日常ではない日常
【二日目】
痛い。
ケイスケの頭は、右手から伝わる熱を感じ取った。
枕元のリモコンで電灯を点け、頭をガシガシとかきながら体を起こして原因を探ってみると、飼い猫のモモがケイスケの右腕にじゃれつき、爪を立てているのがわかった。
白い毛並みにうっすら赤が混じって、そこだけ本当に名前どおりの桃色になってしまっていた。
早々にモモを振り払ったが、右手にはしっかりと三本線がついて、わずかに血が滲んでしまっていた。
どうして自分の部屋に、と思って首を回してみれば、扉がかすかに開いておりそこから潜入したようだった。前々から建てつけが悪かったが、どうやら本格的に閉まらなくなってしまったらしい。
溜め息をつきつつモモの首根っこを掴んで荒っぽく部屋の外に放り出したあと、目覚まし時計を確認してみれば、時計は三時ちょうどを示していた。
「え?」
カーテンからは、うっすら陽が差し込んでいる。深夜三時でこうも明るい筈はなく、かといって今は決しておやつの時間などではない。
慌てて携帯を掴んで液晶画面を確認してみれば、時刻は六時五十五分を刻んでいた。
そしてそれは、ケイスケが普段起床するべき時間の五分前であった。
そこでようやく、目覚まし時計の秒針がピクリとも動いていない事実と、自分がモモに救われたことに気がついて慌てて部屋の外を見たが。機嫌を損ねた飼い猫はとっくにどこかへ行ってしまっていた。
ケイスケは申し訳ない気持ちを抱えつつ制服に袖を通し、トイレを済ませて顔を洗って適当に髪をセットしてリビングへと向かった。
「おはよう。母さん」
「ケイスケ、起きるなら、もっと早く起きるようにしなさい」
挨拶に対し、返ってくるのが母からの小言であるということに対して、言いたいことが多大にあるケイスケだったが。口からは反論ではない言葉を出しておいた。
「うん。そうだね、気をつけるよ」
「大学受験までそこまで時間はないのよ? 少しはフミカを見習いなさい。あの子、中学生になってからソフト部の朝練で五時には起きてるんだから」
(妹が部活で早起きするのと、俺の受験は関係ないだろ)
と心の中で思ったケイスケだが、妹は部活でも勉強でも優秀なスーパー人間なので深くは突っ込まずにおいた。
冷蔵庫からパックの牛乳を取り出してコップに注いだあと即効で飲み干しつつ、とりあえず寝坊しなくて良かったと密かに胸をなでおろす。そうでなければ、食事タイムが完全に説教タイムと化していたことだろう。
「ああ、そうそう、やっぱり今月もお父さん帰ってこれないみたいよ。例の患者さん、容態がまだ少しよくないだから。まったく、他のお医者さんももっとしっかりして欲しいわね。まあ、お父さんが優秀すぎるっていうのはもちろんあるんだけど」
「うん、そうかもね」
「お父さんも、すこしは休みをとって欲しいわよねぇ。私も、専業主婦に専念できるのはいいんだけど。やっぱりたまには、お父さんとどこか行ったりしたいし。もちろん、働いてるお父さんも好きなんだけど、やっぱりねぇ」
延々と続く世間話のようなノロケ話に適当に相槌をうちながら、粛々と食パンと目玉焼きを頬張る。
本当ならさっさと済ませたいところだったが、あまり早すぎると「もっとよく噛んで食べなさい」と叱られるため、ほどほどの速さで片付けるよう心がけているのだった。
そうして食事を済ませ、それ以上の説教を食らわないうちに家を出る。
いつもの通学路を、いつものように歩く。
だが。
家を出て完全に自分ひとりになり、いつもの日常ならば本日の部活のことなどに思考を巡らせる通学タイムとなる。
しかしそうやって冷静に物事を考えられる余裕が与えられたことで、これが決していつもの日常などではないことを、ケイスケは嫌でも思い出さずにはいられなかった。
※
あの空間からは、いつの間にか戻っていた。
慣れ親しんだ教室のレイアウト、窓から差し込む夕暮れの紅い光、校庭から聞こえてくる野球部顧問の怒鳴り声、部室内に響くゲームの効果音、座っている木製の椅子の感触、それらすべてが謎の空間に行く前と後で、まったく変わらない状態だった。
プレイ中だったゲームはそのまま続いていたが。四人全員が全員とも放心した状態で、手からコントローラーを取り落としていたため、画面内のコミカルなグラフィックのキャラクターは完全な棒立ちになっていた。
