日常風景
【一日目】
学生の本分は学業である、というのが私立・華湊西高校の掲げる校風である。
都心から少し、というにはいささか距離がある程度に離れた地域に存在するこの学校ではあるが、その捻りも遊び心もない校風に違わぬ進学実績を誇り、それでいて運動部においても常に上位に食い込む快挙を見せているという、知る人ぞ知る有名校である。
とはいえ、そこに通う誰も彼もが勤勉な模範生徒というわけではない。いち人間であり、思春期の学生であり、子供である生徒たちは、日々を学業以外に費やしてしまうことも少なくない。
華湊西生のひとりである竹下桂介もまた、うわべだけは制服である紺色のブレザーを崩すことなく着て、ネクタイもしっかりつけて、模範生を取り繕ってはいるが。
心の中はまったく模範とは程遠いことばかりを考えていた。
「えー、ということで、夏休みが明けていつまでも浮ついた気持ちでいてはいけません。我々生徒会も気を引き締めていこうと思います」
いま現在は月に一度、月曜日六時限目のHRに行われる生徒会集会の真っ只中なのだが。ケイスケは、ザ・メガネと言わんばかりにメガネをキラキラさせている生徒会長の話を右から左に聞き流し、思考に集中していた。
もっともそれはケイスケに限った話ではなく、過半数の生徒は授業がひとつ無くなるからラッキーとか、さっさと済ませて早く帰らせろよ、という思考でいるのは間違いなかった。
この集会のあとは教室に戻ることなく解散となるので、集中しろというほうが難しい。それこそ、なにか特別なことでもない限りは。
「それでは最後に、今学期より生徒会役員となった新しい仲間を紹介致します」
そんななかケイスケは、ザ・メガネのその言葉を耳にしたとき。没頭していた思考を一時中断し、目の前の壇上へと意識を移した。
そして。袖から静かに女子生徒が歩いてきた直後、ケイスケ以外に集会を聞き流していた生徒たちの意識も、完全に壇上へと向いたのがわかった。
「ご紹介に預かりました。二年三組、日比谷灯子です。今学期より、私も生徒会の一員となりました。どうぞよろしくお願い致します」
体育館に凛と響き渡ったその声に、あちこちからほぅと溜め息が漏れる。
簡単な挨拶の一挙手一投足のひとつひとつに、羨望の眼差しが注がれ、一礼のあとに退場するさまに至るまで、まさしく模範生の代表と言わんばかりの一挙手一投足で、集会の空気が完全に一変しているのがわかった。
立ち去る際に制服のスカートがかすかに舞った程度でも、男子生徒の胸が高まっている。ダサいと定評のある紺一色の制服すら、彼女にかかれば上級者コーディネートだった。
生徒会のひとりが拍手をすると、次々に周囲からもパチパチパチという拍手が贈られる。それが適当に周りと合わせているだけではない、しっかりとした拍手であると感じつつ、ケイスケもそれに習っておいた。
「日比谷さん、やっぱ美人よねぇ。一週間に最低ひとり告白してるって噂、マジなのかな」
「わー、うらやましぃ。言い寄ってくる男のひとりでも分けてもらいたいもんだわ」
「ねぇねぇ、そういえば河野さんってあの人と仲いいんじゃなかった?」
「ふーん、そうなの? ねえ、河野さん。それならちょっと紹介してよ」
ふいに隣に立っている女生徒たちがヒソヒソと囁き合うのが耳に届き。そしてその会話が、あるひとりの女生徒に向けられたことで、ケイスケの意識はそちらへと動かされる。
「え、あ、あの……そ、その……」
しかし振られた当の女生徒はというと、ただただしどろもどろになるばかりで。ろくに相槌すら打てないほどにうろたえてしまっていた。
「あ、でもさ。日比谷さん目当てに集まってくる男連中じゃ、私らに興味ないかなー」
「それなら、今度東高の男子と遊ぶんだけど。一緒に行くー?」
そうこうしている間におしゃべり女生徒たちは、すぐに自分たちの話に戻ってしまった。
そんな様子を横目で見ながら、生徒間でまたトウコの話がしばらく話題になるだろうな、とケイスケは肩をすくめて。
(そういえば……あいつ、どうしたんだ?)
