櫻井、誓いを立てる
『もしこの事が外部に漏れたら、その子は殺されちゃうわ』
思わず櫻井はポケットを手で覆う。
『こんな可愛い子を、そんな目に合わせたくないでしょ?』
櫻井がポケットを覗くと、アルが覗き返してきた。
「ああ、大丈夫。そんなことはしないよ」
櫻井は優しくアルに言う。
子供と動物には優しい男なのだ。ただし女には野獣。
「この子は自分の名前が分かるみたいだ。遺伝子操作で、こんな知能が高いネズミができるなんて」
なぜか、微妙な空気が流れた。
『ほな、契約成立や』
一転して、にこやかになるデジレ。
『今日からバリバリ働いて貰うでぇ』
『まず、皿洗いね』
『洗濯物も溜まってるんや』
『図書室の片付けもして欲しいな』
『桜井君、君は帳簿がつけられるかな?』
さーさーこっちへ。どーぞどーぞ。
先日は立入禁止だった部屋に櫻井は案内される。
そこは秘密の研究室などではなく食堂。ただし、大変なコトになっていた。
--どうしたら、こんなにちらかせるんだ?
『食事しとると、ピンと閃くことがあるんや』
『それで、食事どころじゃなくなって』
『とにかく、食器洗浄機はここにあるから。じゃーねー』
「ここにあるからって言われたって…」
その機械は、洗うべき食器に囲まれて蓋も開けられぬ有様だった。
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-2045年8月10日(木)12:45-
『きれいな食堂で食べると美味しいわね』
--だったら何とかしようと思わなかったのか?
そんなセリフが喉下まで出かかったが、飲み込む桜井。
ついでにサンドイッチも飲み込む。
「美味いな」
『でしょ!』
自慢げに言うジュリア。
『なに言うてんねん、キミは作ってないやろ』
すかさずツッコむデジレ。
「じゃ、誰が作ったんだ?」
--なぜ空気が凍る
櫻井の、なんてことない言葉に固まる4人。
『ところでジュリア、昨日貰ったこの予算申請だが…』
--しかも、無理矢理話を変えたー!
所長とジュリアが予算交渉している横で、サイムとデジレは技術用語満載の話を始める。
手持ち無沙汰な櫻井は、なんとなく指に触れた毛皮をモフる。
--ん? 俺は何をモフってるんだ?
指先を見ると、アルが甘えてた。
『アル!』
『こいつ、また逃げ出しよった!』
大騒ぎである。
『だめ。この子、ケージのシリンダー錠を解錠してるわ』
携帯ディスプレイで録画映像を確認したジュリアが頭を抱える。
『想定以上の知能だ』
興味深そうにサイムがアルを見つめる。
『もし、研究所の外に逃げ出したら…』
『いや、それはない』
所長が断言する。
『マウスには特注のタグを埋め込んである。そのタグが近くにあれば、外部へのドアは開かない』
あのタグは高価だった、とコボす所長。涙もこぼさんばかりの勢いである。
『ジュリア、アルは研究所内で放し飼いにしてはどうだ?』
サイムの声を聞き、うんうんと頷くアル。
「間違って踏んじゃうことは無いかな?」
櫻井の声に、首をかしげるアル。
『ヒトに踏まれるほど、マウスの反射神経は鈍くないわ』
ジュリアの声に頷くアル。
--こいつ、言葉が分かるのか
名前どころじゃなく、明らかに言葉を--フランス語を理解している。
櫻井の言葉は日本語だから、理解できていないらしい。
櫻井はノートの発声モードを起動する。
「研究所の外に出たいのか?」
『Voulez-vous sortir du laboratoire?』
ノートが櫻井の言葉をフランス語の音声に変える。
と、首を横に振るアル。
「研究所内で遊びたいだけか?」
『Voulez-vous jouer au laboratoire?』
うんうんと頷くアル。
気付くと、4人が櫻井を見つめていた。ガン見である。
『ダメや。こら誤魔化しきれんわ』
デジレがジュリアの肩に手を置く。
ジュリアは頭を抱え、ため息をついた。
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2003年、ヒトゲノム計画によりヒトの全塩基配列が解析された。
2005年、チンパンジーの全塩基配列が解析された。
2006年、ヒトとチンパンジー、及び脊椎動物の塩基配列を比較した結果、ヒトだけに差異がある配列を見つけ出した。
ヒト加速領域(Human accelerated regions)と呼ばれる領域である。
特にHAR1と呼ばれる106文字の領域は、ヒトとチンパンジーで18文字異なり、その差異がヒトの脳を発達させている。
『アルは、そのHARsを改変されたハツカネズミよ』
「ひょっとして、俺たちと同じ配列に?」
ジュリアは、ふと所長を見た。
『ヒトと同じではない』
所長が後を引き継いだ。
『最初に創ったSマウスは、確かにヒトと同じHAR1を持っていた』
--最初に?
『2016年の事だ。まだ私が学生の頃だよ』
--俺の生まれた年、つまり30年近く前だ
『その配列を基に、一部を変えた第2世代を創った』
『HAR1の様々な部分を変えてみて、最も知能の高いSマウスを次の親にしたんや』
デジレが後を引き継ぐ。
「遺伝的アルゴリズムで、知能を高める遺伝子を求めたのか」
『まぁ、そういうこっちゃ』
人為的に突然変異させたマウスを多数創り、その内で知能の高いものを選択する。
選択したマウスの遺伝子を少しだけ変異させたSマウスを多数創り、知能の高いものを選択する。
人工的に進化を加速させ、知能を高めたマウスを--知能を高める塩基配列を創ったのだ。
もしその塩基配列をヒトに導入すれば、知能が更に高くなる可能性がある。
そのヒトは、人間以上の存在になるだろう。
『伝統的に、各世代で最も知能が高いSマウスを"アルジャーノン"と名づけとる』
『彼の正式名はアルジャーノン012Y。12代目のアルジャーノンよ』
そのアルは、櫻井の指でころころ遊んでいる。
「彼の知能は、どのくらい高いんだ?」
『知能指数は約40。知的障害のヒトと同等だ』
補助を受ければ、人間の生活ができるレベルだ。
『もしこの事が外部に漏れたら…』
「大騒ぎどころじゃないな。言葉を理解する動物。しかもネズミ算式に増える動物が解き放たれたら、人類滅亡の危機だ」
『そこは大丈夫』
と、ジュリアが胸を張る。
『私自身が執刀して去勢してあるから』
キュンッ
櫻井の胸がトキメいたワケではない。
もっと下の部分が縮こまった音である。
『彼だけでなく、全ての雄は生後まもなく去勢してる。繁殖することは無いわ』
キュキュンッ
4人ほど、男たちが青ざめる。
『せやからな』
「この件はくれぐれも内密に。約束する」
固い誓いを交わす男たちであった。
次回は9/30頃