体能力を持ちながら、恐怖心を抑制されているサイボーグ兵士は戦場で高い戦果をあげた。
日本は国内での大規模テロを未然に防ぎ、国家の秩序を守る目的で警察組織の調整を行った。2024年、政府は公安機関の組織強化を決定し、「国家特別公安局設立法案」が施行された。これにより、内閣府に国家特別公安局が設置された。
これは2021年に日本国内で発生した同時多発テロの発生を受けたものである。発生したテロは生物兵器「ミスト」によるバイオテロであった。標的となったのは東京、大阪、広島、福岡である。犯人グループは通勤時間帯の主要公共交通機関に生物兵器「ミスト」を遠隔散布しようと試み、警察、消防、国防軍が彼らに翻弄された。その間に犯人グループは首相官邸を襲撃し、首相と各大臣の暗殺を目論んだ。
日本で発生した同時多発バイオテロはこれが初めてであった。公安の手によって、ミストの散布は防ぐことができたが、日本社会はあまりにもテロに対して無力だった。これが日本の現実だった。
国家特別公安局は先のような国内テロを未然に防ぐために設立されたと言われている。表向きは確かにそうであるが、有識者によると実際は他国のスパイを監視し、情報収集を行い、外交上の不利益を排除するという、本格的な防諜機関の設立と予算獲得が真の目的だったとも。別の識者によれば昔から国家特別公安局は存在していたが、公表するタイミングができたから公表しただけだという。さらに、国家特別公安局はテロリスト組織や他国の政府機関、大企業にスパイを送っているとの噂もある。
国家特別公安局には次のように第一課から第七課の七つの課が置かれている。
《国家特別公安局(National Special Security Agency)》
第一課:総務省情報整備局情報処理課
第二課:法務省公安調査庁第六調査部別室
第三課:外務省国際情勢調査局
第四課:国防省中央情報本部統合戦略情報局
第五課:厚生労働省生活局義体安全対策課
第六課:内閣官房国家安全保障局高等戦略情報室
第七課:内閣情報調査室
私は私は三年前、愛媛で親しいイギリス人記者Kに出会った。そのことは今でも鮮明に覚えている。彼は昔から政治家や政府のスクープを多く手に入れてきた。世間でも名の知られた記者である。
「君は相変わらず美人だね」
記者Kは久しぶりに私に会ったことを喜んでいた。私と彼はゆっくりと話をするため、個室のある飲食店に入ることにした。個室というのは彼の趣味だ。記者である彼は他の人に自分の持ちネタが盗まれるのを警戒する。特にライバル記者への警戒は欠かさなかった。
当時、記者Kは公安警察について調べていた。彼にとってはかなり興奮するネタがあるようで、いくつかの書類と写真を私に見せてきた。書類には機密の判が押されており、警察関係者の名前が多数確認できる。この書類の出所は警視庁だろう。公安部に関するものだ。部署の人事異動一覧で多数の名前が記載されていた。
「この書類は警視庁の公安部に関する幹部向けの人事異動名簿のコピーだ。見てくれ」
彼はそういって、ある一人を指さした。
「佐藤紀美子。異動先が〇。このように記載されているのは彼女だけだ」
記者Kの言う通り、どこからどう見ても〇だ。異動先が〇と書かれている。記者Kがどうやって機密文書を手に入れたのかは分からないが、確かにこれは何か隠されているように考えられた。〇は何かの隠語だ。幹部達のみが意味を知っている記号だと考えられる。
「この丸印は警視庁の零課だよ。間違いない」
記者Kはそういった。彼の言葉を聞いて私は聞き返した。
「レイカって何? ああ、もしかして都市伝説の零課のこと? またその話?」
「零課は都市伝説じゃない。本当にあるんだ。話したいことがまだある。これを見てくれ」
次に私は写真を見た。日付が左上に印刷されている。2021年4月28日8時23分04秒。写真は空港に設置されている、監視カメラが捉えた一場面のようだ。多数の一般市民をかき分けていく男性の姿が映っていた。
