疑心暗鬼
【三日目】
九月初旬の、ありふれた一日。
登校後早々に行われる体育の時間ほど、面倒で、学業を阻害するものはないだろうとケイスケは常日頃から思っていた。
そう感じているのは、運動部以外の学生ならば共通の心持ちだろう。
現に校庭に集まっている生徒の大半は、やる気のまるでないけだるさを醸し出している。
カンカンに熱を放射してくる太陽も、順調に生徒の活気を奪っていた。
それでもなおサボる生徒がいないのは、内心点や大人からの叱責が気になるからでしかない。
とはいえ。今のケイスケは、そんなことを気にしている場合ではなかった。
なにしろ人生の分岐点に立っていると言っても過言ではないのだから。
そのことは確かにわかっている筈なのに、授業も学校も欠席できない自分はなんなんだろうと、思わざるをえなかった。
現に本日はトウコが欠席していて。それに加えて、今度は村上も休むとメールがあった。
唯一ヒトミだけはケイスケと同じように学校に来ており、今も校庭に姿を見せていたが、明らかに顔色が優れないのは遠目にもわかった。
それらの事実に、変わらない筈の日常が崩れてしまっていることを、感じずにはいられなかった。
「よーし。今日の合同授業は、一組と二組合同で組体操の練習だ! 十月の体育祭に向けてしっかり練習するんだぞー」
体育教師の掛け声が、空しく耳に届く。
十月にはもうこの世界にはいないかもしれないというのに、本当に自分はなんでこのくそ暑いなか、昨今危険度が囁かれる組体操なんていうものを、頑張らないといけないのだろうという思考に陥らざるをえなかった。
それとも異世界に行かないつもりなのかと自問自答し、
(自分が行くつもりがないなら、誰に行って貰う気なんだよ)
自分の声で頭にその思考がよぎった瞬間。
真夏の気温の中だというのに、ケイスケは全身の毛が逆立つような寒気に襲われた。
心のどこかで、自分は行かずに済むんじゃないかと期待している。
そのことに気づいたとき、異世界への憧れは、自分のなかでとっくにどこかへ吹き飛んでしまっていることを察し、愕然として。
同時に自分が、村上か、ヒトミか、トウコのうちの誰かに、人身御供を押し付けようとしていることにも気づかされた。
(い、いや違う。あの得体の知れない神様が、嘘を言ってる可能性もあるんだ)
反射的に目をつむってかぶりを振り、自己弁護を誰ともなしに反芻する。
「おい、竹下。なにやってんだ。練習すんぞ」
「あ、ああ。悪い」
そんなケイスケに、クラスメイトのひとりが声をかけてきたので、思考は中断された。
それからはとにかく、体を動かしていれば嫌な方向に考えが膨らまずに済むだろうという打算から、ケイスケはがむしゃらに組体操に取り組むことにした。
しかしそれも、十五分足らずで終わってしまった。
いつになく活発なケイスケに付き合わされた相方の生徒が、早くも音を上げはじめたのだ。
やっている振りをして適当にやろうと言い出し、女子生徒の一団を下心丸出しの目で見つめだしたその生徒を、八つ当たりで張り倒したい気分にかられたケイスケだったが。
バリバリ文系のケイスケも、体は悲鳴をあげかけていたので、強くは反対できなかった。
そうして一息ついていると、自然とヒトミに視線がいってしまった。
