102号室
========
-2046年4月19日 22:30(GMT)-
--まさか、死んだわけではあるまいな?
弛緩した櫻井の身体を目にして、オブライエンの背を冷たい汗が伝う。
--この男は、今死んではならない
オブライエンの脳裏に、彼を再教育した男の言葉が過ぎる。
--世界の何処であっても、誤った思想の存在は許されない
たとえその者が無力であろうと。
その者が死を目前にしていようと。
その思想が秘密にされていようと。
誤った思想は、それを持つ者を再教育し、完全に否定しなくてはならない。
16世紀の宗教改革では、異端者は異端者のまま火刑場へ送られ、異端者として死んだ。
20世紀のロシア革命では、粛清の対象者は、反乱思想を脳内に忍ばせたまま、銃殺された。
それでは、異端も反乱思想も、根絶できない。
その穏やかな死に、身を委ねさせてはならない。
誤った思想は、死を待つ者の脳内にも存在してはならない。
専制君主曰く「汝、為すべからず」
全体主義者曰く「汝、斯く在るべし」
それでは駄目なのだ。
だから我々は告げる。「汝、斯く也」と
例え脳髄から外に出ることのない思想であろうと、社会に害なす思想は根絶しなくてはならない。否、社会を愛する思想で脳を満たさなくてはならない。
--サクライ、君はいずれ死刑となるだろう
——だが、今では無い
--君が死ぬ時、それは社会に対する愛に包まれた死だ
--誤った思想を抱いた者など、存在しない
--故に、全ての者は社会への愛の中、歓喜の中で死ぬのだ
「心電図、脳波計は正常値です」
看守の言葉に、オブライエンの思考は現実に引き戻される。
社会への反抗心を抱いたまま死ぬことは、認められない。
先程の言葉は、この男がまだ反抗心を抱いていることを示していた。
だが--
オブライエンの思考は、再び彷徨い出す。
3,000Vの電気的ロボトミにより、この男の前頭前皮質は重篤な損傷を負った筈だ--否、負った。
負った筈、などということは無い。
社会が定めたことは、全て成される。誰かが過ちを犯したのでない限り。
3,000Vの電流が流れるその時、瞬電が起きた--
その記憶はオブライエンの脳裏に浮かんだが、その記憶が櫻井の言動と関連づけられることは無い。
瞬電など起きるべきではない。
故に、それは起きなかったのだ。
前頭前皮質に損傷を負った者は、対立する考えを区別する能力を失う。
矛盾を矛盾と感じる能力を失う。つまり2+2=5を許容するようになる。
これは、二重思考とは異なる思考だ。
二重思考は、矛盾を許容しながら論理的思考を行うテクニックだ。社会を尊重しながら論理的思考を行うために必要な技法だ。だが多くの者は、その技法を習得できない。
だから論理的思考を求めず、矛盾を許容させる。
前頭前皮質に損傷を負わせることによって。
3,000Vの電気的ロボトミによって。
今のオブライエンにとって許される現実は--社会に許容される真実は、さほど多くない。
この男は具現化された苦痛に襲われ、その恐怖により人格の中心が折れた。
それが"現実"だ
先日、この部屋で再教育されたウィンストン・スミスのように。
--以前の私のように
--だが彼は、最期の叫び声は、私とは違った
ジュリアの存在を主張するものだ。
オブライエンの心に、恐怖が浮かび上がろうとする。
だが、彼の壊れた人格は恐怖を認識できない。
--この男は耐えられなかった。彼がこの世で最も恐れるネズミに
そう社会が櫻井を定義したからだ。
========
-2046年4月19日 22:45(GMT)-
--なんで、拘束を外そうとしないんだろう?
厳重に固定された椅子の上で、櫻井は焦る。
直前に聞かされた計画では、"再教育"が終わった櫻井は自由の身になるハズだった。
だがオブライエンは拘束を外さず、無言で櫻井の前に立っている。
『pSion:軽くヤバい?』
--軽くねェよッ!
有機EL眼鏡に映るアルのメッセージに、櫻井は叫びそうになる。
だが、焦燥感、恐れよりも大きな感情が櫻井を満たす。
——生きてやがった
——そうそう死ぬタマじゃないと思ってた
——アルも、アサラトも、おそらくみんな無事だ
一方、客観的に見て、櫻井は絶体絶命である。
たとえ脳の一部を損傷していても、鍛えられたオブライエンの身体は、櫻井など片手で縊り殺せる。
『pSion:残念だけど、ボクらの子供たちはそれほど強くない』
櫻井の目の前には、多数のネズミが--頭の丸い13世代のSマウスがうろちょろしている。
櫻井のマスクに繋がれたケージに、てんこ盛りに詰め込まれていたのだ。
櫻井にとって、この世で最も恐ろしい具現化された苦痛。
それは、櫻井にとってはゴキブリだが、社会にとってはネズミである。
Sマウスが、櫻井に対する調査資料を書き換えたからだ。
但し、櫻井が何処に囚われたか一時的に見失い、情報の書き換えは非常に際どいタイミングだった。
あと数分遅ければ、櫻井のマスクの中にはゴキブリの群れが蠢いていただろう。
--って件は、くれぐれもご内密に。
『pSion:それじゃ、B案で行く』
--B案?
『pSion:未来世紀ブラジルって映画、知ってる?』
——いや、観たことない。
その映画では、主人公が絶体絶命の窮地に陥った際、非合法の配管修理工が救助に現れる。
ドアが開く音がして、次にオブライエンの声が聞こえた。
『お前、なぜ此処に?』
次の瞬間、オブライエンがブッ飛ばされる音がした。
========
-2046年4月19日 22:50(GMT)-
「お前、なぜ此処に?」
拘束を解かれた櫻井が、非合法の配管修理工に言う。
その修理工は、デジレの顔をしていた。
『ジュリアに頼まれた』
彼の声、話し方は、デジレのそれでは無かった。
No.5と呼ばれた男のそれだった。
櫻井を”欠陥品であり、拭い去るべき汚点”と言った男だ。
ジュリアを見殺しにしたはずの男だ。
「そうか。彼女は--
無事か?そう聞こうとして、櫻井は口を閉じる。
彼の言葉を信じることができない自分に気づいたからだ。
「アル、ジュリアは元気か?」
『pSion:うん』
たとえ種が違っても、信じるに足る者は居る。
たとえ種が同じでも、信じられない者も居る。
櫻井が、コンゴで初めて言葉を交わしたのはデジレだ。
最初の内、慣れないコンゴでの生活で、何くれとなく世話を焼いてくれた。
ジュリアと恋仲になった後は、2人だけの時間を優先してくれ、偶に2人が喧嘩した時は間を取り持ち仲直りさせてくれた。
交わした言葉の量で測れば、最も親しかったのがデジレだ。
——否
椅子の上に立つ櫻井は、デジレを演じていた男を見下ろす。
『pSion:櫻井、彼は--
『私はもう、長くは無い』
アルのメッセージを、その男の言葉が上書きする。
『pSion:対"D"ウィルスに感染している』
『今更、許せと言うつもりも無い』
『pSion:抗ウィルス製剤は開発済みだけど』
『だが、私が出来る願いなら、叶えよう』
『pSion:彼は投与を拒んだ』
彼の顔は、櫻井の拳が届く位置にある。
死の病に感染しているとはいえ、その男は明らかに櫻井より強い。
だが、拳を避けはしないだろう。
「とりあえず--
櫻井は、よろよろと椅子から降りる。
「こっから出て、メシでも食わしてくれ」
『ビールもつけよう』
その男がデジレの記憶を持つことが、櫻井には堪らなく嫌だった。