「本当は映像データを手に入れたかったんだけどな。無理だった。ただ、音声データは手に入れた。聞いてみてくれ」
彼は携帯端末を取り出し、音声データを再生した。
『公安だ! ここから離れろ! くそっ、CBRNE部隊を待っている余裕はない』
男性の声だ。日付と状況から察するに、彼は空港での生物兵器ミストの拡散を防いだ公安警察官ということになる。
「状況から分かる通り、彼はおそらくミストの拡散を防いだ英雄の一人だ。それなのに、関係する監視カメラの映像は全て消去されたらしい。空港にいた一般人の中に携帯やカメラでビデオを撮影していた人がいたようだが、情報提供を根拠に警察の手によってデータが回収された。インターネット上にはこの手の映像が不思議なことに一つもない。随分と警察は彼の存在を隠すことに熱心だ」
「公安警察ってそんなものじゃない?」
私は彼に尋ねてみた。素性を隠すのは公安として当たり前のことだろう。
「まあ、そう言われたらそうかもしれない。あいつら秘密主義者だからな。仕事なんだろうけど。ただ、俺はこの男が普通の公安ではなく、零課の課員だと思う。それも〈警視庁の零課〉じゃない」
「それはまたどういう意味?」
「〈国家特別公安局の零課〉さ」
記者Kによると、国家特別公安局には第零課なる非公式部署があるという。その噂は一部のネット界隈でも言われているが、真相は未だ謎のままだ。なぜそのような噂が出てきたのかというと、一般的に公安として知られている警察庁警備局警備企画課、通称ゼロが、国家特別公安局に割り当てられていないからだった。このことについて記者Kはこう述べた。「警察庁警備局警備企画課は国家特別公安局に割り当てられている」と。だが公にはそのことを発表していない。
では非公式である警察庁警備局警備企画課が噂の第零課なのかというと、どうも違うようだ。彼の話だと、警察庁警備局警備企画課はおそらく第八課らしい。
記者Kは続けて、警視庁にも非公式部署として公安部公安第零課があると力説した。警視庁といえば東京の治安を守る警察本部で、他の都道府県警察本部にはない公安部を置いている。その警視庁に公安零課があるという。ただしそれは警視庁の零課であって、国家特別公安局の零課ではない。彼の話を整理すると国家特別公安局には非公式だが、警察庁警備局警備企画課が存在し、警視庁公安部には非公式だが、公安第零課があるということだ。
彼が言いたいのは、その二つの部署とは全く違う非公式組織が国家特別公安局にあるということだ。なぜ彼がこんな回りくどい言い方をしたのかというと「これら二つの部署が真の零課の隠れ蓑になっているから」ということらしい。
記者Kの話をもう一度整理すると、本当の国家特別公安局は次のような構成になっている。
《国家特別公安局》
第零課:公式上、存在しない
第一課:総務省情報整備局情報処理課
第二課:法務省公安調査庁第六調査部別室
第三課:外務省国際情勢調査局
第四課:国防省中央情報本部統合戦略情報局
第五課:厚生労働省生活局義体安全対策課
第六課:内閣官房国家安全保障局高等戦略情報室
第七課:内閣情報調査室
第八課:警察庁警備局警備企画課(公式上、存在しない)
※警視庁の公安部公安第零課、警察庁の警備局警備企画課ともにゼロの異名を持つ。
記者Kは零課の存在について確固たる証拠を得たわけではない。それでも、彼は「零課は確実に存在する」と言い張った。そこで、私は彼に「零課はどのようなところなのか」聞いてみた。しばらく彼は沈黙し、こう話した。
「太古より日本に存在した秘密組織だよ。〈帝の近衛部隊〉の流れを汲み、汚れ仕事を担う、現代の忍者さ」
一通り零課についての話をした後は、各国の諜報機関についての雑談を楽しんだ。雑談が終わると、彼は手を振り路面電車の電停へ歩いて行った。人々の中に溶け込んでいく記者K。彼の後ろ姿を見ながら私はこう思った。
私がその零課の課員でなければ「貴方の推理はほとんど正解」と、答え合わせしてあげたのに。
そう。私は正真正銘、国家特別公安局第零課の課員だ。
私の名は伊波零。