猛獣
憂鬱な心地のまま学校の校門を通り過ぎ。
下駄箱の近くまで来たところで、ケイスケはふたりの生徒がなにかを言い争っているのが聞こえてきた。
「だからさぁ。なんでわっかんねーかなぁ? それがお前のためだっつってんだよ!」
「し…………しりま、せん。そん、なの」
片や怒鳴り散らす男子生徒、片や消え入りそうな声の女子生徒。
こういうときにケイスケは、野次馬根性を発揮するタイプではない。
娯楽を愛する人間であるとは自覚しているが、他人同士の諍いやプライベートにまで首を突っ込めば、さすがに話が変わってくると理解しているからである。
しかし上履きに履き替えている最中も、両者の話はケイスケの意思とは無関係に続いていた。
「つーか、こないだも何で来なかったんだよ。俺ぁ、放課後もずっと待ってたんだぞ?」
「だ、だから……約束なんて、してないですし……あの日は、ちょうど、お母さんが熱を出して……」
「毎度毎度、そういう言い訳はやめろってんだよ! あのお遊びクラブの連中とは、バカみてーに遊ぶ時間あるくせによォ!」
声のボリュームが尋常じゃなくなったことと、話の内容から、ケイスケはさすがに何事かとわざわざ目を向けに行かないわけにはいかなかった。
見れば男子生徒のほうが、女子生徒を壁際まで追い詰めてしまっているようで。
そんなまったく嬉しくない壁ドン状態で迫る男子生徒に、女子生徒のほうは鞄をぎゅうと抱きしめ、完全に俯いてしまっている。
「うわ。また矢間本のヤツだよ」
「とうとう女子にまで手ぇ出してきたかよ」
野次馬をしている周囲から、ヒソヒソと話す声が聞こえる。
そのときに聞こえた名前が、ごらけんのひとりにちょっとした因縁のある相手であったため、ケイスケの意識はわずかに動いてしまった。
「噂じゃ、こないだ他校の生徒に絡んでカツアゲしたって話だぜ」
「それだけじゃねぇよ、裏じゃクスリもやってるとかなんとか」
「マジ? とっとと問題でも起こして、退学にでもなっちまえばいいのになぁ」
そんな陰口が耳に届いたのか、矢間本はぎょろり、と三白眼をそちらに向けると。
「なに、なんか言いたいことあんのかよ。だったらグダグダ言ってないでかかってこいや」
視線を向けられた連中は、矢間本が言葉をすべて言い終わらないうちに、そそくさとその場を去っていた。
かくいうケイスケもまた、その場を立ち去りたい衝動には駆られていたが。
絡まれている女子生徒が誰であるかがわかってしまってからは、そうもいかなかった。
「おい。や、やめろ」
結果ケイスケは、男子生徒に近づいてそんな声を出してしまっていた。
言うからには格好良くいきたいところだったが、心情が隠し切れなかったせいか、軽くどもってしまった。しかも元々格好つけられるようなキャラじゃないのに無理をしたせいで、暑さから流れるものとは違う汗が、既に滝のように流れてしまっていた。
しかしそんなキャラ崩壊を起こしてもなお、口を出さずにはいられなかった。
「あぁ? なにが『やめろ』だよ。俺はただドーキューセーと話してただけだろうが」
近づいてくる男子生徒を間近で見て、ケイスケは思わず唾をのんでしまった。
百八十センチはありそうな高身長で、体格も細身なケイスケと比べるまでもなく、素人目でも胸板や腕が格闘技をやっている筋肉のつきかたをしているのがわかった。実際に、顔や拳には傷のような赤みが無数にあった。
制服のブレザーは羽織るようにして着ており、シャツのボタンは大半は外すものという概念で、ネクタイなど存在すら知らないかのように無着用だ。
事情もわからず、何の策も持たず割って入ったのは我ながら向こう見ずだったかと今更思うケイスケだったが。その女子生徒――ヒトミが、泣きそうになっているのを見せられてはウジウジ悩んではいられなかった。
「い、嫌がってるじゃないか」
「はぁ?」
矢間本が視線を向けると、ヒトミ本人はとうとう本当に涙を流しはじめてしまっていた。
「チッ。お前なぁ、こんなことくらいで泣いてんじゃねぇよ!」
舌打ちし、壁を殴りつける。それがまた彼女の恐怖心を加速させ、もはや立っているのも辛そうなほど全身が震えてしまっていた。
「やめろ!」
ケイスケは、自分でも驚くほど大きな声を出したことに少し自分でも驚いた。
しかしそれ以上に驚いたのは、体が勝手に動いて、気付けば矢間本の胸倉を自分の右手が掴んでしまっていたことだった。
矢間本も、その行動には虚をつかれたのか、わずかに目を見開かせた。
「……へぇ? そんなツラもできんじゃねぇかよ。いつもとはまるで別人じゃねぇか」
「は? な、なんの話だよ」
