ロンドン、大いに迷惑する
-2045年10月12日 22:05-
ここで時は少し前、櫻井たちがロンドンに降りる前夜に戻る。
少々寒い部屋の中で、ハラムは目を覚ました。
--ここは…どこだ?
最後の記憶は、密猟者にライフルを構えられた光景。
思わず我が身を盾に、カリンバを庇った。
その瞬間、ハラムを向いたライフルの銃口が光った。
ハラムの唇の端が、少し上に上がる。
カリンバを庇った自分の行動、それを誇らしく思う男の子である。
次に自分の身体を検める。
大きな怪我は無いようだ。どうやら、麻酔銃だったようだ。
続いて、自分の置かれた状況を確認する。
大きな部屋の隅に置かれた檻。ハラムは、その中に閉じ込められている。
三方は壁で囲まれ、残る一方は衝立が立てられ、見通しが効かない。
壁や衝立は高級そうだが普通のもので、特に監視装置は無いようだ。
そして少々、カビ臭い。
--さて
と状況を分析できたハラムは、早速檻の扉を塞いでいる鍵を解錠する。
単純なシリンダ錠は、1分も保たずに開いた。
音を立てぬように、扉を開ける。
檻の外に出て振り向いたハラムは、檻に張ってある紙に気づき、状況を把握した。
--ボクは誕生日プレゼントだったらしい。
紙には、"誕生日おめでとう。アレク"と英語で書かれていた。
衝立の角から覗くと、そのアレク君は5才くらいの男の子で、ベッドで寝息を立てていた。
--も少し大人でPCを持っていてくれれば、良かったんだが
部屋の外からは人の気配がする。ドアは開けられない。
窓にセンサが付いてないことを確認すると、ハラムは窓を開け、夜の街に身を躍らせる。
踊る間もなく、部屋に戻る。
クローゼットを開け、アレク君の物らしきダウンパーカを羽織る。
部屋に残っていたビスケットやチョコバーを、ポケットに入れる。
そして、今度こそ夜の街に身を踊らせた。
閉じた窓の向こうから、手話が"良い夜を、アレク"と告げた。
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-2045年10月12日 22:10-
夜の都会、人の目が届かぬビルの壁を登るのは、貴方の親愛なる隣人スパイ…ではなくハラム。
--とりあえず、ここがどこかを確かめなくちゃ
そう自分に言い訳してるハラムだが、実は冒険好きなだけ。
初めて見る大都会に興奮し、母親への連絡など二の次になってるガキんちょである。
そのブロックで最も高いビル、その屋上に立ったハラムは、更に給水塔に登り周りを見渡す。
研究所の周りでは見られない光の洪水。
モニタで何度も見た光景だが、実際に自分の目で見るとやはり格別。
輝く光景の中、ギリシャ風の建築物が、ハラムの目を引く。
顎が垂れ下がる。
見たことがある建物だったからだ。
--大英博物館。サウス・ケンジントンの自然史博物館の方じゃない。本館の方だ
呆然と立ちすくむハラムの脳裏を、ごったな記憶が過ぎる。
--ああ、もうサウス・ケンジントンのは、自然史博物館じゃなかったっけ
--中央ホールのディプロドクスが廃棄された時、サイムがカンカンになって怒ってたよな…
はっと我に帰るハラム。
母さんに連絡を取らなくちゃ。それを思い出すハラム。
どこかPCがある部屋に忍び込み、そこから連絡しよう。妥当な判断である。
どうせ忍び込むなら、手応えがある建物の方が良いよね。←いや、その考え方はおかしい。
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-2045年10月12日 22:15-
ロンドン、マレット・ストリートに面した、アールデコ調の建築物。
周囲を威圧するようなその建物は、上院会館と呼ばれる。
そこに、英国軍事情報局セクション7がある。
だが今や、その名で呼ぶ者は少ない。
そこは、こう呼ばれている。
真理省
その昔、政治的検閲を行っていたその組織は、今では"現実"を創っている。
セネタ・ハウス内の数千人のスタッフ。彼ら、彼女らが、かく在るべき"現実"を創造している。
例えば、英国の国内総生産は年々増大し続ける、という"現実"がある。
2045年の集計では、約1兆米ドルに届くかどうか。
だが2020年時点では、英国のGDPは3兆USDを超えていた。
3兆USDが年々増大し続けたのに、1兆USDになるワケはない。
この矛盾を解消し、GDPが年々増大しているという"現実"を成立させる機関が、真理省だ。
スタッフの1人、スミスは、その作業を行っていた。
各種資料に記録された2044年のGDPは、1兆2千USDだった。
それを9千8百億USDに変更--否、修正する作業を終えたところだ。
昨年スミスは、2043年のGDPを、1兆3千億USDから1兆1千億USDに修正した。
だが今年は、更に修正が必要となる。GDPが年々増大し続けるという"現実"を守るために。
修正が必要な記録は、年々増大している。そもそも、守るべき"現実"はGDPだけではない。
失業率、進学率、食料自給率、休暇取得率、消費電力量、週当たり労働時間、教育娯楽への支出比、その他もろもろ。
常に昨日より今日、昨年より今年が良くなっている。それが"現実"だ。
スミスは、あてがわれた二畳ほどの部屋で首を回す。
--俺はラッキーだ
今月からスミスには、窓のある部屋が割り当てられた。それは、彼の有能さを示す印だ。
GDPの修正は、大変な作業だ。
政府統計値は一括で修正可能なように、システムが作られている。
どの情報がどれに影響するか、全て定められている。
だが、民間の新聞、雑誌、ブログ、ツィッターなどのSNS。これらは整理されていない。デタラメである。
だが、全てに対し、GDPに関わる値を修正しなくてはならない。
整合性を保って。
既に時計は22時を回っている。
週当たりの残業時間は年々減少している。その"現実"を守るため、スミスは17時以後にオフィスに居ることはない。
だから、"現実"にはスミスはここに居ない。
これを専門用語で"サビ残"と言う。
隣の部屋ではパーソンズも情報修正をしているらしい。なにやら罵り声が聞こえる。
もちろん、パーソンズも隣の部屋にはいない。それが"現実"だ。
--ビクトリィ・カフェに眠気覚ましを買いに行こう…
スミスは席を立つ。
年々、そのカフェも味が落ちている気がする。気のせいである。
年々豆の質が落ちているとか、豆の量を減らしているなどという"現実"は許されないからだ。
そっと扉を閉めると、鍵を掛ける。
通路には、パーソンズの罵り声が大きく聞こえる。
邪魔をしないように足音を忍ばせるのが、すっかり習い性になったスミスである。
そして、スミスが居なくなった部屋に、黒い影が忍び込んだ。
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-2045年10月12日 22:20-
--さて、と
二要素認証を軽く突破しシステムに侵入したハラムは、履歴が残らぬよう各種デーモンを止め、メールを打つ。
To: アサラト
From: ハラム
Title: 迎えに来て
Body: ボクは元気です。今、ロンドンのブルームズベリーにいます。迎えにk
鍵が開く音がした。
慌てて振り向いたハラムは、部屋の主と対面した。
部屋の主--スミスの顎がだらりと下がる。
慌てて窓から脱出するハラムと、呆然と見送るスミス。
ハラムが打ち掛けのメールに気づくのは、少々後の事になる。
そして、内部サーバに侵入され、管理者権限で不正な操作が行われたと判明するのは、翌日の午後。
よりによって真理省の内部サーバが、である。
大騒ぎになった。