ふと、友人である村上が今現在静かにしているのがすこし気になった。
トウコ命のあいつなら、壇上に姿を見せた時点で横断幕のひとつでも取り出して声を張り上げでもするかと、集会前から本気で気にしていたのだが。そんな目立ったことをする生徒はどこにもいない。
さすがに集会の場ではあいつも自重したか、とそのときは胸をなでおろしたケイスケだったが。
集会終了後、帰りがけに体育館の入り口でバケツを両手に持って立たされている男子生徒が目に入った。
目に入ったが、新学期初日からそんな大馬鹿をやらかす人物は一名しかおらず、話かけて悪目立ちするのも嫌だし事情は後で聞くことになるのだから、と華麗にスルーしておくことにした。
そうしてケイスケは、帰宅する大半の生徒の波からは外れ、かといって部活棟へ向かう一団とも外れ、校舎へと戻っていった。
その姿を見たほとんどの生徒は図書室で残って勉強でもするのかな、と思ったことだろうが、階段を上るケイスケの足は図書室のある二階を過ぎ、二年と三年の教室が並ぶ三階も通り過ぎ、四階へと到達していた。
二年生であるケイスケはもとより、四階への階段を上る生徒は少ない。なぜなら四階には一般教室はなく、音楽室や美術室などの授業で使用する教室だけが占拠しているからである。
授業時間以外でこの階に来る生徒は、吹奏楽部と美術部と、そしてケイスケが立ち上げた『娯楽研究会』だけなのだった。
研究会、などと銘打ってはいるが、実際は同好会である。名前を考えたときに、そちらの方が格好いいかなというフィーリングで決められた程度のものである。
そしてそんな同好会に対し、既存の部室棟に部屋が与えられる筈もなく。校舎の端の端にある、日当たりのあまりよくない空き教室が割り振られたのである。
だがケイスケとしては、あまり人目につかずに済むので階段を上る面倒以外は、気にしていなかったりした。鼻歌混じりに『空き教室』と書かれたプレートの下に小さく『娯楽研究会』と補足書きしてある教室へと入る。
冷房の涼しい風が頬を撫で、ケイスケはほっと息をつく。集会前にこっそり冷房をつけておいたので、室内は既にひんやりと過ごしやすい環境が整っていた。
「よし。今日の活動はやっぱレトロゲーにするか」
集会中ずっと考えた末の結論を、明確に口に出して誰ともなしに意思表示をしたのち、ケイスケは掃除用具入れのロッカーにつけられた鍵を開ける。だがそこには掃除用具など一切入っておらず、その代わりに『あるもの』が詰められていた。
まず、一番その中を占領しているのはゲーム機だった。最新機種からレトロなものまで数多く揃っており、ゲーム同好会も顔負けのラインナップだと言えた。
そしてその他にもトランプ、花札、将棋盤、漫画、DVD、けん玉からボウリングの球に至るまで。様々な娯楽用具が所狭しと敷き詰められていた。
「そろそろまた少し、中身の入れ替えするかなぁ」
そのコレクションをしみじみと数秒のあいだ鑑賞したケイスケは、ファミリーゲーム機のひとつを取り出し、それを教室に備え付けてあるテレビと繋げる。
接続できたのがわかったところで一旦椅子に腰を下ろし、携帯を取り出した。
「はーい、どうもー。娯楽マスターKでーす。ようやく放課後になりましたー。本日の娯楽研究会、略して『ごらけん』の活動は、第九回レトロゲー大会をしたいと思いまーす」
動画機能をONにして自撮りモードに切り替え、わざと間延びした口調でしゃべっていく。この口調がケイスケが実況する時のキャラなのだが、ネット民たちからは微妙にウザいと賛否両論だったりする。
「今はまったり他メンバー待ってまーす。やっぱりひとりだとさびしいでーす」
そのとき扉が音を立てて開き、ひとりの生徒が入ってきた。
ケイスケがそちらに目をやれば、そこにいたのは先程まで全校生徒の注目を浚っていた、日比谷トウコその人だった。
ふたりの関係性を知らない者がこの状況を見れば、空き教室を勝手に使っている生徒に生徒会役員が注意をしに来て、即日退去を言い渡される場面を想像したかもしれないが。
「だー、つっかれた」
