101号室
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-2046年4月19日 22:00グリニッジ標準時-
愛情省から来た男は、遺伝技師から全てを聴くと、落ち着いた様子で脚を組み替える。
「それは、敵の生物兵器だ」
遺伝技師は聞き違ったかと思う。
病原体は、聖ジョージ医学校で使っている株を基にしている。
明らかに英国で創られた病原体だ。
だが男は、敵の生物兵器だと言う。
二重思考だ。
その病原体が英国で造られたのは事実に過ぎず、”現実”にはそんな事は起きていない。
「我々は現在、新たな――強固な社会を創ろうとしている」
突然、男は話しだす。
「恒常的に”奴等”が存在する社会。互いの尾を呑み込む3匹の蛇――ウロボロスだ」
――制御された戦争
――管理された憎悪
――統制された団結
「3つの複合国家が、互いに戦うことで支え合う永劫の社会だ」
――1つはイングソック。南北アメリカ大陸、英国、南アフリカ、オーストラリア諸国からなる複合体
――1つはネオ=ボルシェキビズム。ロシア、EUを初めとするユーラシア大陸北西部
――1つは滅私。中国を中心としたユーラシア大陸南東部
「他の国々は労働力、及び資源の供給地となる。否、国々では無い」
――其処に国は無く
――其処に人間は居らず
――其処に社会は無い
「法も人権も神の恩寵も存在しない、エデンの果てだ」
「今より生まれた子らは、新たな社会で人格を定められる」
――社会の現実を真実とする者
――社会を構成する要素となる者
――社会を成立させるための必要経費
「異性に対する恋、隣人に対する愛、親子の愛情、それらは全て社会への愛に統合される」
「我らの社会の悲劇は、ネオ=ボルシェキビズム、又は滅私からの攻撃に他ならない」
なぜなら――
「他に攻撃主体は存在しないからだ」
「その、患者に治療は――
「無論、行いたまえ」
遺伝技師の問いに、愛情省の男は即答する。
「患者も、社会を成り立たせるための必要経費だ」
ただし――
「コストに見合うリターンが無い場合は、切り捨てたまえ」
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-2046年4月19日 22:10グリニッジ標準時-
エレベータに乗せられた櫻井の耳が、気圧差で痛む。
先程まで櫻井が居た部屋は地面より下だった。
此処に連れてこられてから、常に櫻井は地下に居た。
何十mもの、想像できない程、深い場所だった。
エレベータが最上階に到着する。
広い部屋だった。だが櫻井には、その部屋を見渡すことさえ出来ない。
彼の視界は、顔全体に被せられたマスクに遮られている。
身体は強固な椅子に拘束され、頭さえ動かせない。
『先程、君は尋ねた。101号室には何が在るのか、と』
オブライエンの声がする。
『私は答えた。君は既にその答えを知っている、と』
扉が開く音がする。
『誰もが知っている。101号室に在るのは、世界で最も恐ろしいものだ』
櫻井を拘束する椅子が、建物の鉄骨から伸びた鉤に固定される。
再び扉が開く音がし、看守が入ってきた。櫻井には見えないが、目の細かいケージをテーブルに置く。緑色のフェルトで覆われたテーブルに。
ケージの中で幾匹もの生物が蠢く音が、櫻井の耳に届く。
『世界で最も恐ろしいものは、人により異なる』
オブライエンが言う。
生きたまま埋葬されることかもしれない
焼け死ぬこと
溺れ死ぬこと
串刺しにされ死ぬこと
「死に方なら他に50もある――だが」
命に関わらぬ、ほんの些細な場合もある。
「君にとって最も恐ろしいものは、偶然これだった」
櫻井に被せられたマスク。その右目の部分が開かれ、彼にケージが見えるようオブライエンが少しだけ横に動く。
それは持ち運ぶための取っ手が上についた長方形のワイヤーケージ。
3、4m離れているにも関わらず、櫻井にはそのケージの縦方向が二つの部分に区切られ、何か生き物が居るのが分かる。
何に怯えているのか定かではない。
だが、ケージを最初に見た瞬間に櫻井の身体が痙攣する。
目の前のケージ、己に嵌められたマスクの意味を突然、彼は理解する。
内臓は氷に変わる。
『君は憶えているかね』
オブライエンが言う
『君がよく夢の中で起こしていたパニックを』
――櫻井の目の前には漆黒の壁があり、辺りは轟音に包まれていた
――壁の向こう側には何か恐ろしい物が居る
『それが何なのか君は気がついているが、敢えてそれを思い出そうとはしない』
『痛みそれ自体では、常に十分な効果が得られるとは限らない』
致死的な痛みでさえ時に人間は耐えることがある。
『だが、誰しも耐え難いものというものはある……考えることさえ恐ろしいものが』
『勇敢や臆病という性質のものでは無い』
崖から落ちる時にロープを求めぬことは、勇敢では無い。
水の底で呼吸を求めることは、臆病では無い。
『それは人の根本だ。決して捨て去ることの出来ぬ基本的アルゴリズムだ』
『君に、是等は耐え難いのだろう』
『これらは、君が耐えたくとも耐えることが出来ぬ苦痛が具現化したものだ』
そして――
『君は要求されていることを、行なってくれるだろう』
――何を?
櫻井の心の中に疑問が芽生える。
――何を要求しているかすら分からないってのに?
その疑問が口に上る前に、被せられたマスクに看守がケージを接続する。
『是等は――』
肉食だ。そうオブライエンは言う。
『この飢えた獣は弾丸のように飛び出すだろう』
『君は是等が宙を飛ぶところを見たことがあるかな?』
『是等は君の顔に飛びついて顔にまっすぐ穴を開けて進むだろう。最初に目を狙うこともある。頬に穴を開けて進むこともある。舌を貪り食うこともある』
突然、櫻井は悟る。
それは1つの、唯一の助かる方法。
他の人間を、是等と自分の間に、他の人間を置くこと。
それこそオブライエンが、社会が、要求していることだ。
――ジュリアにやれ!
櫻井の脳裏に飛び込んできた言葉を、彼は噛み砕く。
――俺じゃ無い!ジュリアだ!
喉元に込み上がるその言葉を、彼は呑み込む。
――彼女の存在など知ったことじゃ無い!
身体が痙攣し、涙が溢れる。
――そうだ、認める!彼女は存在しない!
身体に残された全ての力を顎に込め、口の中に鉄の味を感じる。
オブライエンがレバーに手をかけ、視線が交差する。
その瞬間、櫻井の喉から言葉が迸る。
「お前の言うことなど――
何一つ
信じるものか!
ジュリア!
愛しい俺のジュリア‼︎
マスクの目の部分が閉ざされ、周りを包む暗闇の中で櫻井はカチリという金属音を聴き、ケージの扉が開かれた事を知る。
――もふもふもふもふ