ヒトミはケイスケと同じく運動は不得意なのだが、彼女もすべてを忘れる勢いで組体操を続けているようで、いまは全身汗だくになっていた。
思春期の高校生である身としては、下着が透けかかっている女子の体は凝視し辛いところだったが、ケイスケは目を逸らすことはできなかった。
それは彼女の顔に、他の生徒のような赤みがさしていないことに気がついたからである。
「ねえ、河野さん。だいじょうぶ? 顔色、青いの通り越して白く見えるんだけど」
「あ、うん……だい、じょうぶ、だから……」
組体操のペアになっている女子生徒も、さすがに不安げに声をかけていた。
そして当のヒトミはというと、目の焦点が若干合っていない状態で、荒く呼吸をしながら声を絞り出して、その場にどうにか立っているといった感じが誰の目にも明らかだった。
これではどう考えても自分の身を預けられないと判断したらしく、その女子生徒は体育教師に声をかけに向かったが。
「ヒトミちゃん!」
それが戻ってくるより先に、ケイスケは動いていた。
駆け寄ってヒトミの肩に手を置くと、それだけでもう体を預けるように倒れこんできたのである。
間近で見てケイスケは更に驚かされた。
汗に混じって、わずかに涙のようなものが頬を伝っているように見えたからである。
もちろんケイスケの目の錯覚だったかもしれないが、それほど心身が限界になっているのは、どちらにせよ明白だと言えた。
「すいません、先生。彼女を保健室に連れて行っていいですか?」
先ほどの女子生徒と一緒にやって来た体育教師に、有無を言わせぬ勢いで告げる。
「あ、ああ。それは構わんが……」
「ありがとうございます!」
了承を得てすぐさまケイスケはヒトミを横抱きに――いわゆるお姫様だっこで――かかえあげ、すぐに校舎へ走り出した。
そんな行動をとったケイスケに、周囲の女子連中は一斉に色めき立ち、男子連中からも囃し立てる声が後ろで聞こえた。
事情を知らない面々からすれば、今の行動は確実にカップルが行うそれに見えたことだろう。
翌日から一斉にからかわれることは確定事項だが。
ケイスケはそれどころではなかった。
油断すれば、自分まで泣いてしまいそうだった。
*
保健室に着き、ノックしたが誰も出てこなかった。
しかし幸いにも鍵が開いていたので、断りの言葉を言うのも忘れて中に入る。
保健室はしんと静まり返っていて誰もいない。
どうやら保険医の先生は、どこか出ているらしく。タイミングの悪さに思わず舌打ちが出そうになった。
「ごめん……竹下くん……」
「いいから、ほんといいから」
掠れたヒトミの声に、ケイスケはややぶっきらぼうな口調で返してしまった。
そしてそのままベッドへと直行してヒトミを寝かせることにする。
「とりあえず、体温だけ測っとこう。水かなんか持って来ようか?」
ヒトミは答えない。
それどころか、掛け布団をかぶって、顔を見せないようにしてしまった。
「ごめん……ごめんね……ごめんね……」
そしてそのまま、謝罪の言葉を繰り返すヒトミ。
ケイスケは、立て掛けてあったパイプイスに腰かけ、彼女に背を向けて座った。
彼女がなぜこうなったのかは、もはや考えるまでもないことだった。
問題になるのは、どうしてこんなことになったのかである。
(くそっ!)