そうこうしているうちに、敵のキャラクターにプレーヤーキャラのひとつが接触された。
『殺されちゃった〜』
画面内から発せられた、おどけた口調のその声に、全員がビクリと体を震わせる。
それだけで、全員がさっきまでの体験を記憶していることをお互いに察した。
それでもなおケイスケは、夢かなにかと思いこもうとしたが。
意見をすり合わせた結果、四人が全員同じ空間に囚われていたことを証言しており。
他にも夢ではない証拠として、自分たちと同様にあの空間に取り込まれた携帯電話は、時間表示に三十分のズレがあったのである。
つまりそれだけの時間を、あの空間で確かに過ごしたのだということだった。
そうした裏付け確認をし終えたあと、なにを話したのかケイスケは正直あまりよく覚えていなかった。集団催眠だとか、白昼夢だとか、そんな話だったような気がするが詳細はうろ覚えだった。
誰がどういう順番で帰宅したのかすらも曖昧で。通りかかった軽音楽部の先生に、早く帰るように言われたのがきっかけだったことだけを、おぼろげに把握している程度だった。
※
そうして昨日のことを思い出しているうちに、いつしかバスの停留所に着いていた。
思考に没頭していても、体が登校ルートを記憶しているからだろう。
(こういう現象のこと、何て言うんだったかな……)
ケイスケはそんなことをぼんやりと思ったが。
停留所にちょうどバスが来たことで、すぐに頭からそんな考えは消えていた。
すぐバスに乗れてラッキー、などとは思わない。時間通りに来ているだけだから当たり前だと思ったが。
そんな、遊び心などまるでない、つまらない現実的な思考をしてしまった自分が、たまらなく嫌だった。
バスに乗って、適当な席に座ってからも、ケイスケの頭は不安なままだった。
異世界に行く、選ばれた勇者、なんて言葉は、かつては小躍りして喜ぶようなものだった。
けれど、昨日目の当たりにした凄惨な現場に、自分が行くかもしれないと思うと。どうしても恐怖が先に立ってしまっていた。
もちろん、あの自称神様曰く、勇者と呼ばれる存在を厳選しているのだから、とんでもなくすごい力が秘められていることは想像に難くないが。
だからといって、そう易々と承諾できるほどケイスケは楽観的ではなかった。
「……くそっ」
うっかり悪態が口から出てしまった。
近くで談笑していた女生徒たちが、怯えた様子でこっちを見ていた。
自分の外見は、そこまで良くも悪くもないと思いたいケイスケだが、自分が思った以上に声に悪意が篭ってしまっていたらしい。
普段であれば、軽く頭を下げる程度で終わっていたところだったが。
その女生徒たちを庇うようにしてきた生徒が、
「なんなんだね。急に。他の生徒を怯えさせるような行為は慎むことだな」
声に温度があれば、冷たく感じられそうなものがぶつけてきた。
そこにいたのは、生徒会長のザ・メガネだった。
「すいません」
いささか剣呑な声になってしまった感が否めないが、それでもこちらが悪いのは確かなのでケイスケは素直に頭を下げた。
「フン。本当にわかってくれたのなら、それでいいんだがな」
鼻を鳴らしたあとも、ザ・メガネはしつこくねちっこく、言葉を続ける。
「キミは確か……二年一組の竹下君だったな」
「はあ、そうですけど。なんで俺の名前を?」
「フン。生徒会長たるもの、全校生徒の顔と名前を覚えておくのは当然だろう」
ふふんと胸を反らせるザ・メガネ。
顔と名前を覚えるなんていうのは、漫画ではやっているのをよく見かけるが。本当にやられると、ケイスケとしては正直引く。
現に庇われている筈の女子生徒の何人かが、嫌そうに顔をしかめていた。
「わが校の健全な生徒を守るのが私の使命だ。だから、キミがなにかしら不祥事を起こすようなことがあれば、容赦なく糾弾するからそのつもりで」
しかしザ・メガネは自分に酔っているのか、バス内で人目も憚らず声を張り上げ続ける。
「それと! 日比谷くんに、あまり迷惑をかけないことだな。彼女はキミとは違い、この学校を……いや、この世界を背負っていく人材であるのだからな!」
そうこうしているうちに、バスは終点まで辿り着き。
ザ・メガネは意気揚々と去っていった。
ケイスケは、ゆっくりと最後にバスを出て。
「そうですね。トウコさんも、世界を変える候補のひとりに選ばれたみたいですよ」
忌々しげに、そうつぶやいた。