その新進気鋭、眉目秀麗、才色兼備の生徒会役員であるの筈の女子生徒は、豊満な胸元が開くのも気にせず制服のネクタイをゆるめ、どっかと乱暴に椅子に座った。
かと思えばスカートなのを一切気にせず足を組み、学校指定の鞄からペットボトルの林檎ジュースをラッパ飲みしはじめた。
そんななんとも奔放な彼女の姿に、ケイスケは思わず頬を緩ませる。
「お疲れ様です。トウコさん。二学期初日から大変そうですね」
「ホントよまったく。あのあとクラスの奴らにまとわりつかれるし、生徒会連中もどうでもいいこと延々話してくるし。いきなりこんな疲れさせないで欲しいわ」
本音を隠そうともしないその姿に、ケイスケはついつい発言が敬語になってしまっていた。
敬語は必要ないと前々からトウコ本人にも言われているのだが、彼女を前にするとどうにもかしこまってしまい、それはケイスケをはじめほとんどの生徒がそうであり。
時には教師までうっかり敬語を使う時があったりする。
「それよりなに? 今日はまたゲーム動画投稿でもするの?」
「ああ、いえ。これはいつもの暇つぶしですよ」
「ふーん。じゃ、普通にゲームするだけなのね。まぁ、こないだのボウリングみたいに、クラス連中と鉢合わせしたら優等生演技が面倒だからちょうどいいけど」
演技するの前提なのか、と苦笑し、ケイスケは携帯を切ってポケットにしまっておいた。
トウコの身長は女子の中ではかなり高いため、着席した状態だとケイスケのほうが小さく見えてしまう。さほど姿勢よく座っているわけでもないのに、芯を崩してはいないのかどこか優雅な印象を抱かせられる。
いつもの優等生状態でも人気は高いが、今の崩した状態でもそれはそれで絵になるため、どっちみち好かれるだろうなとケイスケはいつも思わざるを得ない。
そのとき、扉がカラカラと静かに開いてひとりの女生徒が顔を見せた。
「あ……ふたりとも、遅れてごめんね」
はにかむような笑顔と共に、しずしずと入ってきたのは河野ヒトミ。開けた扉を律儀に扉の側を向いて閉めなおしているさまは、旅館の従業員を髣髴とさせる佇まいだった。
「あ、ヒトミ。こないだ言ってた漫画。古本屋で見つけたから買っといたよ」
「え!」
しかし、トウコがそんな言葉を発した瞬間、ヒトミはギュンと高速で首を回し、目を爛々と輝かせ、ごくりとのどすら鳴らしつつ、瞬間移動かというほどの脚力でトウコとの距離を詰めていた。
「そんなに焦らなくても、漫画は逃げやしないってば」
そしてトウコがお目当ての品を鞄から取り出すと「ほわぁあああ」と妙ちきりんな奇声を発し、その漫画の表紙を食い入るように見詰め続けるヒトミ。
「なに、なんの漫画?」
その尋常ならざる様子に、ケイスケは深く考えずに質問したが、間髪入れずにずずいと近づいてきたヒトミの表情を目の当たりにしたことで、その漫画の重要性をその時点で知らされた。
「この漫画はね! 十年と三ヶ月前に雑誌で七ヶ月だけ掲載されていた作品を単行本化したものなの! 有名な画家の先生が漫画に挑戦するっていう触れ込みで、出版社としてはかなり期待値が高かったんだけど、その当時は内容が面白くないって全然人気が出なくてね、すぐに打ち切りが決まっちゃったの。だけど最終回に驚きの展開が待っていて、そこでこれまでの伏線が怒涛の勢いで回収されて、それでいて不自然にならない美しい結末が」
「ヒトミちゃん、ちょっ、ストップストップ!」
まさに立て板に水状態でしゃべり続けるヒトミに、ケイスケが待ったをかける。
そこでようやく、ヒトミは自分がケイスケに対して鼻と鼻が接触しそうなほどの距離にまで迫ってしまっていることに、今更ながら気付いた様子で。みるみるうちに耳まで紅くさせながら、壁際まで離れてしまっていた。
「あ、ご……ごめんなさい。と、とにかくすごい先生が描いた、幻の名作って呼ばれてるものなの。それで、つい興奮しちゃって……ごめんなさい」
「い、いや。いいんだけどさ」
