櫻井、失恋する
-2045年8月1日(火)21:30-
「和之アンタ、急に出張が入ったって言ってなかったっけ?」
背後から声をかけられ、長身の男の脚がピタリと止まる。
彼と腕を組んでいた長い髪をした美女の脚も止まる。
それほどまでに、おどろオドロしい声色だったのだ。
ぎぎぎぎぎ
音が出るようにぎこちなく振り返る男の前には、ショートカットの娘が仁王立ちしていた。
ちなみに普段は可愛い顔も今は仁王様。
「いや急に出張が延期になって」
とバレバレの嘘を言おうとした男--櫻井和之は、次の瞬間吹っ飛んだ。
抜く手も見せぬ平手打ち一閃。
「その顔、2度とアタシに見せるな!」
櫻井を倒した娘は倒れ込んだ彼に言うと、ハイヒールでトドメを刺し、去って行った。
残されたのは道に倒れた櫻井と、長い髪に清楚な顔立ちをした美女。
彼女は手を差し伸べ、櫻井を立ち上がらせる。
「い、いやぁ、誤解すんなよ。あの娘は高校の後輩なんだが、思い込みが激…」
櫻井の言葉は彼女の目を見た瞬間、止まった。
「高校ですか。私、高校生の時にインターハイに出たんですよ。この話、したことありましたっけ?」
ぷるぷると首を横に振る櫻井。
「あーそれは、陸上とかで?」
「いいえ」
美女は氷の微笑を頬に浮かべ。
「空手」
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池袋西口公園の隅、そこに倒れてた櫻井が起き上がったのは5分後である。
1.ダブルブッキングには注意すべし、デートは特に
2.つきあう前に、彼女に武道の心得があるか確認すべし
3.靴をプレゼントする時は、踏まれた時のことを考えるべし
以上3点の反省を胸に、彼は立ち上がる。
ちなみに左頬には鮮やかなモミジが、左わき腹とみぞおちには内出血が刻まれている。
--今週末の旅行、どうしよう。
予約したは良いが、どっちの彼女と行こうか散々迷った挙句、長い髪の彼女を選んだ結果がコレである。
だが彼は、倒れてもタダで起き上がる男ではない。
--捨てる神あれば拾う神あり。なせばなる、なさねばならぬ何事も。
電話帳に"白鳥麗華"と登録されている番号を押す。
10分後の池袋西口公園。そこに、天に向かってガッツポーズする櫻井の姿があった。
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-2045年8月2日(水)08:20-
るんたった♪ るんたった♪
足取りも軽く出社した櫻井。
彼の勤め先は株式会社MDB。医学・生物学を中心に各種人工知能を構築している新鋭企業である。
受付を勤める全社員のマドンナ--白鳥さんは、本日は居ないようだ。
21世紀初頭に盛り上がった第3次AIブームは、社会を変革するには至らなかった。だが、科学技術の世界では新たな道具として、2045年の現在も利用されている。
但し、AIを使い物になるように教育するには専門的なスキルが必要であり、そのため多くの大学や研究所は、MDBのような専門企業に教育を委託している。
櫻井はいわばAIの教師である。
彼が席に着く間もあらばこそ、満面の笑みを浮かべた上司に呼ばれた。
連れて行かれた会議室には、朝っぱらから社長以下重役がずらり。
聞けば世界的な研究所から、MDBのAIを使いたいとの話があったらしい。
「わが社、始まって以来のビッグ・チャンスだ」
そう言う上司の目は、希望に燃えている。
「この話が纏まれば、MDBは世界中にその名が知れ渡る」
「顧客への説明は来週の月曜日。櫻井、お前に社運がかかっている」
「お任せください」
櫻井は人間としてはクズだが、仕事は出来る。
人呼んでキング・オブ・クズ。
「詳しいことは、開発部の藤田に聞いてくれ」
そう言われ会議室を送り出された櫻井は、開発部のあるフロアに向かう。
「おう、来たか」
藤田友和、開発部主任にして櫻井の盟友である。
彫りの深いハンサムな顔立ちが、本日はやつれている。
「どうした、目の下にクマが居るぞ」
「昨夜、彼女とちょっとな」
ちなみに藤田は妻子あり。そして"彼女"は当然妻ではない。
この男も、仕事は出来るが人間としては最低。
人呼んで、キング・オブ・ゲス。
前記の通り、櫻井の盟友である。女性関係的に。
「まずは仕事の話だ。本来なら俺が行きたいところなんだがな」
少々悔しそうに藤田が言う。
「今回の顧客は、あのサカニア総合研究所だ」
力を込めて言う藤田に対し、櫻井はポカン状態である。
「お前、知らんのか」
「初耳だ」
「トマス・サイムが居る研究所だ」
目を見開く櫻井。
トマス・サイムは英国出身の理論物理学者だ。特にミューオン生成理論を発見した業績で知られている。
ミューオンは、電子と同じ負の電荷を持つ素粒子だ。但し質量は電子の約200倍。
このミューオンを水素原子に照射すると、水素原子の電子がミューオンに置き換わる。電子の代わりにミューオンが回る水素原子は、その半径が1/200になり、容易に核融合を起こす。
つまりトマス・サイムは、小型で安全、安価な核融合炉を人類に提供したのだ。
2027年、サイムがミューオン生成理論を発表すると原油価格は暴落し、翌年アラビア半島戦争が勃発した。
この戦争による死者及び行方不明者は数十万人に及び、中東諸国は未だその傷が癒えてない。
2041年にミューオン触媒核融合炉1号機が稼動。特にアフリカ大陸では電力供給が一気に改善し、急速な発展を遂げつつある。
サイムは、文字通り世界を変えた男だ。
「ってことは俺、海外出張するのか!?」
世界を変えた男より出張先が気になる櫻井。一種、大人物である。
「ちょっと待てよ、俺週末に大事な予定があるんだ」
「その件なら心配するな」
ケンもホロロな藤田。
「いーや心配だ。お前も聞いたら驚くぞ」
「受付の白鳥麗華だろ?」
目を丸くする櫻井。
「ななななぜそれを…」
「昨夜お前が電話して来た時、横に居た」
口も丸くする櫻井。
「ちょっと喧嘩しててな、ちょうどその時にお前が電話したもんで彼女、怒りに任せてOKしちまった」
ムンクの"叫び"状態となった櫻井が、震える声で言う。
「お、おまっ…白鳥さんと…」
おかげで、と藤田は目の下のクマを指差し
「宥めるのに一晩中かかった」
「お前の予約した旅行は、俺が半額で買い取ってやる」
藤田の声は、櫻井の耳に届かなかった。というか右から左に抜けた。
妻子がありながらマドンナと一夜を共にした男は、櫻井の肩を叩くと言った。
「この件はくれぐれもご内密に」