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この件はくれぐれもご内密に  作者: tema
第五章 人類は三番目
29/81

無知は力

========

-2045年10月13日 22:45-


『コンゴがクローテン議定書を非推したら考えよう、そう言った』

サイムは肩をすくめる。

『ミスタ・ルムンバは、その場で開発中のコンゴ政府AIに聞いた』

結果は櫻井も知っている。

コンゴ政府は非推した。結果、世界中の遺伝子工学者はコンゴに集まった。


「よく英国があなたを手放しましたね」

『カレッジも、表面上はしぶっていたがね』

サイムの首が横に振られる。

『英国ではもう、物理学者など不要なのだよ』


唖然とする櫻井に向け、サイムは続ける。

『物理学者だけではない。自然科学者は居場所がない』

と言うより排除の対象だ。と自嘲するノーベル賞学者である。


『ミスタ・サクライ、君にも覚えがあるはずだ。君の勤め先(MDB)は日本社会に不要とされ、潰された』

MDBが倒産したのは、MDB製のAIで株取引に失敗した顧客との裁判に負けたためだ。

顧客に不利益を与えたのはMDBの責任、と日本の司法が判断したからだ。

AIを理解できない、理解できないフリをした司法が。

『同じようなことが、10年前に英国で行われてたよ』


『施政者たちが気づいてしまったのだ。自分たちが持つ力にとって、自然科学など不要だということに』


========


太古、まだヒトが獣だった頃。

全てを支配していたのは自然科学だった。

それは、ヒトが社会を築き人間となるまで--その後もしばらくは続いた。


社会は世界に浮いた泡のようなものだ。

社会のルールはその内部でのみ有効で、社会の外に広がる世界には通用しない。

例えば、法律でインフルエンザウイルスに感染を禁じても、感染率は変わらない。

だが次第に社会が強固になり、人間がその社会に全面的に適応し、依存した時、全てが逆転した。


確かに、法律でウイルスを縛ることはできない。だが、人間を縛ることはできる。

インフルエンザウイルスに感染を禁じることはできないが、人間に罹患を禁ずることはできる。

人間に罹患した事実を認めさせないことは、インフルエンザへ感染を禁ずることと社会的に等価だ。


誰もいない森の中で木が倒れた時、音はするか?

”音”とは、人間が空気の振動を認識したことを示す。

だから、誰も聞かなければ”音”はしない。それが”現実”だ。


つまり、人間の認識を変えれば、現実は変えられる。


たとえ大都市の公園で木が倒れ、その音波が多くのヒトの鼓膜を振動させようと。

たとえその木の下敷きになった子供が、命を失おうと。

それを世界中の人間が認識しなければ、そんな”現実”は存在しない。


”戦争は平和”作戦の実行により、それが可能だと--現実は自由に改変できると--施政者たちは気づいてしまった。


========


『以後、様々な現実が改変された。だが、そこでは矛盾が発生する』

木の下敷きになった子供は、存在しなかったことにされる。

だが、全ての人間が認めなくても、その子が生きた過去は変えられない。


『その矛盾を解消するため、ある欺瞞(テクニック)が発明された』

そのテクニックは、こう呼ばれる。

二重思考(ダブル・シンク)


