海の夢
辺り一面広がる水面は、私が歩くたびに波紋となって広がった。
どこまでも続く青空の下で、静かに流れゆく雲を写している。
腰の下あたりまで浸かっている為、さっきからエプロンのリボンが尾鰭のようにふよふよ漂っている。
風もない。 生き物もいない。
私が水を打つ音だけが、パシャパシャと鼓膜を震わせた。
「今度は何だ貴様。 水遊びでもするつもりか」
慌てて後ろを振り返ると、水の上を颯爽と歩くヘルムートさんが怪訝な顔を隠しもせずやって来た。
「良かったヘルムートさん! ちょっとこれ何に見えます?」
「巨大な水たまりだろう」
あちゃー、と私は手を額に当てた。
やはりそうか私もそう思った、と直ぐに辺りを消し去った。
先ほどまで濡れていたエプロンドレスも、今は風が吹けばふわりと舞いそうなほど乾いている。
「やっぱり、本の知識だけじゃあ本物に寄せる事すら難しいです」
私の力じゃあこれが限界かと唸る。
「結局さっきのは何だ」
ヘルムートさんからしたら、とにかく広い水たまりに体を突っ込んでた痛い人間にしか見えなかったのではないかと思い当たる。
実際、いつもの残念な子を見る目をしている。
最近よく見るなぁこの目。
「海ですよ」
海とは、塩を含む水が非常に大きく広がる場所。 と書いてあった。
また別の本には、天候により波の大きさや色が変わるとあったし、海中には多種多様な海中生物がいるともあった。
「あれが海だと……?」
「聞かれても、そうです、とはもう言えないじゃないですか! 見なかった事にして下さい」
「海を見た事がないのか」
すぐバレました。
これでも本を読んだりして勉強してきたつもりだったけれど、まさに百聞は一見にしかず。
先人はいつの世も素晴らしい格言を残してくださっている。
「何を気を落とす。 海から離れた場所に住んでいるのなら仕方ないではないか」
「そうなんですけどね。 何て言うか、ままならないなぁとちょっと落ち込んだだけです」
私の知識は本だけでない。
屋敷で働く人たちや訪問客からも海とはどんなものか聞いて回った。
聞けば聞くほど、私の好奇心は膨れ上がるばかりだった。
「どうして私に言わない」
言われた言葉が理解できなくて一瞬キョトンとしてしまった。
「ヘルムートさんにですか?」
「そうだ。 私なら出来るかもしれないだろ」
何とその手があったか!
お力を借りるという方法が頭からすっこ抜けてました。
ヘルムートさんが言うところの欲望甚だしい私の発散に、未だ若干引き気味の彼をまきこむのは、良心が邪魔をして無意識に排除していたらしい。
「ヘルムートさんのお手を煩わせるなど……」
「さんざん好き勝手やって今さら遠慮される方が気持ち悪い」
ふんっ、と鼻を鳴らし、ヘルムートさんは何も無い遠くの彼方を見つめた。
唐突に視界を彩った。
ぶわりと風が吹き、私とヘルムートさんの服を大きくはためかせた。
音が聞こえる。 水の音だ。
私が日常聞いているような軽く高い音ではなく、膨大な海水が波打ち爆ぜる芯に響く音だ。
遮るものが無い空は強い風が通り過ぎて、たまに轟々と耳を打つ。
絶えず揺らめく海面は、陽の光を反射して星空のように輝いている。
眩い光は美しいのに力強かった。
生命の息吹は、決して優しいだけではないのが肌で理解できた。
粟立つ肌を抑えるように腕に力を入れている私は、何よりもその青に魅入っていた。
遥か遠くに向かって濃さを増す海。
空の包み込むような蒼穹とは違う、奥深く海底まで続く深い青。
吸い込まれそうになる足を奪い立たせた。
足元のさらりとした砂の粒も小さな光を放っている。
たぶんこれは砂浜だろう。
押し寄せる波が砂浜を濡らすと、引いて行く波と一緒に粒が海へと還っていった。
あぁ、どうして。
ずっと見ていたい筈なのに視界がどんどんぼやけてくる。
目の奥が熱くなり、瞬きをするとポロポロと涙が落ちた。
どれくらいそうしていたのだろうか。
何かに取り憑かれたように景色を眺めていた私は、渡り鳥が上空を過ぎ去って行くと同時に我に返った。
慌てて目元を拭い、斜め後ろを振り返る。
