国際社会、全ての不備の除去を試みる
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-2046年4月16日 02:35-
「ふぅ…」
聖ジョージ医学校の研究員スタンリーは、実験室の椅子に持たれる。座り心地が良いとはお世辞にも言えぬ椅子だが、この時ばかりは極上のソファも同然だった。
ここ2週間の奮闘が報われたのだ。
目の前に置かれた結晶体。
それは社会と人間に福音を齎す聖剣だ。
――剣身には黄金で打ち出された二匹の蛇の姿あり
スタンリーの脳裏に、学生時代に読んだ叙事詩の一節が蘇る。
この結晶体の中に、DNAで創られた二匹の蛇が棲む。
結晶体は遺伝子工学で創られたウイルス。設計された人類の遺伝情報に刻まれた製造番号を、特殊なコードに書き換えるウイルスだ。
普通の人類には殆ど無害――多少の倦怠感を与えるだけ――だが、”D”には致死性の病原体となる。
ふと、スタンリーは製造番号として指示されたコードを見る。すると奇妙な既視感に襲われた。そのコードに見覚えがある。
遺伝情報DBを検索する。と、ヒト第15染色体に近いコードが検出する。
”D”が製造番号を刻まれたのは第1染色体。場所が違う。だが同じコードが存在すれば、ウイルスはそれを致死性のコードに書き換える。
――鞘疾らば蛇の首から二筋の炎が立ち昇る
差は数バイトに過ぎない。DBに拠れば、差が発生した部分はEYCL3。目の色を決める部分だ。
スタンリーの背筋を冷や汗が伝う。
もし、その差が埋まってしまえば、このウイルスは死神となる。
モニタには、黒い目の遺伝情報が表示されている。だがスタンリーの記憶に拠れば、青い目の遺伝情報は正にウイルスが対象とするコードを持つ。
確認するのは簡単だ。画面上のボタンをクリックするだけで良い。
だが、もし――
もし、そのコードが合致してしまえば、スタンリーは無差別殺戮を行うウイルスを創った事になる。
与えられた納期は明朝。6時間後だ。今から作り直しては間に合わない。
そして、”D”の製造番号として渡された情報は、確かにこのコードだ。彼の知らぬルートで送られて来た情報だ。その情報が誤っていると指摘する権限は、与えられていない。
そして、もし期限に間に合わなければ、罰が下される。
期限に間に合わなかったのは、スタンリーが社会を愛していないからだ。そう決められる。愛情省に捕らえられ、再教育される事になる。
――それがあまりにも恐ろしいありさまだったので、だれ一人として目を向けて見る者もないほどだった
そもそも実験室のバイオセーフティはレベル2。封じ込め実験室では無い。スタンリー自身が感染している可能性もある。
彼は妻に電話を掛け、オーストラリアへのチケットを予約するように言う。
平和省への引き渡しを助手に任せ、研究所を出る。
家で妻と娘を車に乗せ、飛行場に向かう。
だが、出国審査で引っかかった。
家族と離され、スタンリーが連れていかれた窓の無い部屋は、一見すると普通の部屋に見えた。
だが閉じられたドアの厚みが、その前に立つ兵士が、普通の部屋で無いことを示していた。
「急に出国とは、どうされましたか?」
聞き覚えのある声がした。
閉じられたドアの前に、男が1人居た。
スタンリーに”D”の製造番号を渡し、ウイルス作成を指示した、平和省の男だ。
「な…なに、依頼された物を作り上げたからね。遅めの休暇を取ろうと思ってたんだ」
「それはそれは」
急に男は顔をスタンリーに近づける。
「依頼した物は頂きました。確かにこちらの要望通りの仕様で」
――じゃぁもう俺に用は無いだろう。さっさと旅立たせてくれ。
少しだけほっとしたスタンリーである。
「あと1つだけ。返して貰わねばならないものがあります」
「?」
「貴方が頭の中に残している製造番号ですよ」
その日の昼、スタンリーと妻、娘の死体が発見された。
死因は毒物嚥下による無理心中、と報道された。