そのままきまずい沈黙が流れてしまい、ケイスケもヒトミもどうすればいいかわからずこの場に残るもうひとりに助けを求めるべく視線を向けるが。トウコは、にやにやと意味深に笑うばかりで、助け舟を出すつもりはさらさらない様子だった。
とにかくなにか話さなくては、とケイスケは適当な話題を脳内で検索し。
「そういえばさ。ヒトミちゃん、美術部のほうの、なんとかコンクールの結果、そろそろ来てないの?」
実はケイスケ以外の面々は、ごらけん以外にもなにかしらの活動を行っていた。
トウコは今年度から生徒会役員を兼ね、ヒトミは一年の時から美術部と兼部している。
「あ、うん。まだだよ。でもあれは、やっぱり落選だったんじゃないかな」
「そんなことないって。俺はそっち系の感覚サッパリだけど。そんな俺がみてもすごさがわかる作品だったって」
「そうそう。美術の先生とこないだ話した時、コンクールの合否によっては美大への推薦もあるかもって聞いたわよ。すごいじゃない」
トウコも援護射撃をしてくれるが、ヒトミは「うーん」「でもなぁ」と変わらずの気弱思考であり。ここはひとつしっかり活を入れようとケイスケは思い立ったが。
そこへ、肉声を五倍くらいに大きくした声が飛び込んできたため、口を噤まざるをえなくなった。
「トウコさぁーーーーん!」
途端、トウコの顔が能面のような無表情へと変化した。
対して、その声の主はバァンと乱暴に教室の扉を開けながら全力疾走で飛び込んできた。
かと思えば、満面の笑顔を惜しげもなく振りまきながらトウコめがけて一直線に床を蹴り、ジャンプした。
いかにも健康的男子な登場の仕方だが、当人の振り乱した髪は清潔感の欠片も見えず。
汗だくでハアハア言いながら駆けてきたその顔は、どれほど平等的思考を持った人間でも、キモいという表現以外が出てこないほどの醜態加減で。
友人の間柄であるケイスケでさえ、見るに耐えないほどだった。
「ごきげんよう、村上君」
そしてトウコは立ち上がり、事務的な抑揚で言葉を発し、そして。
突撃の勢いそのままに抱きつこうとしてきた村上の腹めがけて前蹴りをぶちかました。
「ばべぶうっ!」
村上は体を『く』の字に曲げ、そのまま何度か床をバウンドしたのち仰向けに倒れた。
「それじゃ、おしゃべりはこのへんにして。そろそろはじめましょうか、竹下君」
そんな村上の様子を一切省みることなく、トウコは何事もなかったかのように髪をかきあげ、涼しい顔でいそいそとゲーム機のスイッチを入れていた。先ほどの「ごきげんよう」は挨拶ではなく別れの言葉だったらしい。
しかし村上はそんな辛辣なトウコに対して、腹を押さえてヨロヨロと立ち上がりながら、めげずに言葉を続けていた。
「……げふっ、ごほ……き、今日の、ぶ、部活は、ゲーム、です、か、ごはっ……げほっ!」
軽く吐這物を撒き散らしながらも、好きな相手に対して笑顔を崩さない村上にケイスケはもはや軽く尊敬の念すら湧いてくる。
それでもなお無視しようとするトウコだったが、ヒトミのたしなめるような視線を受け、やれやれと肩を落として村上へと視線を向けた。
「あのね、村上。いつもいつも、そーいう行き過ぎたスキンシップしないで。周りに変な目で見られるじゃない。アンタはいつも変な目で見られ慣れてるからいいんだろうけど。やりすぎたら、今度本気でパ……っと。父さんに言いつけて逮捕してもらうからね」
父親が本当に警察官であるトウコのその言葉は、若干本気度が入っている気がしたが。
そこでトウコは一旦言葉を切り、まっすぐに村上を見据えて続ける。
「それに、いい加減そんな風に意味もなく走るのやめなさいよ。もしもまた怪我したら、本当に取り返しつかなくなるわよ」
口調こそ荒かったが、その発言にだけは先ほどまでとは違う色が宿っているのを、ケイスケをはじめ場の全員が感じとった。
「ト、トウコさんが俺の心配を! こ、これは付き合ってもオーケーという意思表示!」
「あ、ごめん村上。ちょっとコーヒー買ってきて。ダッシュでね」
「はいよろこんで!」
迷いなく駆け出していく村上を目の当たりにして、
「容赦ないなぁ」
やれやれと肩をすくめるヒトミに、ケイスケも同意して苦笑いするしかなかった。