櫻井、無職になる
-2045年8月7日(月)14:30-
『なかなか素晴らしいシステムだ』
サカニア総合研究所のトップ、ビヌワ所長が言う。
髪は白く薄くなっているが、身長は櫻井より高くがっしりした体型の黒人の男である。
一通りの説明後、所長が提示したデータを使ってデモを行うと、MDBのAIはアッという間に答えを返した。その結果は、所長が満足するものだったらしい。
『この問題は、今までのAIでは過学習になってしまい、不適切な解に収束していたんだ』
所長の専門は計算機科学だった。
彼の言葉はトランス先生が翻訳してくれる。
だが、
--なるほどわからん
内容が専門用語満載で、櫻井に理解できなかったのが残念である。
『それにとても安い!』
特にその部分が大満足な所長である。
一方、櫻井は冷や汗を流している。
実は、このAIには欠点がある。
異常な程に計算力を必要とする。つまり、解が出るまで時間がかかるのだ。
そこを何とかするには、高速の--高価な電算機が必要になる。
結果として、このAIは決して安くはない。
なぜ今回、アッという間に答えを返したのかは謎である。
--デモはこれで終わらせてくれぇぇ
櫻井の祈りむなしく、所長が言う。
『ではこの問題はどうかな?』
さすがは専門職。滑らかな操作でデータを読み込ませて行く。
だが、処理の途中でスクリプトが詰まる。
このAIの、もう1つの欠点がこれだ。
扱い方に妙なクセがあり、普通に組んだスクリプトを受け付けないのだ。
「これは、このようにすれば」
櫻井は、そのクセを回避することができる。なぜそうすると動くのか理屈では判らない。感覚派なのだ。
わざわざ櫻井がコンゴまで出張して来た理由が、これだ。
再び、アッいう間に答えが帰ってくる。
結果を見て喜ぶ所長。
こっそりと胸を撫で下ろす櫻井。
どこのHWかは知らないが、凄い性能のコンピュータだ。
『ふむ、私にも使わせてくれ』
藤田との話にも出た物理学のビッグ・ネーム。トマス・サイムだ。
小柄な体躯に、世界有数の頭脳と知名度、そして多少の皮下脂肪を詰め込んだ白人である。
彼は、事前に用意したと思しきスクリプトをコピーして少々変更。
オリジナルと変更版、2つのスクリプトを一緒に流す。と、オリジナルだけが詰まる。
『ふむ、矛盾許容論理を使っているな』
--なるほどわからん
再び理解できない櫻井である。理解できないが気にしないところは大人物と言ってよい。
そして、クセのあるAIを即座に御せるサイムは、流石の天才である。
処理中のモニタに表示された処理状況を見た瞬間、櫻井は青くなる。
世界最速の電算機でも、数日では処理が終わらない状況だったからだ。
『ほう、なかなか重いな』
サイムがキーボードに手を走らせると、処理状況を示すバーが数本、表示された。
『何のデータを食わせたんだ?』
『うむ、この宇宙の物理法則と適合するカラビ=ヤウ多様体の形状を、求めさせてみている』
所長の質問に、何でもないように答えるサイム。
だが、これは膨大な計算力が必要で、現実的には不可能な問題だ。
『ふむ、まだ止まらんな』
プログレスバーは、途中から殆ど動かなくなった。
--これはマズい
顔には出さないが、櫻井の背筋は冷や汗でびしょ濡れである。
探索木が巨大になり過ぎ、計算が追いつかないのだ。
『もう良いだろう。止めてくれ』
冷たい声で、サイムは櫻井に告げる。
しおしおと停止操作を行う櫻井。
そんな櫻井に背を向け、サイムは所長に言う。
『大概のAIは、すぐに自己破綻して止まってしまうんだが、こいつは良い。柔軟性が高い』
「!」
普段は細い櫻井の目が丸くなる。
『是非、購入を勧める』
櫻井は、小さくガッツポーズ。
気分に余裕ができると、櫻井の本性が目覚めてくる。
会議室には5人居る。
櫻井の他には所長、サイム、デジレ、そしてお尻ちゃん--昨夜、トラックから降りた櫻井を支えてくれた、雄大なお尻の持ち主である。
その女性は魅力的な太ももを見せびらかすように、脚を組んでいる。
--ここが東京なら、あの店の次にあっちのバーへ行き、最後にはホテルで…
妄想を膨らませる櫻井。
だが待てしばし。
相手は顧客で、しかも契約はおろか交渉はこれから。
ここはぐっとガマンする、仕事の出来るクズであった。
========
-2045年8月9日(水)16:30-
ルブンバシ国際空港。
交渉を成功裏に終え、ついでにAIの様々な設定も行った櫻井は--意気消沈していた。
「これから2日間、またエコノミーシートか…」
そして空港までの道中で、櫻井の神経は磨り減っていた。
ここまでの道中、運転席に座ったのはデジレでは無くお尻ちゃん。
車の中に若い女性と2人切り。
"Go! Go!"
叫ぶ本性を隠し、何食わぬ顔で助手席で6時間。
生殺しである。
会話らしい会話といえば。
「まだ、貴女の名前を知らないんだ」
『ジュリアよ』
これだけ。
ほとほと疲れた櫻井である。
『それじゃ、道中ご無事で』
「おせわになりました」
ピンポーン。
税関ゲートを潜ろうとする櫻井を呼び止める音がした。
係員が言う。
『残金が足りませんね』
「なんですって?」
旅費は、左手首に着けたタグを通して、会社の口座から引かれることになっている。
なぜそれが、残金不足になるのか。
職場に電話をかける。
今、日本は8:30。誰か居るはずだ。
女性の合成音声が聞こえた。
「おかけになった電話番号は、お客様のご都合によりかかりません」
「なんですと?」
何かおかしい。櫻井は気付く。
そういえば、状況は逐次日本へメールしていたにも関わらず、返信が無かった。
会社に、何かが起きている?
電話帳から藤田を選び、電話をかける。
「おう櫻井、どうした?」
普段通りの藤田の声に、櫻井は安堵する。
かくかくしかじか。
無事に契約できそうだが、会社の口座が残金不足と言われ、職場に電話も繋がらない。
櫻井が状況を説明すると、落ち着いた藤田の声が返ってきた。
「それは、うちの会社が倒産したからだ」
次回は9/24頃の予定