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-2046年4月18日 15:20-
ヒリンドン病院はパニック寸前だった。
ヒースロー空港近くに建つ、この病院に最初の急患が運び込まれたのが午前5時。以後、急患が引きも切らない。
症状は似通っている。高熱と発疹。下痢による脱水症状。
そして、原因は不明。
午前10時の時点で急患が溢れ、近隣の病院に搬送しようとしたところで、一帯の病院に同様の急患が溢れていることを知った。
午後にはロンドン中心部でも、同様に急患が溢れていることを知った。
そして数分前、米国、EU各国でも多くの患者が発生し、その殆どの人がヒースロー空港経由で渡航したと判明した。
ヒリンドン病院の院長室に、着ている白衣と同じくらい蒼白になった男が現れた。聖ジョージ医学校から出向して来た遺伝技師だった。
「病原体が分離出来ました。オルソポックス属のウイルスです」
男は喘ぐように言葉を続け
「ジャンクDNAから、このウイルスは――この株は…」
院長の傍に酷く痩せた男の姿を見て、遺伝技師の言葉が止まる。
聖ジョージ医学校でも同じ雰囲気を持つ男を見た事がある。
「この株は、何だね?」
その男が訪れた研究室からは、人が”蒸発”した。
「この株は?」
冷ややかな問いに、遺伝技師の身体が強張る。
「我が省では秘密は存在しない」
――我が”省”!
遺伝技師の脚は震え、立っているのが精一杯となる。
目の前に居る男は愛情省。
“現実”を護る者。
そして二重思考を操る者だ。
「聖ジョージ医学校で使っている株です」
遺伝技師は、その言葉が何を意味するかを知っている。
今病院を溢れさせている患者。その病気は、聖ジョージ医学校で創られた。
バイオハザードが発生したのだ。
遺伝技師は、その言葉が何を齎すかを知っている。
バイオハザードの発生など、”現実”には起こりえない。禁止されている。
発生を知っている者など存在しない。存在してはならない。
遺伝技師の言葉は、母校の研究者を、院長を、おそらく彼自身を”蒸発”させる。
遺伝技師の頭には、階下で苦しむ患者も英国の未来も無かった。
彼が死刑台に送られることは決定している。
その時期を後ろに回すためには、母校の研究者を、院長を、他の誰かを自分の前に回すしか無い。
「詳しい話を聞こう」
男が細い脚を組んだ。
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-2046年4月19日 21:35グリニッジ標準時-
オブライエンは瞬くLEDライトを見上げ、次に櫻井の目を見る。
その目は虚ろで、何も映していないように見えた。
『瞬電が起きたようだが?』
『問題ありません』
白衣の男たちは、テキパキと櫻井のこめかみからパッドを取り、装置を下す。
オブライエンはそれ以上、彼らに注意を払わなかった。
櫻井に――目の前の虚ろな男に、ヒトの形をした器に目を向ける。
『君はだいぶ良くなったようだ。知性面に於いて悪い部分は殆ど無くなった』
後は――
『うまくいっていないのは、情緒面だけだ』
『君はもう怒りを、憎しみを持っていないだろう』
『君は喜びを持っていない』
『君は愛を、恋を持っていない』
だが――
『君はまだ恐怖を持っている』
『まだ君に本能が残っている。君の中核を成す根本的なアルゴリズムが残っている』
ヒトがまだ現代のような社会を持たぬ頃、社会がまだ弱く現実より事実に振り回されていた頃。
ヒトの最も根本的な衝動は――情動は、恐怖だった。
『101号室だ』
虚ろだった櫻井瞳に、微かな光が宿る。
「101号室には、何があるんですか?」
『サクライ。君は101号室に何が在るかを知っている。誰だって101号室に何が在るかを知っている』
オブライエンは、白衣の男たちに告げる。
『101号室だ』