ヘルムートさんは黙って、じっと私を見ていた。
「ごめんなさいヘルムートさん。 あんまり素敵だったので、ヘルムートさんのこと忘れて見入っちゃいました」
へへへと笑ってみせるが、ヘルムートさんは僅かに眉を寄せただけでやはり何も言ってはくれない。
その顔は怒っているわけでは無さそうなので、忘れていた事はもうスルーしても良いだろう。
泣き顔を見られたのがだんだん恥ずかしくなってきた私は、場の空気に耐えきれず、無駄に口が回ることとなった。
「それにしてもヘルムートさん、夢の中で形にするの本当に上達しましたね! きっともう私なんかより遥かに上手く創れますよ。 これならはじめからヘルムートさんに頼めば良かったです」
再び、遥かな海を見つめた。
まさかこんなにも美しいものだったなんて。
やはり文字だけではこの光景は表しきれない。
私は現実で本物を見に行く事は出来ないけれど、この景色だけでもう充分だ。
一つ叶ってしまった私の夢に、未だ気持ちが高揚していた。
「私、夢の中を自由に動き回るようになって、今日が一番嬉しいです。 もちろんヘルムートさんに会えた時も凄く嬉しかったんですけれど。 でもこうやって、憧れの海をヘルムートさんと一緒に見られて、今私、幸せです」
私は今日を忘れないだろう。
たとえこれで見納めになってしまっても一生忘れない自信はある。
音を、風を、ヘルムートさんと見る海の景色を。
ヘルムートさんの優しさを。
「本当に、ありがとうございました」
もう一度振り返った先でヘルムートさんはもうこちらを見てはいなかったが、スカートの裾を摘んで、綺麗に見えるように丁寧にお辞儀をした。
顔を上げ、満足だと微笑む。
そうすればまたキュッと寄るヘルムートさんの眉間の皺はさっきよりも深かった。
「それならまた見ればいい」
言われた意味を咀嚼して、ヘルムートさんの顔をまじまじと見つめてしまう。
海に煌めく光が、その瞳に映っている。
「貴様は己の欲には忠実だと思っていたが、一度で満足できるのか? 気に入ったのなら何度でも出してやる。 そうすればそのうち自分でも創り出せるだろう」
だから泣かなくていい。
そう言われた気がした。
夢の中で出会えたのが彼で良かった。
それと同時に私は今、今を惜しみ、一瞬でも夢から覚めたくないと思ってしまった。
それだけは考えまいとしていた事を。
ただよう幸福の中で生まれた懺悔にも似た思いは、口から出かかった言葉をすんでのところで押しとどめてくれた。
「本当ですか!? ヘルムートさんありがとうございます!」
嬉しさを表現する為、私の周りに花をポポポポンっと出した。
「何だその花は。 とうとう頭に花が咲いたか」
「違います。 これは私の喜びが見える形で現れたのです。 ヘルムートさん大好き! の花たちです」
胸を張って説明すると、ヘルムートさんが今までにないくらいギョッとした顔になった。
そして瞬く間に真っ赤になる様子に、あれあれあれ?と困惑した私は、己の発言を振り返ってみた。
『ヘルムートさん大好き!』
言っていた。
深い意味は無かったが、ともすれば盛大な愛の告白にもなるものを言っていた。
今度は私があわあわあわと全身真っ赤に染まった。
羞恥心に身もだえながら顔を付き合わせる私たちであったが、それも一瞬の事で、先に理性を取り戻したのは彼の方だった。
「とにかく! 私は貴様に借りがある! 必要ならば私に頼むがいい!」
借りって何だ? と、羞恥心がスンと消え去った私は踵を返す彼の背中に慌てて手を伸ばす。
しかしヘルムートさんは、止める間もなくズンズンと大股で去って行ってしまった。
覚めたくない夢から覚めた時ほど、現実はいつも残酷だった。
「……おはようございます、お嬢様」
「おはよう、レベッカ」
言いにくそうに瞳を揺らした彼女にいつもと変わらない笑みを見せた。
「大丈夫よ。 もういらしているんでしょう?」
「……はい。 お通ししてもよろしいでしょうか?」
「もちろんよ。 むしろお待たせしてしまったのなら早くお呼びしなくては」
そして今日も苦痛の時間が始まる。