美しい悪意(1)
ぼんやりとした少年時代だった。何をやっても上手く出来ない──我乍ら鈍い子供だったと記憶している。
そして、その不器用さは今日に至るまで、変わらず受け継がれている。足りない者が足りないまま、何も考えずに図々しく生き延びてきた結果が、今の私だった。
例えばつい最近、中学時代の友人と久しぶりに会ったときのことだ。私の方は全く気付かなかったのだが、友人は、一目見て私だと理解したらしく、向こうから親しげに話しかけてきたのだ。当然私は誰とも分からぬ人間から、出し抜けに挨拶をされたと思ったので、挙動不審になり乍らも、眼を伏せて通り過ぎようとしたのだ。
慌てた友人から話を聞き、漸く事の次第を理解して落ち着いた後、互いに久闊を叙したのだった。
友人の第一声は「変わらないなァ」だった。「変わらない」とは、云い換えるならば「適応力がない」に等しいので、私としてはその言葉を聞いて、素直に喜ぶことは出来なかった。ただ、それを心底羨ましそうに口にする友人であったので、表面上は笑って置いたが、それでも恐らく、私の顔は引き攣っていただろう。
思うに、私には少年の時分から抱えている、大きな虚がある。茫として無垢さが無いのもその為であったし、可愛げが無いと云われ、よく親に打たれたことも、その所為であろう。
しかし私自身、少年少女特有の残虐性は持ち合わせていたように思う。それは云うなれば、まるで持ち手の無い刃物の、無自覚に人を傷つける純粋さなのだ。
誰もが身に覚えがあろうかとは思うが、実際子供と云うのは残酷で、殺生を厭わない程、未だ共感能力が発達していない。
しかし殆どの人は、そんな子供を愛おしく思いこそすれ、恐ろしい──と感じたことはないのではないだろうか。
思うにその心理は、自分達に危害が加えられない優位性から来ているのだろう。
非力な子供、無邪気な子供……。
そうした所からみると、あんな小さな軀では、如何やったって大人に敵う筈がない。
(あゝそうだとしても、あの爛々《らんらん》と大きく見開かれた瞳。余りにも……余りにもあれは悍しい。高潔さなど微塵もなく、唯々ことを弄ぶ支配者の眼だ。
あれに見詰められる度、私は憮然として、蒼白な身となるしかない)
しかし、子供のする傷つけ方と云うのは、大人のそれとはまた違ったやり方のようだ。
大人が他人を害しようとする際の、
──例えば拒絶
──例えば嫉妬
将又、自己防衛の一環として、自分の道徳心を捻じ曲げてまで、それらの行為に手を染める。敢えて暴力的に振る舞うことで、自分を強く見せ、相手を従わせる──典型的な臆病者の思考だ。
だがしかし、子供は如何だ。
あんなに可愛らしい彼ら彼女ら、一体どのような心理で他人を傷つけると云うのだろう。
私はこう考える。子供達は、大人とは逆──つまり受け入れようとして他人を害するのである、と。
心理学なら、反動形成とでも云うか。好きな人に意地悪をしてしまう、あのむず痒い気持ち。
確かに少し似てはいるが、あれは防衛の反応であって、私の云いたい許容する行為とは、根本的に擦れている。
要は『受け入れ』の過程なのだ。
子供は自らと異なるものを理解しようとする際に、先ず始めに疎外を行う。
一気に受け止めず、近寄って来るものを外に置き、徐々に一つずつ……確認するように受け入れるのだ。
それだから無邪気に、無用心に、どこまでも愛おしく、彼らは他人を傷つける。
今となって考えれば、何故私はあのような性質に惹かれていたのか──分からない。
だが私は、全てを知らずにあの頃に戻れたなら、それでも又、きっと同じ罪を犯すだろう。
それこそが私の性。
彼女の持つ『美しい悪意』に恋をしてしまったのだ。
本編まだです。




