英国、対策を講じる
-2045年10月16日 15:20-
18世紀に建てられた、古い館。
その奥の一室。
磨かれ、塵一つない大理石の床と、数世紀に渡る埃やヤニが固着した天井。
そのテーブルに5人の男たちが着く。
彼らは、30代に見える者から80代まで様々。
だが、いずれも官僚機構の頂点近くに上り詰めた者たちだ。
彼らに名前はいらない。
この席に座るは個人ではなく組織。
例え彼らが今この場で死を迎えようと、何ら問題はない。
重要なのは組織の--社会の永続。
これらの組織名は、真理省、愛情省、平和省、豊富省、そして貴族院。
このテーブルで、英国の現実が決定される。
ボーンチャイナのカップに紅茶が注がれる。
ティースタンドにはサンドイッチとスコーン、デザートが盛られている。
「先日の騒ぎは終結したのか?」
キュウリのサンドイッチを取りながら、軍服を纏った平和省が言う。
「無論、終結した」
と、愛情省。
よりによって真理省のシステムに侵入され、犯人と思しき者を取り逃がした愛情省は、傲然と終結を宣言する。
騒ぎが終結していない現実など、許されない。
故に、騒ぎは終結している。
それが英国の"現実"だ。
「犯人はウィンストン・スミス。真理省職員だった」
ハラムが侵入した部屋の主だ。
実際にシステムへ侵入したのは、彼ではなくハラム。
だが、それは"現実"ではない。
"現実"は、このテーブルで決定される。
「スミスは愛情省内で確保。昨夜の内に自供した」
無論、真理省の内部犯など許されない。
早晩、スミスはその存在を消される。
ウィンストン・スミスという男が生きていた。その全ての記録が消去される。
スミスは存在しない。
過去に遡って存在しなくなる。
彼は"蒸発"するのだ。
「外部への情報漏洩は?」
痩せぎすの豊富省が問う。
「無論、漏洩していない」
と、真理省。
情報漏洩など、許されないからだ。
「一方、クラウド上に機密情報と同一の情報が確認されている」
その口を拭う間もなく続ける真理省。
それらの情報を削除するため、現在の真理省は不夜城と化している。
いや、不夜"城"は言い過ぎだろう。
残業など無いという"現実"の下、部屋や廊下の照明は17時で消され、光っているのはモニタと煙草の火だけだからだ。
「ところで、スミスの部屋から奇妙な足紋が出た」
真理省が言う。
「人間の足紋ではない。専門家によればチンパンジーのものだ」
犯人はスミスである。一方で、システムに侵入した者の捜査は必要だ。
だから、"犯人はスミスである"ということを信じながら、"犯人は不明である"という認識を持つ。
この矛盾した状況を、矛盾したまま受け入れる必要がある。
これが、二重思考というテクニックだ。
このテーブルに着く者たちは、このテクニックを自在に操る。
「同じ足紋が、犯人の立ち寄った建物の屋上から発見されている」
愛情省が言う。
「スミスほか真理省に居た者たちは、チンパンジーが居たと証言している」
真理省が補足する。
発見されたワイヤー銃の掌紋も、チンパンジーのそれだった。
その指紋は、スミスの端末や窓からも検出されている。
「南アフリカ航空所有の機体から、同じ指紋が検出された」
痩せぎすの豊富省が言う。
「ヒースロー空港を閉鎖し、全ての旅客機を確認させた」
英国ハブ空港の閉鎖は各所に多大な影響を与えたが、それは後日、真理省が無かったことにする。
「つまり」
と、今まで口を閉ざしていた貴族院が言う。
「アフリカから来た猿がシステムに侵入し、ワイヤー銃を使って脱出したと?」
冗談を言っている口ぶりではない。
「無論、システムへ侵入など発生していないし、脱出も不可能だ」
と、真理省は言う。
「一方、犯人はそのとおり。猿だと考えられる」
常識的ではないことを、何の拘りもなく5組織は受け入れる。
現実感とは、このテーブルで付与する属性だ。
このテーブルの上で、"現実"は決定される。
「現在、ペットショップ及び輸入業者を調査中だ」
豊富省が言う。
ちなみに2045年のロンドンに動物園はない。
そのような娯楽施設を賄える余裕は、無いのだ。
「だが、ハッキングできる猿を扱った業者は、未だ見つかっていない」
あたりまえである。
「ふむ」
と貴族院は、スコーンを取りジャムを付ける。
「スーパーチンプ、かも知れない」
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21世紀初頭に、そのプロジェクトは始まったらしい。
資本家の夢を叶えるためのプロジェクト。
給料も人権も不要な、労働者だ。
遺伝子工学により、チンパンジーの遺伝情報にヒトゲノムを組み込んだ種を創る。
人間並みの知能と人間を超える体力を持つ労働者。
一方、人間ではなく魂を持たぬ彼らは、人権も持たない。
遺伝子は神からの賜りもの。
人工の遺伝子を持つ彼らは、魂なき偽物。
神の御業を真似ようとして創られた、罪深き獣。
神の下の平等は、彼らには不要だ。
その夢はイスラエルで結実した。と伝えられる。
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「無論、2016年にクローテン議定書が締結されたため、そのような生物が創られたことは無い」
貴族院が言う。
「一方、人間並みの知能を持つ生物が、完成したらしい」
「それが、真理省に忍び込んだと?」
と、豊富省。
「そんなことは、ありえない」
静かに真理省が断言する。
「真理省に外部の者は侵入できない」
それが英国の"現実"だ。
「一方、目撃証言や証拠とは整合する」
と真理省。
「その生物は、今もイスラエルで生きているのか?」
「否」
と、貴族院は首を横に振る。
「無論、"戦争は平和"作戦で全て処理された」
一方、と貴族院は続ける。
「遺伝学者が実験生物を盗み、脱走した」
逃亡先は?
4名の視線がそう訴え、貴族院が答える。
「コンゴ民主共和国へ」
「彼の国か…」
歯を食いしばった真理省が、呟きを漏らす。
英国で、全世界で決定された"現実"に従わぬ国。
賄賂も恫喝も脅迫すら受け付けない国。
逆に、変更前の記録を公開する、と全世界を脅迫した国。
その記録さえ無ければ、コンゴ全体を核の炎で焼き尽くすこともできたはずだった。
「彼の国は、カルタヘナ議定書を批准しているか?」
しばらくの後、貴族院が問う。
「無論」
反射的に豊富省が答える。
数瞬後、4名の顔に笑みが浮かぶ。
「遺伝子組換生物が、彼の国から英国に渡ったのか」
真理省が呟く。
「事前通知協定抜きで」
と豊富省が続く。
「第25条2項だ」
と平和省。
貴族院--トマス・パターソン貴族院議員が、もう一言添える。
「LMOの遺伝情報は、"D"に使われた可能性がある」
愛情省の唇が、上に釣り上がった。




