無知は力
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-2045年10月13日 22:45-
『コンゴがクローテン議定書を非推したら考えよう、そう言った』
サイムは肩をすくめる。
『ミスタ・ルムンバは、その場で開発中のコンゴ政府AIに聞いた』
結果は櫻井も知っている。
コンゴ政府は非推した。結果、世界中の遺伝子工学者はコンゴに集まった。
「よく英国があなたを手放しましたね」
『カレッジも、表面上はしぶっていたがね』
サイムの首が横に振られる。
『英国ではもう、物理学者など不要なのだよ』
唖然とする櫻井に向け、サイムは続ける。
『物理学者だけではない。自然科学者は居場所がない』
と言うより排除の対象だ。と自嘲するノーベル賞学者である。
『ミスタ・サクライ、君にも覚えがあるはずだ。君の勤め先は日本社会に不要とされ、潰された』
MDBが倒産したのは、MDB製のAIで株取引に失敗した顧客との裁判に負けたためだ。
顧客に不利益を与えたのはMDBの責任、と日本の司法が判断したからだ。
AIを理解できない、理解できないフリをした司法が。
『同じようなことが、10年前に英国で行われてたよ』
『施政者たちが気づいてしまったのだ。自分たちが持つ力にとって、自然科学など不要だということに』
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太古、まだヒトが獣だった頃。
全てを支配していたのは自然科学だった。
それは、ヒトが社会を築き人間となるまで--その後もしばらくは続いた。
社会は世界に浮いた泡のようなものだ。
社会のルールはその内部でのみ有効で、社会の外に広がる世界には通用しない。
例えば、法律でインフルエンザウイルスに感染を禁じても、感染率は変わらない。
だが次第に社会が強固になり、人間がその社会に全面的に適応し、依存した時、全てが逆転した。
確かに、法律でウイルスを縛ることはできない。だが、人間を縛ることはできる。
インフルエンザウイルスに感染を禁じることはできないが、人間に罹患を禁ずることはできる。
人間に罹患した事実を認めさせないことは、インフルエンザへ感染を禁ずることと社会的に等価だ。
誰もいない森の中で木が倒れた時、音はするか?
”音”とは、人間が空気の振動を認識したことを示す。
だから、誰も聞かなければ”音”はしない。それが”現実”だ。
つまり、人間の認識を変えれば、現実は変えられる。
たとえ大都市の公園で木が倒れ、その音波が多くのヒトの鼓膜を振動させようと。
たとえその木の下敷きになった子供が、命を失おうと。
それを世界中の人間が認識しなければ、そんな”現実”は存在しない。
”戦争は平和”作戦の実行により、それが可能だと--現実は自由に改変できると--施政者たちは気づいてしまった。
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『以後、様々な現実が改変された。だが、そこでは矛盾が発生する』
木の下敷きになった子供は、存在しなかったことにされる。
だが、全ての人間が認めなくても、その子が生きた過去は変えられない。
『その矛盾を解消するため、ある欺瞞が発明された』
そのテクニックは、こう呼ばれる。
二重思考
例を示そう、とサイムは指を1本立てる。
『各国にとって、ジュリアは存在しない』
2本めの指が立つ。
『だが、ジュリアは発見次第、捕らえ、始末する必要がある。存在しない者を捕らえよ、という矛盾した命令が発せられることになる』
『その矛盾を許容し、ジュリアが存在しないことと、ジュリアを捕らえること、両方とも信じる』
それが
『二重思考というテクニックだ』
「いや、それはいくらなんでも無理でしょう」
櫻井は主張する。
『確かに、多くの者には難しいな』
二重思考を操れる者は、政府関係者でも限られたエリートだけらしい。
『大多数の者には、物事を必要以上に複雑に見せ、関連性を見いだせないようにしている』
ところが、とサイムが3本目の指を立てる。
『その複雑な事象を扱う道具を、我々は持っている』
数学だ。
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世界は複雑すぎ、ヒトの脳では理解し切れない。