矢間本はその発言への返答はせず、笑みを浮かべた。
しかし口は笑っていてもギラつく両目がまるで笑っていないのが、間近で見ているケイスケにはわかってしまった。
まるで子兎を狙う猛獣のように、舌なめずりをして目の前の獲物をどう狩ってやろうかと思案しているのを、隠す気配がまったくない。
そうして萎縮している間に、胸倉に伸ばした右腕を掴まれてしまっていた。
「……ぅっ!」
そのまま片手でわずかに力が込められただけで、骨にヒビが入ったんじゃないかというほどの痛みが脳に伝わってくる。
気持ちでは負けないつもりだったが、体のほうが正直に反応してしまい、右足が自然と後ろに下がってしまった。
ひとつ亀裂が入ってしまえば決壊するのは早く。
鼓動がどんどん激しくなり、手や足に力が入らなくなっていく。
そのまま腰が抜けて崩れ落ちてしまう醜態を晒してしまいそうになったが。
「おいそこ! なにをしてる!」
寸前で横槍が入った。
さすがにここまで大きな声を出していれば教師の耳にも入ったようで、何事かとひとりの中年教師が駆け寄ってくる。
「チッ。いいとこだったのによ」
矢間本はケイスケから手を離し、両手をズボンへと押し込めた。
緊張から解き放たれて、ケイスケはつい安堵の息を漏らしていた。
「お、おまえたち! 朝っぱらから何の騒ぎだ!」
「うっせぇな。俺はただ、世間話をしてただけだっての。なぁ?」
教師からの糾弾に、矢間本はわざとらしく肩をすくめ、外面だけの笑みを作り、周囲の生徒へと声をかけていたが。
教師の視線から外れたその眼が、どういう色をしているのかは言うまでもなかった。
現に水を向けられた生徒たちは、いささかひきつった笑顔で「そうです」とか「なんかふざけていただけですよ」とか、変に矢間本を刺激しない返しをしてその場を離れていく。
そもそも事の発端であるヒトミが、なにも発言できないほどに縮こまってしまってるため、これではケイスケが抗議をしたところで、逆に事を大きくしてしまいかねない。
そんな歪な状況に、教師には明らかに『何かあった』空気は伝わっただろうが、
「お前たち、もう二年生だろう。つまらんことに時間を使うもんじゃない。わかったな!」
その教師は当たり障りのない言葉だけを残して、早々に立ち去っていってしまった。
不用意につついて場をややこしくするよりは『何もなかった』として見てみぬ振りをするほうが利口だと判断したのだろうか。まったく、善良な教師サマだとケイスケは思う。
「やれやれ。それじゃあな、また明日」
そして矢間本は『また明日』の部分を強調して、去っていった。
完全に目をつけられたのは明白だった。
とはいえ、ケイスケとしてはもしまた同じようなことが目の前で起こっていたら、迷わずまったく同じ行動をとるだろうとは自覚していた。
「ごめんなさい、竹下くん」
やがて、塞ぎこんでいたヒトミが近づいてきて、頭を垂れさせていた。自分から近づいて来ることができたことを鑑みるに、少しは落ち着いたのだとケイスケにはわかった。
「気にすることないって。俺が本気になれば、不良のひとりやふたりや三人や四人……」
「あ、そ、そうじゃないの。もちろん、さっきのこともだけど」
活気づけるべく、軽口を叩いたケイスケだったが。ヒトミの方は戸惑った様子で、明確に口に出すことを憚るような仕草をとった。
それによって、ケイスケもすぐにヒトミがなにを言いたいのかを理解した。
「昨日のこと、か」
こくん、とヒトミは頷く。
まだ少し周りの目が届いていたので、ケイスケはヒトミと共に自分の教室へ行きますよという体を装って階段を上がり、そして自分たちの教室がある三階から更にもうひとつ上った、階段の踊り場で話の場を設けることにした。
「わ、私。どうしたらいいのか、全然わからなくて。だってこんなこと、お母さんに相談するわけにもいかないから、もう、私、わたし……」
たどたどしくも、口を開かずにはいられなかったことがわかるほどの早口で、ヒトミは不安をぶちまけはじめる。
涙目になって潤んだ瞳に、ぎゅぅと握り締めすぎて赤くなっている小さな両手、そして残暑の只中にあるこの季節でも震えている足、それらは今にも恐怖に押しつぶされそうな心を如実に表していた。
ケイスケはどう返答すべきかを一瞬迷ったが、
「落ち着いて。とにかくまあ、あれはきっと夢だって」
簡潔な答えを伝えるだけに留めた。
「ちょっと変な夢を、偶然みんなが一緒に見ただけ。夢は夢だよ。村上もトウコさんも、きっとそう思ってるさ」
当然ながらケイスケはほぼほぼそんなことを思っていなかったし、いくら純朴なヒトミだとしてもその嘘にはさすがに騙されないだろうともわかっていた。
