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この件はくれぐれもご内密に  作者: tema
第九章 101号室
65/81

国際社会、全ての不備の除去を試みる

========

-2046年4月16日 02:35-


「ふぅ…」

聖ジョージ医学校(SGUL)の研究員スタンリーは、実験室の椅子に持たれる。座り心地が良いとはお世辞にも言えぬ椅子だが、この時ばかりは極上のソファも同然だった。

ここ2週間の奮闘が報われたのだ。


目の前に置かれた結晶体。

それは社会と人間に福音を齎す聖剣(エクスカリバ)だ。


――剣身には黄金で打ち出された二匹の蛇の姿あり


スタンリーの脳裏に、学生時代に読んだ叙事詩の一節が蘇る。

この結晶体の中に、DNAで創られた二匹の蛇が棲む。


結晶体は遺伝子工学で創られたウイルス。設計された人類(”D”)の遺伝情報に刻まれた製造番号を、特殊なコードに書き換えるウイルスだ。

普通の人類には殆ど無害――多少の倦怠感を与えるだけ――だが、”D”には致死性の病原体となる。


ふと、スタンリーは製造番号として指示されたコードを見る。すると奇妙な既視感に襲われた。そのコードに見覚えがある。

遺伝情報DB(GenBank)を検索する。と、ヒト第15染色体に近いコードが検出(ヒット)する。

”D”が製造番号を刻まれたのは第1染色体。場所が違う。だが同じコードが存在すれば、ウイルスはそれを致死性のコードに書き換える。


――鞘疾(さやばし)らば蛇の首から二筋の炎が立ち昇る


差は数バイトに過ぎない。DBに拠れば、差が発生した部分はEYCL3。目の色を決める部分だ。

スタンリーの背筋を冷や汗が伝う。

もし、その差が埋まってしまえば、このウイルスは死神となる。

モニタには、黒い目の遺伝情報が表示されている。だがスタンリーの記憶に拠れば、青い目の遺伝情報は正にウイルスが対象とするコードを持つ。


確認するのは簡単だ。画面上のボタンをクリックするだけで良い。

だが、もし――

もし、そのコードが合致してしまえば、スタンリーは無差別殺戮を行うウイルスを創った事になる。


与えられた納期は明朝。6時間後だ。今から作り直しては間に合わない。

そして、”D”の製造番号として渡された情報は、確かにこのコードだ。彼の知らぬルートで送られて来た情報だ。その情報が誤っていると指摘する権限は、与えられていない。

そして、もし期限に間に合わなければ、罰が下される。

期限に間に合わなかったのは、スタンリーが社会を愛していないからだ。そう決められる。愛情省(ミニルヴ)に捕らえられ、再教育される事になる。


――それがあまりにも恐ろしいありさまだったので、だれ一人として目を向けて見る者もないほどだった


そもそも実験室のバイオセーフティはレベル2。封じ込め実験室では無い。スタンリー自身が感染している可能性もある。

彼は妻に電話を掛け、オーストラリアへのチケットを予約するように言う。

平和省(ミニパックス)への引き渡しを助手に任せ、研究所を出る。

家で妻と娘を車に乗せ、飛行場に向かう。

だが、出国審査で引っかかった。


家族と離され、スタンリーが連れていかれた窓の無い部屋は、一見すると普通の部屋に見えた。

だが閉じられたドアの厚みが、その前に立つ兵士が、普通の部屋で無いことを示していた。

「急に出国とは、どうされましたか?」

聞き覚えのある声がした。


閉じられたドアの前に、男が1人居た。

スタンリーに”D”の製造番号を渡し、ウイルス作成を指示した、平和省の男だ。

「な…なに、依頼された物を作り上げたからね。遅めの休暇を取ろうと思ってたんだ」

「それはそれは」

急に男は顔をスタンリーに近づける。


「依頼した物は頂きました。確かにこちらの要望通りの仕様で」

――じゃぁもう俺に用は無いだろう。さっさと旅立たせてくれ。

少しだけほっとしたスタンリーである。

「あと1つだけ。返して貰わねばならないものがあります」

「?」