だがその事象を数式に置き換えれば、理解できない事象を、理解しないまま扱うことができる。
数式を変換し、理解可能な形に変形することができる。
尤も、変形した結果を理解できないまま使うことも、よくある。
量子力学に於けるシュレディンガー方程式が、その良い例だ。
各種観測は、その式が世界を正しく記述していることを示している。
だがその式の意味は、式が齎す解は、多くの場合、理解できない。
理解できないことを、理解できないまま扱える。
複雑な事象が世界と矛盾するか否か、数式は示すことが可能だ。
『だから、数学は二重思考にとって敵だ』
つまり、とサイムは続ける。
『単純に言えば二重思考とは、2+2=5を認める、という考え方だ』
もちろん答えは、2にも3にもなる。
『数学は2+2=4と主張する。故に、二重思考の--施政者の敵なのだよ』
『英国では二重思考を成立させるため、新たな--不要なルールを組み込んだ数学を創り出した』
それは、新数学と呼ばれている。
『そのルールの1つは、君の国が由来だ』
「はい?」
『掛け算の順序。ウサギ3羽の耳は何本?という問題だ』
日本では2✕3=6が正解で、3✕2=6は3本耳のウサギが2羽という意味になり、減点の対象となる。
一方、英国では、3✕2=6が正解と教えられている。
『もう英国では、2+2=4という自由すら無い』
その自由が重要だ。他の自由は後からついてくる。
そうサイムは言う。
「なんだって、そんなややこしいことを…」
思わず漏らした櫻井の呟きを、サイムが拾う。
『理由は色々あるが、主に力のためだ』
怪訝な顔をする櫻井に、サイムは言う。
『矛盾を許容することで、大きな力が手に入るのだよ』
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『例えば、だ』
・ジュリアは存在しない
・ジュリアは存在する
『この2つが共に真だと前提を置く。この矛盾を許容した場合、私がボノボであることが証明できる』
「はい?」
・彼女がジュリアなら、彼女は存在しない
『これは真だ』
「はぁ、まぁ、そーですね」
前提がそもそも間違っていることは、ひとまず置いておく。
・{(彼女はジュリアだ)または(サイムはボノボではない)}なら、彼女は存在しない
『これも真だな』
「はぁ、まぁ、そーですね」
『では、これの対偶を言ってみたまえ』
いきなり櫻井に振るサイム。
--えーと、確か…
・(彼女は存在しない)でない、なら、{(彼女はジュリアだ)または(サイムはボノボではない)}ではない
→彼女は存在する、なら、{(彼女はジュリアでない)かつ(サイムはボノボだ)}
『正解だ』
ほっと息をつく櫻井。
『ところで、彼女は存在する、という前提があったな』
矛盾した2つの前提の内の1つだ。
『だから(彼女は存在する)は真だ』
「ですね」
『ならば、{(彼女はジュリアでない)かつ(サイムはボノボだ)}も真だな』
「え?」
『元々の式が真だったのだ。対偶は真になるだろう』
--だがそれでは
『故に、私はボノボだ。証明完了』
『これを爆発律と言う。1つの矛盾を認めてしまえば、すべてが真となる』
もちろん、すべてが偽ともなる。
『1つの矛盾を認めれば、施政者が望むことは全てが真になる』
そして
『施政者に都合が悪いことは、すべてが偽になる』
『これが力だ。新数学により人間を無知にすれば、力が手に入る』
”無知は力”
サイムが離れる前、英国ではそう囁かれていたらしい。
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『ミスタ・サクライ、1つ忠告しておく』
聞かされたことをまだ消化できてない櫻井に、サイムは語りかける。
『彼女の存在を否定するな』
『もし英国で敵の手に落ちた場合、彼女の存在だけは否定するな』
暗がりの中、サイムは今まで見せたことのない表情を浮かべる。
『彼女の存在を否定すれば、君は無知に、彼らの力に、取り込まれてしまう』
『研究所で知ったことなど、白状てしまえば良い』
ハラムを救出できなくても良い。
アトケやアサラトを売っても良い。
ジュリアすら売っても良い。
そうサイムは言う。
『ただ彼女の存在だけは、否定するな』
--もし、否定してしまえば。
『すべてが偽りになる』




