美しい悪意(6)
惚けたような顔で、私の方を見る彼女が居た。ぼんやりと何かを動かしているのが見える。あゝあの子の言葉は、口にしている筈なのに、音にはならない。私を拒むかのように、唯々傍を通り過ぎていくだけだ。まるで私ではない──遠くの夢を見ているのだろう。
刹那。病人のような歩調で、私に向かって歩み寄る彼女の頬に、濡れた跡が見えた気がした。
“さくっ……”
と、私の軀に草を刈るような音が聞こえた。きっとそれ自体は幻聴だったのだろう。だがしかし。無情にもこの下腹の右に感じる痛みは、幻覚でも錯覚でもなかった。
(──さ、刺されたのか………)
気が動転して、分かったのはそれだけだった。冷んやりとしたものが過ぎた感覚と、痛む箇所の濡れた肌触りが、私の軀が傷付いているのだと云うことを知らせてくる。
(このとき、本当は未だ薄皮一枚を斬られただけであったのだが、私はとにかく焦ってしまい、激しい鼓動と共に訪れた目眩で、そのまま床に倒れ伏してしまったのだ)
妄想により増大された痛みは、万華鏡のように形を切り替え乍ら、私の軀を這うてくる。
刺すような痛み、殴られるような痛み、吐き気のする気持ち悪さ……。
覆い被さったのは、甘い香りだった。
恐怖で痺れた腕を、万力のような重圧で、ぎりぎりと抑えつけられる。朦朧とした視界の内に、ほろほろと泣き乍ら馬乗りになる彼女が見えた。その眼は哀れみを誘わずに、ただ静かに激昂を隠していたのだ。
彼女の唇が同じ形なので、繰り言を吐いているのだと思った。「おにいさん、おにいさん」と……。聞こえはしないが、矢張りそれでも恐ろしい。
最早私は何の抵抗もしなかった。否、出来なかったと云うのが正しい。そんな気が起きる前に、私はすっかり彼女自身を愛していたのだ。力を抜いて、彼女の思うがままに、この身を捧げた。
そっと唇を重ね合わせる。それは思っていた程の亢奮は無く、蓋し、彼女なりの『蒼い恋の証明』だった。
少女を忘れた彼女は、代わりに恋を覚えた。研ぎ澄まされていた刃は、その無自覚さを潰されて、かつての乙女は私の内で眠っている。そんな茫洋とした感覚で、彼女の愛を受け入れていた。
(……彼女の見えない左手は、一体何処にあるのだろう。先程から視界の端で、何度も何度も動いているのが見える。あんな仕業なら、数センチの刃渡りはきっと、今度こそ根元までしっかり刺さっている。
乙女の恋は私を誅すると云うのか。それならば、私は死して然るべきなのだろう)
真っ赤に染まった一室の中で、私はそっと瞼を閉じた。
※
『許して下さい、サンタ・マリーア……
我ら全てが愛し仔であると云うのなら、私の分など取り上げて、彼女に与えてやって下さい。どうかあの子だけでも……何の罪も不浄も知らない、唯々哀れな子供です。
そうでなければ、あの様な恐ろしいことを、何れの意識があって出来ましょうか。それとも無知なことすらも、罪だと仰るのでしょうか。おやめ下さい……どうか貴方の、あたう限りの慈愛と憐憫を……。
許されないのは私だけで充分です』
自慢しますね。
この作品、他のサイトだと日間10位になったり、週間4位になったりしたんですよー。
ふへっw( -`ω-)