「貴方が頭の中に残している製造番号ですよ」


その日の昼、スタンリーと妻、娘の死体が発見された。

死因は毒物嚥下による無理心中、と報道された。


========

-2046年4月18日 15:20-


ヒリンドン病院はパニック寸前だった。

ヒースロー空港近くに建つ、この病院に最初の急患が運び込まれたのが午前5時。以後、急患が引きも切らない。

症状は似通っている。高熱と発疹。下痢による脱水症状。

そして、原因は不明。


午前10時の時点で急患が溢れ、近隣の病院に搬送しようとしたところで、一帯の病院に同様の急患が溢れていることを知った。

午後にはロンドン中心部でも、同様に急患が溢れていることを知った。

そして数分前、米国、EU各国でも多くの患者が発生し、その殆どの人がヒースロー空港経由で渡航したと判明した。


ヒリンドン病院の院長室に、着ている白衣と同じくらい蒼白になった男が現れた。聖ジョージ医学校から出向して来た遺伝技師だった。

「病原体が分離出来ました。オルソポックス属のウイルスです」

男は喘ぐように言葉を続け

「ジャンクDNAから、このウイルスは――この株は…」


院長の傍に酷く痩せた男の姿を見て、遺伝技師の言葉が止まる。

聖ジョージ医学校でも同じ雰囲気を持つ男を見た事がある。

「この株は、何だね?」

その男が訪れた研究室からは、人が”蒸発”した。


「この株は?」

冷ややかな問いに、遺伝技師の身体が強張る。

「我が省では秘密は存在しない」

――我が”省”!

遺伝技師の脚は震え、立っているのが精一杯となる。


目の前に居る男は愛情省(ミニルヴ)

“現実”を護る者。

そして二重思考(ダブルシンク)を操る者だ。

「聖ジョージ医学校で使っている株です」


遺伝技師は、その言葉が何を意味するかを知っている。

今病院を溢れさせている患者。その病気は、聖ジョージ医学校で創られた。

バイオハザードが発生したのだ。


遺伝技師は、その言葉が何を齎すかを知っている。

バイオハザードの発生など、”現実”には起こりえない。禁止されている。

発生を知っている者など存在しない。存在してはならない。

遺伝技師の言葉は、母校の研究者を、院長を、おそらく彼自身を”蒸発”させる。


遺伝技師の頭には、階下で苦しむ患者も英国の未来も無かった。

彼が死刑台に送られることは決定している。

その時期を後ろに回すためには、母校の研究者を、院長を、他の誰かを自分の前に回すしか無い。


「詳しい話を聞こう」

男が細い脚を組んだ。


========

-2046年4月19日 21:35グリニッジ標準時(GMT)


オブライエンは瞬くLEDライトを見上げ、次に櫻井の目を見る。

その目は虚ろで、何も映していないように見えた。

『瞬電が起きたようだが?』

『問題ありません』

白衣の男たちは、テキパキと櫻井のこめかみからパッドを取り、装置を下す。


オブライエンはそれ以上、彼らに注意を払わなかった。

櫻井に――目の前の虚ろな男に、ヒトの形をした器に目を向ける。

『君はだいぶ良くなったようだ。知性面に於いて悪い部分は殆ど無くなった』

後は――

『うまくいっていないのは、情緒面だけだ』


『君はもう怒りを、憎しみを持っていないだろう』

『君は喜びを持っていない』

『君は愛を、恋を持っていない』

だが――


『君はまだ恐怖を持っている』


『まだ君に本能が残っている。君の中核を成す根本的なアルゴリズムが残っている』

ヒトがまだ現代のような社会を持たぬ頃、社会がまだ弱く現実より事実に振り回されていた頃。

ヒトの最も根本的な衝動は――情動は、恐怖だった。

『101号室だ』


虚ろだった櫻井瞳に、微かな光が宿る。

「101号室には、何があるんですか?」


『サクライ。君は101号室に何が在るかを知っている。誰だって101号室に何が在るかを知っている』

オブライエンは、白衣の男たちに告げる。


『101号室だ』

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