例を示そう、とサイムは指を1本立てる。

『各国にとって、ジュリアは存在しない』

2本めの指が立つ。

『だが、ジュリアは発見次第、捕らえ、始末する必要がある。存在しない者を捕らえよ、という矛盾した命令が発せられることになる』


『その矛盾を許容し、ジュリアが存在しないことと、ジュリアを捕らえること、両方とも信じる』

それが

『二重思考というテクニックだ』


「いや、それはいくらなんでも無理でしょう」

櫻井は主張する。

『確かに、多くの者には難しいな』

二重思考を操れる者は、政府関係者でも限られたエリートだけらしい。


『大多数の者には、物事を必要以上に複雑に見せ、関連性を見いだせないようにしている』

ところが、とサイムが3本目の指を立てる。

『その複雑な事象を扱う道具を、我々(自然科学者)は持っている』

数学だ。


========


世界は複雑すぎ、ヒトの脳では理解し切れない。

だがその事象を数式に置き換えれば、理解できない事象を、理解しないまま扱うことができる。

数式を変換し、理解可能な形に変形することができる。

尤も、変形した結果を理解できないまま使うことも、よくある。


量子力学に於けるシュレディンガー方程式が、その良い例だ。

各種観測は、その式が世界を正しく記述していることを示している。

だがその式の意味は、式が(もたら)す解は、多くの場合、理解できない。


理解できないことを、理解できないまま扱える。

複雑な事象が世界と矛盾するか否か、数式は示すことが可能だ。

『だから、数学は二重思考にとって敵だ』


つまり、とサイムは続ける。

『単純に言えば二重思考とは、2+2=5を認める、という考え方だ』

もちろん答えは、2にも3にもなる。


『数学は2+2=4と主張する。故に、二重思考の--施政者の敵なのだよ』


『英国では二重思考を成立させるため、新たな--不要なルールを組み込んだ数学を創り出した』

それは、新数学(ニュー・マス)と呼ばれている。

『そのルールの1つは、君の国(日本)が由来だ』

「はい?」


『掛け算の順序。ウサギ3羽の耳は何本?という問題だ』


日本では2✕3=6が正解で、3✕2=6は3本耳のウサギが2羽という意味になり、減点の対象となる。

一方、英国では、3(times)2=6が正解と教えられている。


『もう英国では、2+2=4という自由すら無い』

その自由が重要だ。他の自由は後からついてくる。

そうサイムは言う。


「なんだって、そんなややこしいことを…」

思わず漏らした櫻井の呟きを、サイムが拾う。

『理由は色々あるが、主に力のためだ』


怪訝な顔をする櫻井に、サイムは言う。

『矛盾を許容することで、大きな力が手に入るのだよ』


========


『例えば、だ』

・ジュリアは存在しない

・ジュリアは存在する

『この2つが共に真だと前提を置く。この矛盾を許容した場合、私がボノボであることが証明できる』

「はい?」


・彼女がジュリアなら、彼女は存在しない

『これは真だ』

「はぁ、まぁ、そーですね」

前提がそもそも間違っていることは、ひとまず置いておく。


・{(彼女はジュリアだ)または(サイムはボノボではない)}なら、彼女は存在しない

『これも真だな』

「はぁ、まぁ、そーですね」

『では、これの対偶を言ってみたまえ』

いきなり櫻井に振るサイム。


--えーと、確か…

・(彼女は存在しない)でない、なら、{(彼女はジュリアだ)または(サイムはボノボではない)}ではない

→彼女は存在する、なら、{(彼女はジュリアでない)かつ(サイムはボノボだ)}

『正解だ』

ほっと息をつく櫻井。


『ところで、彼女(ジュリア)は存在する、という前提があったな』

矛盾した2つの前提の内の1つだ。

『だから(彼女(ジュリア)は存在する)は真だ』

「ですね」


『ならば、{(彼女はジュリアでない)かつ(サイムはボノボだ)}も真だな』

「え?」

『元々の式が真だったのだ。対偶は真になるだろう』

--だがそれでは

『故に、(サイム)はボノボだ。証明完了(Q.E.D.)


『これを爆発律と言う。1つの矛盾を認めてしまえば、すべてが真となる』

もちろん、すべてが偽ともなる。

『1つの矛盾を認めれば、施政者が望むことは全てが真になる』

そして

『施政者に都合が悪いことは、すべてが偽になる』


『これが力だ。新数学(ニュー・マス)により人間を無知にすれば、力が手に入る』

”無知は力”

サイムが離れる前、英国ではそう囁かれていたらしい。


========


『ミスタ・サクライ、1つ忠告しておく』

聞かされたことをまだ消化できてない櫻井に、サイムは語りかける。

彼女(ジュリア)の存在を否定するな』


『もし英国で(政府)の手に落ちた場合、彼女の存在だけは否定するな』

暗がりの中、サイムは今まで見せたことのない表情を浮かべる。

『彼女の存在を否定すれば、君は無知に、彼らの力に、取り込まれてしまう』


『研究所で知ったことなど、白状(はい)てしまえば良い』

ハラムを救出できなくても良い。

アトケやアサラトを売っても良い。

ジュリアすら売っても良い。

そうサイムは言う。


『ただ彼女の存在だけは、否定するな』


--もし、否定してしまえば。

『すべてが偽り(False)になる』

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