けれど。数コンマ程度の確率でも、ただの夢である可能性を口に出す以外にケイスケの頭に選択肢は浮かばなかった。
「だ、だけど、竹下くん……」
「それにさ! 夢じゃなかったとしても、心配することないさ! きっとトウコさんが、何か対策を考えてくれてるって! 完璧頭脳を持ったあの人さえいれば、変な詐欺にはまずひっかからないし。あの人なら天変地異すらなんとかできると思うよ。いやホント」
食い下がろうとしたヒトミを、やや強引にケイスケは押し切ろうと言葉を続ける。
正直胸が痛む思いであったが、こうでもしなければズルズルと意識が悪い方向へ流れてしまうと、本能が警鐘を鳴らしていたため、わざと笑顔を作って声を張り上げ続ける。
「あとはあれだな。村上が悪ノリさえしなければいいんだけど。まああれだよ。村上も、あれでフザけていいことと悪いことはわきまえてる奴だからな。ははは」
空元気もいいところの猿芝居ではあったが、そこまで言ったところでようやく、
「そう……だね。うん。心配、いらないよね」
「そうだよ。そうそう」
ぎごちなくではあったが、ヒトミの頬もわずかに緩んでくれた。
「ありがとう。少し、気が楽になったよ」
「それならよかった」
「それじゃあ、竹下くん。また、放課後にね」
そうして足早に去っていくヒトミの作り笑いに、ケイスケは胸が痛かった。
自分はいつも適当なことを言ってその場を誤魔化して、肝心な部分は誰かや何かに頼ることしかできない。
感じていた鬱屈さが、再び込み上げてきそうだったので、頭を振って自分も三階へ戻り、気持ちを切り替えて教室へと向かおうとしたところで、
「竹下ぁああああ!」
後ろから、猛スピードで駆けてくる村上の姿が見えた。
昨日走るなと言われたにも関わらず、廊下は走るなという教師の声を完全に無視して全力疾走してくるその姿は、なんとも目立つものであったが。
同学年の連中は「ああ、またいつもの奇行か」とスルーしている。
「た、竹下!」
そのまま眼前にまで迫ってきた村上に、ケイスケは眉を顰めて体を押し返す。
「なんだよ。朝っぱらから暑苦しいな」
「終わりだ……もう、おしまいだよ、俺は……」
手に村上の汗がついて気持ち悪い、とか思っていたケイスケだったが。
いつになく表情を落ち込ませ、わなわなと震えているその様を見れば、さすがに気持ちが切り替わった。
(まさか、コイツに限って思いつめてるなんてことは……)
ケイスケは自分の体が強張ってしまうのを感じ、
「今日、トウコさんと、一緒に登校できなかったんだよぉぉぉおおおおおおお!」
(あ、大丈夫だ。いつもの村上だ)
すぐにそれが弛緩するのがわかった。
「それがさ。今日トウコさんにモーニングコールしたんだよ。無視されるのは毎度のことだけど、携帯と固定電話に五回づつぐらい連続で電話かけても、まるで返事がなかったんだよ! たいてい三回くらいで、トウコさんに怒鳴られるか、親父さんに注意されるかするのに。親父さんはともかく、トウコさんまで留守な筈ないんだよ。昨日は、帰り道ちゃんと尾行して家に帰ってそのまま部屋の電気が消えるところまでしっかり確認したし」
「うん。いくつかツッコミどころがあったけどスルーするわ」
「さすがに昨日の今日だからなにがあったのか心配になって、家に突撃してインターホンを五十連打くらいしたら、やっと出てくれたんだよ。インターホン越しだったけどさ。そしたら、気分が悪いから病院に寄ってから学校行くって言われたんだ! こんなことってあるかよっ! お、俺は午前中、一体なにをして過ごせばいいんだぁああああああ!」
「いや、普通に授業受けろよ」
そのあとも延々とトウコ不在に対する自らの苦悩さ加減を語る村上に、さすがに付き合いきれなくなってきたケイスケは、予鈴が鳴ったところで村上をなんとかなだめた後、自分の教室へと入りやれやれと机につっぷした。
もっとも、村上を適当にあしらったケイスケとて、トウコのことが気にならない筈はなかった。
改めてケイスケも携帯電話にコールしてみたが、返ってきたのは、
『三限目くらいには登校するから』
という素っ気無いメールだけであった。
トウコはあれでズル休みをすることはなく、小中高と皆勤賞だったことも村上が覚えていた。彼女のあの裏表ありありの性格ならば、面倒な授業などはもっとうまく立ち回りそうな気もしたが。サボりや早退も、まったく皆無だったらしい。
そんなトウコが初めて遅刻をしたことは、確かに由々しき事態かもしれない。
それから一限目がはじまってからも、村上には偉そうに言ったくせにケイスケも授業をろくに聞いていなかった。