心の中で悪態をつき、頭を抱えるケイスケ。
あの自称神様の言うことを認めるわけにはいかない。だが、だったらどうすればいいかという問いには答えられぬまま、ただただ時間の針だけが動いている。
繁栄の神とやらの言葉が事実であれば、あと一日と数時間の間に誰が異世界へ行くかを選択しなければならない。
昨日も考えたことだが。日常に退屈しかないケイスケとて、さすがに高校すら卒業しないうちにこの世界とサヨナラするのには抵抗があった。
二十歳になったら、煙草はどうでもいいが酒はイロイロ飲んでみたい。
初体験もまだだし、結婚して自分の子供の顔を見てみたい。
娯楽が大好きとはいえ、仕事もすることになるだろう。親が学業優先思考で、お金にも余裕があるためバイトもしたことはないので、働いてみたいという気も多少はある。
しかしいざ労働中心の生活になれば、きっと休日が恋しくなるだろうが、それでもどんな職業に就きたいかは既にいくつか考えている。
そこまで思考が至ったケイスケは、自分の中に黒い霧が蠢くような感覚に襲われた。
背後ではヒトミの、すすり泣くような声が聞こえる。
彼女とて、異世界に行くつもりも、当然死ぬつもりもないのだろう。
それならばなんとしてでも、生き残る術を考えているに違いない。今こうして憔悴しきってみせているのも、もしかしたらケイスケの同情を引くための演技かもしれない――
「…………ッ!」
なにを考えているんだ、とケイスケは自分の頭を自分で軽く殴りつけた。
そんな筈ない。彼女のさっきの苦悶の表情なんて、嘘でできるわけがない。
しかしいくら心でそう思おうとしても、一度心に巣食った影は一向に消える気配がなく。
それどころかどんどん膨らみ続け、すべてを黒く塗りつぶさんと広がっていた。
いま学校に来ていない村上とトウコにしてもそうだ。
村上はトウコがこの世界に残るために死力を尽くすだろう。むしろこの窮地を乗り切って、絆を強めることすら考えているかもしれない。そうなれば、奴は迷いなくケイスケかヒトミを生贄にする道を選ぶだろう。
トウコはもっと厄介だ。彼女は頭がいい。どうすればいいかを考え、既に行動に移していると考えるべきだ。昨日遅刻してきたのも、その前準備をしていたと考えれば辻褄が合う。
そもそも本日揃って学校を休んでいる時点で、ふたりで示し合わせてなんらかの結論を導き出している可能性が高い。トウコが村上を抱き込むのは容易いだろうから、あとはヒトミかケイスケか、どちらかと結託できれば勝ちは確定する。
ごくり、とのどが猛烈に渇いてきた。
昨日の放課後以降トウコとは連絡がつかないでいた。
村上からも一通メールが来ただけだ。
ヒトミも同様だと言っていたが、それは本当に事実だったのだろうか。
もしかしたら昨日の時点で、既に話し合いは終わっていたのではないだろうか。
そもそもトウコとヒトミは仲がよく、女同士ということもあってなんでも話せる仲のいい親友という関係だ。
それならば、トウコがヒトミを犠牲にするとは考えにくい。それならば、残るのは必然的に――
(もしも、三人が既に意見を合わせ終えているなら、俺は……)
カチカチと歯が音を立てだした。
体が小刻みに震えている。運動して流れ出た熱い汗とは真逆のものが、つうと背筋を垂れている。
冷房がきいているとはいえ、まるで真冬のような寒気がケイスケに襲い掛かっていた。自分がちゃんと息をしているのかすら、ケイスケはあやふやになっており、いつのまにか目の前が暗くなっていた。
「あ、あれ。なんで」
すぐに視界は良好になった。
いつの間にか、感情が高ぶりすぎて両目をつぶってしまっていたらしい。
自分のあまりの混乱ぶりを自覚したことで、逆にわずかに冷静さを取り戻したケイスケは、何度か深呼吸を繰り返した。消毒液の匂いが少々鼻についたが、それでもどうにか歯は鳴らなくなった。
不審がられていないだろうか、と思いケイスケはおそるおそるベッドの方を振り向くと。
ヒトミは寝息を立てて眠っているようだった。
おそらく夜もろくに眠れていなかったのだろう。
不安に押しつぶされているのは彼女も同じだと察し、肩から力が抜けるのがわかった。
「そうだよ。そんなこと、あるわけないじゃないか」
ひとり相撲をしていた自分が無性に恥ずかしくなった。
ケイスケはベッドを見ているのがいたたまれず、カーテンを閉めて息をつく。
真正面にある鏡を見てみれば、自分に若干隈ができていることに今更ながら気がついた。
退屈を嫌い、非日常の世界に憧れ、そして今まさにその世界に足を踏み入れている。
いよいよとなれば、異世界で勇者という憧れのシチュエーションが待っている。
その筈なのに。
いまはこれまでの日常に戻りたいと強く願っている。
現金なものだと、ケイスケは苦笑してしまった。